あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

生き殘りし者 ・ 我々はなぜ蹶起したのか 1

2020年12月24日 15時06分10秒 | 後に殘りし者

我々はなぜ決起したのか
池田俊彦 対談 赤塚金次郎
 
司会・編集部+河野司


二・二六事件の蹶起将校たちは、ロンドン海軍軍縮条約の締結や真崎教育総監の更迭が、
神聖であるべき天皇の統帥権を干犯したと糾弾し、
それが本来あるべき日本の在り方と著しく乖離かいりしていることを非難した。
蹶起は、
日本の進むべき道を誤らせている天皇の側近を誅殺し、正しい道に戻すのだという意図から行われた。
しかし、蹶起の本当の目的は
そうした観念的イデオロギー的な論争に武力で決着をつけるという単純なものではなかった。
背景に農村の深刻な不況があった。
単に不況にとどまらず、膨大な小作農の存在が恒常的な農村の貧困を生んでいた。
蹶起は そうした日本の社会構造の改造を迫るものであった。
その理解なしには、二・二六事件の歴史的意義を理解することはできない。
「 新品少尉 」 ながら 蹶起に自らの決断で参加し、
終身禁固刑を受けた二人の対談は、
そうした二・二六事件の精神と歴史的意味をあますところなく、語っている。

蹶起への参加を決意した時
・・・・蹶起に参加することを決意した直接の事情はどういうことだったのでしょうか。
池田
直接には林 ( 八郎・事件後銃殺刑 ) から 三日前に、今週中にやるという話を聞かされたからです。
林とは一聯隊の同期生です。
林が蹶起のことを打ち明けてくれたんです。
胸のうちを打ち明けたんです。
一大事をこの私に話したのです。
その林が 「 いよいよ今晩だ。明日未明にやる 」 という言葉を聞いて、
最終的に蹶起に参加する覚悟をしたのです。
その夜、栗原中尉のいる機関銃隊に行くと、栗原中尉は銃隊の入口に立っていた。
栗原中尉は、私が参加の意志を伝えると、
「 俺は貴公は誘わなかったのだ。一人息子だから 」
と 言う。
「 是非、参加します 」
と きっぱり言ったら
「 ありがとう 」
と 言って部屋の中に入れてくれたんです。
赤塚
前日の二十五日、初年兵の射撃訓練のため、私は戸山射場にいたのですが、
午後一時頃でしたか、伝令が
「 急用があるから、至急帰隊されたし 」
という 安藤週番司令の命令を持ってまいりました。
急遽、帰隊し、司令室に入ると、
野中大尉、常盤、清原 両少尉がおりまして、
その席上で安藤さんから
昭和維新のため蹶起すること、そして攻撃目標と兵力、部署などを告げられました。
その規模のおおきいのに驚きましたが、もはや大勢が決まったことを知り、
参加を決意したわけです。
・・・・そこに至るまでの経過というのは?
池田
林から具体的な話を聞くまでは、ああいう形で昭和維新に参加するということは当時考えていなかった。
なぜ、ああいう具合になったのか、具体的には私は知らないんです。
ただ、昭和維新ということについては、士官学校時代から いろいろ考えてはいたのです。
その話し相手が林だった。
林も十年くらいは政治や経済をじっくり勉強してからやるんだという、穏健派でした。
 本間雅晴大佐
本間 ( 雅晴 ) 聯隊長は将校の集まりなどで、
「 昭和維新は必要だが、青年将校が横断的な団結をして、そういうことをやるのは軍律上許されない 」
ということを ハッキリと話していたし、私もそうだなと思っていましたからね。
・・・・穏健派だった林さんが過激派に転じたというのが池田さんの運命を決めたわけですか。
池田
林は、上海事変で戦死し 軍神とまでいわれた林大八聯隊長の次男で、
兄さんは一高時代、青年共産同盟に関係して退校になったんです。
林自身は、国家改造ということに猛烈な関心を持ってはいたが、
武力でどうこうするという考え方の持ち主ではなかったのです。
一聯隊に入って、栗原中尉に出会ってからですね、
蹶起ということに積極的に賛同していったのは。
・・・・栗原に感化された?
