ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

住めば都よ!

2016年03月14日 | 今日この頃

        「ヒマラヤユキノシタ」     今年は小さな3本だけ     (16―3―10)




今日は一日中小雨が降っていましたよ。

3月12日(土) パーマ屋さんに行ってきました。一度カットに行きましたが、掛
けるのは半年振りかしら。このごろは毛の伸びも遅くなって、以前なら2ヶ月に
一度はカットに行っていましたが、今は3ヶ月に一度で済むでいます。何事もス
ロースローのお年です。


自分に関係ある「地名」って考えたことあります? 私の場合、まず「尼崎」そし
て「屋久島」生まれ育った「神戸」は3番目。

何時頃からこんな順番になったのか? 50歳過ぎからでしょうか? 結婚して
初めて「尼崎」に来たときは、どうにかして「神戸」に帰りたかった。姑と同居だ
ったから遠慮がありました。「本を開いて、読んでいるふり」をしながら、頭の中
は「神戸に行きたい、帰りたい」の気持ちを抑える日々でした。別に「尼崎がきら
い!」というのではないのですよ。ただただ、「神戸」が恋しいのです。

それが何時のころからか「立花」と言うのは「尼崎」という駅名を嫌っているので
はなく「JR立花駅」近くに住んでいるから、こう呼ぶのです。50歳過ぎた頃「神
戸での生活と立花での生活が同じぐらいになったな~」と思うようになり、次々と
「立花が長なったな~?」と思い、子供を通じてお友達もでき、「住みやすいな~」
と思い、「神戸」から帰る時の後ろ髪を惹かれるような気持ちともおさらばで来ま
した。

今では人生の1/3を神戸、2/3が立花で生きてきたことになります。結婚して
から、主人が、単身赴任で東京に8年ほど行ったときも、私はここに住んでいまし
た。他で暮らしたことがないのですが、尼崎=立花は住みやすい、良い町ですよ。
世間様の噂のように柄が悪い! 住みたくない!とは感じとことはありませんよ。

神戸=元町で生まれ、戦争で家を焼かれるまで住んでいました。集団疎開から
帰ったときは「平野=神戸の北」に帰り、母が亡くなってから、また遠縁を頼って、
元町に戻りました。だからそれまでの人生では「元町」が一番長いのです。結婚
して立花に来ました。

立花にきて、自分が主婦という立場になって、どういう生活をしていたのか、覚え
ていないのです。料理は料理学校で習っただけですから今思えば下手でした。
でも姑は文句も言わずに食べてくれました、感謝しています。だんだん腕も上が
って、親戚では『料理上手』といわれるようになりました。と言っても、平凡な『家
庭料理』ですよ。で「料理するのが好き」と思うようになったのは、つい最近なん
ですよね。「一寸遅いな~!」

「屋久島」は4回行ったきりです。でも本籍は屋久島なんです。叔母(姑の妹)が
屋久島に住んでいましたから、屋久島の産物が、送られて来ましたから、何とな
く、身近に感じていました。

初めて『屋久島のサツマイモ』を切ったときはビックリでした。黄色のはずが、紫
色なんですもの、今でこそ「鹿児島の紫芋」って、知られるようになりましたが、
60年前の私にすれば、驚き以外の何物でもありません。「腐ってる!」と思い
ましたよ。

「ふくれがし」「くさもち」「あくまき」等々見たこともないお菓子でした。私はみな好
きでした。と言うのが、屋久島の叔母の手作りのそれらの品は絶品でしたね。初
めにおいしい味を食べたから好きになったのだと思います。どれもこれも、癖の
ある味ですね。特に「あくまき」は匂いが嫌かも。鹿児島物産展で見かけて買っ
てみたのですが、叔母の本物と違うような気がして、買わなくなりました。

食べ物の魅力は私をとりこにしました。テレビ欄で「鹿児島」「屋久島」という字
を見ると、すかさず、ビデオに取りますね。住んだことはないけれど「鹿児島県
熊毛郡屋久島町」は私の故郷になっています。

こうして書いていますと、もう一度屋久島に行きたい気持ちになりました。
元気なうちに! もう一度!

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