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ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

ドキュメンタリー映画「ひめゆり」

2008年08月11日 | 映画の話

         ノイバラ (大井戸公園 08-5-19)


待っていた映画「ひめゆり」を見に十三(じゅうそう)に行ってきました。一応、主人にも声を掛けたのですが、行かないというので1人で行ってきました。

一日に一回(14:30)1週間だけの上映です。キャパ120ぐらいの小さな会館に60人ぐらいでしたでしょうか。「盆休み以外は《靖国》程込まないでしょう」と言う事でした。此処で上映するのは2度目なんです。今日いただいた予定表によると、19:30からの1週間が追加になったようです。

泣くのを覚悟で行きました。しかし一滴も涙は出ませんでした。泣いている暇がないというか、次から次ぎえと場面が展開していきます。ひめゆり生存者の人たちも言っていました「友が死んでいっても、一滴の涙も出なかった。人間本当に悲しいと涙もでないのです」と…。2時間30分があっという間に過ぎていきました。

「ひめゆり」は3部作になっています。

監督の柴田昌平産は制作意図をこう述べています。
『この映画を作り始めたのは、今から14年前に遡ります。人づてに「ひめゆりの人たちが体験をきちんと記録したがっている」と言う話を聞きました。「なぜ?」最初、私はびっくりしました。というのも、ひめゆりについての映画やテレビ番組は何度も制作されていたので、今更何故なのだろう、と素朴に思ったのでした。
しかし実際にお会いしてみると、私がわかったつもりになっていたのはあまりに表面的なことに過ぎないという事に愕然としました。何よりも、生存者お一人お一人が実に個性的だということに驚きました。戦争体験から受ける印象は悲惨です。しかし、ひめゆりの生存者からはしっかりと生きている強さを感じます。其れは彼女達の根っからの明るさ、やさしさ、そして生命への信頼感があるからです。この映画は、今を生きる私達に多くの示唆と希望を与えるものと信じます』

ひめゆり学徒生存者 木村つるさんは
『この映画は、生き残った者の真実の叫びであり、亡くなった友への心の奥底からの鎮魂の思いを綴ったものです。生存者はほとんどが80歳を越えました。いつかは消えてなくなります。でも何年たってもこの映画は、ひめゆりの記憶を後世に確かに語り継ぐ大事な財産になるだろうと信じています』語り部は22名の人たちです。未だに語りたくない人たちもおられるようです。

冊子の表紙にこう書いてあります。
1945年6月23日 沖縄戦が終わった…日 
「忘れたいこと」を話してくれてありがとう

演出家の宮本亜門さんは言います
『私の一生のお願いです。「ひめゆり」を観てください。出来れば世界中の人に観てほしいのです。次の世代に伝えて欲しい、現実を感じて欲しい。心がここに詰まっているからです』

私もそう思います。1人でも多くの人が見てくださればと思います。夫々の地方の小さな映画館、市民団体の後援などで上映されています。お目に止まれば是非足を運んでください。

ひめゆりは人手の足りない病院に看護の手助けとして、動員された沖縄師範学校女子部と沖縄県立高等女学校の女生徒のことです。現場は弾の飛び交う戦場です。自分達も命がけで負傷兵を看護するのです。ひめゆりと同じ年頃の今の中高生に見せたいです。そして平和の世の中のありがたさを感じてもらいたい。

生存者の1人が言いました『機銃掃射でやられた友人は言います「助けて!」皆生きたいのです。お国のため、天皇陛下のため死を覚悟でも、実際は生きたいのです。捕虜になるなと教えられ、捕虜になるくらいなら自決せよと教えられました。いのち軽視の教育です。間違っています。友は自決する前にお母さんの顔を見たいといいました。家族を思い「故郷」を歌いました』

亡くなった友の写真の前で(ひめゆり学徒隊は222人、123人が死亡)こう言った人も居ます『彼女達はこんなに若いままです、もう私の孫の世代です。平和を知らないで死んだ彼女達に、平和の時代の土産話をいっぱい持って行こうと思っています』

ヒロシマの子ども達も原爆生存者に言いました。
「原爆を生き抜いてくれたからこそ、私達が居る」
命は助かっても、原爆症の為に苦しみながら生きている人たちにこれ以上の嬉しい言葉があるだろうか。



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YASUKUNI (2)

2008年05月16日 | 映画の話
        バラ ジョージ・バーンズ (荒牧バラ園 08-5-14)
              このバラも始めてみました
           このような斑入りの椿が我家にはある

