池田俊彦少尉 常盤稔少尉 清原康平少尉 鈴木金次郎少尉 今泉義道少尉
司会・半藤一利
当時何歳でしたか
池田
満でいうと二十一歳、五人とも大正三年 ( 1914 年 ) 生れですから。
今泉
前年に士官学校を卒業 ( 47期 ) し、少尉に任官してから三ヶ月目で免官になったわけです。
そんなに若い少尉が、所謂昭和維新運動に何時頃からのめり込んでいったんでしょうか
常盤
私の場合でいうと、やはり相澤三郎中佐による永田鉄山暗殺事件 ( 昭和十年八月十三日 ) 、
あの時以来 何か起きるであろう、起さなければいけないのではないか、と考える様になりましたね。
当時は士官学校の最上級生でした。
殊に 私と清原と鈴木は歩兵第三聯隊所属で、士官候補生で隊付勤務の時の教官が安藤輝三大尉ですからね。
自然と革新運動に関心を持たざるを得ない環境にあった。
鈴木
補足しますと、真崎甚三郎大将が教育総監のとき士官学校へこられて、いささか革新めいた話をされたことがある。
それが先ず第一の洗礼でしょうか。
それから私達が少尉に任官して歩三へ帰った時、安藤さんに云われて、
柳川平助師団長が台湾軍司令官に赴任されるというので、中将を訪ねた。
その時 中将が私達三人 ( 常盤、鈴木、清原 ) に こう言われた。
「 お前達が思い詰めて、もし ヤルというようなときには連絡をせよ 」 と。
まあ、我々をつつむ当時の空気というものは、そのようなものでしたね。
つまり陸軍の上の方に一つの流れがあり、その流れが下の方にも浸透していた、と言ってもいい。
歩三には安藤大尉と野中四郎大尉という指導者がいた。もう一人の指導者栗原安秀中尉のいた歩一はどうだったのでしょうか
池田
相澤事件の前に、磯部浅一、村中孝次の両先輩が後に免職になる士官学校事件 ( 九年十一月二十日 ) が 起きて、
士官学校生徒の頃に昭和維新の洗礼を浴びていたわけです。
そこへもってきて、士官学校を卒へ 見習士官として聯隊へ帰ってきて間もなく相澤事件が起きた。
歩一の中は栗原さんを先頭に、もう何かバタバタしているといった雰囲気でしたね。
近衛歩兵第三聯隊はかなり革新の意気に燃えていましたか
今泉
いや、全然違うんです。
あの当時、近衛師団の中の革新将校というのは、近歩三の中橋基明中尉だけでしたね。
その中橋さんが、歩一の栗原さんと仲がいいということで睨まれて、一年間ほど満洲へ飛ばされていた。
もう近衛師団に戻るまいと思われていたのに、ひょっこり帰ってこられ、
聯隊本部付から第七中隊長代理になった。
その危険性をね、聯隊の将校達は気がついて恐がっていながら、新任の聯隊長等に話をしていないんですよ。
鈴木
私は直接事件には参加しましたが、どちらかといえば、革新運動にあまり関心を持ってなかったのです。
相澤公判が始まった時、その説明会が竜土軒で、二、三回開かれましてね。
私もその時 安藤大尉に誘われて青年将校の革新運動というものの洗礼をうけた、
というのが偽らざる私の場合でしたね。
つまり、白昼、陸軍省内で、一番威勢を誇っていた軍務局長永田鉄山少将が刺殺された、
この相澤事件が二・二六事件の契機である、というわけですか
常盤
と、思いますよ。
陸軍中佐が決心して少将を殺って、
「 これからどうするか 」 と訊かれて 「 命令どおり台湾に赴任いたします 」 と 答えたという。
この異様さは、今から見れば常識はずれもいいところでしょうが、
一部の者には、そこまで突き詰めたものがある、という感じで受けとめられた。
池田
私も同感ですね。
これはちょっと想像できないくらい、えらい事件という思いでしたね。
常盤
それと、いよいよやるぞ、と思わせられたのは満洲への第一師団の派遣決定でしたね。
