旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

今年の見納め、聞きおさめ--②オペラアリア、佐藤美枝子

2008-12-14 15:30:00 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 先週の日曜日(7日)は、勝どきの第一生命ホールに「ふたりでコンサート~オペラの楽しみ~」を聞きにいった。
 NPOトリトン・アーツ・ネットワーク(TAN)が企画するこの催しは、「音楽の素晴らしさをもっと身近に楽しんでいただくきっかけを! と、広い世代の皆さまへ多彩な楽しみ方をお届けするのが『ライフサイクルコンサート』、中でも『ふたりでコンサート』は、忙しい日々を過ごしてきた夫婦も、そろそろふたりの時間をもう一度大切に・・・、と提案するシリーズ」(TANかわら版08.11.1号)ということらしい。
 私たち夫婦は、娘を加えた三人でこれを聞いた。

 プログラムは、ソプラノ佐藤美枝子、メソソプラノ郡愛子、テノ-ル川久保博史、バリトン谷友博の出演で、第一部がオペラのアリアから、第二部がミュージカルなど幅広いジャンルの歌曲を、というもの。
 約2時間、実に楽しいひと時であった。
 私にとって圧巻は、佐藤美枝子の、ベッリーニの歌劇「清教徒」のアリア「あなたの優しい声が」と、アンコールで歌った「リゴレット」の中の四重唱であった。
 ベッリーニの歌劇を私は意識して聴いたことがなかった。3年前のシチリアの旅で、ベッリーニの故郷カターニャを訪ね、ベッリーニ劇場までは行ったが、そこで見たのは「蝶々夫人」であった。娘には聞いていたが、この「清教徒」のアリアの美しさを始めて知った。もちろんそれは佐藤美枝子の歌唱力によるのであろう。さすがにチャイコフスキーコンクールの入賞者・・・、と美しい曲と声を満喫した。
 思いもかけなかったことは、アンコールで「リゴレット」のあの四重唱を歌ってくれたことだ。考えてみればソプラノからバリトンまで4人揃っているのだから、四重唱をやるのは当然かもしれないが、一度ナマで聞いてみたいと思っていたリゴレットの四重唱
で大満足。今年の聞き納めとして結構でした。

 5時過ぎには終わったのでゆっくり新宿まで帰り、オペラシティの最上階にある「東天紅」で食事をした。「あれは上手かったがあれはもう一つ」、「あの二人はハモッていなかった、前進と本まる(娘の音大同級生)の方が上手い」とか、勝手な批評を交わしながら、次々と出てくる中華料理を食べるのも楽しかった。
 新宿副都心から中野にかけての夜景もきれいだったし、紹興酒10年もの古酒も料理に合って美味しかった。
                            


今年の見納め、聞きおさめ--①篤姫、宮尾登美子

2008-12-13 14:33:35 | 時局雑感

 

 近くの世田谷文学館で「宮尾登美子展」をやっているので見てきた。
 小説家というのは大変な苦労をしているのだな、と改めて思った。書き続け書き続けて、ようやく賞を得てそれがゴールではなくむしろ始まり、というより、それからの苦労の方が大きいようだ。好きだからやれるのであろうが、名を成すほどにより大なるものを要求され、それに応えられなければ消えていくのだろう。それ以前に、名も成さずに消えていった者はそれに何百倍、何千倍するのであろうが。
 自伝的小説を連載的に書き続けていったようであるが、いくら自伝といっても自己の体験だけを書いていったのでは先は見ている。自己を元にフィクションを重ね、そのうちに自己そのものが発展成長し、一層大きいフィクションを呼び込んでいくのであろう。
 『天璋院篤姫』などの時代小説でも、篤姫という実在を調べつくして、それを豊かな架空の人物に造り上げるのが小説家の仕事だろう。事実から離れてしまえば誰も読まないだろうし、事実どおりに書いてもつまらないのだろう。「事実は小説より奇なり」と言う言葉もあるが。

