あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

匂坂春平檢察官 『 きょうは四人の方々の命日だね 』

2020年12月12日 08時06分25秒 | 後に殘りし者

一  事件のために特設された特別軍法会議の主席検察官であった匂坂春平氏は
  去る昭和二十八年八月十九日に逝去された。
筆者と匂坂氏との関係は、
筆者が事件の遺族の集りである仏心会の代表者として個人達の法要を主宰しているので、
その都度案内状を差出していただけのものである。
『 二十二士之墓 』 開眼供養法要の日だった。
受付に案内状の封筒を置いて、墓所に参詣をして帰ろうとされた老人があった。
受付係がおりから法要中の本堂の方へ案内するのに答えて、
「 私は遺族の方にお会いするに忍びないものです。
あの時は職責の上からああせざるを得なかったということを皆様にお伝え頂いてお許し願って下さい 」
といい残して帰って行った。
受付に置かれた案内状によって、その老人が匂坂春平氏であったことがわかった。

その次の年の法要の時にもやはり私達遺族の前には姿を見せずに墓参だけして帰る匂坂氏だった。
その匂坂氏が、二十八年の八月十九日に逝った。
ちょうど、この日は磯部、村中、北、西田の四士の十七回忌祥月命日の当日であった。
匂坂氏は死の当日、今日はあの人達の命日だね、と語っておられたという。
偶然といえばそれまでだが、その匂坂氏の葬儀の当日未亡人から伺ったこの話は強く私の胸を打った。
それと同時に前記の刑死者達の裁判に対する獄中からの悲痛な抗議を裏付けるような次の事実を知って驚いたことだった。
未亡人が語られるには、戦時中空襲が激化した頃、
役所よりも自宅の方がまだ安全だと思うから、何か大切なものは持ち帰られたらどうかと勧められた時、
「 そうだね 」 といって、その後帰宅の際 自動車で少しずつ運ばれた書類を大切に保管された。
後になってその書類はすべて 二・二六事件関係の書類だけだったことがわかった。
この書類だけは、匂坂氏にとって焼失してはならない一番大切な書類だったようだ。
家族の人には、一切何事も語らなかったそうだが、近所の親しい医者の人だけには、
「 私は二・二六事件の裁判官として申訳ない誤りを犯した。
有為の若い人達を多数死なせてしまったことは、
たとえ、軍の方針であったにせよ、裁判官としての良心からは許されるべきではない。
私の生涯はこの罪の償いのために捧げたい 」
という意味のことを語っている。
終戦後一切の公職から去り、外部との交渉を避けて、自宅に蟄居しての生活だった。
病気にかかっても一切医者にかからず、家屋ならびに屋内の手入れもさせず、
総てを自然のままの推移にまかせて、家人の注意に耳をかさなかったという匂坂氏の生活が、
そり裏にこうした理由があったとは未亡人でさえ、
死後になって初めて知らされたと語って下さったとき、私は匂坂氏と二・二六事件との因縁の深さに驚かされた。
奇しくも 四士刑死の十七回忌祥月命日の当日、消えるように死んで行かれた匂坂氏は、
きっと冥途であの人達にお詫びをしておられるに相違ない。
前記の村中孝二の遺書にある 「 裁判が済んだら辞表を・・・・」
の字句が決して虚構なことでなかったことを改めて裏付けられ、
確信づけられたことだった。
・・・河野司 著  湯河原襲撃 から

二  匂坂さんの葬儀は、八月二十日に自宅で営まれた。
  賢崇寺の藤田住職と一緒に参列した。
焼香を終って下がる私に追いすがるように、霊前に座っておられた未亡人が席を立って下りてこられた。
たぶん石上氏が知らせたのであろう。もちろん初対面であった。
深々と頭を下げた未亡人は、
「 主人は最後まで皆さんのことを口にしておりました。ありがとうございました 」
まだ語をつぎたいような未亡人を押しとどめて、あらためてお伺い申上げます、と言って辞した。
まだ会葬者の焼香が続いていた。
帰る道々、藤田師と語り合ったことは、何か話したいことがあるような未亡人の様子であった。
少し落着かれた頃に、もう一度お訪ねすることを藤田師と約した。

私が藤田師と再び匂坂家を訪れたのは九月の初めであった。
まだ悲しみの消えない真新しい白木の位牌を囲んで、数々の供物や生花が飾られた仏前に、
藤田師の読経が捧げられた。
目のあたりにする匂坂氏の写真に親しく語りかける思いだった。

焼香を終えて、未亡人と三人での語らいはおのずから事件関係のことであった。
「 主人が無くなります朝、庭に出て草いじりをしていましたが、縁側に腰かけて、
『 きょうは四人の方々の命日だね 』 と、自分にいいきかせるかのように申しました。
そしてその午後に、まったく消え入るように死にました 」
村中、磯部、北、西田の四士が死んだその同じ日に、
それを口にして死んで行った匂坂さんと事件との因縁を、
ただ単に偶然の一致とかんがえることのできないいろいろの想い出や、出来事を、未亡人はしみじみ語った。
それは、何も言わなかった主人に代って、遺族の人々に話したい、知って欲しいという、
切な気持が、訴えるように語り続ける未亡人の言動に感じとられた。
先の葬儀の際、まだ会葬者の焼香の続いているさなか、座を外してまで私たちに言葉をかけられたことも、
今にして思えば、こうした未亡人の気持の現われであったことと知らされたことだった。

