あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

傍聴者 ・ 憲兵 金子桂伍長

2020年12月08日 05時46分05秒 | 後に殘りし者

現場にいた永田事件と二・二六事件
永田事件の時には、軍事課長の橋本群という人と一緒におりました。
橋本さんは世田谷区の方におられて、身辺護衛というこしで 四、五日前から伺っておったのです。
自宅の警備は別におって、私は橋本さんが陸軍省へ行って帰って来る、
その間 行動を共にするわけです。
陸軍省では課長級から護衛が付くんですか
いや、もっと上。
課長級では特別のものだけです。状勢がおかしいことで臨時に付けたんです。
事件の時に橋本さんはどこに・・・
事件の起きた時には自室にはいない。
陸軍省の中におったんだが、三分位たって自室にもどって来て一緒に行ったんですよ。
ドアーを突き刺してやられている。
まだ検証にも来ていない。
眼のあたりに状況を見て分隊に報告したりしたわけです。
この時には事件の関係者が相澤中佐とは分りませんわな、
ただ狂乱した中佐が抜刀してやったというだけでしか。
今度はそれらの公判が始まりますと、真崎大将が証人で出廷するというので、
眞崎大将の家に始終行っていました。


二・二六事件の起こる前の晩は、眞崎大将が華族会館と思いますが・・・県人会かな、
帰って来て晩の十時頃まで、いろんな昔話をしたり一緒にお風呂へ入ったりしたんです。
翌朝午前五時頃かな、分隊に連絡があったわけです。
至急来てほしい。
その頃は分隊内に住んでいたんですか
いや、すぐ近くの官舎です。
来て欲しいという電話が宿直からあったので、眞崎さんのところへサイドカーで行った。
実は陸軍省から至急来て欲しい、若い者が事件を起こした、と言うんです。
すくせに自動車の手配をして、陸軍自動車学校の当時のダッジかな、
それで閣下と共に出まして、高橋是清邸のところへ来ますと
・・・・・当時雪が降って残雪があるんです・・・・靴の跡がいっぱいあるんです。
まだ高橋蔵相がやられたということは私達は分らないんですが、とにかく兵隊が歩いたところを見て陸軍省へ急いだんです。
ところが、閑院宮邸、今は参議院の議長公舎かな、それと李王邸、プリンスホテルの間に
機関銃、軽機関銃を据えて通さんと言う。
そこで用意してきた 「 軍事参議官 眞崎大将 」 という旗を立てて、
「 君達の指揮官に会いに行くんだから通せ 」
と 言って、歩哨を通ったわけです。
農林大臣邸のところも、又そこのところ、ドイツ大使館をまがったところにも歩哨線がある。
で、行ったところが官邸の玄関のところに、香田とか磯部とかがおって白襷をしているわけ。
眞崎大将に 天誅を加えました と。
高橋是清、渡邊錠太郎、斎藤實などの名前を読上げてね。
目下議事堂を中心に陸軍省 参謀本部などを占拠中である、と言ったところが
「 馬鹿者 」 っと 一喝されまして、
彼等は予期に反した言を受けたんでしょうね。
この時、眞崎さんが 「 馬鹿者 」 といわれて・・・・、この時、例の有名な話なんですが、
「 お前らの気持はよくわかっておる 」 と 言ったと 巷間伝えられておりますが。
そんなことはありません。 そんなことは全然ありません。
その所で、よくわかっている と言ったということになっていますね。
なっていませんね、事実は。
「 馬鹿者、何をやったか 」
という大喝ですよ。
とにかく陸軍大臣に会わせろ、ということで彼等はとまどっておりましたね。
金子さんは二十六日の朝、真崎さんの所へ行かれてから、それからずうっと真崎さんと御一緒でございましたか。
そう、叛乱軍が降服するまでね、報告書がありますよ、その時の。
〔 註、第二巻三七〇ページ以下、「 眞崎大将の動静に関する件 」 参照 〕
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・・・挿入・・・