池田
はっきりいって共鳴ですね。
感化されたのではなく、捨て石となる意気に共鳴したのです。
我々が本科を終えて一聯隊に戻ってきたのが、前年六月末のことですが、

林は十二月に栗原中尉がいた機関銃隊に配属替えされた。
「 やらねばならん栗原 」
と 言われていたほど、それは栗原中尉の口グセでしたし、
当時、栗原中尉は真剣に直接行動を考えていた。
林はその生命がけの意気に投合したのだと思う。
・・・・池田さん自身も栗原中尉とは議論する機会はあったのですか。
池田
将校集会室などでね。
「 今のような議会政治ではなんにも改革はできない。
何としても武力で改革への活路を開くべきだ 」
というようなことを 盛んに主張していた。
私は
「 それは間違っている 」
と 言い返したりしていたんです。
最初のころは林も私と同じだったですよ。
一月に入ってからかな、林が栗原さんに急速に同調するようになったのは。
第一師団の渡満がまぢかに迫っていたというのも、
この機会を逃したら、昭和維新の機会がないという気持ちが相当働いていたかもしれない。
・・・・じゃあ、はじめて林さんから蹶起参加を知らされたときは、やはりびっくりされたわけですか。
池田
正直いうとそうですね。
決意を聞いて最初は迷ったのです。
迷ったから、予科時代の区隊長だった松山大尉に相談してみようと自宅に出かけたのです。
ところが雪がひどくて市電は駄目、タクシーもつかまらないので、とうとう引き返した。
結局、誰にも相談しないで参加することにした。
実際問題として、信頼もし尊敬もしていた自分の友達が
「 やるんだ 」
と 胸のうちを打ち明けているのに、
「 お前は行くのか、しかし、俺は行けない 」
と 見殺しにするような冷淡な態度をとるのはできないことです。
私自身、昭和維新の必要性は林と同じくらい思っていたわけですから。
後で記録を読んでみても、安藤大尉だって迷っていた。
ただ、栗原中尉と磯部さん、河野さんの三人が
「 とにかく今やるんだ 」
と いうふうで、放っておいたら三人だけでもやりかねない。
あのとき蹶起するということは皆否定的だったと思うのですが、
「 俺は行かない 」
とは 言えなかったのだと思います。
赤塚
私は池田とは陸士四十七期の同期ですが、昭和六年に入校して、十年九月に少尉任官です。
この間の動きというものをざっとみていると、入校した年に満州事変が起きました。
七年になると血盟団事件が始まり、さらに五・一五事件が起こった。
この事件には先輩の四十四期生が何名か参加しています。
九年には士官学校事件が発生しました。
その事件には同期生が三名、後輩の候補生が一名・・・、二名?
池田
二名だよ。
本当は一名だけど、もう一人の佐藤勝郎はスパイだったから・・・・。
赤塚
十年の八月には相沢事件が起こりました。
私が少尉に任官するまでの間にこうして一連の事件が次々に起こりました。
私は五・一五事件に参加した先輩とか相沢中佐の尊皇絶対という精神には敬服はしていたけど、
どちらかといえば直接その運動に参加するという考えはなかった。
関心は大いにありましたけど。
十一年に入るとすぐ相沢事件の公判が始まりまして、
公判が開かれるたびにその説明会が三聯隊の近くにあったフランス料理の竜土軒で開かれました。
私もそれには安藤大尉の誘いがあって出席していました。
同期生としてはこのほか 清原、常盤 も出席していたのです。
二、三回は出ただろうと思います。
その席で、栗原中尉と磯部さん、村中さん、渋川さん、香田さんもいたと思いますが、
そういう先輩の方に初めて会う機会があったわけです。
その会合で印象に残っているのは、安藤さんが 「 抜かざる剣の威力 」 ということを強調していたことです。
抜くぞ抜くぞといって抜かないところに剣の威力がある、
剣は抜いてはいけないということを終始言っていたのです。
一方栗原さんは、私の感じですが、
非常に急進的な 「 今すぐにでもやる 」 というタイプの方だと感じたわけです。
しかし、私は前々から革新運動に身を投じるという考え方は持っていなかったし、
栗原さんの言う急進的な指導に対しては同調できない考えでおったんです。