大東亜戦争が激化し、東京への空襲が頻りとなった頃、匂坂氏は陸軍省に在勤していた。
一日、夫人は、
「 何か大事なものがあるなら役所よりも自宅の方が安全と思うので、持って帰られたらいかがか 」
と勧めた。 「 そうだね 」 と、肯いて出て行った匂坂氏は、その日から、帰りの自動車に積んで、
いくつかの書類の包みを持帰った。
あとで判ったことだったが、それは全部、二・二六事件関係の書類であった。
「 主人にとって、焼いてはいけない、一番大事なものは、事件関係の書類だったようです 」
これがその書類ですと持ってこられたのは柳行李に一杯の大量のものであった。
私が手に取ったのは上の方にあった陸軍罫紙に書かれたものだったが、
それには、将校たちの氏名が列記され、その上欄に 「 死刑 」 の字が全員に記されてあった。
そして、判決で無期になった常盤少尉以下の人々の分は、
一度書かれた 「 死刑 」 の文字の上に赤インキの棒線が引かれていた。
おそらく求刑の折りの原稿であったのではあるまいかと思った。
これは大変な記録の集積であるとの驚きに眼を輝かせた。
この厖大な記録を一つ一つ眼を通すことは、いく十日間かを要するだろう。
私は後日を期して、手にして二、三の書類を行李に納めた。
おそらく事件の裁判過程のすべての資料が揃っているのではあるまいか。
こんな記録がここに残されていることを確認しただけでも、私の胸のときめきを抑えきれなかった。
 ・
行李の蓋をしめながら、未亡人の話は続いた。
「 主人が死にましたあと、近所の懇意なお医者さんから、こんな話を打明けられて、
初めて主人の気持が判りました。 私にも、家族の誰にも、何一つ話さなかったことです 」
しんみりと語る未亡人の話というのは、
匂坂氏が昵懇にしていた近所の医者を訪れたとき語った話として、
自分は病気になってもいっさいかまってくれるな、自然のままで死んで行きたい。
それというのは、自分は生涯のうちに一つの重大な誤りを犯した。
その結果、有為の青年を多数死なせてしまった。
それは、二・二六事件の将校たちである。
検察官としての良心から、私の犯した罪は大きい。
死なせた当人たちはもとより、その遺族の人々にお詫びのしようもない。
敗戦になって軍職を失った自分は、もうお国への勤めも終った。
これからの自分の余生は、この人たちへの罪の償いのために、静かにしぜんのままに消えて行きたい。
そしてこのことは私が死ぬまで、誰にも語ってくれるな
という切実な懺悔に似た訴えであったという。
・・・河野司 著  ある遺族の二・二六事件  から


拵えられた裁判記録

2020年12月11日 06時01分28秒 | 末松太平

小生らの公判状況を読んでいて、
満洲事変の初期、熱河作戦のとき使った陸地測量部の地図のことを連想した。
この地図は路上、目算測図といったもので、正規の三角測量をしたものではなかった。
変装して現地を歩き、その結果を校舎に帰りまとめたものであった。
特に熱河といえば内蒙地区だから蒙古人が測量を嫌う。
土地を測量することは土地を奪うことだからである。 ( 三里塚も同様 )
そういうことで、こっそりつくった秘密地図だが、それだけに苦心の作にかかわらず誤りが多かった。
部分部分を測量してつなぎ合わせると、つながらないところができる。
そういうところは仕方なく地形をつくってつないだ。
それで地図にある山が実際にはなかったり、一里で到着する筈の部落が五里位先にあったりした。

他の人たちのことは知らないが、小生らに関する限り、
公判状況は、満洲事変初期の熱河省の地図だ。
全然ウソではないが創作の部分が相当ある。
が、これは臨席した憲兵が記憶を頼りに書いたものというから致し方あるまい。
しかし、熱河省の地図が信用できないまでも、ある程度役に立った。
全然地図がないより遥かにましだった。
公判状況というのは、たしかに、そういった点があるにはある。

若松裁判長が小生に、
この公判は天皇の名に於てやっているのだから、問うたことには答えなければいけないよ、
といったのに対し、
小生はハアとだけ答えたことは 相当フィクションで、むずかしい文章で表している。
が、こういう事実はあった。

小生が訊問に対し頗る簡単に答えたのに対し、若松中佐が注意をしたのである

もちろん、小生はハアとは答えたが、
こんな裁判が、何が天皇の名に於ける裁判なのか、とは思っていた。
最期のところで、この裁判は法に基づくものでなく、
政治的であるといったのは片岡俊郎中尉 ( 終戦後死んだ ) の言で、これも事実である。
これに対し若松中佐が、余計なことはいわんでもよろしいと叱った。