これは満洲に行く前にやるだろうと。
あの年の二月は非常に雪の多い時でした、東京は四度も雪が降った。
その中で計画が進められて行くわけです。常盤さんが中隊を率いて警視庁襲撃の実施演習をされるのは、
二月十五日でしたか。あれは誰かに云われて・・・・。
常盤
いや、自分で考えてです。
しかし、怒られましてね、企図を暴露するではないかと言われて。
それで僕は
「 いや、受取る方は、第一師団は満洲へ渡る前に決行する筈だったのに、もう 間に合わん、
ええいッくそ、演習で鬱憤でもはらせ、という受取り方をしますよ。
だから企図を暴露することにはなりません 」 と 説明したものでしたよ。
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・・・挿入・・・
二月十六日 ( 日 ) 夜十一時
歩三第七中隊が非常呼集をかけ、夜間演習と稱して警視廳に突撃訓練を行った。
常盤稔少尉 ( 21 ) 指揮下の下、桜田門通りに百五十名が一列横隊となり、着劍した小銃を構えて、
「 齋藤 」 「 牧野 」 と聯呼しながら直突を三度繰返す。
齋藤實 ( 77 ) は内大臣、牧野伸顕 ( 74 ) はその前任者である。共に 二・二六事件で襲撃された。
直突とは着劍した銃を掲げ、敵の心臓部めがけて突き出すことを謂う。
おまけに訓練が終ると 警視廳舎に向けて一齊に立ち小便をしたことから、
侮辱と受け取った警視総監が第一師團長に嚴重に抗議する。
この夜間演習に海軍側は反應した。
新聞記者から情報を入手した當時の横須賀鎭守府參議長、井上成美少將 ( 46 ) は、「 陸軍はいよいよやるな 」 と、直感する。
かねてから米内光政司令長官の内諾を得て進めていた。
陸戰隊二箇中隊の特別訓練と砲術學校二十名の要員の非常招集體制の再點檢を行う。
國家非常事態となれば海軍省など關連施設の警備を名目に横須賀から上京派遣させるためだ。
米内は火急の際は、昭和天皇を宮城から救出し、戰艦・比叡に乘艦願うことまで想定していたと云う。
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蹶起が二月二十六日と知ったのは、ではいつ頃ですか
常盤
私は三、四日前に聞きましたね、野中さんと安藤さんから。
清原
それは間違いなく二十二日。
最後迄同意しなかった安藤さんを、前日の深夜まで磯部さんがくどいたが、どうしても承知されない。
翌二十二日朝、安藤さんの奥さんが廊下の雨戸をくったら、雪の中に磯部さんがしゃがんでいた。
おそらく一晩中そこに居たのだろう。
それで安藤さんがうたれて、遂に決意された。
この安藤さんの奥さんの最近の証言が、一番 正鵠を射ていると思う。
常盤
その前に、野中さんの必死の説得があったな。
中隊長が野中さんで、私が中隊付将校、部屋が隣合わせで扉が一枚。
その中隊長室で野中さんが安藤さんを説いていた。
今にして立たずんば天誅は反って我等に下る、そう言ってね。
・
蹶起を二十六日早暁と決めた重大なポイントに、
実は、この日に近歩三の中橋中尉の第七中隊が宮城赴援隊になった、という事実があります。
これはいかがですか。
今泉
その前に、赴援中隊というものを説明しておきますと、
これは常に聯隊内で待機しており、帝都に暴動が起きるといった事件があると、宮城を守る為、
兵力を増援する目的で宮城内に入る中隊です。
これは規則で決められています。
而も一日ごとにくるくる交替することになっておりますが、二十六日には我中隊にしてくれと、
中橋さんがわざわざ頼みにいっている。
よかろうということで 中橋さんの中隊が赴援中隊となった。
清原
