竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 番外編 作歌者推定に遊ぶ

2019年08月11日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 番外編 作歌者推定に遊ぶ

 作歌者不詳の歌があり、今回はその作歌者不詳について、可能性としての作歌者推定に遊びます。扱う歌は万葉集巻一に載る集歌50の藤原宮之役民作謌です。本ブログではこの「役民」を藤原宮の建設に参画する民と解釈し、天皇以外のすべての大和の人々と考えています。そして、天皇は「神随尓有之」ですから思想において現御神ですから「人」ではありません。この解釈が弊ブログの作歌者推定の出発点です。
 当然、この詞への議論はあります。「役民」を現場労働者と限定的に考えれば歌は現場労働者の代表が作歌したことになりますから、ある種、建物完成祝賀会に出席した建設会社の代表者の祝辞です。この場合、まず、歴史の中から人物を探し出すのは困難です。後期平城京や東大寺に参画した市井の行基のような人物がいますが、行基は実践の人で文章を探し、特徴を見出すことはまず不可能です。

藤原宮之役民作謌
標訓 藤原宮の役民(えのみたから)の作れる歌
注意 「藤原宮」は「藤井ヶ原宮」の略称で、香具山、耳成山、畝傍山、甘樫丘で囲まれた一帯に作られた王都
集歌50 
原文 八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 檜乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須郎牟 伊蘇波久見者 神随尓有之
訓読 八隅(やすみ)知(し)し 吾(あ)が大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子 荒栲(あらたへ)の 藤原が上に 食(を)す国を 見し給はむと 都宮(みあから)は 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りにあれこそ 磐走(いははし)る 淡海(あふみ)の国し 衣手の 田上し山し 真木しさく 檜の嬬手(つまて)を 物(もの)の布(ふ)の 八十(やそ)宇治川に 玉藻なす 浮かべ流すれ 其を取ると 騒く御民(みたから)も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居(ゐ)に 吾(あ)が作る 日し御門に 知らぬ国 寄す巨勢道よ 我が国は 常世にならむ 図負(あやお)へる 神(くす)しき亀も 新代(あらたよ)と 泉の川に 持ち越せる 真木の嬬手を 百(もも)足らず 筏に作り 泝(のぼ)すらむ 勤(いそ)はく見れば 神ながらに有(な)らし
私訳 天下をあまねく統治される我が大王の天まで威光を照らす日の皇子が、新しい藤原の地で統治する国を治めようとして新たな王宮を御建てになろうと、現御神としてお思いになられると、天神も地祇も賛同しているので、岩が河を流れるような淡海の国の衣手の田上山の立派な檜を切り出した太い根元の木材を川に布を晒すように川一面に沢山、宇治川に玉藻のように浮かべて流すと、それを取り上げようと立ち騒ぐ民の人々は家のことを忘れ、自分のことも顧みずに、水に浮かぶ鴨のように水に浮かんでいる。その自分たちが造る、その天皇の王宮に、人も知らない遥か彼方の異国から寄せ来す、その「こす」と云う言葉の響きではないが、その巨勢の道から我が国は永遠に繁栄すると甲羅に示した神意の亀もやってくる。新しい時代と木津川に宇治川から持ち越してきた立派な木材を、百(もも)には足りない五十(いか)の、その「いか」と云う言葉の響きではないが、その筏に組んで川を遡らせる。そのような民の人々が勤勉に働く姿を見ると、これも現御神である大王の統治だからなのでしょう。
左注 右、日本紀曰、朱鳥七年癸巳秋八月、幸藤原宮地。八年甲午春正月、幸藤原宮。冬十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮
注訓 右は、日本紀に曰はく「朱鳥七年癸巳の秋八月に、藤原宮の地に幸(いでま)す。八年甲午春正月に、藤原宮に幸(いでま)す。冬十二月庚戌の朔乙卯に、居を藤原宮に遷(うつ)せり」と云へり。