論告は割合よく書いてあるが、これは本物を貰い受けたのかも知れない。
いかにも青二才といった法務官 ( 法務将校 ) が、
ドイツの法律まで援用して衒学的に論告したのを馬鹿々々しいと思い乍ら聞いた。
弁護士がいないのだから検察側は勝手放題のことをいっても、まかり通るわけだった。
被告人らは東京に行って叛乱者を利する意図を持っていたと強弁している。
ヒドイ話だ。
完全に事実に反する断定だ。
こういうのが当時の日本軍部の体質だった。

小生は 「 私の昭和史 」 にも書いてあるように、
非合法も辞さないと かねて思っていたものが、
合法的に裁判されようとは思う如きは虫がよすぎると思っていたから、
非合法な裁判でも暗黒裁判でも、ちっともかまわぬが、
真実を追求する歴史家はそういうわけにいくまい。

在監者行状の報告は変なものですな。
森伝や市川、明石中尉らは行儀が悪い。
森伝は終戦後、小生にいった。
あんなところで行儀よくしてもつまらんですよ。私はうんと行儀悪くして楽をした。
平野さんなど、あまり行儀よくして体に無理したものだから、出るとすぐ死んでしまった。
小生ら青森組もあまり行儀はよくなかった。
看守の一人が、もっと行儀よくしなさいと笑っていったから、
そんなに行儀のいいのがいるかと聞いたら、平野さんと菅波さんがいい、見習いなさい、といった。
俺たちよりも悪いのもいるだろうといったら、誰々と名前をいった。
結局、小生らは中くらいといあことらしかった。

北から南から性のよくない動物が、寄せ集められていた。
その動物共は檻のなかで、いろいろな生態を看守である園丁どもに御披露した。
代々木動物園のつわものどもらで、けだものどもは思い思いの生態をみせつけて、
看守どもの、変な報告のタネになった。

二 ・ 二六事件秘録にのっている人のなかには、死んだ人が多いが、まだ存命の人もいる。
島野老は東京にいるし、明石寛二は富山県魚津にいる。
竹山君らは金子という憲兵にあっているが、小生らに判廷にきていた憲兵は可愛い顔の若い伍長だった。
この憲兵、愛嬌のいい男で、小生の肩章の星の数を数えて、七年だ、と笑った。
星の数で論告の年数の相場が決まっているということだった。


・・・末松太平 「 二・二六事件秘録 」 を読んで  から

★ これは昭和四十六年九月十四日付、松沢哲成氏宛末松太平氏の書簡の一部である。


傍聴者 ・ 憲兵 金子桂伍長

2020年12月08日 05時46分05秒 | 後に殘りし者

現場にいた永田事件と二・二六事件
永田事件の時には、軍事課長の橋本群という人と一緒におりました。
橋本さんは世田谷区の方におられて、身辺護衛というこしで 四、五日前から伺っておったのです。
自宅の警備は別におって、私は橋本さんが陸軍省へ行って帰って来る、
その間 行動を共にするわけです。
陸軍省では課長級から護衛が付くんですか
いや、もっと上。
課長級では特別のものだけです。状勢がおかしいことで臨時に付けたんです。
事件の時に橋本さんはどこに・・・
事件の起きた時には自室にはいない。
陸軍省の中におったんだが、三分位たって自室にもどって来て一緒に行ったんですよ。
ドアーを突き刺してやられている。
まだ検証にも来ていない。
眼のあたりに状況を見て分隊に報告したりしたわけです。
この時には事件の関係者が相澤中佐とは分りませんわな、
ただ狂乱した中佐が抜刀してやったというだけでしか。
今度はそれらの公判が始まりますと、真崎大将が証人で出廷するというので、
眞崎大将の家に始終行っていました。


二・二六事件の起こる前の晩は、眞崎大将が華族会館と思いますが・・・県人会かな、
帰って来て晩の十時頃まで、いろんな昔話をしたり一緒にお風呂へ入ったりしたんです。
翌朝午前五時頃かな、分隊に連絡があったわけです。
至急来てほしい。
その頃は分隊内に住んでいたんですか
いや、すぐ近くの官舎です。
来て欲しいという電話が宿直からあったので、眞崎さんのところへサイドカーで行った。
実は陸軍省から至急来て欲しい、若い者が事件を起こした、と言うんです。
すくせに自動車の手配をして、陸軍自動車学校の当時のダッジかな、
それで閣下と共に出まして、高橋是清邸のところへ来ますと
・・・・・当時雪が降って残雪があるんです・・・・靴の跡がいっぱいあるんです。
まだ高橋蔵相がやられたということは私達は分らないんですが、とにかく兵隊が歩いたところを見て陸軍省へ急いだんです。
ところが、閑院宮邸、今は参議院の議長公舎かな、それと李王邸、プリンスホテルの間に
機関銃、軽機関銃を据えて通さんと言う。
そこで用意してきた 「 軍事参議官 眞崎大将 」 という旗を立てて、
「 君達の指揮官に会いに行くんだから通せ 」
と 言って、歩哨を通ったわけです。
農林大臣邸のところも、又そこのところ、ドイツ大使館をまがったところにも歩哨線がある。
で、行ったところが官邸の玄関のところに、香田とか磯部とかがおって白襷をしているわけ。
眞崎大将に 天誅を加えました と。
高橋是清、渡邊錠太郎、斎藤實などの名前を読上げてね。
目下議事堂を中心に陸軍省 参謀本部などを占拠中である、と言ったところが
「 馬鹿者 」 っと 一喝されまして、
彼等は予期に反した言を受けたんでしょうね。
この時、眞崎さんが 「 馬鹿者 」 といわれて・・・・、この時、例の有名な話なんですが、
「 お前らの気持はよくわかっておる 」 と 言ったと 巷間伝えられておりますが。
そんなことはありません。 そんなことは全然ありません。
その所で、よくわかっている と言ったということになっていますね。
なっていませんね、事実は。
「 馬鹿者、何をやったか 」
という大喝ですよ。
とにかく陸軍大臣に会わせろ、ということで彼等はとまどっておりましたね。
金子さんは二十六日の朝、真崎さんの所へ行かれてから、それからずうっと真崎さんと御一緒でございましたか。
そう、叛乱軍が降服するまでね、報告書がありますよ、その時の。
〔 註、第二巻三七〇ページ以下、「 眞崎大将の動静に関する件 」 参照 〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・