池田
私も竜土軒の会合には二回ほど行っています。
安藤さんがソファーに身を沈めて、蹶起しようという意見が出ると
「 今はその時期ではない 」
と 強く言っていた記憶があります。
「 剣を抜いてはいけない。では 絶対抜かないかといえば、そうではない。
抜くべきときがくれば・・・・」
 と、ただ
「 今はそのときではない 」
と 言っていましたね。
私も安藤さんのいうとおりだと思っていました。
その安藤さんがやるんだというのでしょう。
ああ、情勢がここまで煮詰まってきたのかと。
林の説明では
「 我々が起つことで軍中央部も起つ 」
という そんな話しぶりだったが
「 そういう連絡がついているのか 」
と 言うと、
「 我々が起って引きずってゆくのだ 」
と、そんな感じでしたね。
・・・・安藤大尉からそういう話を日頃から聞かされたということはないんですか。
赤塚
ありません。
安藤さんは私より九年先輩で、私が予科を卒業して第三聯隊に配属されたときの大隊副官で、
そういう意味ではこちらから気楽に話しかけたり、むこうが呼んでくれたり親しいことは親しかったのですが、
昭和維新が必要だという話を特に聞かされたという記憶はない。
・・・・竜土軒に集まっていた将校はすべて参加しているのですか。
池田
昭和維新のためになにかをやらねばならないと思っている将校だけが呼ばれて集まっていたのですから。
赤塚
新井 ( 勲・『 日本を震撼させた四日間 』 の著者 ) さん くらいかな、
あそこによく来ていて参加しなかったのは・・・・。
・・・・反対だったのですか。
赤塚
私は十中隊の初年兵教官でしたが、新井さんは十中隊長代理だった人です。
安藤大尉と同じくらい革新将校の中心的存在だったことは間違いない。
戦後、新井さんの記録を読んでみると、竜土軒で栗原中尉と大分やりあったらしい。
私はそのとき気付かなかったが、
栗原中尉が
「 すぐにでもやるべきだ 」
と 言うのに対して 新井さんは
「 やる時期ではない 」
と、意見が対立していたらしいのです。
そういうことがあったからなのでしょう。
いよいよ決行というときに、安藤さんが
「 鈴木、新井には言うな 」
と 口止めされちゃったんです。
安藤さんは新井中尉の心中を察して、「 新井は蹶起には参加しない 」 と 思っていたのでしょうね。
本来からというと当然参加すべき人だった。
新井中尉とは戦後何回か会っていますが、よく北支に行っていたときの話を聞いたことがあります。
それによると、中国の農民というのは日本の農民以上に もっとひどい状態におかれていたというのです。
そのことが頭にあって、日本の農民もひどい状態ではあるけれども、
いまその状態の改善を求めて蹶起するということには慎重になっていたのではないかと推察しています。
池田
五・一五事件が起こったころに比べると、
一般の将校の革新行動に対する熱意が少し下がり気味だったということがあったのではないか。
たとえば、私の中隊長の村田中尉や候補生時代の教官だった中村中尉も、
革新将校とまではいわなくとも、昭和維新には関心の高かった人ですが、
声をかけなったようですよ。
北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 を、私は中村中尉の部屋でチラッとですが読ませてもらったくらいですから。
しかし、あの人たちには声をかけなかった。
言えば反対される恐れがあったからなのでしょう。

蹶起の背景--農民の窮状と青年将校
・・・・命をかけてまでやらねばならないと思った最大の理由はどこにあったのでしょうか。
赤塚
それはあの五・一五事件のとき士官候補生が述べたこととか、
有名な橘孝三郎の主張したこととかいろいろあると思います。
しかし、私が一番共感を覚えたのは末松太平さんのものですね。
末松さんは青森の五聯隊にいた人で維新運動の先覚者です。
青森にいた関係で事件には参加していなかったのに、禁固四年の刑を受けた。
その末松さんが 「 私の二・二六事件の原点はこれだ 」 と はっきり断定しているものがある。
青森の農民の困窮と小作争議です。