唱歌の学校の春休みが終わり、1ヶ月ぶりに今日から始まった。6月末に生徒主宰のコンサートがあるが、私達の組は暗譜と決まっている。私は9分通り暗譜していた。だのに、1ヶ月の休みですっかり忘れてしまった。明日から又、暗譜しなおさなければならない。今日もごとうさんの新鮮野菜のご相伴に預かった。

主人に「靖国」を見た感想を述べた。「丁度、WILL(月刊誌6月号)にそのことについて書いているから読んだら?」と新幹線で読んだらしい雑誌を差し出した。昨日はあえて読まなかった。先に読んでしまうと純粋な自分の感情が語れなくなると判断したから、もし私の意見が間違っていたとしても、私の受け取り方であり、大きな誤解があったなら訂正すれば良い事だと思ったからだ。

映画「靖国」への助成金を問題提起した稲田朋美衆議院議員(弁護士)の文である。「靖国」を制作したのは「有限会社龍影」と言う中国中央テレビの日本総代理として設立。監督の李氏は取締役である。会社の所有者は詳らかではない。「龍影」は平成十八年度芸術文化振興基金助成金公布要望書を提出、振興会は750万円の助成金を受けた。「龍影」は当時申請していた構成内容や、出演者の変更を行った。助成金は「日本映画」に対するものであるが「龍影」は構成員全てが中国人で、日本映画とは言いがたい。

稲田氏は週間誌に「反日映画「靖国」は「日本の助成金」で作られたと書かれているが、実際に自分達の目で確かめようとして「試写」の申し込みをした。

私が昨日、『もし日本人の監督なら記録として残さない場面があった』と記したのは「南京大虐殺」にまつわるとされる真偽不明の写真だと言う。確かに日本刀での処刑は見た目が「日本人はなんと野蛮な」と思われるだろう。何しろ身体と、首が離れると言う処刑方法だから。同じ死でもピストル等飛び道具によるものとの違いは歴然としている。

その中で、日本刀による「百人切り競争」と言う言葉は、聞いた事があるが、実際には、人間の油で100人は切れないとも聞いていた。

昭和天皇の靖国神社ご参拝のお姿が映し出された。乗馬姿の昭和天皇から傘をさしてのご参拝姿などが映し出された。其れは「靖国神社は国民を死ねば神になると騙して、侵略戦争に赴かせ、天皇の為に死ぬ国民を作るための装置である」と言うメッセージを伝えていると言う。

何度と無く雨の日の参拝のお姿を見て、其れが、一日の映像であるのかどうかは知らないが、見た感じでは数回分だと感じて、今は8月15日は晴天の特異日なのに、昭和天皇のお若い時は、雨が多かったのかな~と思っただけで、上記のメッセージは私には伝わらなかった。何しろ当時小さい子供だった私は戦後の不自由な生活は覚えていても、戦争については何も知らないのである。

私が不思議に思ったのは、台湾からの遺族が、靖国に英霊として祭られている御霊を台湾に持ち帰りたい、許可されないが諦める事は無い、何度でも来ると言い切っていた姿が心を打った。持ち帰りたいとは、靖国に祭られている人の名簿から名を消して欲しいと言うことだろうか?希望を叶えられない理由は何だろう?私的には魂は帰りたければ、故郷に帰っていると思うのだが、名簿に記載されていれば帰れないものなのか?彼女の憎悪を内に秘めた能面の様な顔こそが、一番心に残っている。

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YASUKUNI

2008年05月15日 | 映画の話
        バラ ウインドミル (荒牧バラ園 08-5-14)
          始めて見た品種 一重で5~6センチ
         バラとは思えなかったが 一番心引かれた

「靖国」を見に行ってきた。主人に「行く?」と聞くと「行かない」と言ったので、今日旅から帰ってくるまでに行っておこうと思った。

十三(じゅうそう)に着いて、地図を見ながら信号待ちをしていると、「XX町って知りませんか?」と訊ねられた「知りませんけど、<靖国>では?」感で聞いてみた。「そうなんですよ!」「私も行きますからご一緒しましょうか?」「地獄に仏です」なんと大げさな、それにこんな時にそんな言葉使う?何て考えながらも、ご一緒した。

30分前に着いたと言うのに、もう半分は埋まっている。椅子が96席、と補助椅子が12個あった。それでもたりずに立ち見の人も居た。立ったまま2時間はきついだろうと思う。帰りには次の会の人が並んでいた。160人までらしい。という事は40人ほどの立ち見が出ると言うことだ。こんなに大勢の人が見に来られるとは思っていなかった。

切符を買う為に並んでいる時、目の涼しげなスッタフが居たので、思い切って聞いてみた。「あの~、<ひめゆり>の再上映の予定は無いでしょうか?」「日にちは決まっていませんが、今年の夏にする予定です」あんなに見たかった「ひめゆり」今夏には見れそうです。

