あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

今泉少尉 (1) 「 よし決心だ! 余は行動を倶にせんとす 」

2019年05月04日 14時32分33秒 | 中橋部隊


近衛歩兵第三聯隊第七中隊
宮城赴援隊小隊長
今泉義道少尉

元来、近衛師団の歩兵連隊に入隊する壮丁は、
各都道府県知事の推薦によって選ばれた人々であった。
これは禁闕守衛の任務につくための配慮によるものである。
従って、裕福な家庭に育った青年ばかりであろうと想像していたが、身上調書ができ上るにつれて、
過程の事情欄には、小作農、生活貧困が多く、私の心を暗くさせた。
当時の社会記録を繙ひもとく迄もなく 小作農の生活は悲惨そのものであった。
都市労働者は殆どいなかった。
然し彼等には選ばれたものとしての誇りがあり、これは私の唯一の救いであった。
戦場で国家のために喜んで一命を捧げる兵隊を作るためには、先づ何を教えるべきか。
国防の本義と軍人としての死生観を一致させなければ、初年兵教育も単なる技術教育に了る。
仏作って魂の入っていない兵隊ができ上ってしまう。
社会組織の矛盾、経済組織の不合理、政治の貧困さなど、
私は身上調査によって まざまざと現実の問題として受けとめていたのであった。

ああ 吾らが護らんとする祖国・・・教官が教える祖国とはあまりにも遙かなる理想境に過ぎないではないか。
軍人は政治に係ってはならぬ。
軍人には選挙権すらなかった当時のこと。
政治の批判など軍法をもって禁ぜられていた当時のこと。
一人の初年兵教官が真面目に考えれば考える程 兵隊が可哀想になった。
軍隊を構成する底辺の兵士達は徴兵である。
有無をいわせず地主や資本家達、所謂特権階級の利益のために貴い命を捧ぐべし
と 教育する初年兵教官は一体何者ぞ、こんな筈ではなかった。
こんな馬鹿な話があるものか。
ある日 兵隊を引率して青山通りを行軍していたら、電柱にビラが張られていた。
『 ・・・見よ、財閥は私利私慾を恣にして貧富益々懸隔。
政党は党利党略に走って社稷は累卵の危機。
妖雲聖明を覆いて 天日俱に闇し・・・』
私は咽び泣く思いを辛うじて耐えた。

二月上旬、中橋基明中尉が満洲から帰還した第七中隊付となった。
第七中隊長井上勝彦大尉は陸軍大学校の専科学生として入校したので
中橋中尉が中隊長代理となったのである。
私は毎日初年兵と起居を共にし 一緒になって汗まみれ泥まみれになって、
三月上旬 富士の裾野において行われる筈の第三期検閲に備えて訓練に余念がなかった。
ある晩、代々木練兵場で夜間演習中にひっこり中橋中尉が現れた。
私は訓練を中止して中隊長代理に敬礼し型通りの報告をした。
中橋中尉は江戸っ子らしいキビキビした調子で初年兵に訓示した。
「 俺は最近まで満洲のソ連国境の警備隊に勤務していたが、
今夜の諸子の訓練を見ていると、まるで幼稚園の遊戯みたいだ。
もっと真剣になってやれ、夜間の格闘動作などまるでなっとらん。
近く第一師団は渡満することになったが、我々近衛師団の敵は国内にあることを忘れてはならん。
俺は国内の敵をやっつけるために満洲から帰ってきたのだ 」
と 思わず ハッとするような言葉を残して闇の中に消えていった。

