第19回ジャパンダートダービー。
それぞれの騎手がほかの馬の出方を窺うような感じからノーブルサターンがハナへ。2番手をローズプリンスダムが単独で追走。3番手はサンライズソアとシゲルコングで併走。5番手はヒガシウィルウィンとリゾネーターで併走。7番手がタガノディグオ,キャプテンキング,サンライズノヴァの3頭。この後ろにブラウンレガート。ほかの馬はここから大きく取り残されました。前半の1000mは62秒0のミドルペース。
3コーナー手前からリゾネーターが動いていきました。前にいた馬のうちサンライズソアは控え,コーナーではノーブルサターン,ローズプリンスダム,リゾネーターの3頭が雁行に。ローズプリンスダムは4コーナー手前でかなり苦しくなり,ノーブルサターンとリゾネーターの競り合いに。しかし控えて内を回ったサンライズソアが内から2頭をまとめて交わして先頭。リゾネーターの外から追ってきたサンライズノヴァは伸び脚がなく,さらにその1頭内からヒガシウィルウィンが進出。リゾネーターを捕えると最内のサンライズソアとの馬体を離しての追い比べも制して優勝。クビ差の2着にサンライズソア。ヒガシウィルウィンのさらに外から差してきたタガノディグオがリゾネーターは捕えて1馬身差で3着。リゾネーターはクビ差で4着。
優勝したヒガシウィルウィンは前走の東京ダービーから連勝。重賞初勝利で大レース制覇。このレースは能力はリゾネーターがおそらくトップで,勝つ可能性は最も高いだろうと思っていましたが,前走の敗因はいまひとつ分からず,もし地方競馬の馬場適性によるものなら崩れるかもしれないという不安があり,その場合にはリゾネーターおよび不出走ながら世代トップのエピカリスとの対戦成績から,相当な混戦になるだろうと思われました。リゾネーターはややレースぶりが強気すぎたようにも思えるので,今日の敗因はそちらになるのかもしれません。サンライズノヴァはおそらく本質的に距離が長く,タイムが早くなるレースの方がよいのでしょう。上位が接戦となったように,実力差は少ないと思われますが,その中でヒガシウィルウィンが勝ったのは,東京ダービーで大井のこの距離を経験していたという強みが出たからだと思います。父はサウスヴィグラス。プロポンチス系グランドターキンの分枝で半姉に昨年の東京湾カップを勝っている現役のディーズプリモ。
騎乗した船橋の本田正重騎手はデビューから11年10ヶ月弱で重賞初勝利とともに大レース初勝利。管理している船橋の佐藤賢二調教師は2001年のジャパンダートダービー以来16年ぶりの大レース2勝目。重賞はこれが6勝目。
第五部定理二四がなぜ成立するかといえば,第一部定理二五系にあるように,個物Res particularesは神の属性を一定の仕方で表現する様態modi, quibus Dei attributa certo, et deteaminato modo exprimunturであるからです。いい換えれば,個物とはその個物という様態的変状modificatioに様態化した神であるからです。したがって,個物の認識cognitioは様態的変状に様態化した神の認識と置き換えることができます。だから個物の認識を神の認識と置き換えることも可能になるのです。これが僕が理解する第五部定理二四の意味です。
この定理Propositioは,個物を多く認識するほど神を多く認識することになるQuo magis res singulares intelligimus, eo magis Deum intelligimusといういい方がされています。これはどういうことかといえば,様態的変状に様態化した神を認識するということと,絶対に無限absolute infinitumである神を認識することは,必ずしも等置できないということを意味すると僕は解します。もしある知性intellectusが絶対に無限である神を認識するというとき,それを多く認識するとか少なく認識するというように記述することはあり得ないと僕は考えるからです。絶対に無限である実体substantiaというのは唯一でなければならず,この場合にはそれを認識できるか認識できないか,より正確にいえば,それを十全に認識できるか十全に認識できないかのどちらかでしかあり得ないと僕は考えるのです。したがって第五部定理二四でいわれている様態的変状に様態化した神の認識は,絶対に無限な実体を認識するということと異なっていなければならないと僕は考えるのです。
このとき,絶対に無限な実体と関係づけられようと,様態的変状に様態化した神,いい換えれば何かである限りでの神と関係づけられようと,観念が十全adaequatumであるなら真verumであるということは同様でなければならないと僕が考えていることはすでに説明しました。確かにそこには飛躍があるかもしれませんが,その飛躍を正当化させることが,このこと自体の中に含まれていなければならないと僕は考えるのです。ですが,もし人間が神の観念を十全に認識するというときに,様態的変状に様態化した神,つまりある様態に変状した限りでの神を認識するということと,絶対に無限である実体を認識するということは,同じようには等置できないと僕は考えます。この飛躍は許されないと思うのです。