何故「靖国」を見る気になったのか?監督は中国人なのに何故日本国政府が、数百万円の援助をこの映画製作の為にしたのか?又、刀鍛冶師の訴えもあった。それらの事を自分の目で確かめたかった。

30分待ちの時、お隣の席の人が、パンフレットの「大村益次郎」の銅像を指差しながら、話しかけてきた。「戦争中は靖国神社のそばに住んでいたんですよ。この銅像はありましたが、終戦前に取り払われたんです。きっと鉄砲の玉になったんでしょう」「アメリカの飛行機、B29はとても早く、高く飛べたんです。日本の飛行機は追いつけなかったんです」「その飛行機は富士山を目標に飛んできたんです。そして関東に爆弾を落として、富士山に向かって逃げ、南下していったんです。富士山は高いからそういう使い方をされていたんです」初めて聞きました。

娘さん?の介添えで来ておられ、歩くのもやっとと言う方も居ました。でも案外若い方も多かったです。予想外でした。

この映画ほど、人によって見方の違う映画も無いかもしれない。刀鍛冶師の方が、自分の意に反しているので、自分の場面を使わないでと言う事でしたが、彼の日本刀(にっぽんとう)の製作場面の間に8月15日終戦記念日の靖国神社の風景を織り込んであるのでカットは出来ないと思いました。

起立して国歌「君が代」を歌っている日本人に対して、1人の中国人の青年が、其れを阻止しようとする。「何故?貴方は日本で、日本人が日本の国歌を歌う事を駄目と言うの?」憎いと言う感情より、悲しいと言う気持ちの高まりが、私の涙を誘った。「中国に帰れ!」と何処までも追いかける人、其れを執拗に追うカメラ、私は静に泣いた。

終戦の日の靖国神社では色んな事があったんだ。何も知らなかったんだと「目から鱗」の2時間でした。

何故「援助金」を出したのか解らなかったけれど、記録映画として残しておいていいものだとは思った。もし日本人の監督なら記録として残さないだろう場面もあった。私は上映禁止しないで、多くの人に見てもらえばいいと思った。その価値があるか如何かも人それぞれの感じ方だろうけれど。
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母べえ

2008年02月04日 | 映画の話
           箱 庭(大阪城公園)
      「わっ!箱庭!」って叫んでしまいました
         健在だったんですね この技

今年の年賀状驚きましたね。吉永小百合さんから来ましたね。意表を突かれて「ええっ?」「そんなわけ無いや!」読みますと「母べえ」の宣伝でしたね。凄い宣伝ですね。どのくらいの宣伝費を使ったんでしょうね。それでも入れば、ペイできるんですね。

何時もの通り、1番10時を見に行きました。宣伝効果でしょうね。朝一にしては沢山入っていましたし、2番は行列が出来ていましたよ。

先日「徹子の部屋」に山田洋次監督が出ておられまして「母べえ」のお話をしておられましたよ。3年前から映画化が決まっていたそうです。監督は藤沢周平作品、時代劇3部作を先に撮られたそうです。吉永さんには初め一度断られたそうですね。理由は「年だから・・・」子供が小学生の母親という事は40歳までという事になります。だからと言う事です。「吉永さんはお若いし、昔の親は老けていましたから、大丈夫です」と引き受けてもらえたそうです。

原作は野上照代:黒澤明監督のスクリプターを長年続けた人で、幼い頃の家族の思い出を綴ったノンフィックション。23年前に書かれた小品を山田洋次監督の手で今世に出された。撮影は1年間掛けている。「徹子の部屋」で監督が「時代考証もしっかりやっています。まだまだ当時の方が生きておられますから下手な事は出来ません」とおっしゃっていました。

第58回ベルリン国際映画祭コンペティション(競争)部門に出品が決まったそうです。

当時の私は妹の「てるべえ(作者)」より3歳ばかり年下ですから、一年生から4年生(終戦)位までのお話ですから、私自身余り良く覚えていないのです。その上私は集団疎開経験者と言う少数派に属しますしね。家は空襲で焼けましたが、空襲もB29も知らないわけです。

家族は父母と姉妹の4人家族。「父べえ」が治安維持法違反(戦争に反対する事は、国に逆らう事)で摑まってから「母べえ」の苦労が始まる。私も特高(特別高等警察:思想犯を主に捕らえる部署)の恐ろしさは聞いていました。そうか、こんなものだったのかと知りました。

私の母も女手一つで私を育てたわけですから、口では言えない苦労があったと思います。「母は強し」と言う言葉がありますが、確かに直接的に子を守るのは母です。しかし周りにその母を支える人たちがいるから、子を守れるのだという事も事実です。