 最初にこの歌の作歌者推定に対する代表的な意見を紹介します。

この歌の作者を柿本人麻呂と見る説が古くからある。たしかに、序詞の部分を除けば、その語彙の大部分は人麻呂の駆使したものと通ずる。しかし、1首の調べは人麻呂のものではない。とくに序詞の九句は、巧みに過ぎ、煩雑を極め、そして全体の声調を乱し、人麻呂の声に似ても似つかぬ。その序詞9句の部分に限って、人麻呂の語彙が一つも顔を覗かせない。新しい瑞兆思想にかぶれる某知識人が、まず序詞9句の部分を思いつき、それを人麻呂作に真似ながらふくまらせたのがこの長歌ではなかったか。全体として、人麻呂の歌には及びもつかないものの、力作とはいえる。
『万葉集釋注』伊藤博

 一方、高岡市万葉歴史館では、「藤原宮へ変遷。藤原宮役民歌(えきみんのうた)(巻一・五〇)、藤原宮御井歌(みいのうた)(巻一・五二~三)はこの年の作か。」として人麻呂の歴史年表に載せます。
 作歌者が未詳ですから、歌をどのように解釈するかが作歌者推定の議論となります。ここで、この集歌50の歌には皇族の身分を限定する「高照」の詞が使われていて、この「高照」の詞が使われる歌は次の長歌六首で、時代的には持統天皇朝後半に集約されます。この内、柿本人麻呂の作歌と確定するものは集歌45の歌と集歌167の歌の二首です。なお、集歌3234の歌は大宝二年十一月の持統太上天皇の伊勢皇大神宮への行幸の時の歌で、他の歌とは時期をずらしますが持統天皇に関わるものとすると同じ括りになります。

 軽皇子宿于安騎野時、柿本朝臣人麻呂作謌 集歌45
 藤原宮之役民作謌 集歌50
 藤原宮御井謌 集歌52
 天皇崩之後八年九月九日、奉為御齊會之夜夢裏習賜御謌一首 集歌162
 日並皇子尊殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作謌一首并短謌 集歌167
 五十師乃御井歌 集歌3234

 古くからこの紹介した集歌50の長歌が柿本人麻呂に関係すると思われた背景には、この「高照」に代表される皇族の身分を「御威光」の光の強さで表現するなど、独特の表現方法があり、時代的にこのような長歌を詠い揚げるだけの人物が万葉集に見つからないことがあります。
 紹介した「高照」と云う特徴的な詞の他に、さらに柿本人麻呂歌の特徴として草壁皇子の挽歌で明確に示すように大王(又は天皇)を現御神と捉えています。その捉え方も天界の女神と地界の大王は同じ集団の一員であり対等な立場で、地界の大王は天界の神々の委託を受けて地上を統治する現御神です。その現御神のシンボルの一つとして天界に繋がる御井が有ります。これは延喜式に記録される祝詞にも載るもので、藤原京時代の特徴でもあります。
万葉集の歌を確認しますとこの現御神や御井の思想は元明天皇以降では明確には見えなくなります。畏れ多い大王や天皇と云う捉え方であり、地上の統治を神々から委託を受けた現御神の姿は見えません。
 この集歌50の歌には「高照」、「神長柄」、「神随尓有之」と非常に特徴だった皇族の身分表現と現御神の思想があります。もし、朝廷の歌舞所のような令外の役所で落成式典に合わせてこのような歌を創ったとすると、重要行事の前例として採用された作歌形式や表現スタイルは役所の重要参考文章となり継続性を持つはずですが、万葉集の歌からは後年への継続性は認められません。例として元明天皇期以降となる笠朝臣金村、車持朝臣千年、山部宿祢赤人たちが詠う行幸従駕の歌にこれらの特徴を見ることは出来ません。ここらから、現御神や御井の思想は持統天皇期に限定されたものであり、宮中和歌として形式が確立したものではないと推定されます。
 伊藤博氏が想定する「朝廷の某知識人」は、柿本人麻呂がこの種の歌を詠った全く同時期に現れ、全く同様な思想と詞で歌を詠い、そして、人麻呂と同時に短期の内に痕跡も残さずに消えます。それでいて詠う場面は朝廷の重要行事であり、その行事の主催者の天皇を現御神と称え、同時に朝廷が行う重要な神事で唱える祝詞と内容はリンクしますから、歌の原稿草案は政府中枢の承認事項です。それでいて、万葉集を見るとこの種の詞や思想は朝廷内で継承されていません。可能性として、個人に帰する特徴だった文章と考えられます。独創ですし、詞の定義や敬称の対象者からすると非常に詠うのに難しく困難性があります。
 従って、この種の文章が独創であり作歌技術的に個人の資質に帰するものですと、柿本人麻呂によると理解するのが良いことになります。それで、弊ブログは高い確率で集歌50の藤原宮之役民作謌は柿本人麻呂の作品と推定します。

