スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

I love him④&我

2019-06-18 19:02:39 | 歌・小説
 で自分が何も失わずに,他面からいえば何かを失うことを恐れて生きていたということに気付いた歌い手は,自分自身に問い掛けます。

                                        

     それで生きたことになるの?
     それで生きたことになるの?


 ここでは生きるということの意味の転換があります。何も失わずに生きること,何かを失うことを恐れながら生きることは,本当に生きることなのかと問われているからです。

     長い夢のあと 本当の願いが胸の中 目を醒ます
     I love him I love him I love him I love him
     I love him I love him 返される愛は無くても


 で歌われていたように,何も失わないで生きていくこと,失うことを恐れながら生きていくことは,愛さずに生きていくことでした。けれども本当の願いが愛して生きていくこと,失うことを恐れずに生きていくことだったと歌い手は気付きます。だから生きていくことの意味も転換することになったのです。
 この最後の一行は「MEGAMI」に通じるところがあると僕は感じます。

 「我」というのを概念notioとして考えないというのは,そもそも「我」はどのような概念であるのかということを哲学的に追究しないという意味です。たとえばデカルトRené Descartesは「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」といいました。これに対してカントImmanuel Kantは,子どもはずいぶん後になってから「私は」というのであって,自己意識は自然なものであっても生得的なものではないといって批判しました。ですがここではこのような意味で「我」とは何かは問いません。そもそもスピノザの哲学の特徴のひとつは主体の排除という点にあるのであって,「我」とは何かということ自体にはさほどの意味がないからです。
 デカルトの「我思うゆえに我あり」は三段論法ではなく,思惟している私は確実に存在するという意味でした。この意味において「我」とは思惟している「我」のことです。いい換えればその「我」とは精神mensとしての「我」なのであって,身体corpusとしての「我」ではありません。ではスピノザにとっての「我」はどうであるのかということをここでは問うていくことにします。つまりスピノザにとって「我」とは何かという問いを,「我」とは自分の精神のことだけを意味するのかそれとも自分の身体のことも意味するのかという主旨の問いとして考えるということです。他面からいえば,もしスピノザの哲学に「我」という概念を導入したとすれば,その「我」とは「我」の客観的有esse objectivumすなわち「我」の観念ideaだけを意味するのか,それとも「我」の形相的有esse formaleも意味するのかという主旨の問いとして考えるということです。つまり,客観的な「我」だけが存在するというべきなのか,それとも形相的にも「我」は存在するというべきなのかを探求していきます。
 まず,端的にこの問いを上述のような意味に解する限り,スピノザの哲学において「我」というのは形相的にも存在すると僕は考えます。この考え方の前提となるのは,第二部定理一三により,人間の精神を構成する観念idea, humanam Mentem constitutensの対象ideatumはその人間の身体であるという点にあります。よって形相的有としての「我」はその人間の身体であり,客観的有としての「我」はその人間の精神であると解さなければなりません。つまり形相的有があるとは,身体があるという意味です。

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