「親が子を、子が親を殺す」今の世の中は切羽詰った親又は子を支える周りの手が無い事を示しているのだろうか。自分の殻の中に閉じこもって心を開かない、人を寄せ付けない。もし誰かに心を開いていれば、本心をさらけ出していれば、最悪の事態は避けられたのではないかと思っています。尊属殺人なんて、悲しい事を見聞きする事の無い世になって欲しい。

でも所々は私の記憶にもある場面でした。唱歌も出てきますしね。山田洋次監督の映画ですから、さらりとしていて、くどさはありません。

たとえ戦争中とは言え、男女の愛は静かに燃えるものなんだな~と改めて知りました。今の人たちから見れば、歯がゆい、奥に秘められたものですが、それだけにその愛の深さ強さも感じます。

監督も若い世代の人にも見てもらいたいと言っておられますが、私も息子達に見てもらいたいと思いました。「母べえ」の家族は世間的には特別の部類に属すると思いますが、私達が生まれ育った時代を知ってもらえると思いますから。

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always 続・3丁目の夕日

2007年11月05日 | 映画の話
            キバナコスモス
           (武庫川河川敷)
          キバナコスモスだけは
        一つのコーナーに咲いていた

今日は久し振りに主人も一緒に映画を見に神戸に行った。何時もは大阪か伊丹に行くのだが、両方とも時間が早いので、一番遅いミント神戸にした。初めて行く映画館だった。

初めてのビルだけに、映画館に行く入り口が何処にあるかもわからない。前を行く人たちが、映画を見に行く感じだったのでついていった。エスカレーターを上っていく、何だか入り口があるような感じがして私達も付いていく。
だけどなかった。丁度、警備員の人が居たので「映画館に行きたいのですが、何処から行けばいいのですか?」「1階まで下りて頂くとエレベーターがありますので、9階に行ってください」踵を返すと、私達が後を付いていった人たちも下りエスカレーターに乗るところだった。

人の後を付いて行って違う場所に行って仕舞った事が以前にもあった。マイカーで白浜に行った帰り、如何した事か道を間違った事に気が付いた。今のようにカー・ナビがあるわけではなく、地図を頼りの走行である。一応北に進んでみようかと走っていると、目の前に「神戸ナンバー」が来た。「この車の後に付いて行けば帰れるで~」とばかりに、必死でその車の後を走った。所がその車は「和歌山駅」で人を下ろすと引き返してしまったのである。車に乗り初めで、「神戸ナンバー」だから神戸の住民だとは限らないという事を知らなかった為の失敗です。

今流行の8館のシネコンである。今日入ったのはその中でも最大308席、縦長で通路が両側にしかないのが一寸不便かなと言う気がした。予告編がもう始まっている時間に着いたため、場内は暗く、気も急いていたので周りを余り見なかったので、映画が終わって、場内が明るくなった時驚いた。何時も一番の上映時間と言えば、20人、多くて40人ぐらいなのに、308席9割は入っていたと思う。

二年前の「3丁目の夕日」は日本アカデミー賞、他数多くの賞を貰った。「続」を望む声に推されて作られたそうだ。この「続」の時代は昭和34年春だそうだ。
昭和34年春といえば私達が結婚した時期である。東京タワーは33年に建ったのですね。結婚後だと思っていました。懐かしい、厳つい「こだま」も出てきました。初めて「こだま」に乗ったのは親子4人で名古屋まででした。我家の経済では運賃が高かったのですが、子供たちを乗せてやりたくて「名古屋」まで行きました。

お話としては何でもない、何処にでもある状態なんですが、今と違って、五月蝿い時もあるが、何時も助け合うご町内の話でもある。町内ばかりではない、主人公の鈴木家にも親戚の女の子を預かるという助け合いがある。裕福に育った、気位の高いその女子は初めは貧しい鈴木家の全てを嫌うが、母親を早くになくしたその子を鈴木家のお母さんが優しく躾けていく。人の愛に包まれて生活する内に素直ないい子になる。これも一つの主な話かしら。

終わって配役などが流れる時、主題歌パンプの「花の名」が流れる。監督がパンプのファンで熱烈に頼み込んで書いてもらったそうだ。その歌の中のフレーズに「会いたい人がいる 待ってる人がいる」と言う言葉がありました。とても心に響いた言葉だったのです。其れもそのはず、私は気付きませんでしたが、ポスターのコピーにも使われているそうです。

特別にいう事もない話なのですが、良い映画でした。
                          (550回)
                        
