昨日の続きで、またひとつ、書いておきたいことがあります。
私の父は、前にも書いたかもしれませんが、15歳で中学校を卒業してすぐに北海道からこの関西に出てきて、飲食業の世界で働き始めました。その後も飲食業を中心に働いたのですが、何度か失業、転職などを余儀なくされました。でも、60過ぎるまでどうにかこうにか働く先を見つけて、その後は年金等の収入を頼りに暮らしてきました。(もっとも、父が60を過ぎてからは、母がその裏で家計を支えるためにパートで働いてきたわけですが・・・・)
さて、不登校問題にかかわる人たちがよく言うように、「学校に行かなくとも生きていける」とか、「学校に行かない人生もある」ということは、私は両親を見ればよくわかります。父も母も、それこそ学歴的には恵まれた人生を生きているわけではありませんから。
ただ、「学校に行かなくとも生きていける」とか「学校に行かない人生もある」けれども、「それがその人にとっていい人生かどうか」については、まさに「本人しだい」というしかありません。また、「学校に行かない人生」には、「学校に行く人生」とはまた異なったそれ相応の苦しみやしんどさがつきまとうことも、父や母を見ていれば、よくわかります。
そして今、思うのは、父や母の世代が少なくとも中学校以後の「学校に行かなくとも生きていける」人生が送れたのは、「それでもなんとか誰かとつながり、働く場所を得て、けっして豊かではないけれども、なんとか自力で食っていけるようになる道があった」ためではないのか、と思うのです。その分、「社会のふところが広かった」ということでもあるのでしょうけど。
けっして豊かではないし、転職や失業の不安をかかえ、生活をしていくのもカツカツで苦しかったけど、でも、そのなかでも誰かとつながり、伴侶を得て家庭をつくり、自分なりに働いて生きていく道があったということ。そのことが、少なくとも父の生きてきた時代、特に若い頃にはあったんですよね。でも、そういう道が今、この日本社会のなかで、どういう形で存在しているのだろうか? フリーターやニートといった若者の就労問題が突きつけているのも、結局、こうした問題なのではないでしょうか?
それを思うと、不登校の問題を考えるときに、本気で「学校に行かなくとも生きていけるよ」と子どもや若者に語ろうと思えば、「それでもなんとか誰かとつながり、働く場所を得て、けっして豊かではないけれども、なんとか自力で食っていけるようになる道」を、どういう形でこの社会のなかに創りだして行くのかということと、あわせて語る必要があるのではないのか。「この社会のなかで、学校に行かない道を生きる多様な子どもや若者をうけとめるような、そんなふところをどれだけ、どうやって広げるのか?」ということについて、突き詰めて考えていく必要があるのではないか。そんなことを私は強く感じます。
その一方で、近代学校(教育)批判や脱学校論など、いろんな議論が教育学(教育論)の世界でこの何年か繰り広げられてきましたし、私の身近なところにも、この議論に深くかかわってきた人々が何人かいます。ですが、その議論が「学校(教育)を問う」というレベルにとどまっている限り、このところ、私は「もう、その手の議論だけでは、やっていけないよ」と思うようになってしまいました。
特に、それが近代学校(教育)について語ることば(言説)や、それを支えている諸思想などへの批判的検討のレベルにとどまるのであれば、なおさら、そういう実感を抱くようになりました。かなりうがった言い方になりますが、その手の検討や議論というのは、大学などにいる研究者の間では重要なことかもしれないけれども、「それこそ、父や母が生きてきたような人生とか、あるいは、今、まさに学校とどうつきあうかで悩んでいる子どもや若者、その家族にとって、どんな意味があるんだろう?」と思うことが、このところ、増えてきたんですよね。時々、何か、ものすごく大きな「遠回り」だとか、「袋小路」に入った話をしているような気がするんですよね。この手の検討や議論の成果に触れるたび、「もっとストレートに、この当事者たちの暮らす場にかかわり、当事者に問い、たずねながら、自分なりに何か考えていく道があるんじゃないか?」と思ってしまうのです。
だから、「あらためて今、子どもや若者にとって、この社会のなかで『おとな』になっていくということは、どういうことなのか?」という次元から、たとえば「働く」とか「食っていく(文字通りの「食事」のことも含めて)」ということ、あるいは「家族」や「恋愛」「友だち」等々、人々の「生活」のありようの問題を見つめていく作業をていねいにしなければ、これからの学校や教育、あるいは学校の外の学びの場のありようなどについて、きちんとした議論はできないのではないか。そんな思いがより、強くなってきています。それはある意味で、学校や教育について考えるときに、自分が関心を寄せる人々の暮らす「生活」の場に立ち戻って、繰り返し繰り返し、問いを立て直すという作業になるということでしょうか。
ただ・・・・。これはなかなか、言うはたやすく、行うのはなかなか、難しいことです。また、こういうことを書いている私自身も、それがどこまでできているのか、わからない面があります。今後も引き続き、このテーマについて、書き綴ってみます。
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