あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

中橋中尉 『 ワレ皇居を占拠セリ 』 1

2019年05月14日 16時47分11秒 | 中橋部隊


午前四時五十分、
中橋は衛兵司令に 「 明治神宮参拝 」 を告げ、なんなく営門を出た。
時を同じくして、宮城には異変が出来していた。
四時五十五分、
突如西方より現われた側車付自動二輪車率いる自動貨車四輌が、二重橋の車止めを突破。
宮城に非常配備の警報が走った。
野戦重砲兵第七聯隊の同志、田中勝中尉の行進である。
それは午前五時の一斉蹶起の先陣を斬る派手な陽動作戦だった。
もちろん中橋の赴任隊出動の口実を作るためであった。

中橋隊は薬研坂上まで来ていた。
赤坂台の近歩三営舎から、青山市電通りに面した高橋邸まで五分とかかるまい。
まだ五時前である。
明治神宮への道なら乃木坂を上がるところだが、兵たちがはっきり異常を知ったのは、この時であった。
まず 第一小隊に実包各五発が支給され、守備隊の服装をした第二小隊にも空砲各五発が配られた。
規則では 赴援隊は別命ないかぎり一切弾薬を携行しないことになっているのである。
なぜなら、控兵出動の要件である宮城の非常は、あくまで火事等を想定したもので、
まさか暴徒の襲撃などのためではなかったからである。
だから兵はともかく下士官ならその異常はすぐにわかったはずである。
かすかな動揺が起った。
それを抑えたのは斎藤ら中橋の命を受けた古参の下士官たちである。
中橋から斉藤へ、斉藤から箕輪三郎、宗形安の両軍曹へ、高橋襲撃は伝達されていたのであった。
中橋が目指す目標は、赤坂区表町三ノ十、大蔵大臣高橋是清私邸である。
一隊は目標の手前、シャム公使館前で歩を停めた。
途中一ヶ所の派出所を迂回したためか、ちょうど五時、一斉蹶起の時刻であった。
中橋はここで第二小隊を公使館脇の小道に待機させる。
そこからは高橋邸が見えない場所である。
突入隊の行動を察知されないための配慮だったろうが、銃撃がおこればただちに知れる距離だった。
そして第一小隊全員に
「 これより 国賊高橋を仆たおす 」
と 告げた。・・3月30日調書
もちろん 第二小隊には一切告げられなかった。
中橋は自ら先頭に立って目前の高橋邸に走り、一気に突入した。
このあたりの果敢な動きは、さすが実戦のたまものだろう。
その手並みの鮮やかさに、若い少尉の今泉はなかば感嘆して言う。
「 ・・・・シャム公使館の処にて第二小隊を残し、中橋は先頭に立ちて第一小隊を指揮し、
 間もなく高橋邸に入りて凶行を演じ、早くも公使館前に隊を引率し来りて
『 只今 高橋邸に異変あり、直ちに控兵として宮城に向かう 』
と 云いて 先頭に立ち第二小隊を指揮して・・・・」・・事件当日関係勤務者調書
が、その中橋の俊敏な行動の裏には、隊内をも欺かねばならない苦しい立場があったのである。
第二小隊はあくまで正規の職責を以て、堂々と入城させねばならないのだった。
そのためには高橋蔵相邸での銃声が、中橋自身によるものと思われてはならないのである。
さらに中橋は隊外に対しても迷彩をほどこす。
高橋邸は現在の南青山一丁目、高橋記念公園である。
当時の青山通りには市電が走り、対面は大宮御所だった。
大宮御所には皇宮警察と近衛の守備隊が警護にあたっていた。
中橋はそれを承知で通り 軽機を二梃据えている。
びっくりしたのは先方である。
「 午前五時十分頃、細田警手は青山東御殿通用門に勤務中、
 高橋蔵相私邸東脇道路より、将校一名・下士官二名が現れ、将校が同立番所に来て、
『 御所に向っては何もしませんから、なにとぞ騒がないで下さい 』
と 挨拶した。
細田警手は言葉の意味が解らず、行動に注意していたところ、
同将校は引き返し、道路脇で手招きして着剣武装した兵約一個小隊くらいを蔵相私邸に呼び寄せ、
内 十二、三名を能楽堂前電車通りに東面して横隊に並べ、道路を遮断し、軽機二梃を据え、
表町市電停留所にも西面して同様に兵を配置し、他は蔵相邸小扉立番中の巡査を五、六名で取り囲み、
十数名が瞬間にして邸内に突入した 」 ・・皇宮警察史
その後、邸内より騒音が聞こえ、銃声が七、八発したと同書にある。
まず鮮やかな手際ではあるが、
わざわざ軽機を目立たせた意図は明白である。
異変の出来を皇宮警察を通じ、守衛隊に知らしめる為に他ならない。
もし 隠密裡にことを達するつもりなら、銃を使用せずとも討ち取れる相手であろう。
高橋蔵相は齢八十二の老人であった。
実際、襲撃は完璧に近いものであった。
護衛警官 玉木秀男に軽傷を与え軟禁し、所要時間わずか二十分たらずであった。
・・・中略・・・
しかし 初っ端、そこで中橋に、すでに不運は兆していた。
その日の大宮御所衛兵司令が、前出の今井一郎中尉だったのである。
松下はその一隊が星に桜の徽章きしょうであることを聞くや、すぐに中橋に想到したのである。
その頃、守衛隊司令部では田中勝中尉のデモストレーションに一旦は非常配備をとったが、
田中の宮城遥拝のためという釈明で一件は落着していた。
しかし、休む間もなく大宮御所の松下からの通報に接し 色めきだった。
午前六時前、こんどこそ まごうことなき異変の出来だった。
それから約二時間、いよいよ中橋の宮城での暗闘が始まろうとしていた。