眞崎甚三郎に関する報告書
眞崎甚三郎大将の動静に関する件
渋谷憲高第二一九号
二・二六事件前後に於ける眞崎大将の動静に関する件報告
昭和十一年四月十六日  渋谷憲兵分隊長  徳田豊
東京憲兵隊長  坂本俊馬殿
首題の件、別紙の通り報告す。
二・二六事件前後に於ける眞崎大将の動静に関する件報告
昭和十一年四月十六日  陸軍憲兵伍長 金子桂
渋谷憲兵分隊長  徳田豊殿
眞崎大将護衛服務間知得せる首題の件、先の通り報告す。
左記
一、二月二十五日
午前九時三十分  永田事件証人として軍法会議に出廷。
午後零時四十分  軍法会議より帰邸。訪問客なし。
午後六時十分  華族会館に於ける万葉会例会に出席のため私服にて出発。
午後九時四十分  万葉会より帰邸。
午後十時二十分迄  来訪者なし。
二、二月二十六日
午前六時五分  電話にて分隊より私邸に連絡せるも、特異の状況なき旨 夫人より電話回答あり。
午前六時三十分  眞崎大将邸より、同大将 陸軍大臣官邸に赴くに付 護衛憲兵を派遣せられ度旨電話あり。
午前七時過頃  陸軍大臣官邸に赴く為出発。青山一丁目、赤坂見附、平河町を経て陸相官邸表門に到着。
午前七時五十分頃
(1)、陸相官邸表門前にて自動車より降車の際、行動部隊将校三名( 香田、安藤、栗原と思料せらる ) より
      事件の概要を説明ありたり。
     「 国体明徴と統帥権干犯問題にて蹶起し、斎藤内府、岡田首相、高橋蔵相、渡邊教育總監、
       鈴木侍従長、牧野伸顕を襲撃す。牧野信顕の処より確報なし。云々 」
(2)、陸相官邸に於て古莊次官及陸軍大臣幷行動部隊将校と面接、会談内容不明なり。
(3)、午前九時過頃、伏見軍令部総長宮邸伺候の為、陸相官邸表玄関前に出でたる際、
      陸軍省軍事課員 片倉少佐他将校十数名 香田大尉と問答しある時、
      磯部元主計 拳銃にて片倉少佐に向け発砲せるも、左眼側方に命中せるも死に至らざると、
      磯部拳銃を落したるを以て、軍刀にて殺害せんとしたるを、別紙要図の地点にて、
      眞崎大将及古莊次官が 「 同士討ちは止め 」 と 発言、静止せり。

午前九時過頃  陸相官邸出発。
午前九時半頃  伏見軍令部総長宮邸に伺候。
午前十時半頃  伏見軍令部総長宮邸より同宮殿下及加藤寛治大将と共に宮中参内の為出発。
                      加藤寛治大将と同車せるも、乗車中 特殊談話なし。
午前十一時頃  乾門を経て侍従武官府に到着、会議に列席せり。
午後八時過頃  宮城退下、陸軍大臣官邸に赴く為出発。
                      同道者 林大将、荒木大将、西大将、阿部大将、寺内大将、植田大将等。
午后九時○分  各軍事参議官及行動部隊将校と、陸相官邸に於て会談。
  午前三時迄会議続行。会談の内容不明なり。午前五時迄陸相官邸にて休息。
三、二月二十七日
午前五時○分  各軍事参議官と共に陸軍大臣官邸に出発、宮中に参内。
午前十一時○分
  各軍事参議官と共に憲兵司令部内臨時陸軍省軍事参議官会議に列席の為宮城退下、出発せり。
午前十一時十五分頃
  憲兵司令部に到着。会議室に赴きたるも、朝香宮、東久邇宮両殿下御出席不能の為、
  憲兵司令部に於ける軍事参議官会議取止め。
  偕行社に各軍事参議官と共に赴き、同社に於て昼食。同社にて軍事参議官会議続行。
午後三時頃  陸軍大臣官邸に赴く為単身出発。午後三時過ぎ頃陸相官邸に到着。
  阿部、西 両大将を電話にて招き、三名にて行動部隊代表将校と面接す。 
午後五時頃  会議終了後陸相官邸出発、偕行社に赴き 午後五時半頃同社着。
  軍事参議官会議に列席、会議続行。偕行社に宿泊。来訪者と面接せず。
四、二月二十八日
午前八時より各軍事参議官と共に偕行社会議室に於ける会議に列席。
午後一時頃宮中に参内の為 偕行社出発。
  各軍事参議官と共に会議に列席、会議続行。
午後十一時頃宮城退下、偕行社に宿泊。
(偕行社 在社中 来訪者不明なり )
五、二月二十九日
午前八時三十分頃、宮城に各軍事参議官と共に参内、会議に列席せり。
午後三時頃宮城退下。偕行社にて会議に列席、同社宿泊。
  来訪者 紫雲荘橋本徹馬ありたるも、面接せず。
六、三月一日
偕行社に於て起居し、同社会議室にて会議に列席す。
  来訪者ありしも面接せず ( 在郷将官一名、在郷佐官一名 )
七、三月二日
偕行社に起居し、各軍事参議官と共に会議に列席しありしも、午後五時頃私邸に帰還す。
  来訪者ありたるも、面接せず。 ( 時間等に於て適確ならず )
・・二・二六事件秘録 ( 二 ) より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