この、革新将校の一人が違法でなしに中隊を率いて宮城内に入れる、ということは大事なことですよ。
どうでしょう、こうした蹶起の中心となるプランニングは山口一太郎大尉がやったのではないか、
という仮説は成立しないかな。
池田
そう考えるのは、ちょっと穿ちすぎじゃないでしょうかねえ。
それに、あの時 立たないと、栗原中尉が危なかったという事実がある。
埼玉挺身隊事件の黒幕として
池田
はい、自分の教え子をさかんに煽動したということで、睨まれていて、
いつパクられるか、クビになるか分らない状況に追い込まれていましたからね。
そんなこんながあって 「 何でもいいからやろう 」 という強い原動力になったのは、
栗原さん、磯部さん、それに河野壽大尉ではなかったかと思う。
清原
原動力はそうかもしれません。
が、私の云っているのは事件を起し、どう革新を進めて行くかの 『 計画立案 』 の問題でしてね・・・・
話を上の方へ伸ばしますと、事件が起きた時これをどう処置すべきかを考える立場にあるのは、
おもしろいことに全部が陸士九期の人達なんですね。
六人の大将が居った。真崎、荒木貞夫、本庄繁、阿部信行、松井石根、林銑十郎。
みんな 「 オレ 」 「 きそま 」 の仲です。
とくに皇道派の頂点にある真崎、荒木、本庄の三人が重要でしてね、
その間の最もよき連絡係が歩一の山口一太郎大尉であった。
山口大尉の義父が、侍従武官長本庄大将であったことに注目するわけですね
清原
そうなんです。私はどうも本庄大将に山口大尉から話がいっていて、本庄大将が
「 お前らがやってしまえば、こういう風にいける 」 というような、
つまりね、後は真崎内閣ができ、その政策はどうするとか、そういう話合いが持たれていたと思うのですよ。
山口大尉を形容すれば坂本竜馬かなんか知らんが、彼が作戦参謀であったと。
確かに、重臣、官僚、統制派軍閥など 天皇の聖明を蔽うものを取去れば それでよい、
というような大雑把な蹶起であったとは思えませんね。
あるプログラムがあり、それを実現させるためにはと、相当慎重に考えていた。
それは何かとなれば、天皇でしょう。
俗に謂う 『 玉 』 をおさえるという・・・・
清原
そのために邪魔になるのは三人の海軍大将なんです。
総理大臣の岡田啓介、侍従長の鈴木貫太郎、それに内大臣斉藤實。
首相と侍従長と内大臣、天皇の周辺から取除けば、直接天皇に奏上できるのは、あとは本庄侍従武官長。
それと日和見でどちらにでもつく川島義之陸軍大臣だけとなりますね
池田
私もそういう狙いがあったことは、かならずしも否定しません。
二・二六研究家の人達の色々な本を読むと、青年将校は天皇の側近であるという理由だけで斬った、
というように書かれているのですが、稍々単純すぎる見方だとは思っていますよ。
というのは、維新政府を樹てるために邪魔になるであろう人々を、目標としたのです。
それはもう間違いない。
そしてその相談に山口さんも相当に絡んでいるとは思います。
だけど、山口さんが原動力だったとは・・・・。
清原
原動力じゃない、作戦参謀じゃなかろうかと・・・・。
池田
愈々出動となって、私が機関銃隊の将校室にいる時、山口大尉がやって来て、二つのことを言った。
一つは、一緒になって参加したい、しかし 本庄大将の身内である点があって参加できないと。
だから、後のことを俺はやると。
清原
山口大尉はその夜は歩一の週番指令でしょう。その週番指令がOKで部隊が出る。
しかも、その週番指令が実に作戦参謀なんですよ。この事件は。
だから、後のことは俺がやるという言葉があるわけです。
それが本庄侍従武官長との連絡であり、宮城占拠計画であり、
