アメリカ民主主義の源流として心に残った事柄は、単に建国史を彩る巨人たちの言動だけではなかった。
その極めつけは、個人の言動の中にではなく、国民の総意として刻み残されている次の二つ言葉であった。
一つは国会議事堂の、もう一つは国立公文書館のそれである。
・The Capitol(国会議事堂)は、ワシントン・モニュメントの東に位置し、その堂々たるドームの頂きに聳え立つ自由の像の台座には、「民主主義の過程を表現する言葉」として、次の言葉がラテン語で刻み込まれている。
E Pruribus Unum -- 多数から一つに
・国立公文書館には、独立宣言と、合衆国憲法および権利の章典が一室に納められ、空気と光線の害から守るためにヘリウムの入ったフィルターつきのガラスケースの中に収められている。
そしてその入り口に、次の言葉が刻まれている。
永遠の見張りこそ自由の代償である
彼らは常に民主主義そのものを見張っているのである。そしてそれこそ、民主主義の本髄であると思われた。
アメリカは、このようにして自由と民主主義を守り育ててきた。
さて、そのアメリカの現状はどうか?
根強くのこる人種差別、極貧困層の存在などと、掲げてきた理想との相克を彼らはどう処理しているのか? もし極貧層の存在を「自由競争の結果」として位置づけるとすれば、そのような自由は、今後の世界が全体として発展していく理念、哲学として、はたたして役に立つのか?
いわんや、他国に攻め込み自己の生存基準を押し付けることが民主主義と考えているとすれば、このような民主主義は、人類が今後を生きるうえで役に立つのであろうか?
ベトナム戦争で、わずか半世紀前に経験した誤りを、再びイラクで繰り返すとすれば、彼らが続けておる「永遠の見張り」は、何の役に立ってきたのかを問わねばならない。