眞崎甚三郎に関する報告書
眞崎甚三郎大将の動静に関する件
渋谷憲高第二一九号
二・二六事件前後に於ける眞崎大将の動静に関する件報告
昭和十一年四月十六日  渋谷憲兵分隊長  徳田豊
東京憲兵隊長  坂本俊馬殿
首題の件、別紙の通り報告す。
二・二六事件前後に於ける眞崎大将の動静に関する件報告
昭和十一年四月十六日  陸軍憲兵伍長 金子桂
渋谷憲兵分隊長  徳田豊殿
眞崎大将護衛服務間知得せる首題の件、先の通り報告す。
左記
一、二月二十五日
午前九時三十分  永田事件証人として軍法会議に出廷。
午後零時四十分  軍法会議より帰邸。訪問客なし。
午後六時十分  華族会館に於ける万葉会例会に出席のため私服にて出発。
午後九時四十分  万葉会より帰邸。
午後十時二十分迄  来訪者なし。
二、二月二十六日
午前六時五分  電話にて分隊より私邸に連絡せるも、特異の状況なき旨 夫人より電話回答あり。
午前六時三十分  眞崎大将邸より、同大将 陸軍大臣官邸に赴くに付 護衛憲兵を派遣せられ度旨電話あり。
午前七時過頃  陸軍大臣官邸に赴く為出発。青山一丁目、赤坂見附、平河町を経て陸相官邸表門に到着。
午前七時五十分頃
(1)、陸相官邸表門前にて自動車より降車の際、行動部隊将校三名( 香田、安藤、栗原と思料せらる ) より
      事件の概要を説明ありたり。
     「 国体明徴と統帥権干犯問題にて蹶起し、斎藤内府、岡田首相、高橋蔵相、渡邊教育總監、
       鈴木侍従長、牧野伸顕を襲撃す。牧野信顕の処より確報なし。云々 」
(2)、陸相官邸に於て古莊次官及陸軍大臣幷行動部隊将校と面接、会談内容不明なり。
(3)、午前九時過頃、伏見軍令部総長宮邸伺候の為、陸相官邸表玄関前に出でたる際、
      陸軍省軍事課員 片倉少佐他将校十数名 香田大尉と問答しある時、
      磯部元主計 拳銃にて片倉少佐に向け発砲せるも、左眼側方に命中せるも死に至らざると、
      磯部拳銃を落したるを以て、軍刀にて殺害せんとしたるを、別紙要図の地点にて、
      眞崎大将及古莊次官が 「 同士討ちは止め 」 と 発言、静止せり。

午前九時過頃  陸相官邸出発。
午前九時半頃  伏見軍令部総長宮邸に伺候。
午前十時半頃  伏見軍令部総長宮邸より同宮殿下及加藤寛治大将と共に宮中参内の為出発。
                      加藤寛治大将と同車せるも、乗車中 特殊談話なし。
午前十一時頃  乾門を経て侍従武官府に到着、会議に列席せり。
午後八時過頃  宮城退下、陸軍大臣官邸に赴く為出発。
                      同道者 林大将、荒木大将、西大将、阿部大将、寺内大将、植田大将等。
午后九時○分  各軍事参議官及行動部隊将校と、陸相官邸に於て会談。
  午前三時迄会議続行。会談の内容不明なり。午前五時迄陸相官邸にて休息。
三、二月二十七日
午前五時○分  各軍事参議官と共に陸軍大臣官邸に出発、宮中に参内。
午前十一時○分
  各軍事参議官と共に憲兵司令部内臨時陸軍省軍事参議官会議に列席の為宮城退下、出発せり。
午前十一時十五分頃
  憲兵司令部に到着。会議室に赴きたるも、朝香宮、東久邇宮両殿下御出席不能の為、
  憲兵司令部に於ける軍事参議官会議取止め。
  偕行社に各軍事参議官と共に赴き、同社に於て昼食。同社にて軍事参議官会議続行。
午後三時頃  陸軍大臣官邸に赴く為単身出発。午後三時過ぎ頃陸相官邸に到着。
  阿部、西 両大将を電話にて招き、三名にて行動部隊代表将校と面接す。 
午後五時頃  会議終了後陸相官邸出発、偕行社に赴き 午後五時半頃同社着。
  軍事参議官会議に列席、会議続行。偕行社に宿泊。来訪者と面接せず。
四、二月二十八日
午前八時より各軍事参議官と共に偕行社会議室に於ける会議に列席。
午後一時頃宮中に参内の為 偕行社出発。
  各軍事参議官と共に会議に列席、会議続行。
午後十一時頃宮城退下、偕行社に宿泊。
(偕行社 在社中 来訪者不明なり )
五、二月二十九日
午前八時三十分頃、宮城に各軍事参議官と共に参内、会議に列席せり。
午後三時頃宮城退下。偕行社にて会議に列席、同社宿泊。
  来訪者 紫雲荘橋本徹馬ありたるも、面接せず。
六、三月一日
偕行社に於て起居し、同社会議室にて会議に列席す。
  来訪者ありしも面接せず ( 在郷将官一名、在郷佐官一名 )
七、三月二日
偕行社に起居し、各軍事参議官と共に会議に列席しありしも、午後五時頃私邸に帰還す。
  来訪者ありたるも、面接せず。 ( 時間等に於て適確ならず )
・・二・二六事件秘録 ( 二 ) より
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磯部の獄中手記持出しを取調べる
磯部浅一の獄中手記、
これが看守の手を通じて、黙認された形で磯部浅一の妻が面会に来る都度、
ちり紙へ丹念に鉛筆で書かれたやつを持ち出されてね。
それが やまと新聞社長の岩田富美夫の所へ持ち込まれて、
やまと新聞写真班の青山という男が写真にして複写し、
各所にばらまかれて かなりの反響を呼んだことがあります。
やまと新聞に行って青山から原版を没収したりした事実はありますよ。