二月二十五日、
この日は富士の裾野 滝ケ原廠舎に移動する準備のため、
朝から各種の梱包を作ったり、兵器や被服の手入れ検査などで忙しかった。
聯隊会報によれば
明二十六日は代日休暇、
二十七日午前八時 富士御殿場に向け営門出発の予定となっていた。
夕方になったので私は食事のため将校集会所に行った。
そこで私は同じ中隊付将校棚橋新太郎少尉に出合った。
彼は特別志願将校として年配も私より上であり、当時歩兵学校在学中であったので、
あまり話合う機会もなかった。
「 今泉さん、明日はどうしますか?」
「 正月以来家に帰っていないので、今夜は久振りにおふくろに会いに行こうかと思っています 」
「 時に今泉さん、何か中橋中尉殿からお話をきいていますか?」
そういって彼は何かを探るような目つきをした。
「 いや、別に何も・・・何のことですか 」
「 実はねえ、中橋さんが 近頃 歩一の栗原さん達と何かやるような気配があるというので、
聯隊の連中も大分気にしているようですよ。今泉さんも充分気をつけて下さいよ 」
私は棚橋少尉が妙なことをいうなと思ったが、大して気にも留めなかった。
夕食を済ませて第七中隊の三階にある私の個室に戻った。
窓から東京湾の船の灯がチラチラ見える。
初年兵教育も峠を越した。
一人一人の顔も日焼けの頬に目が美しく光り、口元が引き緊って言語動作もすっかり兵隊らしくなってきた。
可愛い兵士達。
俺は貴様達と一緒に喜び、共に涙し、共に戦場で死ぬのだ。
美しい祖国と愛する人々を護るために。
人間の醜い本性から社会の矛盾は生れるのだけれど、
俺は将来リーダーシップをとるときまで、じっと目をつぶり、差し当りは自分の職責を果たすほか道はない。
「 三浦上等兵入ります!」 の声に 思わず振り返る。
彼は初年兵教育助教の一人で伍長勤務上等兵、
私が見習士官当時から、全く痒い所に手が届くような世話をしてくれた模範兵であった。
「 教官殿、明日は如何なされますか 」
「 そうだな、明日は代日休暇だし、兵隊も疲れているだろうから、
今夜は何もしないでゆっくり休ませてやってくれ。
俺も今夜は一寸家に帰って英気を養ってくる。
留守中のことは宜しく頼む。
生憎手許に酒はないが、郷里から鯣するめを送ってきたからこれでもかじってくれ 」
富士における訓練計画など立案しおしえたのが午後十時を少し過ぎていた。
私は外套をひっかけて営門を出た。
鎌倉の自宅に帰るべく。

近衛歩兵第三聯隊の兵舎は青山の高台にあった。
高台は赤坂見附と溜池を結ぶ平地にぬっと突出し その端に兵舎がある。
兵舎は赤煉瓦三階建で明治十八年に建てられた。
台地の東側は赤坂の一つ木通り、料亭や待合の屋根がすぐ下に並び、
市電通りを隔てて右手に首相官邸、左手に日枝神社の森がほぼ同じ位いの高さに見える。
これが霞ヶ関の高台である。
私は聯隊正門を出てすぐ左に曲り、旅団司令部側の三分坂という恐しく急傾斜な坂を馳け下り
山王下の電車の停留所に佇った。
新橋行きの市電はどうしたものかそっぱりこない。
昭和十一年の冬は不思議に雪が降り出しそうな空模様だった。
北風が将校マントの裾を音をたてて吹き抜けていった。
夜も十一時に近いので流石に人通りはなかった。
赤坂見附から新橋銀座方面に向ってタクシーが時々疾駆してゆくが、手を挙げても停ってくれなかった。
随分待ったようだが実際は十分か十五分位だったかも知れない。
長靴を履いた足の指が痛いように冷えてきた。
横須賀線の終電に乗ったとしても家に着くのは午前一時過ぎだ。
何も今日 帰ると通知している訳ではなし、帰っても飯はないだろう。
市電は一向にくる気配がない。
「 決心変更 」
私は呟いて停留所を離れ、桧町の通りから聯隊に帰ることにした。
未だ店を閉めていない寿司屋の暖簾をくぐる。
「 いらっしゃい!」
ねじり鉢巻の馴染の兄貴が威勢よかった。
「 冷えるねえ、一本頼む 」
トロを肴に一杯やり店を出た。
佩剣を握り長靴の踵につけた拍車をコトコト鳴らしながら三分坂を再び登り、
冷いベッドに潜り込んだのは、二月二十五日夜の十二時に近かった。
×  ×  ×
「 おい! 起きろ!今泉少尉起きろ!」
聯隊の兵舎、第七中隊の三階の居室のドアを激しく叩き、
寝入ったばかりの私の耳許で大きな声がした。
ハッとして目を覚ますと中橋中尉と砲工学校学生で同郷 ( 佐賀 ) の 一年先輩の中島莞爾少尉が
軍装も凛々しく傍に佇っているではないか。
時に昭和十一年二月二十六日午前二時三十分である。
私はガバッと とび起き素早く軍服を着る。
着装し終ると、
「 まあ座れ 」
と 中橋さんがいう。
二人に椅子をすすめて私は小机の向うに腰を下す。
「 今泉、いよいよやるぞ、昭和維新の断行だ、
午前四時半になったら中隊に非常呼集をかける。
俺達二人は高橋是清蔵相を襲撃、襲撃隊は中島が引率して首相官邸に向う。
俺は中隊の半分を率いて宮城に入る。
恰度今日はこの中隊が赴援隊控中隊に当っている。
そこで貴公だが、俺達が襲撃している間、控中隊を引率し待機していてもらいたい。
実は貴公は中島を知っているそうだな、
中島の奴、貴公に内緒で中隊全部を連れ出したら面目を失うだろう。
知らせてやるのが武士の情というものだ。
と ぬかすからな。
まあ それはそれとして、
出発迄に未だ二時間ばかり間がある。
俺は貴公に無理に行けとはいわん。行く、行かぬは貴公の判断に委す。
行く以上は貴公に赴援中隊の副指令として参加してもらう 」
中橋さん達は灰皿を引寄せ煙草を吸った。
「 歩一からは機関銃隊の栗原、それから貴公と同期の林八郎、池田俊彦の両少尉、
歩三は安藤大尉が中心となって一コ大体が出動する。
その他、下志津の野戦重砲から車輌部隊、所沢の飛行学校と豊橋の教導学校からは
同志の将校が参加する。
湯河原の牧野伸顕襲撃隊はもう出発した筈だ。
岡田首相、斎藤内府、鈴木侍従長、渡辺錠太郎教育総監をやるんだ。
首相官邸、警視庁、霞が関一帯を占拠して戒厳令を布告する。
実包は歩一から全部隊に配布した。
まあ ざっとこんな訳だ・・・。
貴公もゆっくり考えてくれ 」
二人はいいおわると悠々と部屋を出て行った。
私は意外に落付いていた。
中橋さん達の態度が優しいのと、自信たっぷりの落着き振りが私の心を打ったのかもしれない。
腕組みをして じっと考えこむ。
軍人として勅諭に悖り、国民として国法を紊すの大罪は固より知っている。
これは正にそれ等を超越した判断による断行なのだ。
ただ存ずるは皎々たる一片の憂国の至情のみ、
壮士征きて亦還らず、成敗蓋いずくんぞ之を論ぜんや・・・だがまてよ、
この挙に参加するならば、総ては完全に終わる。
人生二十有一年、思いもかけぬ大事件の渦中に入るのだが、俺はこれで悔ゆることはないか。
精魂を傾けてやってきた初年兵教育も完結をみずして終わる。
第一その初年兵達が中隊長代理に率いられて事件に参加するのに、
教官たる自分が、知っていながら参加しないことは卑怯ではないか・・・・、
だが、聯隊内でのこのことを知っているのは現在自分だけだ。
軍隊を私用して暴動を惹起こすことについては根本的には反対だ。
・・・・信念に反して行動を共にすることは付和雷同に過ぎない。
中橋さんも命令することはいっていない。
だから行動に加わらなくても命令違反ではない。
中橋さん達は、
社会の矛盾を一挙に解決するためには昭和維新を断行して国体の真姿を顕現せんとして、
既に命を投げ出しているのだ。
事の正否を問わず、罪を闕下に請うて潔く自刄して果てる覚悟であろう。
大御心は現在の社会を善しとされる筈はない。
社会が悪ければ兵隊は弱くなる。
兵隊が弱ければ国防の任は果せない。
軍人の本分も尽せない。