 次いで、集歌50の藤原宮之役民作謌に連続する集歌52の藤原京御井歌の作歌者を確認します。この集歌50の歌は藤原京建設に従事した臣民が落成を祝う歌であり、集歌52の歌はその臣民の努力で成った藤原京の大宮を讃える歌です。つまり、長歌ですが二首で一組となる落成祝賀の公式行事で祝辞として詠われた歌です。この歌も作歌者は未詳の歌です。

藤原京御井歌
標訓 藤原京の御井の歌
集歌52
原文 八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者 日経乃 大御門尓 春山跡 之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳高之 青菅山者 背友乃 大御門尓 宜名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 影友乃 大御門従 雲居尓曽 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曽婆 常尓有米 御井之清水
訓読 やすみしし 吾(あ)が大王(おほきみ) 高照らす 日し皇子 荒栲の 藤井が原に 大御門(おほみかど) 始め給ひに 埴安(はにやす)の 堤し上に 在(あ)り立(た)たし 見し給へば 日の本の 青(あを)香具山(かぐやま)は 日し経(たて)の 大御門に 春し山路 繁(しみ)さび立てり 畝火の この瑞山(みずやま)は 日し緯(よこ)の 大御門に 瑞山と 山さびいます 耳成(みみなし)し 青(あを)菅山(すがやま)は 背友(そとも)の 大御門に 宜(よろ)しなへ 神さび立てり 名くはしし 吉野の山は 影友(かげとも)の 大御門と 雲居にそ 遠くありける 高知るや 天し御蔭(みかげ) 天知るや 日し御影(みかげ)の 水こそば 常にあらめ 御井(みゐ)し清水(ましみず)
私訳 天下をあまねく統治されるわが大王の天の神の国まで高く照らす日の御子の、人の踏み入れていない神聖な藤井ガ原に新しい宮城を始めなさって、埴安の堤の上に御出でになりお立ちになって周囲を御覧になると、大和の青々とした香具山は日の縦の線上の宮城の春の山路のように木々が繁り立っている、畝傍のこの瑞々しい山は日の横の線上の宮城の瑞山として相応しい山容をしている、耳成の青々とした菅の山は背面の宮城に相応しく神の山らしくそそり立っている、名も相応しい吉野の山は日の指す方向の宮城から雲が立ち上るような遠くにある。天の神の国まで高く知られている天の宮殿、天の神も知っている日の御子の宮殿の水こそは常にあるだろう。御井の清水よ。

 この歌は持統八年(六九四)十二月に完成した藤井ガ原の藤原京の落成を歌ったものです。その落成式典で詠われた歌で「御井」と詠いますから、この歌の背景には草壁皇子の挽歌以来の現御神や天水の思想があります。このため、古くから、歌は公式の式典での寿詞であり、現御神や天水の思想を詠う姿から柿本人麻呂の手によると推定します。
 歌の原文の「高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曽婆 常尓有米 御井之清水」は、忌部の祈年祭と中臣寿詞との祝詞とを引用しての言葉です。「高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃」までは忌部の祈年祭の祝詞での「座摩御巫辭竟奉」の段で、「水許曽婆 常尓有米 御井之清水」は中臣寿詞の祝詞での「中臣遠祖天兒屋根命」の段の「天都水」が元ですから、藤原京の落慶と遷都の儀式で忌部と中臣により祝詞の奏上が式次第に載っていたと推定されます。そして、歌の「天之御蔭」と「日之御影」の詞は祈年祭の祝詞からで、天皇のお住まいになる宮殿奥深くの神器を祭る場所を指します。

 弊ブログに慣れているお方は承知にと思いますが、一般に日本書紀や古事記などの神話から日本神話では天孫降臨が重要としますが、万葉集では天孫降臨の神話はありません。この豊秋津洲は、天界での神々の相談で天界を治める女神と地界を治める男神(日之皇子)とを決め、その神々の裁定に従って神降って来た男神が大王として治める国と規定します。そして、この大王は天界の男神ですから現御神なのです。
 集歌167の歌では現御神である大王は豊秋津洲を治めるために天降りし、統治が順調に進むと天昇りして天界に帰って行きます。それを歌の前半で詠います。