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ミス・ポター

2007年10月01日 | 映画の話
             シャガ
         (大谷美術館 07-5-4)
      我家にもあったのですが消えました

福田さんの所信表明演説がありました。後半になると音声がダウンしてきました。これは老化現象です。唱歌の学校でも疲れてくると、トーンダウンします。先生に注意を受けても自分達はトーンダウンしているとは思えないのです。テープを聴いて初めて気が付きました。テープは無常にもその差を捕らえていました。

福田さんもご自分では気付いておられないでしょう。聞いている私にはその差が良く解りました。小泉さんも安倍さんも若かった。だからこんな事はなかった。「あ~今度の総理はお年なんだ~」と、激務大丈夫?と心配になる。

伊丹に見に行きました。先日はギリギリに行った為、予告編の時間に着いてしまい、足元も暗く座席を探すのに手間取ったので余裕を持って行きました。今日は映画の日(毎月1日)と連休に運動会のあった学校が多かったのでしょう、その代替休日で親子連れが長蛇の列です。ハリー・ポッターを見に来ているようです。

前回の予告編で見て「ミス・ポター」見たいと思っていました。ピーターラビットの絵本作家の自伝なんです。ピーターラビットのキャラクター製品は知っていますが、絵本は読んだことがないんです。111カ国に翻訳され、1億の出版部数だそうです。100年経った今でも延々とベストセラーを続けている作品です。

戸田奈津子さんの訳なんです。面白い記事を見つけました。戸田さんが審査委員長で、ミス・ポターの「字幕翻訳コンクール」が行われているんです。「本編映像から、お好きなシーンを3シーン選んで、あなたのオリジナル日本語字幕を創ってください」と言うのです。中学生以下、高校生、大学生・一般の部門に分かれていて、賞は「イギリスまでの往復券(ペアー)+奨学金10万円」だそうです10月の20日に発表があるそうです。

女主人公ビアトリクス・ポターの半生記なんです。ミス・ポターの人生には売り出すまでの長い時間があったり、出版と恋の出会いがあったり、又婚約後その相手の突然死、その8年後二度目の恋で結婚とか色々の浮き沈みはあるのですが、作品としては、静と言う感じでした。

100年前のイギリスでは上流社会の令嬢が結婚もせずに働くなんて(絵本作りに没頭)考えられない事でした。ポターは自分の絵を本にすることを望みましたが、中々出版しようと言う会社が現れない。やっと現れた会社の経営者の3男(ノーマン)がポターの係りとなる。会社は成功するとは思っていない。ただ3男の初仕事として与えた。

上流社会では何処に行くにも、何をするにも乳母だと思うのですが、召使が付いているのです。乳母も人間、フッと居眠りをしてしまいます、その時を待っていたようにノーマンにプロポーズされ「イエス」と言う。親の反対を押し切って結婚しようとする娘、親は娘の決心が硬いことを知り、妥協案を出す。3ヶ月離れ離れで逢わないで居ても心が変わらなければ認めると・・・。2人の心は変わらないが、相手が病を得て死んでしまう。

ロンドンを離れてイングランドの湖水地方に住む事になる。ポターは売りに出された周りの土地も買い進め、産業革命の影響で自然破壊が急速に進むのを惜しむナチュラリストである。その後1905年非営利法人「ザ・ナショナル・トラスト」に寄付した。ポターのお陰で美しい自然は現在も守られている。

ピーターラビットが時々画面の中で動いて可愛いし、美しい自然の映像の美しい映画でした。
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天国で君に会えたら

2007年08月25日 | 映画の話
              百日紅
           (公園 07-8-21)
     珊瑚紫豆と仲良く並んで咲いていました

「今日も暑い!」庭仕事は溜まるばかり、でもこの暑さで庭仕事は無理と自分を甘やかす。それなら「映画に行こう!」今日から上映される「天国で君に逢えたら」を見に行った。

二年前の2月、38歳で亡くなった、8年間ワールドカップに出続けた世界的プロウインドウサーファーの実話。この話は知っていた。何も知らずテレビで放映されているのを見た。その頃、もう体を動かす事は出来ないけれど、命の限りを知っていた時だが、ブログが人気になっていた。その頃私はブログと言うものを良くは知らず読んだ事がない。

それから「如何しておられるか」と気にはなっていた。だから二年前に亡くなったことも気に留めていたし、映画化の話も知っていた。是非見に行きたいと思っても居た。

「徹子の部屋」に大沢たかおさんが出ていて、この主人公である「飯島夏樹」役を演じた事を知ったとき、尚見に行かねばと思った。「徹子の部屋」に出ていた大沢さんは髪がロングだった。「夏樹」役の時は短い。女性は髪の形で雰囲気ががらりと変わるのは知っていたが、男性も変わる事を知った。初め同一人物とは思えなくて私の勘違いかと思ったくらいだ。