さて、俺は将校として、教官として、国民として、一個の人間として
今の時点で如何に決心すればよいのか。
その時 誰かがドアをノックした。
斎藤特務曹長が完全軍装で入ってきた。
彼は軍刀の柄を左手に握り走るように近寄ってきた。
「 今泉少尉殿 」
口をワナワナ震わせたかと思うと突然大粒の涙をはらはらと流した。
私は思わず立上って彼の手を握りしめた。
「 私は中隊長殿の命令通りやりました。私は死にます。今泉少尉殿! 私は死にます 」
「 よし判った。帰れ、俺も考える 」
窓の遠くに品川湾が見え、浮船の灯がチラチラ瞬いていた。
遠く船の汽笛が聞える。
軍律違反、重罪、初年兵、名誉、自決・・・頭の中には、すごいスピードでしかも鮮やかに、
さまざまな思いが渦を巻いて揺れ動いている。
祖父の顔、父母の顔、兄妹の顔・・・・。
中馬軍曹が私の拳銃を持って入ってきた。
あけ放れたドアから階下にいる兵隊達の静かなどよめきが伝ってきた。
非常呼集がかかったらしい。
今は一刻の遅疑逡巡は許されない。
「 よし決心だ! 余は行動を倶にせんとす 」

二・二六事件と郷土兵  から
 次頁 今泉少尉 (2) 「 近歩三第七中隊、赴援隊として到着、開門!」 に続く


この記事についてブログを書く
« 今泉少尉 (2) 「 近歩三第七... | トップ | 田中勝中尉の宮城参拝と中橋... »