池田の書いた本 ( 『 生きている二・二六 』 ) にも出ていますが。
池田
末松さんからの手紙をいただいたことがあって、その中に
「 『 車力村史 』 からの「 小作争議 」
と 『 館城文化 』 からの對馬中尉に関するコピーを送ります。
このセットが小生の二・二六事件の原点です 」
と 書かれてありました。
赤塚
末松さんは福岡の出身ですが、たまたま青森の聯隊に配属となって、
聯隊に所属する下士官兵の家庭の悲惨な困窮を身をもって実感したんですね。
日本の軍隊を支えるのは下士官兵ではないか。
その家族がこういう状態では日本はいったいどうなるのか。
これが末松さんばかりではなく、昭和維新を考えた青年将校の出発点だと思うんです。
池田
士官学校では国体の尊厳さというものを強調して我々を教育したのですが、
それは
天皇陛下はすべての国民に対して一視同仁の大御心をもって接しておられる
ということからくる 尊厳さということであったのです。
しかし、現実を見ると、大御心おおみこころ が下士官兵の家族には届いていないと、
青年将校たちは感じていたのです。
一方では、
たとえば車力村の左翼運動家・渋谷悠蔵などは
農村の困窮の原因は天皇制そのものにあるのだから、天皇制を打倒しなければならない
というわけでしょう。
我々は、
農村困窮は天皇陛下の大御心に反している、日本の国体に反している
と 考えたわけで、受け取りかたが違うんです。
赤塚
士官学校では天皇観、国体観というものを徹底して教育されるわけですが、
その中心になる概念は一君万民、君民一体ということでした。
それは天皇陛下というのは純粋そのもので、すべての国民に対して一視同仁でいらっしゃる。
すべての国民に対してわけへだてのない御仁徳を施されるから、現人神であらせられる。
だから、天皇のためにいつでも欣然として死ねるんだ、
という 信念を植えつけられて将校になってきたのです。
ところが、末松さんはいざ軍隊の現場に入ってみると、兵隊の家庭の惨憺たる生活状況を見てしまう。
これは一視同仁の政治と違うんではないかという疑問を持ったのだと思います。
共産党は、だから天皇制が悪いんだと、天皇制打破を叫んだようですけど、
青年将校は、天皇の政治の本質は本来こうあるべきだけど、歪められているのは結局君側の奸がいるからだと、
そういう受けとめ方だったのだと思います。
だから、天皇の側近という人物に狙いを定めて襲撃していますね。
・・・・東京の聯隊でも極貧家庭の兵というのはいたのでしょうか。
赤塚
池田のいた一聯隊と私のいた三聯隊の兵隊の出身地は東京、埼玉など大たい同じです。
安藤さんが困窮している兵の家庭に、月給の何割かを匿名で毎月援助していたのは有名な話です。
そうしなければならないほど困っている家庭が多かった。
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貧困のどん底 
池田
初年兵は徹底的に身上調査をされるのです。
入営直後に人事係の特務曹長がまず調査するのですが、その後班長から聞かれ、
中隊長から質問を受ける。
さらに私のような初年兵の教官も簡単ではあっても調査するというわけです。
一聯隊の兵隊で特に生活程度がひどかったのは八王子方面なんです。
八王子でも秋期演習をしたことがあります。
民家に分かれて泊めてもらうのですが、出される飯がまずいと言って兵隊がぶつぶつ言うくらいでした。
私の受け持った初年兵の家庭で姉や妹が花柳界に売られていったという者が二人いましたからね。
赤塚
末松さんがいた青森、いわゆる東北ですね、あそこの困窮ぶりは東京の比じゃないんです。
自分のかわいい娘を女郎に売らなければ生活できないところが多かった。
その実態はどうかと、私、調べてきたのですが、
『 青森県婦女難村状況 』 という昭和九年の資料ですが、それによると、
青森県では、芸者四百五人、女郎千二十四人、女給九百四十五人、女工千四百二十七人、
女中二千四百三十二人、など 合計七千八十三人となっています。
東北六県の合計も出ていますが、五万八千百七十三人です。