「飯島夏樹」さんは関東で生まれ。大学4年の時に知り合った寛子さんと二人三脚で世界を渡り歩く。芽の出ない貧乏暮らしが長かったようだ。優勝して、初めて大金を手にして寛子さんと式を挙げる。それからは子供4人に恵まれ、グアムに家族のために大きな家も買い、事業も起し、順調だったレース生活も、癌に蝕まれて挫折する。

病む事について、若いがために「何故?」と言う気持ちは強かっただろう。「死への恐怖」もあっただろう、「うつ病」「パニック障害」を起こし生活が荒れる。
寛子さんの「貴方は1人じゃないよ」と言う献身と、ウィンドウサーフィンを教えてくれた先輩の「風のままに・・・」と言うアドバイスで、現実をしっかりと受け止める。私がテレビで見たのは、その嵐を乗り越え「自然に逆らわない生き方」を始めた頃のようだ。

寛子さんに問う「ボクの命は?」「冬が越せない」「それなら冬の無いハワイに行こう」と延命治療を断り、「ハワイ経由天国行き」と書いたエア・チケットを持って、家族でハワイに移住する。その発想が前向きで、ユーモアがあって凄いと思う。こうゆう人に育てた親御さんはどんな人か?知りたいと思ったが、自身の両親については一言も触れていない。弘子さんが父親から道で置き去りにされるという、不幸な生い立ちゆえ、我が事には触れない、夏樹さんの寛子さんへの愛だろうか・・・。

調べている内に「飯島夏樹さんのブログ」が継続されて居る事を知った。寛子さんが後を書き続けているようだ。その中に弘樹さんの母親の事が出てきた。お元気のようである。母親としての立場から、どんなに悲しい思いをされただろうと思う。
今は寛子さんやお孫さんたちが夏休みには日本に帰ってきている。優しい気持ちで接してあげて呉れたらと思います。

「パパは心の中に居る」と言う飯島寛子さんの「ハワイ子育て奮闘記」が本になっているようです。今は1人で4人の子育ては大変でしょうが、一番年上が女の子だけに、もう直ぐ片腕になってくれるでしょう。子供が多いだけに成人すれば心丈夫だと思います。これからは寛子さんのブログを読みながら、外孫のような感じで4人の成長を見ていきたいと思っています。





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クィーン

2007年05月29日 | 映画の話
        アジサイ 紅山(くれないやま)
         一番早く咲いたアジサイです
        今年は沢山 綺麗に咲きました

ミスユニバース日本代表の森理世さんがミスユニバースに選ばれました。児島さんが選ばれて、30数年ぶりだそうです。そのときに「八頭身」と言う言葉が流行りましたね。森さんは職業はダンサーです。4歳の時からダンスを初め、中学卒業後ダンス留学でカナダの高校に進んだんです。カナだってダンスの盛んな所なんでしょうか?審査員に子供の頃の思い出を聞かれて「ダンスで忍耐と積極性を学びました」との答えです。この入賞は一生懸命努力し、頑張ったご褒美でしょう。久し振りに良いお話です。

          ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

頂いたお茶のお礼のバッグを買いに大阪に行きました。主人は「そんなに毎年バッグばかりいらんの違うか?」と言います。そんなことありません。バッグといってもファッションバッグですから、気軽にお出かけに使っていただけるし、幾らあっても邪魔にならないはず。とても気に入ったのがありまして、私も欲しかったのですが、もう一つは無いと言うので私は諦めることにしました。

初めに映画館に行きました。券売り場ですが、映画人気が戻って来ていると思うのですよ、20人ぐらい並んでいましたから。並んでいますと、おじいさんが私に近づいて来て、切符の形を手でするものですから「切符を買うのに並んでいるのです」と答えました。気がつくと、其のおじいさん私の後ろにちゃっかりと居るんです。後ろに30人は並んでいました。呆れてしまったのですが、ものを言うのも嫌だったので、知らん顔しましたが、すっこいおじいさんが居るものです。

「会場は暗くなっておりますのでお気をつけください」と言われ、中に入りますと真っ暗です。一番後ろの席を希望しましたので、それは解っているのですが、座席番号が全く見えません。「どうしよう」と佇んでいましたら、端にいたおばあさんが「私のこの座席は22番ですよ」と教えてくれました。「私は20番ですから、一つ開けてお隣ですね。有難うございます」真っ暗な中、座ることが出来ました。

