The Last ward from Southen Cross to my future

目の前にある林檎は本当に林檎なんだろうか。その林檎は腐っているから林檎だって気づかないだけかもしれない。

自由な思想を認めない宗教こそ、時代にそぐわない

2013-12-26 12:33:12 | Weblog
米国でクリスマスシーズの挨拶について、揉めている。キリスト教以外の宗教を持つ人のためにハッピーホリデーと挨拶するか、従来とおりにメリークリスマスと言うかだ。どちらでもいいんだが、そもそもクリスマスを休日にすることが問題と騒いで、すべての宗教の需要な日を国家休日とする方が現実的なのかもしれない。ただし、クリスマスの意味には、家族や友人が集まる日というのがある。日本で言うなら正月に相当する。
この正月についても、旧正月とし、中国の習慣に合わせるのが好ましいという意見もある。確かに日本国の一部地域では旧正月、旧盆で行事を行う。靖国神社への政治家参拝についても、宗教的理由で反対する集団や組織、近隣諸国がある。

これらはグローバル化する上で既に想定されている問題点なのだが、未だに騒ぐのは何故なんだろうか。

既存の価値観や習慣は、法的に定めたところで人の心は即変われない。文句を言う側も自分たちの主張ばかりで、既存の価値観や習慣を持つ人への配慮もない。言うなれば、日本という国が一番得意な対応方法しかないのだが。白か黒の思考しかできない人たちには日本式思考はできない。
曖昧な部分を処理する能力は、日本独自の文化であり、習慣であり、古来からの平安を維持する知恵でもある。こういった国だから異文化、異民族を受け入れてきた。人種差別が最も少ないのは日本だ。土着民族への侵略というが、まともな思想がない時代に自分たちと違う民族への排除はどの地域でも見られた。これは防衛本能として当たり前のことだ。むしろ、近代において、哲学や思想を確立してもなお、民族や物理的身体の違いで差別する人たちの方がおかしい。日本国でどの宗教であってもそれなりの弾圧は時の権力によってあった。カルトと呼ばれる宗教まで今では弾圧されることもなく信仰の自由という憲法の下で存在している。ただし、カルト宗教による毒ガステロも存在した。誰も毒ガスを作って首都圏に攻撃など想像すらできなかった。自由とは、こういったリスクも含むからこそ、監視する法整備は必須だ。

さて、故人を忍ぶ墓参りは宗教というだけで制限される点をどう考えるのだろうか。宗教が違う故人を墓参りできないものか、と疑問がある。
企業やある組織の故人を会社や組織全体で忍ぶことは宗教の押しつけになるのだろうか。創業者を忍ぶ行事は宗教なのだろうか。折しも今日は毛沢東氏の誕生日ということで、宗教を認めない中国共産党でさえ、慰霊に幹部が詣でている。一方、日本国首相が靖国神社に不戦の誓い、本年も無事過ごせた感謝のために詣でた。しかし、日本国首相は日本国内かも批判される。日本という国は、おかしな国だ。そもそも参拝とは、心の持ち方だ。近隣諸国との武力摩擦による緊張状態であっても戦争に至らなかった点について反省や今後の方針という心の整理において、誰も批判できないはず。例え、日本国首相であろうが、日本憲法下において思想や宗教の自由はある。戦争賛美というのなら、安保条約など蹴って、日本独自の軍備を準備できる一年だったはずだ。法律を守るからこそ、法律を作ったり、改正する姿勢のどこに暴走という状況があるのか、メディアは確証を示して批判するべきだろう。また、外国、特に同盟国であろうが、日本国憲法下による信教や思想の自由に対して、批判するのは如何なものか。これこそ内政干渉ではないのか。

