竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 三三一 今週のみそひと歌を振り返る その一五一

2019年08月10日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三三一 今週のみそひと歌を振り返る その一五一

 巻十七に入り、鑑賞しています。先週は歌枕で与太話を展開しました。今週も似た話で遊びます。

相歡謌二首
標訓 相歡(よろこ)びたる謌二首
集歌3960 庭尓敷流 雪波知敝之久 思加乃未尓 於母比氏伎美乎 安我麻多奈久尓
訓読 庭に降る雪は千重(ちへ)敷く然(しか)のみに思ひて君を吾(あ)が待たなくに
私訳 庭に降る雪は千重に大地を覆い積もる、しかしその程度に思って貴方を私が待っていたのではありません。

集歌3961 白浪乃 余須流伊蘇末乎 榜船乃 可治登流間奈久 於母保要之伎美
訓読 白波の寄する礒廻(いそま)を榜(こ)ぐ船の楫取る間(ま)なく思ほえし君
私訳 白波が打ち寄せる磯の廻りを操って行く船の楫を艫の穴に差し込む後の隙間もないほどに慕っていた貴方よ。
左注 右、以天平十八年八月、掾大伴宿祢池主、附大帳使、赴向京師、而同年十一月、還到本任。仍設詩酒之宴、弾縿飲樂。是也、白雪忽降、積地尺餘。此時也、復、漁夫之船、入海浮瀾。爰守大伴宿祢家持、寄情二眺、聊裁所心
注訓 右は、天平十八年八月を以ちて、掾(じやう)大伴宿祢池主、大帳(だいちやうの)使(つかひ)に附きて、京師(みやこ)に赴向(おもむ)きて、同年十一月に、本任(もとつまけ)に還り到れり。仍(よ)りて詩酒(ししゅ)の宴(うたげ)を設けて、弾縿(だんし)飲樂(いんらく)す。是に、白雪の忽(たちま)ちに降りて、地(つち)に積むこと尺餘なり。この時に、復(また)、漁夫の船、海に入りれ瀾(なみ)に浮かぶ。ここに守大伴宿祢家持、情(こころ)を二つ眺めて寄せて、聊(いささ)かに所心(おもひ)を裁(つく)れり。

 何の気なしに歌を鑑賞しますと、付けられた左注の説明文に目が行きます。ただ、意地悪な気持ちで歌を鑑賞しますと、ちょっと、びっくりします。
 なぜか、
 集歌3960の歌の場合、四句目までが修飾の言葉であって、本題は「君を吾が待たなくに」を飾るだけです。同じように集歌3961の歌も四句までが「思ほえし君」を飾るだけです。この時代までに、季節の折々に持たれる公式の宴会で主人と客とが和歌を披露するようになっていたようです。それが、万葉集最後の歌となる次の歌にも見られます。

三年春正月一日、於因幡國廳、賜饗國郡司等之宴謌一首
標訓 三年春正月一日に、因幡國(いなばのくに)の廳(ちやう)にして、饗(あへ)を國郡(くにのこほり)の司等(つかさたち)に賜(たま)はりて宴(うたげ)せし謌一首
集歌四五一六 
原文 新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰
訓読 新しき年の始(はじめ)の初春の今日降る雪のいやしけ吉事(よこと)
私訳 新しい年の始めの初春の今日、その今日に降るこの雪のように、たくさん積もりあがれ、吉き事よ。

 この集歌四五一六の歌は新年祝賀の定型的なもので、万葉集には新年祝賀での類型歌を見ることが出来ます。
 先週にも紹介しましたが、大伴家持たちの時代となる奈良時代中期までには和歌作歌技法として、「雪と日晒しの布」や「雪と白梅」などの見立て技法、柿本人麻呂歌集などの歌からの本歌取りの技法、「草枕」や「天離る」などの枕詞の技法、歌に言葉を折り込んだ折句の技法、日本語の同音異義語からの言葉遊びを踏まえた掛詞の技法、また、地名や状況を踏まえた歌枕の技法と、ほぼ、和歌を詠う技法は出そろっています。
 柿本人麻呂・額田王の時代から大伴旅人・大伴坂上郎女の時代までは、真似て歌を詠う時代ではありません。そもそも、真似るべき歌が自体が確立していなくて、人々が思う秀歌が作られつつあった時代です。大伴旅人・大伴坂上郎女の時代を通過して、やっと、人々が思う秀歌の概念が出来、そこから真似るべき歌が形成されます。この真似るべき歌が形成されて初めて、真似るための作歌技法が固まり、技術となります。
 当然、和歌を詠うことは、ある種の芸術・芸能活動です。そのため、コンスタントに秀歌を詠うのことは才能であって、暗記では対応が出来ません。一方、時代の要請で、役人たちは季節折々の公式の宴会で歌を詠う必要がありますと、必然、和歌を詠うための教科書が必要となりますし、例題集が必要となります。一番、楽なのは本歌取り技法や歌枕技法で、末句だけを工夫すればよいとする作歌技法です。
 巻十七から巻二十までに、宴会などが予想される場合、事前に歌を用意したが、結局、披露する機会がなかったという記述が散見されます。

「十一月八日、在於左大臣橘朝臣宅、肆宴謌四首」より
集歌四二七二 
原文 天地尓 足之照而 吾大皇 之伎座婆可母 樂伎小里
訓読 天地に足(た)らはし照りに吾(わ)が大皇(きみ)し敷きませばかも楽しき小里(をさと)
私訳 天地をあますなく照らして、吾等の上皇がお出でになられると、風流な里となります。
左注 右一首、少納言大伴宿祢家持 未奏
注訓 右の一首は、少納言大伴宿祢家持 未だ奏(まを)せず

「八月十三日、在内南安殿肆宴謌二首」より
集歌四四五三 
原文 安吉加是能 布伎古吉之家流 波奈能尓波 伎欲伎都久欲仁 美礼杼安賀奴香母
訓読 秋風の吹き扱き敷ける花の庭清き月夜(つくよ)に見れど飽かぬかも
私訳 秋風が吹き、花びらをこき敷ける花の庭は、清らかな月夜に眺めるが見飽きることがありません。
左注 右一首、兵部少輔従五位上大伴宿祢 (未奏)
注訓 右の一首は、兵部少輔従五位上大伴宿祢 (未だ奏(まを)さず)

 歌が詠われた背景からしますと、七夕の宴では柿本人麻呂はその時の天候に合わせて即興で詠い、大伴旅人は梅花宴では場の雰囲気で歌を詠います。彼らならその場、その場で秀歌を詠うことは可能でしょうが、凡人では困難です。それで、紹介したような作歌技法が発達したと思います。
 ただ、奈良時代中期までに作歌技法が発達しすぎて、暗記科目のような状態に陥ったのかもしれません。それでは、単に儀式での式次第と同じとなります。
 さらに大伴旅人の提唱した一字一音万葉仮名で歌を詠うようになりますと、歌を表記した時の漢字の選択という遊ぶもなくなります。唯一の同音異義語の遊びも定型の歌枕を使いますと、ある種、百人一首と同じです。作歌する人物と最初の歌の発声で、「ハイ、判りました」となってしまします。

 万葉集の歌が天平宝字三年正月で終わりますが、背景として、このような状態だったのかもしれません。それで、平安時代人が思う大伴家持の秀歌のほとんどが大伴旅人・大伴坂上郎女時代、または、他人の歌なのでしょう。

 今回もトンデモの与太話でした。なかなく、巻十七で遊ぶのは難しいところがあります。
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