 そう、NHK大河ドラマ「篤姫」の面白さもあって、私は宮尾登美子展に行ったのだ。久しぶりに大河ドラマを見続けた。それは篤姫という実在の素晴らしさと、それをドラマ化した(つまり実在を超えた人物にした)原作のすばらしさによるのだろう。もちろん演出、出演者もよいからだが。
 中でも一番面白い人物は徳川家定であった。彼の実在がどのような人物であったのか私は知らない。しかし書かれた人物は、政権末期にあって幕府の行く末をすべて見抜き、なおかつその立場から逃げられないがため悟りの境地に立つた人物と思えた。阿呆のまねでもしなければ生きて行けなかったであろう。自伝小説の大家が、歴史上の人物の事実を調べ尽くした上に、どのようなフィクションを重ねて行ったのであろうか?
 家定ともう一人存在感のあった人物は島津斉彬であるが、ドラマの上では既に亡きこの両者が現れる前々回(11月30日)が、この大河ドラマの圧巻、集大成と見た。まさに今年の大河ドラマの「見納め」と思った。
                            


スウェーデンの住宅思想

2008-12-12 14:42:49 | 政治経済

 

 前回のブログ(12月9日)で、三井ホームの社名に触れて、他の住宅メーカー(大和ハウス、積水ハウスなど)と違って三井「ホーム」と名乗るところがいい、つまりハウスというハードを売るのでなくホームというソフトを売るという姿勢がいい、と書いた。
 実はこの考え方は、北欧スウェーデンにあっては、既に100年近く前からあったようだ。竹崎孜著『貧困にあえぐ国ニッポンと貧困を克服した国スウェーデン』に、その様子が詳細に書かれている。
 それによれば、スウェーデンでは住宅を財産とか不動産とかとらえるのでなく、一生のライフスタイルに従って住み替えていく”生活の場”、まさに住居(すまい)ととらえているようだ。
 18歳になると若者は独立するので単身者住宅が要る。しかしそれは当然のことながらそれほど大きなものでなくよい。結婚して二人暮しになればそれなりの大きさを必要とし、子供が生まれればいく部屋をも持つ住宅が要る。しかし子供が18歳になれば独立していくので、小さい家で足りてくる。高齢者になれば、こじんまりした居住性のよい家が必要になる。
 スウェーデン人は、そのライフスタイルに従って適した家に住み替えていく。国はそれに合わせて住宅手当金を支給して支援していく。たとえば、「子供を育てる家庭へは家賃に充当する住宅手当金が給付され、育児に適した住環境を確保させ、ゆったりと子育てに専念できるよう考えられ」しかし、「給付を受ける資格は、子供が17歳以下となっており、(中略)子供の成長を見届けた後は大型住宅をいつまでも占拠せず、新しい育児家庭に引き継ぐ」(同書147頁)という具合だ。
 高齢者にも住宅手当が用意されており、ふさわしい住宅に移り住んでいくので、スウェーデンには老人ホームは無いという。

 こうなると、住宅はまさに個人の資産とか不動産ではなく社会の共有物に等しい。従って住宅市場は、あくまで民間市場経済に基本をおくが、それだけに委ねられることなく、自治体の協同組合住宅や公営企業住宅という3者が混在して、それぞれ規制しあっているようだ。
 つまり資本の論理だけに委ねず、公的な規制を絡ませているのだ。住宅協同組合の発生が1920年代と言うから、その歴史は100年に近い。
                            


懐かしい人たちとの忘年会

2008-12-09 17:16:07 | 

 

 昨夜は、三井ホーム時代のOB3人といっぱい飲(や)った。忘年会という意味合いではない。当時(既に10年近く前になる)を懐かしみ、なんとなく感性の合う4人が集まったというわけ。 

 場所は神楽坂4丁目にある「おいしんぼ」・・・正確には「京都ぎをんおいしんぼ神楽坂店」。神楽坂らしい狭い路地の石畳を、上がったり下がったりして着くところに風情がある。4人で、丸い小さいちゃぶ台を囲み飲むあたりもいい。 
 