「 午前五時二十分頃、大宮御所衛兵司令今井中尉より高橋蔵相私邸に暴漢襲撃し、
殺傷事件を惹起せるを以て非常配備を取りし旨 報告ありしを以て
宮城各衛兵に非常配備を下令し、且 今井中尉に事件の詳細報告 ( 加害者不明なりし為 ) を命ずると共に
各関係方面に報告、通報す 」 ・・3月25日近衛師団報告書
その騒ぎの真っ只中に、まさに張本人の中橋が登場するのである。

高橋邸襲撃を終えた中橋は、突入隊を中島少尉、大江曹長、箕輪、宗形 両軍曹に託して首相官邸に向かわし、
こんどは赴援隊の第二小隊を今泉、斎藤と共に率いて青山通りに出、半蔵門に向かうのだが、
すぐに田中の自動車隊に遭遇する。
「 ・・・蔵相邸表に出ると、陸軍砲兵中尉田中勝が自動車四台を率いて通り抜け、
私に 『 しっかりやって下さい、私はこれから陸相官邸に行きます 』 と 云い、
田中中尉が 『 非常!』 と 叫んでいたという事で、
突発事態に遭遇したと認め 第七中隊は直ちに宮城に赴く 」 ・・・3月15日 中橋調書
「 非常 」 というのは敬礼をできない時に使う軍人用語である
午前六時やや前、守衛隊司令部に今井中尉から情報が入った。
「 前記 今井中尉より皇宮警察の通報に依れば
 蔵相を襲撃せるは、近歩三 中橋中尉の指揮する一部隊なりとのことを報告す。
依って直に近歩三 日直指令 南大尉に電話連絡せしに、
未だ承知しあらざりしを以て巡察の派遣を依頼す 」 ・・・3月25日近衛師団報告書
その報に、しかし司令官門間は、
「 大変なことをしてくれた。然し 今井中尉 又は衛兵が実見せるにあらざる故 疑わず、
まさか近衛将校がそんな事をと 思えり 」・・・3月25日近衛師団報告書
と 考え、その場に来た伝令に、中橋の人格問題だと口止めする気配りを見せている。
そして中橋がその日の控兵隊長であることを知りつつも、
よもや当人が宮城に来るとは予期しなかったとも供述している。
が、その頃 中橋はすでに半蔵門に到着していた。
中橋もまた自分が疑われているとは思わなかったにちがいない。
この迅速な判断は、たぶん今井中尉の個人的な中橋観、二年前の事件に由来した私情だったと思われる。
「  『 司令殿、唯今 皇宮警察から電話があり、高橋蔵相私邸に近衛の徽章をつけた兵隊たちが来て、
何かやっているとのことであります 』 と言う。
私の頭には三年前栗原中尉と中橋中尉によって実行されようとしたクーデター計画が蘇って来た。
高橋邸に来ているのは、中橋中尉に違いない。