そして多分参画したであろう攻撃目標の決定、ということでもあるのでしょうね。
そして、愈々蹶起の日が来るわけですが、常盤さんは何か失敗をやらかしたそうで・・・・
常盤
いや、失敗というのかどうか。愈々やるというので、末期の酒を飲みに行っていたのですよ。
酒好きなものですからね。それで、つい 過ごしてね。
帰ったら もう整列していました。後十数分も飲んでいたら、高田馬場に間に合わなかった堀部安兵衛か、
赤穂浪士の小山田庄左衛門になるところでした。
「 こんな大事に遅れるとは何事か 」
と 野中さんから怒られましたが、
「 末期の酒ですから 」
と 言ったら、
「 ああ、そうか 」
と いうことで 許してもらいました。
清原
常盤は野中中隊長が出るのだから、そのくらい余裕はあったんんです。
こっちは中隊長に怒られ怒られ、止められているのに出動するわけですから、
酒なんて飲んでる余裕はありませんよ。
鈴木
私の中隊長は新井勲さん。革新運動の大先輩だが、慎重な方らしいのでしてね。
だから愈々蹶起と決まった時、安藤さんから 「 新井には云うなよ 」 と 何度も釘を刺されましたね。
それでとうとう新井中隊長には言わなかった。
常盤
清原と鈴木は、だから非常な決心をしたわけですな。
中隊長から止められているのを自分から出動したのだからね。
私はスラリと蹶起部隊の中に加わりましたが、だから酒を飲んで危うく遅れそうになったりしたわけなのです。
・
蹶起部隊千四百八十三人がそれぞれの襲撃目標に殺到したのは午前五時です。
鈴木侍従長重傷、斎藤内大臣は殺され、他に渡辺錠太郎教育総監、高橋是清蔵相も殺害されました
池田さんの歩一の栗原中隊は、首相官邸を襲ったわけですね
池田
私は蹶起のことは二十三日に聞いていました。而も大部隊でやると。
そして二十五日の晩、代々木練兵場での演習から帰って自分の部屋へ行こうとしたら、
同期の林八郎君がやってきて 「 おい、池田、明日だ 」 と 言うんですね。
「 よし、分った、俺も行く 」 と、自然に言葉が出て、参加したというわけです。
つまり私は単独参加なんです。丹生さんは第十一中隊、栗原さんは機関銃中隊ですからね。
私は第一中隊。清原君と違って兵隊を連れてません。私は自分の意思をもって加わったことになる。
参加と決まってから栗原さんのところの小隊を任されるわけですね
池田
そうです。栗原中隊は、小銃三個小隊と機関銃小隊とに分けられまして、
第一小隊を栗原さん、第二小隊を私、第三小隊を林と、それぞれが指揮をとった。
機関銃小隊は尾島健次郎曹長だったと思います。
そして予定では第一、第二小隊が首相官邸表門から、第三小隊が裏門から、ということになっていたのですが、
林の小隊がちょっとした手違いからサァーと表門から入ってしまった。
それで私の小隊が裏門へ。
襲撃の時の唯一の激しい射ち合いが、首相官邸でしたね
池田
そうなのです。裏門には警官が四人いましたが、この人達が猛烈に抵抗したんですね。
それもよく狙いをつけて撃つという沈着な応戦をして後、全員が最期を遂げました。
拳銃には弾丸一発残っていませんでしたね。まったく立派な戦いぶりでした。
それから官邸の中に入り、林少尉とすれ違った。
その後に、女中部屋から出て来た警官と林がぶつかり、組みついてきたのを投げ飛ばして斬り、
返す刀で もう一人を刺すという早業をやったわけなんですね。
その二人の警官は、後で考えると、岡田首相を隠して出てきた瞬間に、林少尉と出会ったんですね。
その直後に、中庭で老人の姿を見たというわけですか
池田
いや、二人の警官を斬って数歩行った時、
兵隊が 「 中庭に老人が居ります。教官殿、どうしますか 」 と言う。
反射的に林は 「 撃て 」 と命令してしまった。