酒も京都らしく伏見をはじめ京都、奈良の酒ばかり。最初に「純米大吟醸」、「純米吟醸」、「特別純米」三種の“利き酒セット”が出てくるのも素晴らしい。すべて純米酒というところがいい。 
 
利き酒セットの後は、いろんな酒を二合ずつ注文したが、お銚子ではなく大きな竹の容器で運ばれてきて、竹の柄杓(ひしゃく)で猪口(ちょこ)に注いで飲む。なかなか味なものであった。

 酒はさておき、話は当然ながら三井ホームの今昔に及んだ。私はかねてから思いつづけていたのであるが、差し障りもあるのであまりしゃべらなかった次のような感想を話した。

 「・・・銀行を退職して三井ホームにお世話になったのは20年前になるが、最初の感じはすこぶる良かった。ホームメーカーで大きいのは大和ハウスや積水ハウスであるが、いずれも“ハウス”という社名だ。それに反し三井ホームは社名を“ホーム”とする。これが素晴らしいと思った。ハウスはハードであり正に不動産というにふさわしい。しかしホームというのは“住居(すまい)”、“生活の場”、“リビング”などというソフトウエアを指すと思う。『ああ、三井ホームは、ハウスではなくホームを売っているのだ。素晴らしい会社だ』と思い、わくわくしたのを思い出す。・・・ただその後15年、その思いはだんだんしぼんでしまい、三井もやっぱり“ハウス屋”か? という思いで退社したのだが・・・」

 この意見には3人ともほぼ同意してくれたように思う。そして、「いつから、なぜそのようになったのか?」に話は弾んだが、それをくどくど書くのはやめる。ただ、四人の一致したところは、衣食住という人間が生きる上の根源的な物を取り扱う企業には「それなりの哲学が求められるべき」こと、医療、教育などとともに、食、住は、その哲学を持たない者にやらせてはいけない、ということであった。
 
それらが、哲学なき利益中心主義者に委ねられてきたツケを、いま日本国民(世界の人々?)は払わされているのであろう。

 断っておくが、こんな話ばかりしていたわけではない。おいしい酒と料理の話がほとんどを占めたことは言うまでもない。
                            


今年の政治、経済--③日本

2008-12-07 11:48:05 | 政治経済

 

 日本は、今回のアメリカ発金融危機、つまりサブプライムローンに端を発する世界的経済危機については、被害が一番軽いとされている。未だ十分に立ち直りきれていないバブル崩壊の教訓からか、ファンドに手を出した額が小額であったようで、金融機関が抱えた不良債権が小さかった。
 
ところが、震源元のアメリカより株価の下落幅が大きいなど、経済的混乱ではひけを取らない。年金問題や派遣労働問題、ワーキングプアをはじめとした貧困問題など課題は山積、暮れにかけて人員整理が打ち続くようで、世の中は混然としている。特に人員整理の風は非正規雇用者に厳しく、トヨタ自動車などは一兆円の純利益が数千億円に減益になりそうだと言う理由で、6千人の非正規雇用者を削減しようとしていると言われている。赤字ならともかく、未だ何千億円も利益が出るのに、従業員の首を切るのか?
 
企業は、特に何千億円も利益をあげている大企業は、このような時こそその社会的責任を果たすべきであろう。

 日本の場合は、これら経済問題についても、最大の責任は政治にあると思われる。国民がこれほど苦しんでいるにもかかわらず、政治は党利党略、国民不在の政争を繰り返している。何のリーダーシップも発揮されることなく、政策も示されず、一年ごとに三人も首相を取り替えながら国民に信も問わず、いたずらに政争をくり返す様は、批判する気にもなれない。
 
麻生首相の言動など、全く論ずるに足らない。日本は一番重要なときに最も軽っぽい人間を首相に選んだのではないか? それを攻める民主党もまったく同罪であろう。これまた国民のことなど考えることなく、ただ党略に走る政権亡者というしかあるまい。