磯部の獄中手記持出しを取調べる
磯部浅一の獄中手記、
これが看守の手を通じて、黙認された形で磯部浅一の妻が面会に来る都度、
ちり紙へ丹念に鉛筆で書かれたやつを持ち出されてね。
それが やまと新聞社長の岩田富美夫の所へ持ち込まれて、
やまと新聞写真班の青山という男が写真にして複写し、
各所にばらまかれて かなりの反響を呼んだことがあります。
やまと新聞に行って青山から原版を没収したりした事実はありますよ。

非公開裁判を 「 傍聴 」 する
公判廷はベニヤ張りの臨時の建物で、下には砂が敷いてあって六尺腰掛が置いてある、
全く昔の白洲というような状況の中で行われました。
被告の方がむしろ裁判官よりサバサバした気分で、
裁判官の方がオジオジした恰好で常に押され気味でね。
裁判は法務官が訊く。
時々裁判長が訊いていますね
ええ、裁判長が訊いている。
そのほかに藤原といったかな(?) 少佐の裁判官がよく訊いておりました。
長期にわたって言われたのは、何故事件を起こさなければならなかったかということで、
村中が主として代表して・・・・一番に村中、
それから磯部、栗原、安藤の順に並んで陳述しておったんですが・・・
背景的な事については村中がほとんどしゃべっておりますね。
磯部浅一は・・・村中とは全然性格が違うんですね。相反する性格。
事件を起こさなけりゃならん理由を陳述した。
時期を早めたことについては栗原が説明しております。

北、西田の求刑と蹶起将校判決の場面
公判廷に出られまして、今でも強く印象に残っておられるような事はございますか
公判でね、北一輝、彼がね、死刑の求刑を受けた。
北、西田は死刑、亀川哲也は無期という求刑を受けた時に、
西田は、
自分達は青年将校を惑わしたのではない、
国家の紊乱していることが青年将校を奮起せしめるに至ったので、
決して我々が蹶起を促したり、左様にことは全然ない、
ところが憲兵の中にはそんなことを言った、ふとどき千万である、
と 言って、
我々は罪を受けるべき筋合いのものではない
と 非常に強硬に頑張りました。
ところが北一輝は、
青年将校がいずれにしても自分の書いた国家改造方案を信奉して、
それが原動力になって国家改造をせにゃならん、
それで昭和維新を断行せにゃ王道が行なわれないというふうに至ったことは、
自分の書いた本が、直接なり間接なり、この事件を起こした原動力になっている点については
全責任を負わなければいけない、
と。
自分がこれを煽動したものではない、起きてからこれを支援したものでもないが、
苟も自分の書いた国家改造方案というものが、
青年将校をして斯くまで思い詰めさせるに至った罪は自分にもある、
だから西田も黙れ、
と。
青年将校と共に我々が死することこそ・・・・もう ( 蹶起将校が処刑されたことを ) 知っているわけです
・・・・我々のとるべき道だから、どうか裁判長閣下、判決に当っては球形のまま死刑を御宣告願いたい、
こういうことを言ったです。
ところが亀川哲也は、天地晴朗にして雷雨沛然たるが如き判決である。
承服しかねる、私は鵜沢聡明博士に一刻も早く事件の内容を伝えることによって、
事件自体の収拾を計ろうと行動したのであって、青年将校をして、
事件を起こさせるような事をやったのではない、
金を与えたにしても、決して不純な金を久原房之助から貰って青年将校に与えたものでもない、
と 言って、自分は罪を負うべき筋合いのものでないと陳述しています。
それからもう一つは、
青年将校全体は死刑の判決を受けた瞬間に、生き残る無期、有期の刑を受けた青年将校を抱いて、
お前達は生き残って、とにかく我々がやったことが正しかったことを将来にわたって伝えてくれ、
俺達は国家のために喜んで死んで行くが、
こういった 騙し討ちに合ったという事実を、君達が生き残って伝えてくれ、
と 言って死して行く者が 残る者をなぐさめて、激励していっていますね。
それは公判廷でですか
公判廷でです。
裁判官が判決の主文を読み上げて、いきなりドアーを開けて退廷した。
宣告する方が青くなって、宣告された方が毅然たる態度で・・・・。