と いうわけです。
二人の血を見て気が立っていたのでしょうね、私の想像ですが。
・・・・この老人が松尾伝蔵予備大佐でした。
それからしばらく経って、 「 首相がいない 」 って云うんですね。
いない筈ないと、探すがどこにもいない。誰かが中庭に倒れているのが首相ではないか、と言い出した。
そして写真を探して持って来て見比べると、どうも似てるって云うんです。
ちょっと痩せている、すると 「 死んだら痩せるんだろう 」 なんて、ある兵隊が言ったりしまして、
最後に栗原さんが 「 首相だ、間違いない 」 と 決定したんです。
鈴木
似た容貌の秘書がいるとか、事前の情報は何もなかったの。
池田
なかったのかもしれないねえ。
それともう一つ、面白いのは、二十七日の午前に弔問客があってね、
百武三郎閣下と岡田という中佐、首相の甥だというのですが、この二人を遺骸のある部屋に通した。
百武大将は深くお辞儀をしただけで帰ったが、岡田中佐の方は顔の白布を取ってヒョイと見まして、
慌ててパッと白布を伏せまして、サーッと帰って行った。
それを私は 「 何であんなに慌てたんだろう 」 と 思っただけで、何も考えなかったのだから、
落着いているつもりでも、やはり興奮していたのでしょうね。
常盤
私は警視庁占拠部隊ですが、
実はね、警視庁の方が終わった後連絡将校として、その日に首相官邸に行ったのですよ。
岡田首相を殺ったというから、座敷へ入ったら、布団の中に横たわって、傷口はきれいに包帯されてありました。
それで白布をめくって見ると、どうも新聞などでみる首相と違うような気がする。
「 これ、人違いじゃないですか 」 と 栗原中尉に言ったら 「 そんなことはない 」 と言う。
「 じゃ、写真でも持って来て比べたらどうですか 」 って、
写真を持ってこさせて比べてみたんですが、これが何と、額縁のガラスに弾丸が当たって、細かいヒビが入っているやつ。
肝心の顔のところが、ガラスのヒビではっきり見えない。
今泉
外せばいいじゃないかね。
常盤
今はそうおっしゃるが、そんな知恵は出ないものですよ。
ともかく違う気がするので、「 栗原さん、違うのじゃないかなぁ 」 と言うと、
「 いや、死に顔というものは、死んだら容貌が変るんだよ 」 と 自信満々。
栗原さんは天津事変だかで一度は弾丸の下をくぐっている。
「 はあー、銃弾をうけて死ぬと、こんな風に変るんだなあ 」 と 納得しましたけどね。
池田
実はね、白状すると、私はホンモノの岡田首相の顔を確かに見ているのですよ。
全てが終って首相官邸内をずっと見回っている時、女中部屋にお手伝いさんが二人居り、
そこで料理番の老人が風邪で体の具合が悪く休んでいる、という報告を受けていた。
それで廊下を見回りながら、部屋を覗くと、廊下の方を向いて女の人が坐っている。
キチンと正座です。その右手に押入があって、その襖が半分ほど開けられていた。
向う側を頭にして、手前を足にして、布団を被って寝ているんですね、老人が・・・・。
清原
老人であると判ったの。
池田
判った。顔が開いた襖から見えたからね。
しかし、具合の悪い老人というのはこれか、と思っただけでね。
唯、首相官邸の総理付のお手伝いさんというものは、さすがに行儀がいいなァと、本当に感心しましたよ。
べつに、それが岡田首相だなんて夢にも思わなかったんですよ。
座敷に白い布を被って横たわっている遺体が首相だと、もう思い込んでいましたから。
・
半藤一利 編著 昭和史探索・3
われらが遺言・50年目の2・26事件 から
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