④で示した部分の後に続くフレーズは,この楽曲の最後のところで何度もリフレインされます。ですからそれはこの楽曲の最終回に回します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/6c/94f416d4eeb804b6fc4e801038ee2575.jpg)
後にリフレインされる部分で楽曲の1番は終了。2番の冒頭は次のように歌われます。
だれもまだ見たことがない バラ色をまだ見たことがない
これだと言われたらそうかなと思う
②では,未来はバラ色だとだれかに耳うちされ,誘いをかけられたのでした。ですが,バラ色というのはだれも見たことがありません。それはだれも未来を見たことがないのですから,当然といえば当然かもしれません。だから,これがバラ色なのだと言われたら,そうかもしれないと思い込んでしまうのです。
しだいにそれじゃなきゃイヤだと思いこむようになって
それがないのがつらくなる
それがバラ色かもしれないと思いこむようになると,だんだんとそれに慣れていき,そしてついにはそれがなければ辛くなってしまうのです。
バラ色というのは,案外こんなふうに作られていくものなのかもしれません。
これはスピノザがいっていることではなく,僕が仮に立てている命題ですが,もし実体substantiaとしての量が1であるというテーゼを立てたとき,それが実体としての1を意味しなければならないということは分かりました。では実体としての1が具体的に何を意味しなければならないのかを探求していきましょう。
第一部定義四により,実体の本性essentiamは属性attributumによって構成されます。したがってこの場合の実体としての量,あるいは実体としての1は,知性intellectusによっていわば1属性とでもいうべき属性として認識されることになります。
次に,第二部定理六により,ある属性の様態modusは,その属性を原因causaとします。いい換えれば,ある属性の様態というのは,その属性が存在しなければあることも考えるconcipereこともできないあるものなのです。したがって,1属性の様態というのは,1属性がなければあることも考えることもできないものとして存在することになります。ではこのとき1属性の様態というのが何を意味するのかといえば,それは具体的な数です。つまりあらゆる数,この場合には自然数に限定する必要はなく,すべての数というべきですが,そうした数は実体としての1すなわち1属性がなければあることも考えることもできないということになります。これが実体の量は1であると仮定したとき,この仮定が具体的に意味する内容になります。
ここでは次の点に気を付けてください。あらゆる数が1属性あるいは実体としての1の様態であるというとき,その数の中には1も含まれます。ですがこの1は,1属性とか実体としての量は1であるといわれるときの1とは,単に1という記号が一致しているだけなのであって,異なったものです。このことは第一部定理一七備考でスピノザがいっていること,すなわち,結果effectusは原因causaとは異なるものであるがゆえに結果といわれるということから明白です。実体としての1は原因で,様態としての1はその結果でなければならないからです。ですからこの場合は,1という記号だけが一致しているのであり,実体としての1と様態である数の1は,スピノザのいい方に倣うなら,本物の犬と星座の犬の間にあるほどの相違があるのです。
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後にリフレインされる部分で楽曲の1番は終了。2番の冒頭は次のように歌われます。
だれもまだ見たことがない バラ色をまだ見たことがない
これだと言われたらそうかなと思う
②では,未来はバラ色だとだれかに耳うちされ,誘いをかけられたのでした。ですが,バラ色というのはだれも見たことがありません。それはだれも未来を見たことがないのですから,当然といえば当然かもしれません。だから,これがバラ色なのだと言われたら,そうかもしれないと思い込んでしまうのです。
しだいにそれじゃなきゃイヤだと思いこむようになって
それがないのがつらくなる
それがバラ色かもしれないと思いこむようになると,だんだんとそれに慣れていき,そしてついにはそれがなければ辛くなってしまうのです。
バラ色というのは,案外こんなふうに作られていくものなのかもしれません。
これはスピノザがいっていることではなく,僕が仮に立てている命題ですが,もし実体substantiaとしての量が1であるというテーゼを立てたとき,それが実体としての1を意味しなければならないということは分かりました。では実体としての1が具体的に何を意味しなければならないのかを探求していきましょう。
第一部定義四により,実体の本性essentiamは属性attributumによって構成されます。したがってこの場合の実体としての量,あるいは実体としての1は,知性intellectusによっていわば1属性とでもいうべき属性として認識されることになります。
次に,第二部定理六により,ある属性の様態modusは,その属性を原因causaとします。いい換えれば,ある属性の様態というのは,その属性が存在しなければあることも考えるconcipereこともできないあるものなのです。したがって,1属性の様態というのは,1属性がなければあることも考えることもできないものとして存在することになります。ではこのとき1属性の様態というのが何を意味するのかといえば,それは具体的な数です。つまりあらゆる数,この場合には自然数に限定する必要はなく,すべての数というべきですが,そうした数は実体としての1すなわち1属性がなければあることも考えることもできないということになります。これが実体の量は1であると仮定したとき,この仮定が具体的に意味する内容になります。
ここでは次の点に気を付けてください。あらゆる数が1属性あるいは実体としての1の様態であるというとき,その数の中には1も含まれます。ですがこの1は,1属性とか実体としての量は1であるといわれるときの1とは,単に1という記号が一致しているだけなのであって,異なったものです。このことは第一部定理一七備考でスピノザがいっていること,すなわち,結果effectusは原因causaとは異なるものであるがゆえに結果といわれるということから明白です。実体としての1は原因で,様態としての1はその結果でなければならないからです。ですからこの場合は,1という記号だけが一致しているのであり,実体としての1と様態である数の1は,スピノザのいい方に倣うなら,本物の犬と星座の犬の間にあるほどの相違があるのです。
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