竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉集 集歌961から集歌966まで

2020年09月23日 | 新訓 万葉集
天平二年庚午勅遣推駿馬使大伴道足宿祢時謌一首
標訓 天平二年庚午、勅(みことのり)して推駿馬使大伴道足宿祢を遣(つかは)しし時の謌一首
集歌九六二 
原文 奥山之 磐尓蘿生 恐毛 問賜鴨 念不堪國
訓読 奥山(おくやま)し磐(いは)に苔(こけ)生(む)し恐(かしこ)くも問ひ賜ふかも念(おも)ひ堪(あ)へなくに
私訳 御方の前で畏まっていて、奥山の岩に苔が生えたようです。恐れ多くもお尋ね下さいますね。どのように歌を詠うか思いも付きません。
左注 右、勅使大伴道足宿祢饗于帥家。此日、會集衆諸、相誘驛使葛井連廣成言須作歌詞。登時廣成應聲、即吟此歌。
注訓 右は、勅使(みことのりのつかひ)大伴道足宿祢を帥(そち)の家に饗(あへ)す。此の日に、會集(つど)ひし衆諸(もろもろ)の、相(あい)誘(さそ)ひて驛使(はゆまつかひ)葛井連廣成に「歌詞(うた)を作るべし」と須(もと)めて言へり。登時(すなはち)、廣成の聲に應(こた)へて、即(ただち)に此の歌を吟(うた)へり。

冬十一月、大伴坂上郎女、發帥家上道、超筑前國宗形郡、名兒山之時、作謌一首
標訓 (天平二年)冬十一月に、大伴坂上郎女の、帥の家を發(た)ちて道に上(のぼ)り、筑前國の宗形郡の名兒山(なこやま)を超えし時に、作れる謌一首
集歌九六三 
原文 大汝 小彦名能 神社者 名著始鷄目 名耳乎 名兒山跡負而 吾戀之 干重之一重裳 奈具作米七國
訓読 大汝(おほなむち)少彦名(すくなひこな)の 神こそば 名付け始(そ)めけめ 名のみを 名児山(なごやま)と負(お)ひて 吾が恋し 千重(ちへ)し一重(ひとへ)も 慰めなくに
私訳 大汝や小彦名の神こそが最初に名を付けたのでしょうが、その名は心がなごむ言葉のような名児山と呼ばれながら、今でも愛しい私の児である貴女を思う想いの数々を千重の一重も慰めてはくれない。

同坂上郎女向京海路見濱貝作謌一首
標訓 同じく、坂上郎女の京(みやこ)に向ふ海路(うみぢ)に濱の貝を見て作れる謌一首
集歌九六四 
原文 吾背子尓 戀者苦 暇有者 拾而将去 戀忘貝
訓読 吾が背子に恋ふれば苦し暇(ひま)あらば拾(ひり)ひに行かむ恋(こひ)忘(わすれ)貝(かい)
私訳 私の愛しい子を想うと今も心が苦しい。もし、暇があったら拾いに行きましょう。人を想うと苦しい、その心を忘れさせると云う恋忘貝よ。

冬十二月、太宰帥大伴卿上京、娘子作謌二首
標訓 (天平二年)冬十二月に、太宰帥大伴卿の京(みやこ)に上りしに、娘子(をとめ)の作れる謌二首
集歌九六五 
原文 凡有者 左毛右毛将為乎 恐跡 振痛袖乎 忍而有香聞
訓読 凡(おほ)ならばかもかも為(せ)むを恐(かしこ)みと振り痛(た)き袖を忍びにあるかも
私訳 普段の人であるならば、別れに際して、ああもしよう、こうもしようとするものですが、貴方は二位の位に就かれる高貴な御方で畏れ多いので、人々は別れに振る袖振りを堪えているのでしょう。

集歌九六六 
原文 倭道者 雲隠有 雖然 余振袖乎 無礼登母布奈
訓読 大和道(やまとぢ)は雲(くも)隠(かく)りたり然(しか)れども余(あ)が振る袖を無礼(なめ)しと念(おも)ふな
私訳 大和への道筋は雲に隠れています。そうであっても、私が貴方の無事を祈って振る袖振りを無礼とは思わないで下さい。
左注 右、太宰帥大伴卿兼任大納言向京上道。此日馬駐水城、顧望府家。于時送卿府吏之中、有遊行女婦。其字曰兒嶋也。於是娘子、傷此易別、嘆彼難會、拭涕、自吟振袖之謌。
注訓 右は、太宰帥大伴卿の大納言に兼(かさ)ねて任(ま)けられて京(みやこ)に向ひて上道(かみだち)す。此の日、馬を水城(みずき)に駐(とど)めて、府家(ふけ)を顧(かえり)み望(のぞ)む。時に卿を送る府吏(ふり)の中に、遊行女婦(うかれめ)あり。其の字(あざな)を兒嶋と曰(い)ふ。ここに娘子(をとめ)、この別るることの易(やす)きを傷(いた)み、彼(そ)の會ひ難きを嘆きて、涕を拭ひて、自ら袖を振りこの謌を吟(うた)へり。

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