裁判
裁判の話に移りましょう。
三月四日、
緊急勅令で東京陸軍軍法会議が開かれ、戒厳令下の特設軍法会議という体裁で、一審のみ、上告なし、非公開、弁護人無し。
受理人数は一四八三名。
内容は全く解からぬままに七月五日判決。
将校の死刑十三名。民間人二名が、七月十二日 代々木刑務所で銃殺、死刑。
翌年八月十九日、
民間人北一輝と西田税、免官軍人、村中孝次、磯部浅一、の四名が処刑されました。
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この予審、裁判は、父の手記を見ても また 他の話を合せて考えても、どうもよく解りません。
父の場合は、人違いも、無根の事もあったようです。
本人の話は聞くが結局都合のいいところだけを記録して形をととのえ、
あとは予定された筋書きに当てはめる・・というもののようで、
将校の予審はわずか二、三時間であった、( 安田優少尉・・死刑・・の手記 ) ともいいます。
そしてこの軍法会議の記録はいまだに公開される事なく、
昭和十一年五月に開かれた議会でも、二・二六事件の部分は、秘密会議であったということでございます。
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彼等に死刑の判決が下ったと聞いた日の夕方、予審中の父は自分の監房で小さい紙屑を拾ったそうです。
お世話になりました。ほがらかに行きます 坂井
また
おわかれです。おじさんに最後のお礼を申します。史さん、おばさんにもよろしく クリコ
彼は最後の通信に、少年時代からのわが家での呼び名を書きました。
父は、保存することも、捨てることもできない二つの紙片を、口に含んで眼を閉じた・・と 書いて居ります。
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死刑
七月十二日。死刑執行日。( 七月五日判決 )
まだ夜の明けない監房から、君が代の声が起こり、
隣りの棟の同志達もその事を知って立上がり唱和をはじめました。
中島清治 (禁錮十五年) の手記の中では
---死刑になる将校たちが、カーキ色の獄衣を白衣に替えているのが、かすかに見え、
やがて廊下に出されて顔を剃ってもらうらしい様子を、格子にすがって、
それが誰であるか見極めようとし、それがわかると、名を呼び、答えて、
「 お先へ 」
と申していたそうです。
七時間前、涙と共に呼びかける残された同志をあとに出て行く人々に、
見廻りの看守も看守長もサーベルを突いたまま泣いていた・・としるして居ります。
すこし離れた父にも、それはかんとして伝わったようです。
当時の代々木練兵場・・(今のNHK附近) 雨後の靄もやがしだいにうすれ
晴に向う朝早くから陸軍が演習を始め、軽機関銃の空包射撃の音を激しくさせて居りました。
示威、警戒の意味もあり、同時にその音にまぎらわせて銃殺刑をおこなったのです。
看守某 ( と 父は名を遠慮しています ) は、刑場の見取図、執行の模様を書きとめて居りました。
それによりますと、
将校十三名と民間人二人を三回に分け、五名ずつ。
時間は、七時、七時五十四分、八時三十分。
刑場は刑務所の西北角に、五条の壕を掘り下げ、各人の両側及背後に土嚢を積み上げ、
その後方に煉瓦塀、約十メートル ( 一説に十五メートル ) の正面位置に土壌上に小銃二梃ずつを固定し、
一挺は前頭部、一挺は心臓部に照準し、即死しないときは更に心臓部を射撃する。
職務上の立会人の他、関係者等もいたのでしょうか---かなりの人数がそこに居たといいます。
射手十人、指揮官は大尉で、直射手は将校、副射手は下士。
護送の看守が一人に対し二名付添い、途中炊事場建物のうしろで目隠しをしてから、
壕内に誘導、十字架に縛り、両腕を伸ばさせて二ヶ所ずつ、第一関節と第二関節を縛りました。
顔は、目を覆ってから、腹迄の長さ ( 巾八寸ほど ) の白布でかくし ( 射手にわからせないため ) ました。
更に、頭を、みけんの照準点を黒点で印した布を当てて縛り、胸、正座した膝を縛ったのは、
落命後も姿勢の崩れないための処置であったのでしょう。
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縛られ終わって、
・・天皇陛下万歳・・
第二回の中の中橋基明中尉のとき、第一発ののち、射手はそれを中橋と知り、
第二弾を命ぜられても直ぐ応じられず、補助射手が第二弾、これも正確ではなく、
射手将校が心を取り直して照準をし直し 第三弾を射ったとのこと。