日並皇子尊殯宮之時、柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
標訓 日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首并せて短歌
集歌167
原文 天地之 初時 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 ゞ座而 神分 ゞ之時尓 天照 日女之命(一云、指上 日女之命) 天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而(一云、天雲之 八重雲別而) 神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮尓 神髄 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 ゞ座奴(一云、神登 座尓之可婆) 吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 満波之計武跡 天下(一云、食國) 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 真弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛(一云、刺竹之 皇子宮人 帰邊不知尓為)
訓読 天地し 初めし時 ひさかたし 天つ河原に 八百万 千万神し 神集ひ 集ひ座して 神分ち 分ちし時に 天照らす 日女し尊(一は云はく、さしのぼる 日女し命) 天つをば 知らしますと 葦原の 瑞穂し国を 天地し 寄り合ひし極 知らします 神し命と 天雲し 八重かき別けて(一は云はく、天雲し 八重雲別けて) 神下し 座せまつりし 高照らす 日し皇子は 飛鳥し 浄し宮に 神ながら 太敷きまして 天皇(すめろぎ)し 敷きます国と 天つ原 石門を開き 神あがり あがり座しぬ(一は云はく、神登り いましにしかば) わご王 皇子し命の 天つ下 知らしめしせば 春花し 貴からむと 望月の 満はしけむと 天つ下(一は云はく、食す国し) 四方し人の 大船し 思ひ憑みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしませか 由縁もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷き座し 御殿を 高知りまして 朝ごとに 御言問はさぬ 日月し 数多くなりぬる そこゆゑに 皇子し宮人 行方知らずも(一は云はく、さす竹し 皇子し宮人 ゆくへ知らにす)
私訳 天地が初めて現れたとき、遠く彼方の天の川原に八百万・一千万の神々が神の集会にお集まりになり、それぞれの神の領分を分かたれたとき、日が差し昇るような太陽の女神は天を統治なされると、葦原の豊かに稲穂を実らせる国を天と地が接する地上の果てまで統治なされる神の皇子として、天雲の豊かに重なる雲を掻き分けて、この地上に神として下りなされていました天まで高くその輝きで照らされる日の皇子は、飛ぶ鳥の浄御原の宮に、神でありながら宮殿を御建てになられ、天の皇子が統治なされる国と天の原への磐門を開き、天の原に神登られなされるので、私の王である皇子様は天下を治めなされると春に花が咲くように貴くあられるだろう、満月のように人々を満たされるだろうと、皇子が御統治なされる国のすべての人は、大船のように思い信頼して、大嘗祭を行う天の水を天を仰いで待っていると、どのように思われたのか、理由もないのに、真弓の丘に御建てになられた宮殿を天まで高くお知らせになられて、毎朝に皇子のお言葉を賜ることのない日月が沢山になって、そのために、竹のように繁栄する皇子に仕える宮人は、どうしたらいいのか判らない。

