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できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

「自分らしく生きるため」に「読むこと・書くこと」を学ぶ

2009-12-04 12:29:37 | 受験・学校

だいたい半月くらいでしょうか、しばらくこちらのブログの更新が途切れました。ほんとうに申し訳ないです。

理由ははっきりしていて、もうひとつの日記帳ブログのほうにも書きましたが、私の勤務校での卒論ゼミ対応のためです。12月1日が毎年、卒論提出期限なので、その追い込みの学生対応に追われていて、こちらのブログの更新にまで手が回りませんでした。

ただ、その卒論ゼミの学生たちへの対応をするなかで、またあらためてひとつ、思い浮かんだことがあります。それは、「自分らしく生きるため」に「読むこと・書くこと」を学ぶ必要性ということです。

これはある意味で、大学を含む高等教育の営みにも、今後の学校外での成人学習や識字教室などの活動にもつながるでしょうし、学校における人権教育の実践にも重なるでしょうし、解放教育を含むさまざまな人権教育の「運動」の担い手養成の営みにもつながると思います。

あらためていうまでもなく、ユネスコの学習権宣言(1985年)には、「学習権は人間の生存にとって不可欠な手段である」と書いてあります。また、「学習権とは、読み書きの権利であり、問い続け、深く考える権利であり、想像し、創造する権利であり、自分自身の世界を読み取り、歴史をつづる権利であり、あらゆる教育の手だてを得る権利であり、個人的・集団的力量を発達させる権利である」と、このユネスコの学習権宣言ではうたわれています。

でも、その「学習権」は今、子どもや若者たちに、あるいは、おとなたちに、どのような形で保障されているのでしょうか。「学習権」が「人間の生存にとって不可欠な手段」だというのであれば、その権利保障が損なわれるというのは、人間の生存が脅かされるということでもあるはずです。

たとえば、最近、私のゼミでは、自分の中学生や高校生時代のことをふりかえりながら、最近の10代の若者の性意識の問題を扱った卒論を書く学生が増えてきました。もちろん、扱っているテーマには、たとえば妊娠中絶や避妊のこと、性行為感染症のこと、援助交際のこと、同性愛のこと等々、いろいろあります。

ですが、これら性意識の問題を扱った卒論を書く学生に共通して言えることは、「自分やまわりの人の命にかかわるような大きな問題であるにもかかわらず、こうした性の問題について、きちんとした情報を得る機会も、おとなと話し合う機会もないまま、彼ら・彼女らは10代をすごしてきた」ということ。また、こうしたテーマを扱う学生のなかには、「自分自身や他者に対する信頼感、肯定感をじっくりと育む機会が得られないまま、生きづらさを抱えながらも、とにかくその場をやりすごして、なんとか大学までたどり着いた」という学生もいます。

こうした学生たちが、大学で他の教員が展開しているジェンダー論やセクシュアリティ論、差別論などの授業を聞いたり、それに関する文献を読んだりする。あるいは、私がやっているような子どもの人権論関連の講義やゼミを受け、「いじめ」問題や「家庭の子育て(虐待問題を含む)」などに関する文献を読んだりする。そのなかで、「あのとき、自分の抱えていた課題は、そういうことだったのか」ということに気づき、その課題をあらためて整理する作業をするわけです。その結果、その学生なりに何かを見つけ、それを卒論という形にまとめようとする動きが生じてくるわけです。

こうした学生たちの作業は、まさに、大学入学までに抑圧されたり、否定されつづけてきた自分自身を、もう一度、大学入学後に学んだ諸学問領域の成果を使いながら、肯定的に受け止め、この社会のなかに位置づけなおす作業といってもいいでしょう。それはまさに大学にたどりつくための受験のための学習とは別に、あらためて「自分らしく生きるため」に「読むこと・書くこと」を「学びなおす」プロセスといってもいいかもしれません。

これはもちろん、あくまでも個人的な意見でしかないし、自分の大学での体験の範囲内でしかあてはまらないことかもしれません。

ですが、本気で「抑圧からの解放」だとか、「自己肯定感を育む」ということを今後の人権教育の関係者が言うのであれば、たとえば大学であれ、成人学習の場であれ、学校であれ、それぞれの学習の場で本を読むこと・文章を書くことが、その学習の場に集う人たちがこの社会のなかで「自分らしく生きていく」ということとが、どこで、どのようにつながるのか。そこをきちんと見つめて、何らかの説明ができるようにしておく必要があると思うのです。

少なくとも私は、自分のゼミに来て卒論や修論を書こうという学生たちが、卒業・修了後、大学外の社会で生きていくときに、まずは「うつむかずに生きていくこと」ができるようなものの見方・考え方がここで得られるように、今の(あるいは、その時々の)自分に何ができるかを考えたい。また、そのことに何らかの示唆が得られるような研究活動がしたい。そんなことをこの半月ほどの間、卒論ゼミの学生たちとつきあうなかで感じました。

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