新年最初の大井開催のメインレースはTCK女王盃です。
逃げ馬であるシスターエレキングがハナ。これをチヨノドラゴンとユキチャンが追っていきました。最初の800メートルは49秒6のミドルペース。ユキチャンは向正面では外から上がってシスターエレキングを交わして先頭に。後続に脚を使わせる作戦だったかもしれませんが,あるいはやや引っ掛かったところもあったでしょうか。
出遅れたために後方からのレースになっていたヤマトマリオンは向正面から漸進。4コーナーでは射程圏内といえる3番手まで接近し,直線では競り合わずに差し切り,優勝となりました。粘ったユキチャンが2着。4馬身離された3着は2頭の争いになりましたが,最後尾から伸びたパノラマビューティがラピッドオレンジを捕えています。
優勝したヤマトマリオンは先月のクイーン賞以来の勝利で重賞4勝目。出遅れても勝ちましたのでここでは1枚上の力があったとみてよく,現状の牝馬重賞路線はこの馬が中心に動いていくということになりそうです。
鞍上は幸英明騎手で管理するのは安達昭夫調教師。どちらもTCK女王盃は初制覇です。
それではこの場合のように,スピノザの哲学において厳密な意味で必然であるといえる事柄について想像するということがあるなら,それはどのようにしてあるということになるのでしょうか。
まず原則的にいうと,僕たちがある事物についてそれを必然と認識するということは,その認識されている事物に関して,それはそれ以外ではあり得ない,こうしたことは事物の存在に関しても本性に関してもいわれ得るわけですが,とにかく人間がそのように事物を必然と認識するこの認識の仕方に応じて,それ以外ではあり得ないというように認識するということを意味します。これはそれ自体で明らかでしょう。そしてこの場合はこのことが形相的な意味においても正しいと仮定されていますから,それは実際にそうであるということになります。
そこでこのような仕方である人間がAを必然的なものと認識したなら,少なくともこの限りにおいては,この人間はAをこのようなものとしてのみ認識し,これ以外の仕方では認識することができません。このことはとくにこのように考えなくても,この認識が第一部公理六により真の観念であるということに注意するだけで十分です。これがAの真の観念である限り,この人間はAに関する真理を知っていることになりますが,もしもこれ以外の仕方でこの人間がAを認識するなら,この人間は自分がAについて必然的だと認識している真理に関して,それに疑惑を抱いている,つまり真理であると確実に知っているものを虚偽であると疑っているということになってしまいますから,それ自体で不条理であるといえるからです。よってこの限りでは,人間は自分が必然的であると知っているものについては,それを想像することがないということになるでしょう。
逃げ馬であるシスターエレキングがハナ。これをチヨノドラゴンとユキチャンが追っていきました。最初の800メートルは49秒6のミドルペース。ユキチャンは向正面では外から上がってシスターエレキングを交わして先頭に。後続に脚を使わせる作戦だったかもしれませんが,あるいはやや引っ掛かったところもあったでしょうか。
出遅れたために後方からのレースになっていたヤマトマリオンは向正面から漸進。4コーナーでは射程圏内といえる3番手まで接近し,直線では競り合わずに差し切り,優勝となりました。粘ったユキチャンが2着。4馬身離された3着は2頭の争いになりましたが,最後尾から伸びたパノラマビューティがラピッドオレンジを捕えています。
優勝したヤマトマリオンは先月のクイーン賞以来の勝利で重賞4勝目。出遅れても勝ちましたのでここでは1枚上の力があったとみてよく,現状の牝馬重賞路線はこの馬が中心に動いていくということになりそうです。
鞍上は幸英明騎手で管理するのは安達昭夫調教師。どちらもTCK女王盃は初制覇です。
それではこの場合のように,スピノザの哲学において厳密な意味で必然であるといえる事柄について想像するということがあるなら,それはどのようにしてあるということになるのでしょうか。
まず原則的にいうと,僕たちがある事物についてそれを必然と認識するということは,その認識されている事物に関して,それはそれ以外ではあり得ない,こうしたことは事物の存在に関しても本性に関してもいわれ得るわけですが,とにかく人間がそのように事物を必然と認識するこの認識の仕方に応じて,それ以外ではあり得ないというように認識するということを意味します。これはそれ自体で明らかでしょう。そしてこの場合はこのことが形相的な意味においても正しいと仮定されていますから,それは実際にそうであるということになります。
そこでこのような仕方である人間がAを必然的なものと認識したなら,少なくともこの限りにおいては,この人間はAをこのようなものとしてのみ認識し,これ以外の仕方では認識することができません。このことはとくにこのように考えなくても,この認識が第一部公理六により真の観念であるということに注意するだけで十分です。これがAの真の観念である限り,この人間はAに関する真理を知っていることになりますが,もしもこれ以外の仕方でこの人間がAを認識するなら,この人間は自分がAについて必然的だと認識している真理に関して,それに疑惑を抱いている,つまり真理であると確実に知っているものを虚偽であると疑っているということになってしまいますから,それ自体で不条理であるといえるからです。よってこの限りでは,人間は自分が必然的であると知っているものについては,それを想像することがないということになるでしょう。
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