と すると 宮城が危ない 」 ・・今井一郎記
正確には、中橋隊が半蔵門に到着したのは午前五時五十分頃である。
皇宮警察が立番する門前に約二個小隊の兵が来て、
特務曹長が警手の許に駆けつけ
「 近衛三聯隊中橋中尉以下二個小隊が正門守衛隊の応援に来た 」
旨を申し立てたのである。
特務曹長といえば斉藤一郎である。
その斉藤があえて二個小隊と告げたのは、今泉少尉が同道していたからだろうか。
つまり自分と今泉、二人の小隊長がいると判断されると察しての機転だったのだろう。
そこにちょうど来合せた半蔵門衛兵司令が応対した。
小谷信太郎特務曹長である。
すでに小谷はその少し前に、守衛隊司令部より 「 何かあったらしい。警戒を厳重にすべし 」
との命令を受け、半蔵門を三人哨にしていたから、
控兵の到着になんら不審を抱かずに門内に入れた。
その際 中橋は
「 非常配備をとらなければならぬ状勢になったから、控兵を連れて来たり 」
と 平然と告げている。
さらに傍らの皇宮警察にも
「 どうか変な者を入門させないよう十分注意して下さい 」
と 激励している。 ・・皇宮警察史
二月二十六日の日の出は六時十六分。
暁闇の中、中橋の一隊は、深々と積もった雪の宮城の風情をたのしむでもなく、
正門脇の守衛隊司令部をめざし玉砂利を踏んで行った。
中橋隊の守衛隊司令部到着は六時頃である。
「 午前六時頃 控兵たる第七中隊長代理中橋中尉、今泉少尉、斎藤特務曹長 以下六十二名到着し
中橋中尉は左記要旨の報告を為す。
其時 帯刀者は軍刀を佩はいし 中橋中尉は上衣の第二 第三釦を脱しありたり 」 ・・・3月25日近衛師団報告書
中橋は小隊に待機を命じ、今泉、斉藤を伴い司令部にはいった。
この時 司令室には門間司令官と中溝猛儀仗衛兵司令がいた。
ただちに中橋が赴援隊到着の報告をする。
まず中橋にとっては最初の勝負どころである。
オシャレで有名な中橋が上衣の釦をかけ忘れていたというから、その緊張ぶりがわかる。
「 明治神宮参拝の為 非常呼集を為し 行軍中蔵相附近に於て非常事件の起れるを知り
直ちに控兵として転進到着せり・・・3月25日近衛師団報告書
門間はすでに、大宮御所の今井から蔵相襲撃の暴徒が中橋との報告を受けていた。
しかし、その到着前に聯隊日直指令に中橋隊の動向を照会し、
「 帝都に突発事件生じたる為 非常と認め直ちに宮城に到る 」
旨の中橋からの伝令があったことを確認。
さらに状況把握のため師団司令部へ派遣していた友安曹長が戻り、
暴徒は歩三の安藤以下だとの情報を受けていた。