 日本は大いなる政災(政治災害)の下にある。世界経済が「百年に一度の津波」に襲われているときに、日本国民は何としてもこの政災を取り除き、経済の建て直しに取り組まねばなるまい。物つくりを中心にした日本人の力は、世界のどこにも負けないと思っている。来年こそ腐れ切った政治を刷新し、カジノ資本主義と手を切り、物つくり(含む農業)を基盤に据えた経済再建に取り組むべきであろう。
                            


今年の政治、経済ー-②ヨーロッパ

2008-12-06 13:30:20 | 政治経済

 

 アメリカ発の世界金融危機は、リーマンブラザーズの倒産や自動車ビッグ3の破綻状況など、当然のことながらアメリカ本土に大きな傷跡を残しているが、意外にも、ヨーロッパ各国などアメリカ以外の国に大きな被害をもたらした。
 
株価の下落率などでは、中国や日本を含め、アメリカよりも周辺の国の方が大きい。正に経済のグローバル化を、これほど実感させられたことはない。なにせ実体経済の3~4倍の過剰資金が、瞬時に世界を駆け巡り儲けを競っている状況だから・・・。
 
中でもアイスランドのように、国の存亡がかかるほどの打撃を受けた国もある。銀行の不良債権額が、国のGDPの10倍に達するとなれば、正に国家の破産であろう。

 私は、EU諸国は、じわりとアメリカと距離をとり、いわゆるアメリカ主導の新自由主義経済を離れて独自の道を求めていると思っていた。イラク戦争に対する態度などその現われと見られ、EU諸国の「新しい未来」に期待していた。ところが所詮は資本主義の行き着くところか、サブプライムローンが組み込まれた巨大ファンドにヨーロッパ各国とも巻き込まれていたのだ。
 
カジノ資本主義は、否が応でもその経済原則をグローバルに貫徹していたのだ。
 
昨日の各紙の報道によれば、欧州各国も一斉に金利を下げてこの危機に対応しようとしているようだ。欧州中央銀行の下げ幅0.75%は、ユーロ導入以来最大の下げ幅で、1%を引き下げたイングランド銀行のレート2%は、57年ぶりの低水準という。為替相場も、ユーロ120円弱、英ポンド140円前後となっている。
 
為替相場で思い起こすのは昨年の英独仏の三国旅行・・・。当時ユーロ160~170円、英ポンド240~250円で、何を買うにも高く、私は、「いつの間に日本はこんなに弱くなったのか? それよりも、ヨーロッパはいつの間に力をつけたのか?」と思い悩んだものだが、実はそれは、ユーロバブルの結果であったのだ。バブルがはじけ、日欧間の相場はむしろ正常に戻ったと言えるのではないか?

 ただ私はもう一つの点に注目している。それは北欧(フィンランド、スウェーデン、デンマークなど)とオランダなどの実情である。これら諸国の生き方に、資本主義の矛盾をぬけ出す一つの手本を求めているからだ。
 
その答えは、もう少し事態の推移を見つめた後に探ることにする。
                             


今年の政治、経済--①アメリカ

2008-12-05 15:11:38 | 政治経済

 

 今年の世界政治経済では、印象的な事柄が多かった。中でも、米大統領選挙におけるオバマの勝利はその最たるものであったろう。従来の踏襲ではなく変化を求めたアメリカ国民は、挙国一致でそれに取り組むに一番ふさわしい人物を、人種問題という歴史的な壁を乗り越えて選んだ。
 
アメリカはそれほど困難な問題に直面しているということだろう。それは、内にあっては100年来の津波といわれるアメリカ発の経済危機であり、外にあっては正義を失って泥沼化したイラク戦争をはじめとした外交問題であろう。

 選ばれたオバマは、変化を求めるにふさわしい快調なテンポで、この2大課題に取り組もうとしていることも印象的だ。即ち、最大課題である経済問題に取り組む経済チームと、外交課題に立ち向かう外交チームを矢継ぎ早に発表した。
 