非公開裁判を 「 傍聴 」 する
公判廷はベニヤ張りの臨時の建物で、下には砂が敷いてあって六尺腰掛が置いてある、
全く昔の白洲というような状況の中で行われました。
被告の方がむしろ裁判官よりサバサバした気分で、
裁判官の方がオジオジした恰好で常に押され気味でね。
裁判は法務官が訊く。
時々裁判長が訊いていますね
ええ、裁判長が訊いている。
そのほかに藤原といったかな(?) 少佐の裁判官がよく訊いておりました。
長期にわたって言われたのは、何故事件を起こさなければならなかったかということで、
村中が主として代表して・・・・一番に村中、
それから磯部、栗原、安藤の順に並んで陳述しておったんですが・・・
背景的な事については村中がほとんどしゃべっておりますね。
磯部浅一は・・・村中とは全然性格が違うんですね。相反する性格。
事件を起こさなけりゃならん理由を陳述した。
時期を早めたことについては栗原が説明しております。

北、西田の求刑と蹶起将校判決の場面
公判廷に出られまして、今でも強く印象に残っておられるような事はございますか
公判でね、北一輝、彼がね、死刑の求刑を受けた。
北、西田は死刑、亀川哲也は無期という求刑を受けた時に、
西田は、
自分達は青年将校を惑わしたのではない、
国家の紊乱していることが青年将校を奮起せしめるに至ったので、
決して我々が蹶起を促したり、左様にことは全然ない、
ところが憲兵の中にはそんなことを言った、ふとどき千万である、
と 言って、
我々は罪を受けるべき筋合いのものではない
と 非常に強硬に頑張りました。
ところが北一輝は、
青年将校がいずれにしても自分の書いた国家改造方案を信奉して、
それが原動力になって国家改造をせにゃならん、
それで昭和維新を断行せにゃ王道が行なわれないというふうに至ったことは、
自分の書いた本が、直接なり間接なり、この事件を起こした原動力になっている点については
全責任を負わなければいけない、
と。
自分がこれを煽動したものではない、起きてからこれを支援したものでもないが、
苟も自分の書いた国家改造方案というものが、
青年将校をして斯くまで思い詰めさせるに至った罪は自分にもある、
だから西田も黙れ、
と。
青年将校と共に我々が死することこそ・・・・もう ( 蹶起将校が処刑されたことを ) 知っているわけです
・・・・我々のとるべき道だから、どうか裁判長閣下、判決に当っては球形のまま死刑を御宣告願いたい、
こういうことを言ったです。
ところが亀川哲也は、天地晴朗にして雷雨沛然たるが如き判決である。
承服しかねる、私は鵜沢聡明博士に一刻も早く事件の内容を伝えることによって、
事件自体の収拾を計ろうと行動したのであって、青年将校をして、
事件を起こさせるような事をやったのではない、
金を与えたにしても、決して不純な金を久原房之助から貰って青年将校に与えたものでもない、
と 言って、自分は罪を負うべき筋合いのものでないと陳述しています。
それからもう一つは、
青年将校全体は死刑の判決を受けた瞬間に、生き残る無期、有期の刑を受けた青年将校を抱いて、
お前達は生き残って、とにかく我々がやったことが正しかったことを将来にわたって伝えてくれ、
俺達は国家のために喜んで死んで行くが、
こういった 騙し討ちに合ったという事実を、君達が生き残って伝えてくれ、
と 言って死して行く者が 残る者をなぐさめて、激励していっていますね。
それは公判廷でですか
公判廷でです。
裁判官が判決の主文を読み上げて、いきなりドアーを開けて退廷した。
宣告する方が青くなって、宣告された方が毅然たる態度で・・・・。

小学館
昭和46年9月10日
二・二六事件秘録月報
「 暗黒」裁判は私が記録
唯一の「 傍聴者」 金子桂氏は語る
から