門間の報告 ( ・・・3月25日近衛師団報告書 )
「 近歩三にては なかりしや を確め その様な事聞かずとの返事を得、
之は歩三と近歩三との間違いならんと思えり 」
さらに中橋隊到着に際しては、
「 やはり間違いなりと ホッとすると共に、たいそう早く来たものなりと思えり・・・・
近衛将校として犯行者が控兵を率いて来るべし 等とは全く思わず・・・・
中橋の到着時は稍々やや気き込みありしと上衣の第一第二釦の外れある位にて
態度には格別不審も抱かず只速に坂下門を警備に行くことを申言せり 」
門間の供述を信ずれば、守衛隊司令官としての門間はいかにも呑気である。
たしかに近衛将校がそんな大それたことを、という思いはわかるが、
前後の状勢から一応懐疑の眼を向けてもよさそうなものである。
しかし、門間は中橋の申言に応じて中橋小隊を坂下門の警備に当たらせる。
「 事態切迫せるを以て直に中橋中尉の指揮する一小隊を以て坂下門の警備に任せしめ、
他の一小隊は今泉少尉の指揮を以て予備となす 」 ・・・3月25日近衛師団報告書
この坂下門の警備は、規則によって赴援隊出動の際の定位置だったから、
ひとまず中橋の申言は妥当なものであった。
ここで中橋の勝負は勝ちである。
結局、中橋はほぼ予定通りの時間に坂下門を押さえることに成功した。
その時間は、前後関係から六時十五分頃であろうか。
遅くも六時二十五分前だったのは 『 皇宮警察史 』 によって 明らかである。
「 近衛守衛隊においても、六時二十五分 坂下門内外に 将校一名、兵五名を配置し・・・」

その頃、桜田濠を隔てた警視庁の屋上に無数に光る男達の双眸そうぼうがあった。

歩兵第三中隊付少尉 清原康平率いる約四十名、彼等は九百メートル離れた坂下門を一心に見つめていた。
宮城に入った中橋隊から、 「 占拠成功 」 の信号が送られてくるのを、今や遅しと待っていたのである。
清原を含む警視庁占拠部隊は、歩三第七中隊長 野中四郎大尉以下総勢五百名、蹶起部隊中最大の陣容だった。
将校四人を配し、重機関銃八挺、軽機関銃十数挺、実包四万発、優に一個大隊に匹敵するものである。
いかにも目標が警視庁とはいえ、当時は警官の拳銃携帯も限られており、
深夜は当直がわずかばかりで、とうてい完全武装の軍隊の相手になるような敵ではなかった。
野中ら将校が多数留意したのは、柔道の有段者など選抜して組織した新撰組と呼ばれた帝都特別警備隊だが、
重機を備えた大隊と対峙しうる戦力ではなかった。
もちろん それを承知で大部隊を投入したのは明らかである。
目的は眼前に黒々と横たわる宮城への進駐にあった。
警視庁をその拠点としたのは戦術上から一石三鳥の上策だった。
まず、蹶起初動の時点で敵対勢力となる可能性のある警官の本拠を扼やくして、その力を封殺する。
第二に 警視庁舎は宮城に至近な建物で、しかも屋上の望楼は手旗信号の交信に最適である。
第三に 庁裏の空き地に大部隊を収容でき、進駐まで隠密裡に待機させることができる。
ここに野中隊の下士官だった福島理本の覚書がある。
それには蹶起当夜の歩三の状況、野中大尉の蹶起趣旨などが克明に記されているが、
野中の言として注目すべき個所がある。
「 天佑有り、先日の大雪にて垣根 ( 警視庁裏の空地の柵 ) 破れ居れり 」
実際、警視庁を無血占拠した野中は、事前の申合せ通り 兵の大部をこの空き地に待機させている。
そのため五百の大兵力は秘匿され、また坂下門へもっとも出動しやすい態勢が得られた。
指揮官の野中に 「 天佑 」 と 云わせたのは、警視庁占拠に伏在する目的を考えてのことだったのである。
その宮城の中橋からの信号を野中から命じられた清原は、占拠後ただちに屋上望楼に上った。