小学館
昭和46年9月10日
二・二六事件秘録月報
「 暗黒」裁判は私が記録
唯一の「 傍聴者」 金子桂氏は語る
から


栗原中尉の仇討計畫

2020年12月04日 17時55分56秒 | 後に殘りし者


« 叛乱軍の烙印 »
十三年四月、
歩兵五十一聯隊新設要員として
歩一から私を含め 約一五〇名が福知山歩兵二十聯隊に転属した。
部隊新設のため各地から集合し混成となったが、
翌日、
「 転属者の中に叛乱軍が混ざっている 」
と いう話がひろまり
本部で将校集合があり、
演習を中止し 人事掛特務曹長から取調をうけ、
私たちは忽ち 白眼視され 外出禁止の処分をうけた。
判決で無罪になっても 叛乱軍の烙印が残っていることに怒りがこみ上げ、
上司のとった処分に痛憤を覚えた。
上司がそのような目で見るのなら 俺たちも そのつもりで開きなおってやれと、
以後 根性はひにくれ、やがて色々の問題がおこるようになった。
その後 方針がかわり
私たちに外出の許可が出た。
この時など市中に警備隊がくり出され、
一方 叛乱軍を見ようと市民の見物の山ができるほど 大変な騒ぎだった。
しかし 市民は私たちを暖かくいたわり、大事にしてくれた。
そして 市民が受けとめていた 二・二六事件は 軍上層部の考え方とは異なり、
参加者への同情の念にあふれていることが窺われた。

間もなく新設された五十一聯隊は中支に出征し
漂水に駐屯
ここで私は十四年十月 除隊した。
その時 上等兵である。

その後は 海軍に徴用されたので召集はなかった。
ここで特記したいことがある。
それは徴用で働いていた海軍の軍需工場の工場長 ( 海軍大尉 )
と 私たちの食事内容がひどく異なるので意見を具申したところ、
思想傾向を疑われ 早速憲兵がきて家宅捜査をやり、
身元調査の結果 叛乱軍であったことが知れ一年でクビになった一件である。
今日では到底考えられないことであるが、
叛乱軍の汚名は生涯ついて離れぬものと覚悟した次第である 。
私にとって 事件参加の事実は前述のように 後々までついて回り  いやな思いを味った。
それほど 軍部は二・二六事件を忌いむみきらったのである。

« 栗原中尉の仇討計画 »
かつて在満当時、
二年兵になってから 汚名挽回の合言葉に辟辟していた私たちは、
一部の戦友間で それとなく栗原中尉の復讐を誓いあっていた。
それは刑死した栗原教官の意志を継ぎ、
無事除隊した暁に 機会を見て
岡田首相、迫水秘書官 及び 官邸の女中などを殺害しようというもので、
銃工兵だった私が武器調達掛を担当した。
その方法として討伐時に押収した匪賊の拳銃等をひそかに保管することで、
これを除隊時に分けあって持帰るつもりだった。
一方計画の方は入念に持続され、十四年十二月最後の帰還者を待ち、
同月下旬 懇親会の名目で神楽坂の料亭おたこう に集合、
この時の参加者は三、四〇名であった。
早速謀議に入り、
武器がないので絞殺を手段として協議を進めた。
大方の意向は決行の線で進んだが、たまたま 参加者の一人である梅田良和
( 故河野寿大尉の義弟、梅田大佐の息子 )
が 黙考の末 発言した。
「 諸君の熱意に水をさすようだが、
色々考えてみて 今更やっても犬死するようなものだと 思えてならない。
二・二六事件で目的は十分達していると思う。
岡田が存命していてもすでに彼の政治生命は終っている。
岡田を助けた迫水や女中らは 我々にとって許されぬ対象人物だが、
今日になって殺すことに何の意味があるだろうか、
我々が栗原教官の意志をついだことには相違ないが、
社会的には単なる殺人行為と見られるのがおちだ。
だからこの際 一切を忘れようではないか 」
彼の切々たる熱弁によって 襲撃は遂に中止されるに至った。

