あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

匂坂春平檢察官 『 きょうは四人の方々の命日だね 』

2020年12月12日 08時06分25秒 | 後に殘りし者

一  事件のために特設された特別軍法会議の主席検察官であった匂坂春平氏は
  去る昭和二十八年八月十九日に逝去された。
筆者と匂坂氏との関係は、
筆者が事件の遺族の集りである仏心会の代表者として個人達の法要を主宰しているので、
その都度案内状を差出していただけのものである。
『 二十二士之墓 』 開眼供養法要の日だった。
受付に案内状の封筒を置いて、墓所に参詣をして帰ろうとされた老人があった。
受付係がおりから法要中の本堂の方へ案内するのに答えて、
「 私は遺族の方にお会いするに忍びないものです。
あの時は職責の上からああせざるを得なかったということを皆様にお伝え頂いてお許し願って下さい 」
といい残して帰って行った。
受付に置かれた案内状によって、その老人が匂坂春平氏であったことがわかった。

その次の年の法要の時にもやはり私達遺族の前には姿を見せずに墓参だけして帰る匂坂氏だった。
その匂坂氏が、二十八年の八月十九日に逝った。
ちょうど、この日は磯部、村中、北、西田の四士の十七回忌祥月命日の当日であった。
匂坂氏は死の当日、今日はあの人達の命日だね、と語っておられたという。
偶然といえばそれまでだが、その匂坂氏の葬儀の当日未亡人から伺ったこの話は強く私の胸を打った。
それと同時に前記の刑死者達の裁判に対する獄中からの悲痛な抗議を裏付けるような次の事実を知って驚いたことだった。
未亡人が語られるには、戦時中空襲が激化した頃、
役所よりも自宅の方がまだ安全だと思うから、何か大切なものは持ち帰られたらどうかと勧められた時、
「 そうだね 」 といって、その後帰宅の際 自動車で少しずつ運ばれた書類を大切に保管された。
後になってその書類はすべて 二・二六事件関係の書類だけだったことがわかった。
この書類だけは、匂坂氏にとって焼失してはならない一番大切な書類だったようだ。
家族の人には、一切何事も語らなかったそうだが、近所の親しい医者の人だけには、
「 私は二・二六事件の裁判官として申訳ない誤りを犯した。
有為の若い人達を多数死なせてしまったことは、
たとえ、軍の方針であったにせよ、裁判官としての良心からは許されるべきではない。
私の生涯はこの罪の償いのために捧げたい 」
という意味のことを語っている。
終戦後一切の公職から去り、外部との交渉を避けて、自宅に蟄居しての生活だった。
病気にかかっても一切医者にかからず、家屋ならびに屋内の手入れもさせず、
総てを自然のままの推移にまかせて、家人の注意に耳をかさなかったという匂坂氏の生活が、
そり裏にこうした理由があったとは未亡人でさえ、
死後になって初めて知らされたと語って下さったとき、私は匂坂氏と二・二六事件との因縁の深さに驚かされた。
奇しくも 四士刑死の十七回忌祥月命日の当日、消えるように死んで行かれた匂坂氏は、
きっと冥途であの人達にお詫びをしておられるに相違ない。
前記の村中孝二の遺書にある 「 裁判が済んだら辞表を・・・・」
の字句が決して虚構なことでなかったことを改めて裏付けられ、
確信づけられたことだった。
・・・河野司 著  湯河原襲撃 から

二  匂坂さんの葬儀は、八月二十日に自宅で営まれた。
  賢崇寺の藤田住職と一緒に参列した。
焼香を終って下がる私に追いすがるように、霊前に座っておられた未亡人が席を立って下りてこられた。
たぶん石上氏が知らせたのであろう。もちろん初対面であった。
深々と頭を下げた未亡人は、
「 主人は最後まで皆さんのことを口にしておりました。ありがとうございました 」
まだ語をつぎたいような未亡人を押しとどめて、あらためてお伺い申上げます、と言って辞した。
まだ会葬者の焼香が続いていた。
帰る道々、藤田師と語り合ったことは、何か話したいことがあるような未亡人の様子であった。
少し落着かれた頃に、もう一度お訪ねすることを藤田師と約した。