 先に紹介したように、この「日並皇子尊の殯宮の時の歌」は基本的には草壁皇子への挽歌ですが、歌の前半の「神あがり あがり座しぬ」までは草壁皇子の父親である天武天皇の事跡を詠っています。歌の後半部分が草壁皇子に対する挽歌に相当する部分です。
 人麻呂は挽歌を詠い上げるとすると目立った事績の乏しい草壁皇子を偉大な大王だった天武天皇の正統な後継者と云う位置から挽歌を展開します。天皇の後継者の地位は武力での奪取ではなく、吉野での盟約に従い生まれながらの正統な血に依ると云う視点からこの挽歌は進行します。ここに万世一系の思想が背景にあります。
 次に、この挽歌で最も重要なことは、歌の前半で示す偉大な大王であった天武天皇の立場を明らかにする場面です。そこでは「天照らす日女の尊」と「葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極 知らします 神の命」とは、天界の天河原での神々の集いでは対等の立場としています。つまり、「天照らす日女の尊=天照大神」は天界の世界を統治し、「神の命」である「高照らす日の皇子=天武天皇」は地界の世界で天と地がその境を接するまでの範囲の「葦原の瑞穂の国」を統治すると詠います。およそ、この歌には「天照らす日女の尊」は天界の国を分配された天界の神であり、「高照らす日の皇子」は地上の国を分配された天界の神である、との対等に対比する姿しかありません。つまり、人麻呂が詠う「日並皇子尊の殯宮の時の歌」には、従来紹介されてきた天孫降臨の話はどこにもありません。「高照日之皇子」の天武天皇は天界の神として神々から統治をするべく分配を受けた、この地界の国に自らの意思で降り立ち、その統治が順調に行くと、本来の故郷である天界へと帰っていくのです。それは神降りであり、神昇りの姿です。この精神は『祝詞 祈年祭』にも明確に示されています。
 この思想は、『古事記』の天孫降臨の神話から一歩進んだ現御神の神降りであり、神昇りなのです。そして、この持統三年(六八九)の「日並皇子尊の殯宮の時」以降は、大和の正統な天皇は大王ではなく現御神なのです。また、この天皇とは「天の皇子」を意味します。そのため、卑母を親に持つ聖武天皇や桓武天皇が『続日本紀』に神である「天皇」の称号が与えられず、人民の王を示す「皇帝」の称号が付けられた由来もここにあります。中国の皇帝は天命により人民から選ばれてその位に就きますが、大和の天皇はその天命と同じ意味合いの現御神です。そのため、中国には人が人を滅ぼす革命がありますが、人が神を滅ぼすことが出来ないように日本では革命はありえないのです。そして、この「天皇は現御神であられる」との新しい思想を理解しないと、歌の後半部分の「四方の人の 大船の 思ひ憑みて 天つ水 仰ぎて待つに」の意味が判らないと思います。天武天皇は現御神であられますが、その子の草壁皇子はまだ人間です。人麻呂の歌は、人々は、今はまだ人の子である草壁皇子が天命を司る現御神である天皇に成られることを信じて、「天つ水」を仰ぎ待っているとします。
 日嗣で最重要となるこの「天つ水」について考えてみます。標準的な解釈からすると天皇の皇位継承の日嗣の儀式でもっとも重要なのは大嘗祭を執り行うことです。その大嘗祭の神事で奏上される祝詞の一つに中臣寿詞があり、その一節に「皇御孫の尊の御膳つ水は、現し國の水に天つ水を加へて奉らむと申せ」とあります。この意味するところは「大嘗祭での天皇になられる皇子が御使用になる御膳に使う水は、地上の水と天上の水を混ぜて使いなさい」と云うことです。つまり、人麻呂が集歌167の歌で詠う「天つ水」とは、大嘗祭で使う水のことを意味します。それで地上のすべての人々は「きっと大嘗祭が行われ、日並皇子は天皇の位に就かれる」と信じていたわけです。
 なお、神事におけるこの「天つ水」は「天からの水」と単純に解釈しての「雨つ水」を意味しません。人々が仰ぎて待つからと「雨水」と解釈してはいけません。神道精神思想の一端を示す中臣寿詞では「天つ水」とはどのようなものかを次のように明確に規定します。

中臣寿詞より抜粋
原文 天玉櫛事依奉 此玉櫛刺立 自夕日至朝日照 天都詔刀太諸刀言以告 如此告。麻知弱蒜由都五百篁生出 自其下天八井出 此持 天都水所聞食事依奉。
訓読 天の玉櫛(たまくし)を事依(ことよ)し奉(まつ)りて、此の玉櫛を刺立て、夕日より朝日照るに至るまで、天つ詔(のり)との太詔(ふとのり)と言(ごと)を以て告(の)れ。此に告らば、麻知(まち)は弱蒜(わかひる)に斎(ゆ)つ五百(いほ)篁(たかむら)生(お)ひ出でむ。其の下より天の八井(やゐ)出でむ。此を持ちて、天つ水と聞こし食せと、事依し奉りき。
私訳 神聖な玉串の神意をお授けになって、「この玉串を刺し立てて、夕日の沈むときから朝日の刺し照るときまで、中臣連の遠祖の天児屋命の祝詞と忌部首の遠祖の太玉命の祝詞を、声を挙げて申し上げなさい。そのように祝詞を申し上げれば、トで顕れる場所には若い野蒜と神聖な沢山の真竹の子が生えて出ている。その下から神聖な天の八井が湧き出るでしょう。これを持って、天つ水と思いなさい」と神意をお授けになった。