これは事件の後日談ともいうべき思い出であるが、
あの頃の私たちは それ程 栗原中尉を慕い、
あわせて 叛乱軍の烙印に強い反発をたぎらせていたのである。

歩兵第一聯隊機関銃隊 二等兵  高橋義正  『 栗原中尉への思慕 』
雪未だ降りやまず (続二・二六事件と郷土兵)  から


林八郎 『 不惜身命 』

2020年12月03日 14時05分52秒 | 後に殘りし者

北満駐屯のある部隊で、新年に当って松下教官が、
中隊の下士官全員を自分の官舎に招待して酒宴を開いたときのことである。

松下中尉は正面の席を立ち、今日は肩章抜きだから、
いちばん年長の堀内准尉に坐ってもらいたいといつて、
謙遜する准尉を抱えるようにして床の間の前に据え、自分は下士官のあいだにまじって席をとった。
彼は隊にいるときもなにかと老准尉をいたわっていたし、「 うちのお爺ちゃん 」 も正座にかしこまって心から嬉しそうであった。
そのことがその場の空気をひどくやごやかなものにするのであった。
堺もあまり飲めぬ酒をすすめられるままに何杯かかさねたが、盃を机の上に置くと改めて、部屋の中を見まわした。
・・・俸給を貰うとそのまま将校酒保の支払いなまわってしまうから、荷物なんかなんにもないんだ。
出動のときなんか荷造りが簡単で大助かりだ。・・・
当番兵が隊でそういっていたことがあったが、なるほど部屋の中はガランとして、
隅の方に粗末な小さな本棚が一つあるきりであった。
ほかには、いま彼らがそれに向かって酒を飲んでいる。
ちゃぶ台にもなる机がひとつあるだけで、あとには何もなかった。
本棚にもいく冊かの兵書と、ほかには 『 葉隠 』 と背に書かれた本が一冊あるだけであった。
ただこの座敷にはいった瞬間から、堺を強く惹きつけたものがあった。
それは一幅の軸であった。
小さな床の間の隅には一口ひとふりの大きな軍刀が無造作に立てかけられてあったが、
それは松下中尉が北支の戦闘で通信隊長をして活躍したことにより、
関東軍司令官から贈られたものであることは、堺も現役の兵隊から聞いていた。
だが堺が惹かれたのはそれではなかった。
堺が強く惹かれたのは、床の間の正面にかけられた一幅の掛軸であった。
堺が東京にいたとき、訪問するいろいろの家で、たいてい、掛軸の一つニつ かけられていない家はなかった。
しかしそれらの絵や書に堺は ほとんど興味を持ったことはなかった。
とくに書の場合にはそれが満足に読めた記憶はあまりなかった。
だが松下中尉の床の間にかけられた掛軸は、最初から不思議な力で堺をとらえるものであった。
それには
不惜身命
という字が大きく書かれていた。
それがどうして自分をこう惹きつけるのであろう ?
堺はそれをたしかめたい気持ちでそれをじっと眺めた。
字のうまさからくるのであろうか、あるいはその書かれている文句からくるのであろうか ?
堺はそう思って見直してみるのであったが、そのいずれでもなかった。
そして、それをしばらく眺めているうちに、それは黒々と墨で書かれているのにかかわらず、
まるで血ででも書かれたようなはげしさをもっていることが次第にわかるのであった。
いったいどんな人間が、また何歳ぐらいの者が書いたのであろうかと判断してみようとしても、まるで見当がつかなかった。
それは年齢を超越した、書いた者の生命そのものがそこに露出されているような一種無気味な感じのものであった。
堺は我慢しきれなくって、床の間のそばへ立って行った。
すると
『 不惜身命 』 という 四字の左端に、
為  松下孝君  焰峰  林八郎
と 書かれてあった。
・・・・林八郎 ?

堺はちょっと首をかしげていたが、すぐに思いあたるところがあった。
それは二 ・ 二六事件で死刑になった林八郎少尉であった。
堺が席を立ち、ひどくそれに興味をもったらしいことを見て、松下中尉は掛軸を指しながら彼に話しかけた。
・・・こいつは二度も海を渡ってやっと俺の手にはいったんだ。
ちょうどあの事件が起こったときは俺は満洲にいたし、とうとう死に目には会えなかったが ・・・・・・
こいつがの小包になって満洲にくると、入れちがいに俺は師団が転かわって内地に行くし、
それが内地に送り返されると、また俺が満洲にやってくるというぐあいだったんだ。
松下中尉と林八郎は、士官学校時代の同期生で親友であった。
・・・奴がやったことがいいことだったか悪いことだったかは俺は知らん。
しかし いい奴だった。
だが林のような奴が悪いことをやったとは俺には思えないんだ。
彼はもうだいぶ重ねた盃にいくぶん顔を赤くして、まるでどなるような口調でいった。
堺は松下中尉の顔をしみじみ眺めながら、はじめて彼のかくされた一面を知ったような気がするのであった。
その 『 不惜身命 』 という 四字は、そのまま林八郎のいのちの叫びを示しているようであった。
かれの血の中を煮え立ちながれている日本覚醒の火のような精神がこの四字にこめられ、まだ生きている。
そして同じ血がやはり松下中尉の中を流れているのではあるまいか、
堺にはそんなふうに思われてしかたがなかった。