時刻は六時頃であった。
「 ・・・・野中大尉が警視庁と折衝の結果、同庁の明渡しを受け、
私は第三中隊の一部 ( 約四十名 ) を以て

( 軽機関銃二ケ分隊、小銃二ケ分隊 ) 警視庁屋上を占拠すべき命を受け、
直に占領しました 」 ・・3月2日 清原調書
そしてさらに清原は、
戦後になってからこの時の任務の真相について語っている。
「 私の任務は兎も角も屋上に駆け昇り、機関銃座を作り、そして間近に見える宮城の森の中で、
小さい光に依る信号が現れるのを待つ事でした 」
「本庄侍従武官長が天皇に上奏して
その御内意をうけたらそれを侍従武官府を通して中橋中尉に連絡する。
わが歩兵第三聯隊が堂々と宮城に入り昭和維新を完成する。
これがあらかじめ組んだプログラムですよ」。
「宮城に入った赴援部隊が実弾をもたなかったというのもそれです。」
「(中略)所が陛下に叱られて本庄さんが動けなくなった。
陸相や真崎さんは、待てど暮らせど本庄さんから連絡がないから、自分の方から動けない。」
「 天皇の怒りが全ての計画をホゴにしたことはあきらかです。」 ・・文芸春秋 昭和61年三月号


坂下門に着いた中橋がまず命じたのは兵の配備であった。
門内正面に歩哨四名、坂下門右側土手堤に歩哨二名、同左側土手堤一名、
さらに門外前方にも歩哨二名を配した。
又、斉藤特務曹長指揮の二箇分隊を蓮池門跡に配置している。
これは近歩一、二聯隊への万一の備えとみるべきであろう。
近歩一、二の二つの聯隊は宮城の北端に隣接した現在の北の丸公園に所在していたが、
当然非常の際は位置からいって、直ちに出動すべき部隊である。
かりにその二個連隊が討伐に出動すれば、もちろん中橋の小隊など鎧袖がいしゅう一触であった。
が、中橋にその懸念はまずなかったと見ていい。
なぜなら近歩一、二聯隊が宮城に入城するには乾門いぬいもんを通る。
だから、乾門と御所との間にある蓮池門跡に兵を配せば、御所を背後にすることが出来る。
近衛が御所に向かって発砲することは、まずあり得ないことを同じ近衛の将校中橋が知らない訳はない。
又、近歩一、二とて独断で出動することはあり得ない。
宮城内のことだから、先ず侍従武官府から参謀本部へ、その命令を以て初めて動くのが軍の統帥系統である。
そこにも侍従武官長本庄への期待があった。
が、ともかく中橋は念の為か、二箇分隊を配置した。
そして残部の一箇分隊を皇宮警察前に駐め、中橋自らが直接指揮をとった。

皇宮警察は宮内省管轄の皇室警備隊で、昭和九年度の数字だが全国総数五百九名を数えていた。
そのうち四百四十四名が在京部員で、宮城にはその半数があった。
しかし、銃保有率は二割六分強という弱体で、やはり軍隊の敵ではなかった。
ただその本部は内坂下門前 ( 東渡廊下坂下 ) にあり、坂下門には九十一名が詰める第一分遺所があった。
又 互いの立場上、近衛とはつねに紛議の絶えない関係だっただけに、
中橋にとってはむしろ油断のならない相手だったのである。

ついで中橋は、兵たちに重臣、大官の参内阻止を命じた。
「 軍人は陸相官邸、文官は首相官邸へ連行する 」 ・・3月30日 中橋調書
との命令である。
そして 供述にはないが、同志との申合せにしたがい
「 尊王討奸 」 の合言葉 と 「 三銭切手 」 が 通行証であることを告げたにちがいない。
これで中橋の坂下門警備の準備完了である。

