スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

アイネスフウジン&自由

2013-05-18 19:07:06 | 名馬
 ファストフレンドの父はアイネスフウジン。僕は学生時代に競馬にのめり込んでいくことになったのですが,その時代を駆け抜けた名馬の1頭です。プロポンチススターライトの分枝。
 2歳の9月にデビュー。3戦目で未勝利を脱出するといきなり朝日杯3歳ステークスに出走。これを1分34秒4という当時としては破格のタイムで優勝。この年のJRA賞の最優秀3歳牡馬に選出されました。
 年が明けて2月の共同通信杯4歳ステークスに出走。ここも勝って朝日杯がフロックではなかったことを証明。続いて弥生賞に向ったのですが,ここはメジロライアンの末脚に屈して4着でした。続く皐月賞も2着。このレースを勝ったのは,同じプロポンチス系スターライトの分枝にあたる馬でした。
 この年のダービーは史上最多,196517人の入場者数を記録。その大観衆の目前で1番人気に応え,メジロライアンの追撃を封じて逃げ切りで優勝。レース後,騎乗した中野栄治現調教師を称える中野コールが自然発生したのは,日本競馬史の名シーンのひとつです。
 足元に弱さを抱えていた馬で,これが現役最後の一戦に。この年もJRA賞の最優秀4歳牡馬に選出されています。
 種牡馬としてはライバルだったメジロライアンに大きく水を開けられてしまいました。ファストフレンドが代表産駒。というか,唯一の重賞勝ち馬です。

 論証Demonstratioという観点からいうならば,第一部定理一七から第一部定理一七系二を導出する際に鍵となるのは第一部定義七です。これにより,自身の本性naturaの必然性necessitasによって働きactioに決定されるならばそれは自由libertasといわれ,ほかのものによって作用するように決定されるならばそれは必然的necessariusないしは強制されるといわれることが分かります。第一部定理一七は,神Deusが神の本性の法則によって働くagereものであることを示しています。よって神は自由です。したがって神があるものの原因causaであるといわれる場合,それは自由原因causa liberaであるといわれることになるのです。
 僕はそれに詳しいわけではありませんが,アリストテレスAristotelēsの哲学やスコラ哲学の立場からするなら,そもそも第一部定義七のように自由を定義すること自体が問題視されることになるのでしょう。自由原因というのが,そうした立場においては精神mensの決意decretumに従うような原因であるならば,それは自由というのが精神の決意と不可分な関係にあるからだとしか考えられないですが,スピノザによる自由の定義Definitioは,それに反しているからです。
 なぜスピノザが自由をこのように定義したかについては,僕はこんなふうに考えています。
 スピノザにとって意志voluntasというのは思惟の様態cogitandi modiです。ですからそれを神に帰すことはスピノザにはできませんでした。神は実体substantiaであり,実体は第一部定理一により様態に対して本性の上で「先立つ」からです。そこでスピノザにはふたつの道がありました。ひとつは自由と意志を不可分のものとみなし,自由も神には帰さない道です。そしてもうひとつの道が,自由を意志から切断することによって,自由に関しては神に帰す道です。このうちスピノザは後者の道を選択したということだと思うのです。
 だから僕の考えだけでいえば,第一部定義七というのは,それを神に帰すための自由の定義であるという一面があると思うのです。とくに意志と自由の関係を重視するような立場からするならば,苦肉の策のように思われるかもしれません。
 ただスピノザもそうですし,僕も唯名論の立場にいます。したがって何が自由ということばによって意味されるかには頓着はしません。別のことばで表現されても一向に構わないのです。

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