「ツユクサ」 何でもない花なのに なぜか捨てがたい (13-7-10)
今もまだ福島の東電では、危険な状態は続いています。「原発を採用した東電
のために…」というニュアンスの報道があるたびに、私は、必至になって、命が
けで回復を心がけている人がいるに違いない現実になんとむごい言葉だろうと
思っています。其の人たちになんと心無い言葉だろうと、心を痛めています。
地震では原発は予定通り、停止したのです。やられたのは「津波」です。全て
最悪を予測せよというのは無理な話です。自然災害というのは人の力ではどう
しようもないものです。
しかし「福島の原発事故」で、1人の死者も、原爆症患者も出ていないのでし
ょう?こんなありがたいことはないですね。
移転させられて、ふるさとに帰れない人たちはお気の毒だと思います。でもこ
れは事故ではなく、政府の方針でしょう?
この本を是非お読みいただきたいと思います。
死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日 門田隆将
ず~っと前に申し込んでおりましたが、吉田さんが亡くなってから、手元に届
きました。
政府からの無茶な申し出でにも、現場と状況を熟知している吉田さんは、上か
らの意見に逆らって、「放水」を続けました。
若い人や、出入りの会社の方の命を第一に考えました。そして、現場から撤退
させました。
福島第一原発は、1号機はアメリカのゼネラル・エレクトリック社(GE)が製造、
それを東芝と日立に技術移転し、2号機はGEと東芝との合作、3号機東芝、4
号機は日立と、「純国産」で誕生した。
福島第一原発は年間11月頃から翌年の3月まで、農閑期には必ず家を空け、
何処かに出稼ぎに行っていた父親達は、造成が進み、発電所が出来上がって
からは、関連の仕事を請け負い、冬場も家族と一緒に過ごせるようになった。
発電所の造成工事を境に、さまざまなものが代わって言ったように思える。
津波が発電所を襲った時、地下で仕事をしていた人は「死」上の階で仕事をし
ていた人は「生」と運命を分けた。
現地の記者は、本能的に写真を撮った。その世界は「昔の写真のようなセピア
色」ほとんどは泥の中に水没し、圧倒的な水の力を示していた。
この度の事故で、私達が始めて耳にした言葉「ベント」これは命がけの大変な
仕事のようです。だから若い人にはさせず、中堅の人手をわずらせようとしま
した。しかし、志願する若い人がかなりいて、上司は驚いたそうです。
やはり菅総理の現地入りは、全ての復旧作業に遅れの影響を出したようです。
菅総理は「命がけで努力している人」に対して「命がけでやれ!」といったそ
うです。その言葉が東電の必死で修復をしている人に、不信感を抱かせたよう
です。
現場を周知の人とはいえ、給電室が、水没し、建物全体が真っ暗の中を、懐中
電灯だけを頼りの作業はたいへんだったようです。
行方不明者40名と聞いた時の吉田さんは「俺は生きながらえるわけにはいか
ん」と思ったそうです。しかし幸いなことに実際はは全員怪我人はいても、
行方不明者は「0」となった。
吉田は格納庫爆発という最悪の事態に備えて、協力企業の人たちに、帰って
もらおうと思った。「皆さん、今やっている作業に直接、かかわりのない方は、
一旦お帰りいただいて結構です。本当に今までありがとうございました」廊下
に出た吉田は大声でそう叫んだ。廊下には大勢の人が身を横たえている。ほ
とんどが泥のように眠っている。…それは”野戦病院”そのものだった。吉田
の言葉に驚き、最後が近づいている事を誰もが肝に銘じた。
菅総理の声がマイクを通して響きわったった。「撤退したら、東電は100%つぶ
れる。逃げてみたって逃げ切れないぞ!」逃げる?誰に対して言っているんだ。
一体誰が逃げるというのか。この菅の言葉から、福島第一原発の空気が変わ
った。(なにいってるんだ、こいつ)。今まで生と死を掛けてプラントと格闘してき
た人間は、云うまでもなく吉田と共に最後まで現場に残る事を心に決めていた。
その面々に「逃げてみたって逃げきれないぞ!」と一国の総理が言い放ったの
である。
「60になる幹部連中は現地に行って死んだっていいんだ! 俺も行く。社長
も会長も覚悟を決めてやれ!」テレビ会議を通じて、演説を聴く人間の間にざ
わめきが広がる。総理として、常軌を逸した言い方だ。
菅はこのときの事をこう語った。「私は、総理大臣としていっているのであって、
別に福島の現場の人に対して言っているわけではない。あそこで言ったのは、
あくまで、日本が事故収束を諦めたらダメだ、他国に任せることは出来ない、
つまり、日本人が逃げ切れないことなんです。誰かが悪いなんて、私は言って
いない」と菅総理はそう振り返る。
東電の吉田初め幹部達は「若い人には復興でやるべき事をやってほしい」と思
うので、危険な場所からは立ち退いて欲しいと切望した。
上にも書きました。たった二人の死亡者は22歳の若者だったそうです。点検
中だから、何時もは閉まっている場所も開放されていた、そこに勢いよく津波
が入り込んで、津波の大きさから想像すれば、ど~っと来た強い一波で即死で
はなかったかといわれています。平成元年生まれといいますから、私の孫と同
い年です。遺体が中々見つからなかったために、心無い人は「逃げた」といっ
たそうですが、ご家族は「あの子に限って逃げるなんてありえない、お仕事を
放棄するなんて!」と思われたそうです。点検中のタンクから水死体となって
発見されたのですから、危険を顧みず「故郷のため、日本国の為に、命を掛け
てがんばってくださった」ということになります。
吉田さんは最後の「格納容器が爆発すと、放射能が飛散し、放射能レベルが
近づけないものになってしまう。他の原子炉の冷却も、当然継続できなくなりま
す。つまり、人間がもうアプローチできなくなる。福島第二原発にも近づけなく
なりますから、全部でどれだけの炉心が融けるかという最大を考えれば、第一
と第二で計十基の原子炉がやられますから、単純に考えても、チェルノブイリ
X10という数字が出ます。私は、その事態を考えながら、あの中で対応してい
ました。だからこそ、現場の部下達の凄さを思うのです。それを防ぐために、
最後まで部下達が突入を繰り返してくれたこと、そして、命を顧みずに駆けつ
けてくれた自衛隊を初め、沢山の人たちの勇気をたたえたいのです。本当に、
福島の人に大変な被害をもたらしてしまったあの事故で、それでもさらに
最悪の事態を回避するために奮闘してくれたひとたちに、私は単なる感謝とい
う言葉では表せないものを感じています」