東北の農村の困窮ぶりがわかると思います。
ただ 当時は今と違って こういう数字は公表されませんから、
末松さんも知らなかったと思いますが、兵に接していて実態はつかんでいたはずです。
池田
農村の女の子が就職するという常識がなかった時代の話ですから、大変な数ですよ。
若い人はこの数字を見て、芸者や女郎はともかく、
女給、女工、女中といえば まともな就職で問題ないのではないかと思うかもしれないが、そうじゃない。
当座のなにがしかの現金が欲しいばかりに家を出されたというのが実情なのです。
赤塚
当時の一農家の借金の平均が四、五百円といいますね。
娘を女郎にでも売ってなんとか借金の穴埋めをしなければ、しのげなかった。
当時の将校というのは、磯部さんは貧農の出だと聞いていますが、当時としては上流、中流階級ですよ。
そして少尉に任官すると月給が七十円。
ですから将校の目で見ると、農村の生活はひどいところだと感じるんですね。
池田
例外は近衛聯隊。
あそこは全国のいい家庭から兵を選んでとっていましたから。
赤塚
近衛の兵は家庭が裕福だし、地方の名門といわれる子弟が多かった。
池田
私は東京郊外の渋谷区笹塚小学校ですが、それでも中学校へ進む者は半数以下という時代です。
田舎なら一割がいいところでしょう。
茨木県はどうでした。
赤塚
もっと低かったんじゃないかな。
池田
小学校を出ると大半が大工の弟子になるとか、丁稚奉公に行くとか、農業をやるとか、
高等教育などというものはほとんど受けていない。
今の若い人には想像もつかないでしょうが・・・。
赤塚
農民がなぜあのように困窮していたのか、今となってはわからない人が多くなっているのではないでしょうか。
私は農家の出身だから事情はわかっていたのです。
第一に、全国の耕地面積は田と畑に牧場も含めて六百万ヘクタールあった。
それに対して農家戸数は五百五十万戸あったから、単純に平均しただけでも一戸あたり 一ヘクタールちょっと、
つまり一町ちょっとです。
どちらかといえば田より畑が少し多かったから、牧場を度外視してみると、
標準的な農家というのは田が五反歩、畑が六反歩と考えていいでしょう。
第二に、その所有形態を考える必要があります。
自作農が三十パーセント、小作農兼自作農が三十パーセント、小作農が三十パーセントというのが大体の割合だった。
第三に、米の収穫量の面から見ると、それはほとんど水田で作られていたのですが、
一反から平年作なら六俵、よくて七俵として、五反で三十俵しか収穫がない。
小作農ならその半分を地主におさめなければならない。
残りの十五俵を一年間で食べるわけですが、
当時の家族構成は夫婦に子供が六、七人というところでしょう。
私のところは十人生まれて八人が大人に成長したが、
兄弟が多いように見えてもそんなに珍しいことではなかった。
池田
私は男は一人だったが、姉が一人いた。
こういう少人数はむしろ珍しかった。
兄弟が六、七人というのはざらだったね。
赤塚
当時、一人当たりの米の消費量は年間一石といわれていたから、これは二俵半にあたる。
つまり、一家族十人として、年間二十五俵の米がないと食っていけない。
十五俵ではとてもだめです。
だから畑には大麦を蒔いて、それを米に混ぜて食べる。
米六麦四とか あるいは麦のほうが多いところが多かった。
そうやってもなお年間通しては食えなかったのです。
米も麦も五月の田植えどきには底をついて、やむなく地主に借りにいく。
収穫の時には利息をつけて返すのですが、それでますます自分の取り分が減って、
前の年より生活が苦しくなるわけです。
よほどの豊作が何年も続けば別ですが、東北などは三年に一回は冷害ですから、
おまけに大不況でしょう、娘を売っても食えないという状態が何年も続いたわけです。
五・一五事件の青年将校や士官候補生とか、水戸の橘孝三郎先生、
東北の聯隊に配属された青年将校たちが、これはもう君側の奸をやっつけなければだめだ、
それが昭和だという結論に達したんだと思うのです。
・・・・どなただったかはっきり覚えてませんが、徴兵検査に立ち会ったら、
肌の色が黄色なので不思議に思ったと言っていましたね。
池田
