14日に岐阜市で指された第9期女流王座戦五番勝負第二局。
里見香奈女流王座の先手で西山朋佳女王のノーマル三間飛車。先手が穴熊,後手が高美濃の持久戦になりました。
先手の2八の飛車が寄った局面。銀を受けただけにも見えますが,狙いを秘めた一手でした。ここではすでに先手がうまくやっているようです。
先手の次の狙いは☗4六銀ですが,後手にはそれを防ぐ術がありません。☖4五歩と打っても☗4六歩と合わせられます。よって☖7六歩☗4六銀☖7五銀☗4五銀☖8六銀と攻め合いになりました。
先手はここで飛車を取らずに☗同歩。後手は☖4三飛と逃げました。先手は取った銀を☗3二銀と打ち☖3三飛に☗5四銀とただのところに進出。角取りなので☖8六角と逃げましたが☗6三銀成☖同銀☗4一飛成と金取りで飛車を成り込みました。
角金交換の駒損の上に銀を使ってしまっているのですが,龍が大きい上に玉が固くこれで先手が優勢のようです。実戦は3二の銀も使える形になり,先手の快勝に終わりました。
里見王座が勝って1勝1敗。第三局は27日です。
実際には真の観念idea veraと誤った観念idea falsaは反対概念です。すでに示したように,第一部公理六からして,もし観念されたものideatumと一致しない観念があるのならそれは真の観念の反対概念でなければならず,そういう観念が実際にはあって,それが誤った観念といわれるからです。これを第二部定理三二との関係で示せば次のようになります。
ある人間の精神mens humanaのうちにXの真の観念がある場合,この人間の精神の本性naturaを構成する限りで神DeusのうちにXの真の観念があるといわれます。一方,ある人間の精神のうちにXの誤った観念がある場合には,この人間の精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるのです。どちらの場合も,神のうちにはXの真の観念があるのですが,その観念がある人間の精神とだけ関連付けられる場合には,前者はその人間の精神のうちで真の観念であるのに対し,後者の場合はその人間の精神のうちで誤った観念になります。ですから,もしも観念を神とだけ関連付けて考えるのであれば,真の観念には反対概念がないといういい方も一理あることになるでしょう。ですが観念を人間の精神のうちにあると考えた場合には,真の観念はもちろんのこと,誤った観念の方も神と関連付けるなら真の観念としてあるということができるのですから,誤った観念はあるといういい方が成立することになります。よって真の観念も誤った観念もあるので,このふたつは反対概念として成立しなければなりません。
これが成立するのなら,真理veritasと虚偽falsitasもまた,いかにその規範は真理いい換えれば真の観念のうちに一律にあるのだとしても,やはり反対概念であるといわれなければならないと僕は考えます。なぜなら,スピノザの哲学において真理というのは真の観念の総体のことです。したがって観念を外来的特徴denominatio extrinsecaからみた場合には,真の観念ではない観念の総体,要するに誤った観念の総体というのも概念notioとして把握することができるのであり,そうした総体のことが虚偽といわれるのです。よって,真の観念と誤った観念が反対疑念であるのなら,必然的にnecessario真理と虚偽も反対概念です。個別なのか総体なのかの相違にすぎないからです。
里見香奈女流王座の先手で西山朋佳女王のノーマル三間飛車。先手が穴熊,後手が高美濃の持久戦になりました。
先手の2八の飛車が寄った局面。銀を受けただけにも見えますが,狙いを秘めた一手でした。ここではすでに先手がうまくやっているようです。
先手の次の狙いは☗4六銀ですが,後手にはそれを防ぐ術がありません。☖4五歩と打っても☗4六歩と合わせられます。よって☖7六歩☗4六銀☖7五銀☗4五銀☖8六銀と攻め合いになりました。
先手はここで飛車を取らずに☗同歩。後手は☖4三飛と逃げました。先手は取った銀を☗3二銀と打ち☖3三飛に☗5四銀とただのところに進出。角取りなので☖8六角と逃げましたが☗6三銀成☖同銀☗4一飛成と金取りで飛車を成り込みました。
角金交換の駒損の上に銀を使ってしまっているのですが,龍が大きい上に玉が固くこれで先手が優勢のようです。実戦は3二の銀も使える形になり,先手の快勝に終わりました。
里見王座が勝って1勝1敗。第三局は27日です。
実際には真の観念idea veraと誤った観念idea falsaは反対概念です。すでに示したように,第一部公理六からして,もし観念されたものideatumと一致しない観念があるのならそれは真の観念の反対概念でなければならず,そういう観念が実際にはあって,それが誤った観念といわれるからです。これを第二部定理三二との関係で示せば次のようになります。
ある人間の精神mens humanaのうちにXの真の観念がある場合,この人間の精神の本性naturaを構成する限りで神DeusのうちにXの真の観念があるといわれます。一方,ある人間の精神のうちにXの誤った観念がある場合には,この人間の精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるのです。どちらの場合も,神のうちにはXの真の観念があるのですが,その観念がある人間の精神とだけ関連付けられる場合には,前者はその人間の精神のうちで真の観念であるのに対し,後者の場合はその人間の精神のうちで誤った観念になります。ですから,もしも観念を神とだけ関連付けて考えるのであれば,真の観念には反対概念がないといういい方も一理あることになるでしょう。ですが観念を人間の精神のうちにあると考えた場合には,真の観念はもちろんのこと,誤った観念の方も神と関連付けるなら真の観念としてあるということができるのですから,誤った観念はあるといういい方が成立することになります。よって真の観念も誤った観念もあるので,このふたつは反対概念として成立しなければなりません。
これが成立するのなら,真理veritasと虚偽falsitasもまた,いかにその規範は真理いい換えれば真の観念のうちに一律にあるのだとしても,やはり反対概念であるといわれなければならないと僕は考えます。なぜなら,スピノザの哲学において真理というのは真の観念の総体のことです。したがって観念を外来的特徴denominatio extrinsecaからみた場合には,真の観念ではない観念の総体,要するに誤った観念の総体というのも概念notioとして把握することができるのであり,そうした総体のことが虚偽といわれるのです。よって,真の観念と誤った観念が反対疑念であるのなら,必然的にnecessario真理と虚偽も反対概念です。個別なのか総体なのかの相違にすぎないからです。
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