 この神事を行なうことで、地上に「天の八井」と云う御井の水が湧き出るのです。もう少し中臣寿詞から大嘗祭の神事について触れると、「天つ水と国つ水」で造る重要なものは「日時を撰び定めて献る悠紀・主基の黒木・白木の大御酒」です。中国の四神思想では「黒」は玄武の色で天上を意味し、「白」は白虎の色で地上を意味しますから、「天つ水と国つ水」で造る「黒木・白木の大御酒」とは「天上の酒と地上の酒」です。大嘗祭の神事ではこの「黒木・白木の大御酒」を以って相嘗(共に飲食)するから、大嘗祭とは神々と日嗣皇子がその皇子の用意した日本酒で宴会を開いて神の仲間入り(現御神)をすることを意味します。これは、古代の郷の娘との同衾の翌朝に床現しと共食の儀式でよそ者の男が、その郷の一員として認められる風景と同じです。大和の古代からの風習を中国の神仙道教の手を借りて高度に儀式化したものが大嘗祭にあります。
 人麻呂が詠う「日並皇子尊の殯宮の時の歌」は現御神の思想と大嘗祭の神事を最初に明確に詠った歌です。外見は草壁皇子の挽歌のようですが、実態は現御神である万世一系の天皇制の宣言であり、その皇位継承の方法論です。
 戻りますが、集歌50の藤原宮之役民作謌と連続する集歌52の藤原京御井歌はこのような思想を背景にした歌です。昭和時代の解説では照会もされないでしょうが、このような歌に載せる当時の国家神道や天皇制の思想を確認し、そのような歌を日本最初の大陸に匹敵する藤原京の落成式で詠える人物は誰かを考える必要があります。単に表面上から和歌を鑑賞しての読書感想で処理するような歌ではありません。国家感や大和の統治論も含めて作歌者を推定し、歌を確認する必要があります。

 また、最初に取り上げました皇族の身分を規定する「高照」の詞を確認します。万葉集に天皇に使われる敬称の表記を確認すると、原則、「八隅知之 吾大王」や「高照 日之皇子」の敬称を使います。持統天皇の敬称で大嘗祭の前のものに「高輝 日之皇子」の敬称表記がありますが、大嘗祭の後では「高照 日之皇子」の敬称と変わります。つまり、「八隅知之 吾大王」や「高照 日之皇子」の敬称があれば天皇の位にあったと推定できます。
 次に皇太子に使われる敬称の表記を見てみます。確実に皇太子だったと確証できるのが草壁皇子尊ですから彼の敬称を確認します。その敬称は「吾王 皇子之命」と「高光 吾日皇子」ですから、他の人物にこの敬称が使われていた場合、その人物は皇太子級に相当する人物の可能性があります。可能性で弓削皇子や長皇子が相当します。
 ここで、高市皇子と長皇子には「八隅知之吾大王」の敬称があり天皇に準ずる敬称で共に官職では太政大臣(知太政官事)を務めた人物ですから、古代の「大王」に相当する統治の最高責任者の尊称であった可能性があります。ただし、このような表現は柿本人麻呂の時代に特徴的に現れ、和同年間以降では見られない特徴です。

万葉集での各天皇の尊称
人物   時期 表記               歌番号
舒明天皇 生前 八隅知之我大王乃朝庭       集歌3
舒明天皇 生前 遠神吾大王乃行幸能        集歌5
中大兄  生前 中大兄 (標での表記)       集歌13
天智天皇 死没 大王乃御寿者長久         集歌147
天智天皇 死没 八隅知之吾期大王大御船      集歌152
天智天皇 死没 八隅知之和期大王恐也       集歌155
天武天皇 死没 八隅知之吾大王暮去者       集歌159
天武天皇 死没 八隅知之吾大王高照日之皇子    集歌162
天武天皇 死没 高照日之御子           集歌162
天武天皇 死没 神下座奉之高照日之皇子波     集歌167
天武天皇 死没 神随太布座而天皇之敷座國等    集歌167
持統天皇 生前 八隅知之吾大王之所聞食      集歌36
持統天皇 生前 安見知之吾大王神長柄神佐備世須登 集歌38
持統天皇 生前 吾大王高照日之皇子        集歌45
持統天皇 生前 八隅知之吾大王高照日乃皇子    集歌50
持統天皇 生前 八隅知之和期大王高照日之皇子   集歌52
持統天皇 生前 皇者神二四座者          集歌235
持統天皇 生前 八隅知之吾大王高輝日之皇子    集歌261
持統天皇 生前 八隅知之和期大皇高照日之皇子之  集歌3234
元明天皇 生前 天皇乃御命畏美          集歌79
元明天皇 生前 吾大王物莫御念          集歌77