私が藤田師と再び匂坂家を訪れたのは九月の初めであった。
まだ悲しみの消えない真新しい白木の位牌を囲んで、数々の供物や生花が飾られた仏前に、
藤田師の読経が捧げられた。
目のあたりにする匂坂氏の写真に親しく語りかける思いだった。

焼香を終えて、未亡人と三人での語らいはおのずから事件関係のことであった。
「 主人が無くなります朝、庭に出て草いじりをしていましたが、縁側に腰かけて、
『 きょうは四人の方々の命日だね 』 と、自分にいいきかせるかのように申しました。
そしてその午後に、まったく消え入るように死にました 」
村中、磯部、北、西田の四士が死んだその同じ日に、
それを口にして死んで行った匂坂さんと事件との因縁を、
ただ単に偶然の一致とかんがえることのできないいろいろの想い出や、出来事を、未亡人はしみじみ語った。
それは、何も言わなかった主人に代って、遺族の人々に話したい、知って欲しいという、
切な気持が、訴えるように語り続ける未亡人の言動に感じとられた。
先の葬儀の際、まだ会葬者の焼香の続いているさなか、座を外してまで私たちに言葉をかけられたことも、
今にして思えば、こうした未亡人の気持の現われであったことと知らされたことだった。

大東亜戦争が激化し、東京への空襲が頻りとなった頃、匂坂氏は陸軍省に在勤していた。
一日、夫人は、
「 何か大事なものがあるなら役所よりも自宅の方が安全と思うので、持って帰られたらいかがか 」
と勧めた。 「 そうだね 」 と、肯いて出て行った匂坂氏は、その日から、帰りの自動車に積んで、
いくつかの書類の包みを持帰った。
あとで判ったことだったが、それは全部、二・二六事件関係の書類であった。
「 主人にとって、焼いてはいけない、一番大事なものは、事件関係の書類だったようです 」
これがその書類ですと持ってこられたのは柳行李に一杯の大量のものであった。
私が手に取ったのは上の方にあった陸軍罫紙に書かれたものだったが、
それには、将校たちの氏名が列記され、その上欄に 「 死刑 」 の字が全員に記されてあった。
そして、判決で無期になった常盤少尉以下の人々の分は、
一度書かれた 「 死刑 」 の文字の上に赤インキの棒線が引かれていた。
おそらく求刑の折りの原稿であったのではあるまいかと思った。
これは大変な記録の集積であるとの驚きに眼を輝かせた。
この厖大な記録を一つ一つ眼を通すことは、いく十日間かを要するだろう。
私は後日を期して、手にして二、三の書類を行李に納めた。
おそらく事件の裁判過程のすべての資料が揃っているのではあるまいか。
こんな記録がここに残されていることを確認しただけでも、私の胸のときめきを抑えきれなかった。
 ・
行李の蓋をしめながら、未亡人の話は続いた。
「 主人が死にましたあと、近所の懇意なお医者さんから、こんな話を打明けられて、
初めて主人の気持が判りました。 私にも、家族の誰にも、何一つ話さなかったことです 」
しんみりと語る未亡人の話というのは、
匂坂氏が昵懇にしていた近所の医者を訪れたとき語った話として、
自分は病気になってもいっさいかまってくれるな、自然のままで死んで行きたい。
それというのは、自分は生涯のうちに一つの重大な誤りを犯した。
その結果、有為の青年を多数死なせてしまった。
それは、二・二六事件の将校たちである。
検察官としての良心から、私の犯した罪は大きい。
死なせた当人たちはもとより、その遺族の人々にお詫びのしようもない。
敗戦になって軍職を失った自分は、もうお国への勤めも終った。
これからの自分の余生は、この人たちへの罪の償いのために、静かにしぜんのままに消えて行きたい。
そしてこのことは私が死ぬまで、誰にも語ってくれるな
という切実な懺悔に似た訴えであったという。
・・・河野司 著  ある遺族の二・二六事件  から


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