スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&方法論的懐疑への批判

2017-04-28 19:15:51 | 将棋
 26日に射楯兵主神社で指された第28期女流王位戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流王位が1勝,伊藤沙恵女流二段が1勝。
 振駒で里見王位の先手で三間飛車。伊藤二段が1筋の位を取って銀冠に囲ったのに対して先手が速攻を仕掛ける将棋になりました。
                                     
 後手が端攻めを含みに角をひとつ上がった局面。ここで先手から☗6五歩☖同歩☗同銀と仕掛けていきました。後手は☖6四歩とは打たずに☖3三桂。ただ,やや手が遅れている感はあるので,歩を打ってしまった方がよかったかもしれません。
 先手は☗7四歩と追撃。ここから☖同銀☗同銀は必然。そこで☖同歩と取ったのですが,それならやはり前に☖6四歩と打っておくべきでした。打たなかったのなら☖同飛と取るべきで,ここの手順が中途半端だったので先手が有利になったようです。
 飛車の横利きが消えたので先手は☗6六飛と寄って金取り。受けるには☖6二歩しかありません。しかし☗6三歩にも☖5四歩と突くほかなく☗6二歩成☖同金☗5一銀☖6一歩☗6二銀成☖同歩と後手としては避けようがない一直線の手順に進み☗6三歩と打たれました。
                                     
 第2図の先手はと金作りか飛車の成り込みが約束されています。後手の1筋の位も小さくはないのでその程度の代償は後手にもあるかもしれませんが,飛車がまったく働いていません。この差が大きくてここでは先手が優勢でしょう。後手としては不出来な一局だったという印象です。
 里見王位が先勝。第二局は来月12日です。

 スピノザが現実的に存在する人間による自己認識は,十全ではなく混乱していると示したことは,デカルトが方法論的懐疑をもって発見したことを自己認識として解する場合には,折り合いを保たせることは不可能です。このことはそもそもデカルトが何のために方法論的懐疑を開始したかということから明らかだといえます。デカルトは疑うことが可能であると思えるものについては何であれ疑ってみて,その結果として疑い得ないものすなわち確実なものを探求しようとしたのでした。したがってその最終結果として得られた,疑っている自分自身は確実に存在するということは,自分自身について混乱した認識であることはできないからです。いい換えればデカルトはこうして認識される自己は十全な認識であると解していたことになります。
 このこと自体をスピノザの哲学の観点から批判することも可能です。スピノザは第二部定理四九備考の中で,ある事柄が確実であることと,その事柄に対する疑惑が存在しないことは別のことであるといっているからです。デカルトは確かに方法論的懐疑においては,疑惑が存在し得ないということを確実であるということと等置していたのであり,そのように解する限り,この部分はデカルトに対する直接的な批判であると解せなくありません。スピノザにとっての確実性というのは,真理の規範は真理veritas自身であるという意味において積極的なものでなければならず,疑惑であれ何であれ,ある観念ideaに対して何らかの思惟作用が存在しないという意味で消極的なものではありません。むしろ第二部定理三五に示されているように,疑惑の欠如というのは,虚偽と誤謬の関係において,虚偽falsitasを誤謬errorに至らしめるような要素を有しているとさえいえるでしょう。
 しかし,このことについてはここではこれ以上は深く追求しません。スピノザが示している自己認識は,それが現実的に存在している人間にとっては,つまり個物の存在における現実的に存在する場合のあり方において,必然的に混乱したものであるという点を注視します。そしてこの観点は,『エチカ』の第五部で,精神mensの永遠性aeternitasを論証する手続きからより明白になります。

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