村中さんが公判の時にそういう話をしたのです。
北海道で徴兵検査に立ち会ったとき、顔が黄色なのは何故かと徴兵官に聞いてみたところ、
「 この連中は米を買う金がなくて、カボチャばかり食っている。だから肌が黄色になるんだ 」
と 言ったというんですね。
入営して米の飯をたべるようになると次第に肌の色もよくなったということでした。
一聯隊でももちろん金持ちの子弟もいましたが、生まれて初めてカツレツを食べたという兵も少なくなかった。
「 こんなうまいものは初めて食べた 」 と。
東京の兵隊ですよ。
東京といってもその程度の生活水準だったのです。
赤塚
もう一つ つけ加えると、
埼玉県は特に多いと思いますが、ほとんどの農家が現金収入を得るために養蚕をやっていた。
畑が五反歩あれば二反歩ぐらいに桑を植えて、蚕を飼っていたんです。
ところがそれも生糸の相場が不況によって半値になってしまったのです。

蹶起は 「 虚夢の大義 」 ではなかった
池田
日本全体が貧乏だったのと、社会的に富の分配が不公平だったのですよ。
地主とか資本家の一部にはずいぶん金持ちがいた。
それはそうでしょう。
赤塚が言ったように、小作農からは労せずして収穫の半分を納めさせるわけですから。
そういうことで
「 農地改革することによって、貧富の差をなくさなければいけない 」
と 農林省の官僚のなかにもそう考えた人たちがいたんです。
戦前、農林省の役人で、戦後になって、農地開発公団の理事長をやっていた大和田啓気さんという方が書かれた
『 日本の農地改革 』 という本がありますが、その中に戦前の農地改革のことが述べてあります。
それによると、農林省はたびたび農地改革法案を提出したが、衆議院で否決されたというのです。
それが通ると地主連中は打撃を受けるわけですから、賛成するはずがない。
議員の大半は地主か金持ちばかりでしたからね。
今、フィリピンでいくら経済成長しようとしてもうまくいかないでしょう。
農地改革が最も必要な国なのにそれができないのは、地主や金持ちが議会を構成しているからですよ。
農地改革なんて議会政治ではできないんです。
だから、栗原中尉が
「 池田、議会政治では農地改革はできないんだよ 」
と 言ったんです。
赤塚
それはできない。
池田
「 これは、我々が武力をもって、起ち上がり、たたきつぶさなければ永久に直らないんだ 」 と。
赤塚
先輩たちはそう考えたのだろうな。
池田
これが、栗原さんが蹶起した根本の原因なんですよ。
これを忘れてもらっては困ります。
赤塚
ほんとうにそうだな。
池田
十二月三日 ( 平成元年 ) の 朝日新聞に、例の澤地久枝が 「 自作再見 」 という表題の記事の中で、
自分の写真入りで 『 妻たちの二・二六事件 』 を 書いた気持ちに触れていますが、
彼女は、昭和維新運動のことを 「 虚夢の大義 」 などと言っている。
彼女には栗原中尉の農村改革、農地改革をやって、極貧の農家を救うというそういう気持ちがわからないんだ。
『 雪はよごれていた 』 なんていう本を書いたり、NHKがその尻馬に乗って、
変な放送 ( 『 二・二六事件  消された真実 』 昭和六十三年二月二十一日放映 ) を やったりするのも、
まったくここの気持ちがわからないからなんです。
「 虚夢の大義 」 とはいったい何だろうと思いました。
山本七平もそういうようなことを平気で言いますね。
何であいうロクでもない考えが浮かんでくるんだろう、とね。
事件の善悪を論ずることはかまいませんが、
人が生命がけでやったことを小馬鹿にしたようなことを言うのは許されません。
・・・・おそらく、二・二六事件の裁判記録を読んでも、出てくるのは統帥権干犯の問題がもっぱらで、
農地改革とか農民の窮状を救うために蹶起したんだという、
そういう栗原中尉たちの根本の本音があまり述べられていないということもあるのではないでしょうか。
池田
それは確かにあるでしょう。
公判のちょっとした合間に磯部さんや栗原さんが
ちょこちょこと打ち合わせをしているのが、耳にはいったのです。
かいつまんで言えば、
あんまり農民の救済、農地の解放とか、財閥の解体などを強く主張すると、