それぞれの騎手がほかの馬の出方を窺うような感じからノーブルサターンがハナへ。2番手をローズプリンスダムが単独で追走。3番手はサンライズソアとシゲルコングで併走。5番手はヒガシウィルウィンとリゾネーターで併走。7番手がタガノディグオ,キャプテンキング,サンライズノヴァの3頭。この後ろにブラウンレガート。ほかの馬はここから大きく取り残されました。前半の1000mは62秒0のミドルペース。
3コーナー手前からリゾネーターが動いていきました。前にいた馬のうちサンライズソアは控え,コーナーではノーブルサターン,ローズプリンスダム,リゾネーターの3頭が雁行に。ローズプリンスダムは4コーナー手前でかなり苦しくなり,ノーブルサターンとリゾネーターの競り合いに。しかし控えて内を回ったサンライズソアが内から2頭をまとめて交わして先頭。リゾネーターの外から追ってきたサンライズノヴァは伸び脚がなく,さらにその1頭内からヒガシウィルウィンが進出。リゾネーターを捕えると最内のサンライズソアとの馬体を離しての追い比べも制して優勝。クビ差の2着にサンライズソア。ヒガシウィルウィンのさらに外から差してきたタガノディグオがリゾネーターは捕えて1馬身差で3着。リゾネーターはクビ差で4着。
優勝したヒガシウィルウィンは前走の東京ダービーから連勝。重賞初勝利で大レース制覇。このレースは能力はリゾネーターがおそらくトップで,勝つ可能性は最も高いだろうと思っていましたが,前走の敗因はいまひとつ分からず,もし地方競馬の馬場適性によるものなら崩れるかもしれないという不安があり,その場合にはリゾネーターおよび不出走ながら世代トップのエピカリスとの対戦成績から,相当な混戦になるだろうと思われました。リゾネーターはややレースぶりが強気すぎたようにも思えるので,今日の敗因はそちらになるのかもしれません。サンライズノヴァはおそらく本質的に距離が長く,タイムが早くなるレースの方がよいのでしょう。上位が接戦となったように,実力差は少ないと思われますが,その中でヒガシウィルウィンが勝ったのは,東京ダービーで大井のこの距離を経験していたという強みが出たからだと思います。父はサウスヴィグラス。プロポンチス系グランドターキンの分枝で半姉に昨年の東京湾カップを勝っている現役のディーズプリモ。
騎乗した船橋の本田正重騎手はデビューから11年10ヶ月弱で重賞初勝利とともに大レース初勝利。管理している船橋の佐藤賢二調教師は2001年のジャパンダートダービー以来16年ぶりの大レース2勝目。重賞はこれが6勝目。
第五部定理二四がなぜ成立するかといえば,第一部定理二五系にあるように,個物Res particularesは神の属性を一定の仕方で表現する様態modi, quibus Dei attributa certo, et deteaminato modo exprimunturであるからです。いい換えれば,個物とはその個物という様態的変状modificatioに様態化した神であるからです。したがって,個物の認識cognitioは様態的変状に様態化した神の認識と置き換えることができます。だから個物の認識を神の認識と置き換えることも可能になるのです。これが僕が理解する第五部定理二四の意味です。
この定理Propositioは,個物を多く認識するほど神を多く認識することになるQuo magis res singulares intelligimus, eo magis Deum intelligimusといういい方がされています。これはどういうことかといえば,様態的変状に様態化した神を認識するということと,絶対に無限absolute infinitumである神を認識することは,必ずしも等置できないということを意味すると僕は解します。もしある知性intellectusが絶対に無限である神を認識するというとき,それを多く認識するとか少なく認識するというように記述することはあり得ないと僕は考えるからです。絶対に無限である実体substantiaというのは唯一でなければならず,この場合にはそれを認識できるか認識できないか,より正確にいえば,それを十全に認識できるか十全に認識できないかのどちらかでしかあり得ないと僕は考えるのです。したがって第五部定理二四でいわれている様態的変状に様態化した神の認識は,絶対に無限な実体を認識するということと異なっていなければならないと僕は考えるのです。
このとき,絶対に無限な実体と関係づけられようと,様態的変状に様態化した神,いい換えれば何かである限りでの神と関係づけられようと,観念が十全adaequatumであるなら真verumであるということは同様でなければならないと僕が考えていることはすでに説明しました。確かにそこには飛躍があるかもしれませんが,その飛躍を正当化させることが,このこと自体の中に含まれていなければならないと僕は考えるのです。ですが,もし人間が神の観念を十全に認識するというときに,様態的変状に様態化した神,つまりある様態に変状した限りでの神を認識するということと,絶対に無限である実体を認識するということは,同じようには等置できないと僕は考えます。この飛躍は許されないと思うのです。
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