ずるいおじいさんと親切なおばあさんに出合ったお話です。

この映画のクイーンを演じたヘレン・ミレンさんはこの映画で、今年度アカデミー賞の最優秀主演女優賞を受賞した人で、クイーンがこの映画をご覧になって満足されたと言う作品です。本当に目元がそっくりでした。

私がエリザベス女王を知ったのは、戴冠式に臨まれる時、少し太めのお体をダイエットでほっそりとされたと言う記事だったと思います。まだ20代半ばだったと思います。とても美しい方でしたが、妹のマーガレット皇女は其の上を行く美人でした。

元皇太子妃ダイアナのパリでの不慮の死、それ以後の一家のお話なんです。あの時、コメントを出されなかった女王に対して国民は怒り、不満をぶつけた。フィリップ殿下も皇太后もマーガレット皇女も、ダイアナさんをお荷物と思っていて、口にされる。しかし女王は耐える。一度だけ一人っきりのとき女王は泣く。ヘレンさんの演技力か、ひしひしと心が伝わってくる。

ヘレンさんは言う:クイーンを人間として敬うようになった。彼女がこの国の女王であるからではない。生来の落ち着いた、自制心のある、慎み深さと言う美点を考える時、彼女がロンドンの下町の高校の教師であったとしても尊敬に値する人物になるだろう。

面白かったのはブレア首相が女王の本質を知って女王派に変わっていく所である。



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近松座歌舞伎

2007年05月25日 | 映画の話
             アマリリス
      これで2色目 もう一色はまだ咲かない
    葉の数が少ないから 今年は駄目かも知れない

一日中雨でした。じゃじゃぶりの中アルカイックホール・オクトへ。「坂田藤十郎襲名記念 第18回近松座歌舞伎公演」の昼の部と夜の部の間に「坂田藤十郎と尼崎市長が『近松』を語る」と言う特別企画があったので行きました。

舞台には屏風がたてられ、前に緋毛氈を掛けた床机が3台。まず元NHKのアナウンサーの山川氏がコーディネーターとして左(下手)に、中央に藤十郎氏、そして右手(上手)に白井市長が腰掛けました。

お二人が『近松』を語ると言うことでしたが、ま~、藤十郎さんがしゃべるはしゃべる、専門分野ですからね~。白井市長も寝ずに『近松』を勉強されたそうですが藤十郎さんの絶え間い語りに、折角のお勉強も発表の場を頂けなかったようです。
でもお勉強をされた事は何時か何かの役に立つことがあると思います。

場所を今度はアルカイック・ホールに移しました。此処で一番年若い友人、やすこさんと合流。お席がお隣です。驚いたことに三つお隣のお席に白井市長が座っておられました。少しだけお話をしました。

鏡獅子:何時もの連獅子を楽しみにしていたが無かった。藤十郎の孫、壱太郎(かずたろう)が小姓弥生と獅子の精を舞う。まだ高校生、獅子の鬘が彼には大きそう、鬘に負けているな~と思った。何故?解ったわ。昔の役者さんは顔立ちが立派だった、壱太郎君は今はやりの小顔なんですよ。だから獅子のたてがみに顔が埋没している感じを受けた。今はまだスリムだけれど、お父さんのようにふくよかになれば、たてがみが似合うようなになるはず。高校生と言えば遊びたい盛り、ようがんばってはる。

次は口上といっても坂田藤十郎し独り舞台。御礼の口上と、海外の歌舞伎公演も絶賛の内に終わった事、孫の壱太郎の事をよろしくお願いしますとの口上。祖父と言わず、『父の父から』と言う言い方だったのがシャレていて心に残った。

牡丹に纏わる蝶の精に小さな男の子が2人踊っていた。可愛いのなんのって、一生懸命努めていた。長い踊りを良く覚えていると感心した。ただチラシにも名前が無い。と言う事は藤十郎家の一族ではないということだろうか。もし直系ならどんなに幼くとも芸名はありチラシにも載せるはず。プログラムを買わなかったのだが、買っていれば誰のお子か解ったのだろうか。

☆やすこさんが調べて知らせてくださった。歌舞伎関係以外の家庭のお子さんだと。それで思い出した。知人のお孫さんも京都歌舞伎座にかむろ役で出た事を。踊りを習っている女の子でした。

もう一つ、「家内は(だったかな~、女房はだったかな~。扇千景参議院議長)は引退しましたが、私は引退いたしません」と言い切って、拍手喝采を受けておられた。

廓文章。いよいよ二枚目としての藤十郎さんの出番である。二枚目の印の白塗りした籐十郎さんはさっきの語りの時とは別人で、初めて歌舞伎を見たというやすこさんが盛んに感心していた。机の上にポンとのったり、後ろに反るイナバウアーはひやひやしてみていましたが、さすが鍛えておられる、お年を感じさせない、するりとやってのけられる。

この頃歌舞伎は歌舞伎座以外の公演も多い。一番変わっていると思ったのは「黒子」がいないのである。勿論、手助けする人はいるのだが、「黒子」:作務衣の様な動き易い黒の上下を着て、黒頭巾から顔に薄い布を垂らして顔を見せないで、影のように動く。今日の手伝いは袴をつけて、顔は出している、そして堂々と舞台の上を動く。どちらが良いのでしょうか。私は「黒子に徹する」と言う言葉があるように、「黒子」の方がいいかな~。今はどの舞台もそうなんだろうか?