経済チームのトップには、若くて切れ味鋭いガイトナー・ニューヨーク連銀総裁を財務長官に、すでに試され済みの実力者サマーズ元財務長官を国家経済会議委員長に起用することを決めた。
 
それにも増してオバマらしさを発揮したのは、外交チームの人事である。要となる国務長官に、あれほど激しい予備選挙を戦い合った党内の政敵ヒラリー・クリントンを指名し、国防長官には、批判しつづけた共和党の現閣僚であるゲーツを続投させることとした。まさに、挙党・挙国体制と言うにふさわしい。
 
特に、クリントンを選ぼうとした経緯を知って、改めてオバマの人間的大きさを感じた。12月2日付日本経済新聞夕刊の囲み記事によれば、その経緯は次のように報じられている。

「オバマ氏は『急にパッとひらめいたのではない』と語り出して『民主党予備選が終わってから、彼女と協調できる方法はないかといつも考えていた』と、六月の予備選終了後にはクリントン氏の政権入りのアイデアを暖めていたと説明した。」
 
そして「大統領選が終わって政権の顔ぶれを考え始めたとき、彼女は素晴らしい国務長官になると思った」として、
11月の大統領選直後には決めていたと報じている。
 私は、オバマでなければクリントンが十分に大統領の役を務め得ると思っている。その彼女の実力を、当面の敵として激しく戦ったオバマは、いやというほど感じたのではないか? そしてその戦いが終わった瞬間から彼女との協調を求めつづけたのであろう。
 
閣僚人事などというものは、身内、側近を含めしがらみの多いものに違いあるまい。それを考えると、いくら挙党、挙国とはいえ、このような発想を常にもち、それを断行するには、それなりの「人間の大きさ」みたいなものが要るのではないか?
                            


年賀状の季節

2008-12-02 17:20:26 | 時局雑感

 

 年賀状はどんな役割を果たし、どんな効果があるのだろうか?
 
個人的には、年賀状だけでつながっている人がいるので、人間関係を維持していく上ではそれなりの効果があるのだろう。しかし、年賀状だけでつながっている関係って、維持していく値打ちがあるのだろか? その中には、暮れになって身内の方とおぼしき人から「○○は何月何日なくなったので、年末年始の挨拶は省略させていただく・・・」というはがきが来て、初めて亡くなったことを知る人さえいる。葬儀に参列しないどころか、死んだことを後で知る程度の関係である。それは、人間関係とまで至らない関係ではないのか?
 
ただ、生きている間は互いに、「おお、あいつはまだ元気で、こんなことを考えているのか・・・」ということを確認しあう役割はあるから、年賀状も効果がないとは言えまいが。しょっちゅう会っている間柄では、年賀状は不要であろう。が、かなり交換しあっている。

 会社同士の賀状は効果があるか? 年賀状とはいえ会社の宣伝文句が多いので、宣伝効果はあると信じられているのだろう。しかし本当に宣伝しようと思えば、年賀状よりほかの手段のほうがいいだろう。親しい会社同士は、年末年始とも挨拶しあっているから、本来は年賀状など要らないだろう。
 
結局会社同士は、社会一般のしきたりに応じて、存在を無視されては困るので、お付き合いで出しているのではないか? いわゆる虚礼の最たるものであろう。しかしこれも、一人出さないと「変わった会社」とか「失礼な会社」と思われたり、場合によっては「つぶれたのではないのか」などと思われてもつまらないので、出した方が無難であろう。

 わが社も当然出しており、これまで毎年それなりに凝った賀状を作っていた。しかし今年はむしろすっきりと、「明けましておめでとうございます。今年もよろしく・・・」とだけのシンプルなものを起案したところ、若い女性から「なんてセンスのない!」と批判を受けた。そこで、各自で自分の案を作り関係先に心を込めて出状せよ、と指示した。
 
こうなると、若しかすると虚礼でなく、「心の通った、真に人間関係を維持する年賀状」が現れるかもしれないと期待している。時には逆療法が必要なのだ。
                          


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