春にNHKマイルカップを勝ったピンクカメオが参戦。初めてのダートでどんなレースをするかがひとつの注目であった第53回クイーン賞。
ここ2戦,1200メートルに出走していたということもあったでしょうか,メイショウバトラーが少し掛かるような感じでの逃げとなりました。ホワイトメロディー,デアリングハートとJRA勢が前を占めました。メイショウバトラーの武豊騎手は必死に抑えて前半の800メートルは48秒0。ハイペースではあるでしょうが許容範囲とはいえるでしょう。
後方の馬の目立った追い上げがないまま3コーナーを迎えると,ホワイトメロディーがメイショウバトラーに並び掛けていき,デアリングハートとの差が広がりました。4コーナーに入った時点ではどう見てもホワイトメロディーの方が手応えがよく,ここで勝負あり。直線は差を広げる一方で,4馬身の差をつけての快勝となりました。メイショウバトラーは完全に止まってしまい,デアリングハートに再び追い詰められましたが凌いで2着。デアリングハートが3着と,結局は前に行った3頭で決まっています。
優勝したホワイトメロディーは6月の関東オークス以来の勝利で重賞2勝目。父はクロフネ。このレースはハンデ戦で,メイショウバトラーとは実に5.5キロもの斤量差がありましたが,それを補ってあまりある快勝といえ,牝馬のダート路線では一躍トップクラスに入ったといえそうです。今後はこの馬がこの路線の中心的存在となっていくかもしれません。
デアリングハートと5着のピンクカメオは可もなく不可もなくといったレース振り。ただ,これまで戦ってきた相手関係からすれば,やはり芝の方がよいとはいえそうです。
たとえば愛amorは,Xに対する愛とYに対する愛とを比べて,より大きな喜びlaetitiaを感じる方をより愛しているということで比較ができます。そしてこれは愛に限らず,定義された,あるいは『エチカ』には定義されていないような感情affectusの場合にも同様です。そして感情の比較というのはこの観点からのみ可能であって,したがってこの観点からは感情というものがある量的な概念notioであると考えられるのは,やはりスピノザの哲学における感情論のひとつの特徴であろうと僕は考えています。
しかし,さらにスピノザの感情論を厳密に考えていくならば,確かにXに対する愛とYに対する愛は,同じ愛という感情として量的に比較することができるのですが,実際には,このXに対する愛と,Yに対する愛というのは,同じひとりの人間のうちで,別の感情であると考えられなければなりません。このことを示しているのが第三部定理五六です。
「喜び,悲しみ,および欲望には,したがってまたそれらから合成されたすべての感情(例えば心情の動揺のごとき),あるいはそれらから導き出されたすべての感情(例えば愛,憎しみ,希望,恐怖など)には,我々を刺激する対象の種類だけ多くの種類がある」。
この定理Propositioが,端的にいって,対象objectumが異なるだけ種類も異なる感情があるということを示していることは間違いないと思われます。ですから,Xに対する愛と,Yに対する愛は,対象が異なる分だけ異なった種類の感情であるということになります。もちろんこれは,愛だけに限らずすべての感情に妥当であるとされていますから,Xに対する憐憫commiseratioと,Yに対する憐憫もまた,異なった感情であると考えられなければなりません。
ここ2戦,1200メートルに出走していたということもあったでしょうか,メイショウバトラーが少し掛かるような感じでの逃げとなりました。ホワイトメロディー,デアリングハートとJRA勢が前を占めました。メイショウバトラーの武豊騎手は必死に抑えて前半の800メートルは48秒0。ハイペースではあるでしょうが許容範囲とはいえるでしょう。
後方の馬の目立った追い上げがないまま3コーナーを迎えると,ホワイトメロディーがメイショウバトラーに並び掛けていき,デアリングハートとの差が広がりました。4コーナーに入った時点ではどう見てもホワイトメロディーの方が手応えがよく,ここで勝負あり。直線は差を広げる一方で,4馬身の差をつけての快勝となりました。メイショウバトラーは完全に止まってしまい,デアリングハートに再び追い詰められましたが凌いで2着。デアリングハートが3着と,結局は前に行った3頭で決まっています。
優勝したホワイトメロディーは6月の関東オークス以来の勝利で重賞2勝目。父はクロフネ。このレースはハンデ戦で,メイショウバトラーとは実に5.5キロもの斤量差がありましたが,それを補ってあまりある快勝といえ,牝馬のダート路線では一躍トップクラスに入ったといえそうです。今後はこの馬がこの路線の中心的存在となっていくかもしれません。
デアリングハートと5着のピンクカメオは可もなく不可もなくといったレース振り。ただ,これまで戦ってきた相手関係からすれば,やはり芝の方がよいとはいえそうです。
たとえば愛amorは,Xに対する愛とYに対する愛とを比べて,より大きな喜びlaetitiaを感じる方をより愛しているということで比較ができます。そしてこれは愛に限らず,定義された,あるいは『エチカ』には定義されていないような感情affectusの場合にも同様です。そして感情の比較というのはこの観点からのみ可能であって,したがってこの観点からは感情というものがある量的な概念notioであると考えられるのは,やはりスピノザの哲学における感情論のひとつの特徴であろうと僕は考えています。
しかし,さらにスピノザの感情論を厳密に考えていくならば,確かにXに対する愛とYに対する愛は,同じ愛という感情として量的に比較することができるのですが,実際には,このXに対する愛と,Yに対する愛というのは,同じひとりの人間のうちで,別の感情であると考えられなければなりません。このことを示しているのが第三部定理五六です。
「喜び,悲しみ,および欲望には,したがってまたそれらから合成されたすべての感情(例えば心情の動揺のごとき),あるいはそれらから導き出されたすべての感情(例えば愛,憎しみ,希望,恐怖など)には,我々を刺激する対象の種類だけ多くの種類がある」。
この定理Propositioが,端的にいって,対象objectumが異なるだけ種類も異なる感情があるということを示していることは間違いないと思われます。ですから,Xに対する愛と,Yに対する愛は,対象が異なる分だけ異なった種類の感情であるということになります。もちろんこれは,愛だけに限らずすべての感情に妥当であるとされていますから,Xに対する憐憫commiseratioと,Yに対する憐憫もまた,異なった感情であると考えられなければなりません。
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