帰りは雨も上がり、やすこさんと歩いて帰ってきた。
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俺は、君のためにこそ死ににいく

2007年05月17日 | 映画の話
           大井戸公園のバラ
         房咲き、私のお気に入り
       一寸バラには見えないけど、垣バラ

「俺は、君のためにこそ死ににいく」長~い題名の映画を見に行った。題名に区切り点「、」が入っているのもめずらしい。館内はシニア専門館の様相。2~3人若い男性が混じっていたが、彼らは何を思って見に来て、何を感じて帰ったのだろうか。

知覧には一度行ったことがある。武家屋敷には行ったが、特攻平和会館にはまだ足を運んでいない。鹿児島には何度も行っているが、市内からは少し離れているので機会を逸している。今度じっくりと行ってみたい。

戦争中、私は小学校の低学年であり集団疎開をしていて、家は焼かれたが空襲を知らない。だから戦争と言うものを戦後の子供と同じくらい何も知らない。

本が好きとはいえ、戦争ものは読んでいないし関心も無かった。しかし年を重ねると、今の全てが「戦争と言う過去があって、其の上に積みあがったものである」と言う事をつくづく考えるようになった。

特攻隊と言えば、二十歳前後が中心で、当時の状況下においては、ただ体当たりして相手をやっつける為の器械となって、帰りの燃料を積まずに飛んでいく。希望は無く死あるのみと私は感じたが、此処で題名が生きてくるのであろうか「俺は、君のためにこそ死ににいく」と・・・。

話の説明:昭和19年太平洋戦争で圧倒的劣勢を強いられていた日本軍は戦闘機に250キロの爆弾を搭載して敵艦に体当たりする特別攻撃隊を編成、本当なら未来を担うべき若者たちの尊い命が失われていった。

当時のリアリティーを再現する為、元隊員たちによる軍事教練を100名以上のキャストに行い、陸軍戦闘機・隼を、当時の設計図を取り寄せ5000万円を投じて実寸大で再現した。3ヶ月に及ぶ長期撮影を敢行。

特攻隊の基地のあった、鹿児島の知覧で軍の指定食堂をしていた、鳥濱トメさんは家族と離れて出撃を待つ若者達に母親のように慕われていた。トメさんも自分の大切な着物を米や卵に変えて、出撃前の若者に食べさせた。

あたら若い命を散らせた者も、戦後は「犬死」と言われ不憫だが、生き残ったものも「特攻くずれ」と呼ばれ蔑まれたらしい。戦争とはかくも酷いものなのだ。特攻隊の生き残りと言えば、今は亡き俳優の西村こうさんと元裏千家の家元・千玄室さんも特攻隊の仲間だったと聞いたことがある。この映画ご覧になったろうか。

主人は特攻隊の年齢に近いし、当時、軍の学生であった経験の持ち主だから、この頃の年齢差は大きいし、男と女の差もあると思う。今日の映画を見ても私とは感じ方も違うだろう。

鳥濱トメさんを中心に彼女の思い出を語ると言う形を取っている。トメさんに扮する岸恵子さんは原作者である石原慎太郎さんのたっての希望の実現だった。

徹子の部屋に出ていた岸さんはこの映画にも触れていた。「お話を頂いてから、2年間色々考えました。其の頃から『靖国神社の問題』が取りざたされていましたし、台詞の中に『靖国で会おう』と言う言葉がありますし・・・」結果的には引き受けられたのです。

同日飛び立っ者は「今度は靖国のサクラの木の元で会おう、そして揃って靖国にいこう」と言う台詞があるが、おなじ編隊の者はそういう話もあったのだろうか。

最後の場面は満開のサクラの中、トメさんを車椅子にのせ、生き残った編隊長?は「皆に会いたい」という。彼に会いに笑顔で駆けてくる英霊、幻が消えると、其処には無数に飛び交う蛍が居る。サクラの時期に飛び交う蛍に疑問を感じながらも、美しさに見入ってしまった。

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