積極的平和外交とは何なのか。まさに今回示したのは歴代首相の中でも立派だと自分は思う。過去の戦争による内外の被害については忘れていては先に進めない。しかし、ある事実を尾ひれやそれこそ仮面まで被せ、事実から遠く離れた内容とする日本国メディア、思想団体や外国の主張を受け入れる必要はない。日本国と戦争してなくなった家族がいる外国人とあって、自分は素直に心から詫びる。これが日本人だ。しかし、外国では詫びるのは非がある場合のみで、その人の心情に同意するような表現をする。戦後、日本国が外国へ日本文化を広めてきた現在でも、こういった日本文化はまだまだ理解されない。まして、近隣諸国であっても理解できる人の数は少ない。政治的問題以前に、異文化をどう処理するのか、という大きな壁が未だ日本国には存在する。何故、日本文化の漫画、アニメやゲームばかり広めて、こういった日本文化の土台になる日本人の価値観を広めないのかと問いたい。茶道の利休についての映画でさえ、フィクションという宣伝すらしないで批評や宣伝をしたおかげで、茶道の持つ本来の意味が誤って伝わる点もどうかと思う。神社という宗教がどういった宗教なのか、それこそ税金で雇われている公務員は各国言語で説明する資料を作らないのは何故なのか。自然とともに生きてきた日本人。ハイテクだとか最先端技術の今でも大手町にある首塚が祭られている。また、靖国神社こそ、本来は静かに御霊が休める場所でなくてはならない。慰霊のためには専門の施設が必要だと自分も考えるようになった。ただし、神社という日本語とshirinという英語はまったく同じではない点も心に止めてほしい。だからこそ、神社という存在を理解してもらうために広報する必要がある。同時に現在では戦犯は存在しない。こういった点も法務大臣に説明して頂きたい。

伊藤博文という偉人が何をしたのか。それを暗殺した朝鮮人がどういった人だったのかなど、日本人にはどうでもいい。むしろ、テロをどう防ぐのかという発想しかない。同時に汚名をきせられた日本人の事実像こそ、正しい歴史をしる上では必須だと日本人は朝鮮半島の人々へ説得する必要がある。国とはそれぞれが立場を背負うから、共通点を探り、相容れない部分をどう処理するのが双方の利益なるのか、これこそが外交の第一歩ではないだろうか。しかし、こういった話し合いすら拒否する国となれば、日本国としては手も足も出せないのだから、さっさと放置して別な相手を探すしかない。水を飲まない馬に水をどう飲ませるのか、これが戦略だ。同盟国が理解を示せないのなら、同盟国としての効果は最少でしかなくなる。最大の利益を手にするためには、同盟国や友好国への相互理解を深める必要がある。しかし、こういった戦術が手に取るようにわかる情報を公開するのはいかがなものか。だからこそ、秘密保護法が必須だったはず。すでに情報戦は始まっているのだが、日本国メディアは外国の情報戦に従うばかりで、不確かな情報を日本国民はおろか、世界にまで公表している実態をどう考えればいいのだろうか。表現の自由で虚構が許されるのは小説家と政治家と語った人気小説家がいた。まさに報道とは、確かな情報で正しく伝えるのが使命であり、虚構や誤読さえる記事に金を払う価値はない。いっそ、報道ではなくゴシップ新聞というカテゴリーでもいいくらいだ。
宗教や思想におけるメディアの取り扱いにこそ、法的整備と処罰(業務取り消し措置)も必要だ。表現の自由、読者の知る権利は、読者の安全と読者が築いた国の憲法下に存在するのを忘れて頂きたくない。

日本の政治家に願いたいのは、これ以上、靖国神社を巻き込まないで静かにそっとして頂きたい。外国人による落書き、放尿や放火という行為に対して、どれだけ心が痛むのか。それこそ、こういった行為が簡単にできるような警備体制というのもどうかと思う。昨今の神社、仏閣への外国人による犯罪についても、日本人の心が脅かされていると考えて対処願いたい。韓国の靖国放火未遂の犯人は何故さっさと強制送還されないのか、と問いたい。裁判もいいが、罰金もなく、刑も執行猶予となれば意味があるのだろうか。
悪いことをやったという自覚はないだろう。これば一般神社、仏閣のように居住地近郊、山林近郊での放火となれば、災害になり得る犯罪なのだが。
文化として変化は差蹴らないとしても、現実的に災害につながる犯罪に国籍は関係ない。むしろ、外国籍の場合、テロにつながる確率は高くなる。
思想や宗教の自由を守るためにも、また公共施設への損害は税金など公金への損害を減らすためにも、警備への条件を緩和して頂きたい。監視カメラだけではなく、実行犯への逮捕、拘束に対して、警察以外にもある程度認める必要もある。これができないのなら、準警察としての許可制(ただし、法的試験などでライセンス取得を必須とする)にするなど、緩和も必要だろう。それとも警察にこういった監視業務も含めて実行させる手もある。どうちらにしても治安維持のためには、今から整備して行かないとオリンピックまでに時間もない。警察、自衛隊との共同業務が可能な組織も必要になるはず。安全とは何か、治安を維持するためにはどういった組織が必要か、縦割り組織ではない改革は必須だおるか。
コメント
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