重要な皇子の尊称
草壁日並皇子尊  死没 吾王皇子之命          集歌167
草壁日並皇子尊  死没 高光我日皇子          集歌171
草壁日並皇子尊  死没 高光吾日皇子乃         集歌173
高市後日並皇子尊 死没 八隅知之吾大王乃所聞見為    集歌199
高市後日並皇子尊 死没 吾大王皇子之御門乎       集歌199
高市後日並皇子尊 死没 吾大王乃萬代跡         集歌199
高市後日並皇子尊 死没 我王者高日所知奴        集歌202
忍壁皇子     生前 王神座者            集歌235別
弓削皇子     死没 安見知之吾王高光日之皇子    集歌204
弓削皇子     生前 王者神西座者          集歌205
長皇子      生前 八隅知之吾大王高光吾日乃皇子乃 集歌239
長皇子      生前 吾於富吉美可聞         集歌239
長皇子      生前 我大王者            集歌240
長皇子      生前 皇者神尓之坐者         集歌241
石田王      死没 吾大王者隠久乃         集歌420
石田王      死没 君之御門乎           集歌3324
石田王      死没 吾思皇子命者          集歌3324
石田王      死没 皇可聞             集歌3325
長屋王      生前 安見知之吾王乃敷座在      集歌329
長屋王      死没 大皇之命恐大荒城乃       集歌441
安積皇子     死没 吾王御子乃命          集歌475
安積皇子     死没 吾王天所知牟登         集歌476
安積皇子     死没 挂巻毛文尓恐之吾王皇子之命   集歌478
安積皇子     死没 皇子乃御門乃          集歌478
安積皇子     死没 皇子之命乃           集歌479
志貴親王     死没 天皇之神之御子之        集歌230


 色々と与太話を展開しましたが、もし、歌の口調が拙いとか、調子が違うとの評論があるとすると、特別重要な点を確認する必要があります。万葉集の歌は中国語の言葉となる漢語と大和言葉の発音を指示する仮音漢字である万葉仮名の組み合わせだけでの漢字だけで表記されたものですから、歌の口調や調子について語るとき、その評論が漢字だけで表記された原文に対してのものか、鎌倉時代以降の伝統の漢字交じり平仮名へ翻訳された仮名万葉に対してのものかを確認する必要があります。
 漢字交じり平仮名へ翻訳された仮名万葉を擬似原文に使用していますと、時に歌の口調が拙いとか、調子が違うとの評論は翻訳技術への評論かもしれません。その時、万葉集の話ではなくなります。
 この方面の有名なところでは、斎藤茂吉氏は漢字交じり平仮名へ翻訳された仮名万葉に対して万葉集秀歌論を展開し、本人は気が付いていませんがそれは校本万葉集の翻訳技術について評論で、肝心の万葉集の本来の原文表記は全く知らなかった人です。大伴旅人は歌に漢語を多用する特徴があり、そこからすると漢文調に硬く翻訳したくなりますが、実際の原文を見ると「筑紫也何處 白雲乃 棚引山之 方西有良思」の「方西有良思」や「蘆鶴乃 痛多豆多頭思 友無二指天」の「痛多豆多頭思」には軽い使う漢字での言葉遊びがありますから、本来ですと、この言葉遊びを取り入れて面白く翻訳する必要があります。ただ、万葉集時代のこのような漢字を使う遊びが理解できなかったのが昭和時代の人たちです。先の歌に現御神の思想を見るのもまた難しいかもしれません。
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