我が家の「侘助」です 寒いのにがんばって咲いています
早いものですね。今年も12日が過ぎました。お正月が過ぎ、えべっさんが過
ぎ(関東にはないんですね)成人式がすみ次は「阪神淡路大震災15年目」と
いうことですね。
今年は全員が平成生まれの20歳だそうですね。そして、中学では震災を知っ
ている最後の子供たちが卒業するそうですね。そして「震災による心のケアー
」をしていた先生もいなくなるそうです。
しかしある人は言います。震災後に生まれて、何も知らない子でも、育てる親
が知っていれば影響を受けるって…。
それって悪いことなんでしょうか? 私はそうは思えないんです。震災の話を
身近に知って育つことは精神上(心のケアーが必要なほど)悪いことですか?
人それぞれで、経験談を話すときにも、マイナス面ばかり「今の不幸は震災の
せいで、不幸な人生になってしまった」と話す人と、「震災を経験したことは不
幸だったけれど、人の心の温かさが身にしみて、私もがんばったよ」とその後
の人生をプラス思考で考える人があると思うのです。
前者の親に育てられれば、子供も不幸かもしれませんが、実は子供ってとて
も強いというか柔軟な心を持っていると思うんです。だから自分でいろいろ考
えると思うのです。あんまり「かわいそうかわいそう」で育てると、本当に自分
では何もできない、考えられない可哀そうな子に育ってしまうと思うのです。
震災で肉親や周りになくした人へのアンケートでは「いまだ傷がいえない」と
答えた方が半数はいたというきじを読んだとき、何のためにそんなアンケート
をとるのだろうと思いました。5年前とまったく同じアンケート項目だったそう
ですが…。
肉親を失えば、何年経とうと「心の傷」は癒えるはずがないではありませんか。
まして子供を失った場合「死んだ子の年を数える」事をしても良いではありま
せんか、いくらアンケートをとっても数値が下がることはありえません。アンケー
トの回答率が少ないのが何よりの答えです。つまらないアンケートで心を乱さ
ないであげてください。
追悼は強制されるものではなく、自然と心が寄り合うものだと思うのです。
「震災を風化させてはならない!」と大上段に構えなくとも、月日が経ち日ご
ろは思い出すことが少なくなったとしても、その日が近づくと自然と思いを馳
せるものと思うのです。
震災ではありませんが、JRの尼崎の脱線事故で私は知人を失いました。ちょ
っと声を掛け合うというくらいの軽いお付き合いの方でしたが、事故で亡くな
ったということで、私の心から消えない方になりました。
先日宝塚に行きましたときも、現場を通ります。私は現場通過の時には必ず
黙祷を捧げます。私よりもっともっと親しかった方の心の中から消えてしまって
いるかも知れませんが、ちょっとしたご縁だった私の心からは消えないと思い
ます。
追悼するということはそういうことではないですか、自然に寄せる心だと思う
のです。亡き人を偲ぶということは現実では絶たれた人生を生かし続けること
だと思っているのです。
(1280回)
名前は「???」今年は見事に花をつけたのですが 例年はもっと早い時期に咲いていたような?
上:2010年1月7日 左:12月3日 右:12月16日