中隊長代理の中橋には、傍らに常に伝令と通信兵がいた。
伝令は金森一郎一等兵、通信兵は長野峯吉一等兵であった。
長野は入場直後、宮城午砲台で警視庁屋上からの手旗信号を受信するよう中橋から命じられている。
「 宮城に入ってすぐ中隊長に呼ばれ、お前は午砲台に上がって、
警視庁の屋上からの通信を受けろ。あり次第 すぐに報告せよ。
と 命ぜられ、それから三時間くらい眼をこらしていました。
その日は雪模様でしたが、
とにかく警視庁は お濠を挟んで目の前ですから、なんとか識別できる状況でした 」 ・・長野峯吉談
しかし、長野を午砲台に残したのは中橋の失敗だった。
当初の計画では宮城からの発信は午砲台だったようだが、
実情は坂下門に着いた中橋が午砲台の長野に発信させるのは容易ではなかった。
交信の条件としては距離にして約半分の午砲台が勝るが、
一旦 坂下門に定置した中橋が午砲台へ連絡する手立てがないのである。
又、長野が中橋から命じられたような警視庁からの発信もなかった。
不思議な事である。
警視庁の屋上へ上がった清原少尉も亦、受信を命じられたのみである。
どちらかが発信しなければ受信できないのは道理だ。
とくに中橋としては逸早く坂下門占拠の報を警視庁へ、さして栗原へ伝えなければならない。
おそらく、中橋は 先づ坂下門のどこかから自ら発信を試みただろう。
あるいは 実弟武明から無理矢理 借り出した新型懐中電灯を使ったかもしれない。
だが、受信の応答は得られない。たしかに、受けるべき清原にも届いていない。
二月の払暁ふつぎょう、しかも 雪模様の曇天で
手旗にせよ、発行にせよ、かなり交信条件は悪いといわねばなるまい。
中橋らは当然その日の日の出時間を六時十六分と確認していたにちがいないが、
あいにくの天気であった。
しかし、このことは重大である。
交信不能で済むことではもちろんない。
又、隊のことなる歩兵通信の難しさは常識だったから、万一の場合はいたずらに届かぬ信号を送るよりも、
わずか一kmにみたない相手だ、伝令を走らすことを準備していたろう。
実戦経験を持つ中橋にそんな初歩的な判断がつかぬはずはない。
中橋は伝令 金森を走らせたにちがいないのだが、金森一郎は今日すでにない。
随い 仮作する
中橋の命を受けて通信紙を持った金森は警視庁へ走った。
坂下門から警視庁はせいぜい五分とかからない。
野中がそれを受けた時間は遅くとも七時半前である。
それには傍証がある。
八時前、宮城からの受信の任に当たっていた清原は、
目的を達しないまま野中の命により 警視庁屋上から隊員ごと降ろされている。
絶大な天皇信奉者だった野中は、急遽与えられたこの宮城に関する一連の任務になお、
ためらいがあったのかもしれない。
計画は承知していたものの、進駐には慎重な姿勢を堅持したのではないか。
それは野中にとって最後の手段でよかった。
突発直後のことである。
彼我双方とも 一挙の帰趨きすうがつかめない時点での先走りにも思えたのではないか。
これについて清原少尉は明言する。
「 私は宮城の中で点滅するはずの信号を、いまかいまかと待っていた。
その信号こそ、中橋中尉による宮城占拠の成功を知らせるものだった。
信号があり次第、安藤大尉が兵を率いて宮城に入り、昭和維新はそのとき成るはずだった 」 ・・文芸春秋 昭和46年6月号
仮に宮城進駐の指揮官が安藤だったにせよ、
三宅坂に待機する安藤へ宮城内の中橋が直接伝達することは かえって迂遠である。
位置の定まらぬ路上の安藤隊を捜す愚を犯すとは思えないからである。
何れにしても野中は占拠成功の報を手にした、これは確かな事である。
しかし、野中は動かなかった。

次頁 
 中橋中尉 『 ワレ皇居を占拠セリ 』 2  に  続く
仲乗 匠 著 「 ワレ皇居を占拠セリ 」 から


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