射手の所属は、歩兵一聯隊及び近衛ですから、死刑者をよく知っている者もあったわけです。
一回五人の中の栗原安秀も一発で絶命せず二発目が発射されたとつたえられました。
三回目の中の澁川善助 ( 地方人・・元士官候補生 ) は、
「 国民よ、皇軍を信頼するな 」
と 叫んだそうです。
「 皇軍 」 とは、彼等を葬り去った側の・・という意味と取れます。
各人の絶命は、軍医がたしかめ、テントの死体収容所に運んで、
清。納棺。安置所に運んで遺族と対面させたのち、霊柩車を先頭に遺族等と、
代々木原を突切って、落合火葬場に行き荼毗、それぞれに骨を渡された---と しるして居ります。
某看守の手記をもとに、他の資料とも照合をしましたので、
主要点は、これで間違いなかろうと思います。
・・中略・・
反乱軍といわれる人々は、遺骨となっても、葬儀を営むことも出来ず、墓も立てられませんでした。
お骨を預ってもらう所を探しても、引受けてはくれません。
栗原の父が、佐賀県で旧鍋島藩であったことから、麻布にある藩の菩提寺興国山賢崇寺の住職、
藤田俊訓師に御相談しますと、
師は、
「 将来どんな面倒が起ころうとも・・」
と 御引受下さいまして、百日を経て法要。ようやく眠るところを得たのでございました。
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遺族をとりまとめ、共に供養し、共に励まし合って生きるため、
栗原勇(栗原の父) と 河野司が強力して、護国仏心会をつくりました。
河野司は、事件当時上野松阪屋に勤務していたのですが、その後さまざまの変転、
敗戦ののち、東京に住み、以後の人生をかけて、事件の真実をしらべつづけ、
遺族をまとめ、秘められた資料蒐集しゅうしゅうに心を傾けます。
昭和二十六年、「 仏心会 」 再建。
二十七年、賢崇寺に二十二士の墓を建て、
再に、四十一年には、代々木の旧陸軍刑場跡に、事件記念慰霊碑を建立。
また真実を伝えるための著書を書き、それに数十年の日月を打ちこんで今日に至って居ります。
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仏心会は、毎年二月二十六日には、事件関係犠牲者の重臣達、高橋是清、斎藤実、渡辺錠太郎の他
松尾伝蔵(岡田啓介義弟を誤認) 他警察官五名。
・・自決、刑死者の他、其後病死した関係者等の全諸霊を含めて、
今日までその法要をかかさずに行って居ります。
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当時の陸軍刑務所長、塚本定吉が、父斎藤瀏の著書により、二十二士の戒名を知り、
二十二枚の位牌を作り、回向をつづけられていたことも、刑死の場所に霊堂を建てたいと思っていたことも、
河野司によって明らかにされました。
父の知人の中にも同様の回向をつづけられる人が居りました。
そして以後の軍隊内では、二・二六事件の研究は禁忌きんきであったとききました。
史のうた抄
天皇陛下萬歳と言ひしかるのち おのが額を正に狙はしむ
動乱の春の盛りに見し花ほど すさまじきものは無かりしごとく
たふれたるけものの骨の朽ちる夜も 呼吸いきづまるばかり花散りつづく
ひきがねを引かるるまでの時の間は 音ぞ絶えたるそのときの間か
羊歯しだの林に友ら倒れて幾余経へぬ視界を覆おおふしだの葉の色
春を断きる白い弾道に飛び乗って手など振ったがつひにかへらぬ
濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ
暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた
銃座崩れことをはりゆく物音も闇の奥がに探りて聞けり
額ぬかの真中まなかに弾丸たまをうけたるおもかげの立居たちゐに憑つきて夏のおどろや
いのち断たるるおのれは言はずことづては虹よりも彩あやにやさしかりにき
北蝦夷の古きアイヌのたたかひの矢の根など愛す少年なりき
まなこさへかすみて言ひしひとことも風に逆らへば聞えざりけむ
弾痕がつらぬきし一冊の絵本あり ねむらむとしてしばしば開く
銃殺の音ならねども野の上に威銃ひびけば目の前くらむ
かなしみの遠景にいまも雪降るに鍔つば下げてゆくわが夏帽子
過ぎてゆく日日のゆくへのさびしさやむかしの夏に鳴く法師蝉
齋藤史著 遠景 近景 ( 昭和55年・・1980年 ) から
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