アカ、つまり左翼革命ととられるだろう、
だから、第一に主張すべきことは統帥権干犯の賊を討ったのだということにしようということだったのです。
これは裁判が始まる以前からひそかに連絡を取り合って方針を固めていたようなのです。
あの当時、あんまり 「 農民だ、貧乏人だ 」 なんて言うと アカだと言われたんです。
そういう評判をたてられたら天皇陛下反対ととられるわけですよ。
世の中が今とは全然違うんです。
末松さんのお宅に年一、二回は伺っていますが、ある日、私が
「 うちの母親は、事件直後逆賊の母だと 後ろ指さされたので、外出するのが嫌になったのです 」
と いう話をしたら、末松さんの奥さまが
「 私はアカの妻だといわれて、何度死のうと思ったかもしれない 」
と ポツリと言われた。
末松さんはビックリして
「 今までその話はなかったね。初めて聞いた 」 と。
末松さんは
「 君のおかげで女房の本音を聞くことができた 」
と 感謝されたんです。
二・二六事件というのはアカの事件という受けとめ方が当時から一部にはあったんです。
栗原中尉や磯部さんの懸念は当たっていたんですよ。
そういう時代だったんです。
赤塚
共産党も農村の疲弊とか農地改革とかを前面に打ち出していましたから。
ちょうど、昭和二年から六年にかけて共産党の大検挙が続いたでしょう。
そのころ仙台教導学校の教官をやっていた大岸さん---この方は青年将校としては末松さんの先輩にあたり、
末松さんは大岸さんに出会ってから国家改造をめざす青年将校の仲間入りをするのですが---の書いた本によると、
教導学校の中にも共産党の分子が潜入して、軍隊の内部から崩壊させようという考え方があったらしいのです。
農地改革によって農民を救うという一点においては、共産党も青年将校と同じ考えを持っていたのですから、
二・二六事件で蹶起した青年将校はアカと同じじゃないかと言われかねなかった。
だから裁判ではそのことを伏せるということになったのでしょう。
池田
同じ農地改革を主張していても共産党と青年将校との根本的な違いというのはあるんです。
小菅刑務所に入っていた時に、そこにいた橘孝三郎さんに聞いた話ですが、
「 人間は稲を食べて生命を維持している。しかし、その稲は人間が出す糞を肥料として成長している。
そうやって大地と生命とは無限の循環で結ばれている。
その大地を耕し、稲を作っているのは農民なのだから、大地は農民の所有にしなければならない。
自分の大地ならそれを大事にするはずだ。だから小作制度というのは間違っている 」
と 言うんですね。
末松さんも同じようなことを言うんです。
ロシア革命は土地を地主から奪ったが、党のものにした。
決して農民に与えてはいない。これは農地解放でもなんでもない。
彼ら共産党は本当の農地解放をやっていないと。
共産党と青年将校とでは考え方が全然違っていたんです、本当は。
その違いがみんなわからなかったんですね。
だから天皇陛下でも青年将校が何かガタガタすると
「 日本もロシアのようになったね 」
などと言われたり・・・・。
陛下のお側の者がよくわかっていなかったから、
恐れ多い言葉を発せられるような始末になってくるんです。
陛下ご自身が
「 青年将校がやっていることはアカではないか 」
と、想像することは恐れ多いことですけれども、そういうふうにお考えになったのではないかと思うのです。
「 北一輝も共産党だ 」
と 周りのものが言っていたくらいですから。
とんでもないことでね。北一輝は
「 農地を地主から取り上げて国家が管理する 」 なんてことは 『 日本改造法案大綱 』 の中ではもちろんのこと、
どこでも一言も言っていません。
マルクスの理論と北の理論とは全然違うということが、わからない連中が虚夢の大義なんていうことを言っているんですね。
赤塚
そうそう。
そのところは はっきりさせて、後世に伝えないとね。

2・26事件の謎
新人物往来社
1995年7月10日初版発行
から

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