あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

野の中に すがたゆたけき 一樹あり  風も月日も 枝に抱きて

2020年12月18日 16時58分57秒 | 後に殘りし者

野の中に すがたゆたけき 一樹あり
 風も月日も 枝に抱きて

  

  齋藤 史
平成九年一月、
史 は
宮中歌会始の召人に選定され
不自由になった足をひきずりながら
宮殿の階段に歩を進めていた。
・・・
「宮殿の大広間へ向う階段の向うの庭に
軍服の連中が並んでいるのが見えたのよ」
と、史 は語った
白い影のような青年将校たちは
兵馬俑にも似て、黙って並んでいた。
それには伏線があって、参内する前夜、
史 は
「みんな 一緒に行こうか」
って 声を掛けたというのだ。
「俺は成仏しないぞ」
と、叫んで死んでいった栗原たちの目は、
遺族が何回撫でても閉じなかったといわれている。
「今度こそ、成仏できるわよ。行くわよ、みんな、陛下の前に出られるのよ」
全員の無念を抱えた 史 は、
天皇皇后両陛下ご臨席の前で、
自分の歌が講師によってゆったりと詠われるのを聞いていた。
澄んだ声の響きが召歌を詠み進んだ。

野の中に すがたゆたけき 一樹あり
 風も月日も 枝に抱きて

「お父上は、斉藤瀏さん でしたね、軍人で・・・・」

控えの間に戻ってから、

天皇陛下から そう声を掛けられ、
「初めは軍人で、おしまいはそうではなくなりまして。おかしな男でございます」
そう答えるのが精一杯だった。
答え終わって
帰りの宮殿の庭に兵馬俑の姿は消えていた。
さっきまで確かに長靴を履いた十数人の姿が見えたはずだったが、
彼等は 史 の目からも見えなくなっていた。
「成仏したんだわ。きっと楽になれたのね」
史 は
そうひとりごちて 宮殿を後にした。

「 おかしな男です 」 といふほかなし  天皇が和にこやかに史の名を言ひませり

昭和天皇 は生涯の最後まで
二・二六事件のことを忘れることはなかったと思われる。
そして、できることならお互いに和解できたら
とどんなにか素晴らしいと思っていたのではあるまいか。
その意志を天皇は
おそらく皇太子時代の今上天皇に話されたのではないだろうか。
「陛下はその後も勉強しておられるご様子です」
と 伝えた岡野弘彦の電話からもうかがえるが、
昭和天皇が何らかの気遣いを伝え残されていたことは想像できる。

昭和天皇の細やかな気配りを示す一例が残っている。
「二・二六事件を起こした幹部のうち十五人は、その年の七月に銃殺された。
翌年八月の新盆に、
天皇は十七の盆提灯を用意させて常盤殿に吊るさせている。
処刑された十五人と、自決した二人(河野、野中の両大尉) とを加えた数になる。」
・・・昭和維新の朝  工藤美代子 著から 

齋藤史 関連
・ 齋藤史の二・二六事件 1 「 ねこまた 」
・ 齋藤史の二・二六事件 2 「 二・二六事件 」
斎藤史の二・二六事件 3 「 天皇陛下万歳 」
・ 
ある日より 現神は人間となりたまひ
「 栗原死すとも、維新は死せず 」 

齋藤瀏少将 「 とうとうやったぞ 」