・・・堺誠一郎著 『 曠野の記録 』 から


鈴木貫太郎 ・ 自傳で語る安藤輝三

2020年12月02日 19時18分40秒 | 後に殘りし者

< 二月 >
二十六日の朝四時頃、熟睡中に女中が私を起して、今兵隊さんが来ました。
後ろの塀を乗り越えて入って来ましたと告げたから、直覚的に愈々やったなと思って、すぐ跳ね起きて、
何か防禦になるものはないかと、床の間にあった白鞘の剣をとろうとした。
それをとって中を改めると、槍の穂先であって物の用に立とうとも思われなかったから、
それはやめて かねて納戸に長刀のあることを記憶しておったから、
一と部屋を隔てた納戸に入って捜索するけれどもいっこうに見当たらない。
そのうちに、もう廊下、或は次の部屋あたりに大勢闖入した気配が感ぜられた。
そこで納戸などで殺されるというのは恥辱であるから、次の八畳の部屋に出て電灯をつけた。
すると周囲から一時に二、三十人の兵が入って来て、みな銃剣を着けたままでわれわれのまわりを、
構えの姿勢でとりまいた。
そのうちに一人進んで出て簡単に閣下ですかと、向こうから丁寧な言葉でいう。
それで、そうだと答えた。
そこで私は双手を広げて、まあ静かになさいと先ず そういうと、皆 私の顔を注視した。
そこで、何かこういうことがあるについては、理由があろうから、どういうことかその理由を聞かせてもらいたいといった。
けれどもただ私を見ているばかりで、返事する者が一人もいない。
重ねてまた、何か理由があるだろう、それを話してもらいたいといったが、それでもだまっている。
それから三度目に理由のないはずがないからその理由を聞かしてもらいたい、というと、
そのなかの下士官らしいのが帯剣でピストルをさげ、もう時間がありませんから撃ちますと、こういうから、
そこで甚だ不審な話で、理由を聞いてもいわないで撃つというのだから、
そこにいるものは理由が明瞭でなくただ上官の旨を受けて行動するだけの者だと考えられたから、
それなら已むを得ません、
お撃ちなさいというて、一間ばかり隔たった距離に直立不動でたった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・
侍従長は立っていた次の間から電灯のついた八畳の間に出て来て、
「 どこの兵隊だ 」 と一言訊いただけだ・・・奥山軍曹
 
安藤大尉
リンク

中隊長安藤輝三大尉と第六中隊
歩三・六中隊 2 「我々の仲間がまもなくここを襲撃する 」
歩三・六中隊 3 「 奸賊 覚悟しろ 」
歩三・六中隊 4 「マテマテ、話せばわかる」
歩三・六中隊 5 「世間が何といおうが みんなの行動は正しかったのだ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
すると、そのとたん、最初の一発を放った。

ピストルを向けたのは二人の下士官であったが、向こうも多少心に動揺を来たしていたものと見えて、
その弾丸は左の方を掠めて後方の唐紙を打ち 身体にはあたらなかった。
次の弾丸がちょうど股のところを撃った。
それから三番目が胸の左乳の五分ばかり内側の心臓部に命中してそこで倒れた。
倒れるのを見て、向こうは射撃を止めた。
すると大勢のなかから、トドメ、トドメと連呼する者がある。
そこで下士官が前に坐った。
その時に妻は、私の倒れた所から一間もはなれておらん所に、
これもまた数人の兵に銃剣とピストルを突き付けられていたが、止どめの声を聞いて、
とどめはどうかやめていただきたいということをいった。
すると恰もその時に指揮官と思おぼしき大尉の人が、その部屋に入って来た。
そこで下士官が銃口を私の喉にあてて、とどめを刺しましょうかということをきいた。
するとその指揮官はとどめは残酷だからやめろと命令をした。
それはたぶん、私が倒れて出血が甚だしく惨澹たる情景が顕あらわれていたから、
もはや蘇生する気遣いがないものと思ってとどめをやめさせたのではないかと想像する。
そういって、その指揮官は引き続いて、閣下に対して敬礼という号令を下した。
そこにいた兵隊は全部、折敷き跪ひざまづいて捧げ銃つつをした。
すぐ指揮官は 「 起てい、引揚げ 」と 再び号令をかけた。
そこで兵隊は出て行ってしまった。

すると、指揮官は妻の所へ前進して行った。
そして、あなたは奥さんですかといって聞かれた。
妻は、そうです、といって答えたら、指揮官は、奥さんのことはかねてお話に聞いておりました。
( 註・・妻たか は天皇の幼児に哺育掛を務めた。後妻 )
まことにお気の毒な事をいたしましたという。
そこで妻はどうしてこんなことになったのですというと、
指揮官は、われわれは閣下に対して何も恨みはありません、
ただわれわれの考えている躍進日本の将来に対して
閣下と意見を異にするがために已むを得ずこういうことに至ったのであります、
といって国家改造の大要を手短に語り、その行動の理由を述べられた。
すると妻は、誠に残念なことをいたしました、あなたはどなたですかというと、
指揮官は形を改めて、安藤輝三とはっきり答えられた上、
ひまがありませんからこれで引揚げますといい捨ててその場を去り、兵員を集合して引揚げた。
その引揚げの時に、安藤大尉は女中部屋の前を通過しつつ、
閣下を殺した以上は自分もこれから自決すると口外していたということを、
これは引揚げた後で女中から妻に報告してくれたことである。
命拾いをしたのは、畢竟安藤大尉にとどめを刺されなかったからである。
安藤がそれをしなかったのは、 「 武士の情 」 とか たか夫人の願いに動かされたとか謂われている。
しかし、安藤は曾て侍従長官邸に来て鈴木と長時間話し合ったことがあり、知合の間柄であった。
自伝は語る。
この事件の二年前、安藤君は民間の友人と三人で来訪されたことがあった。
その時の陸軍の青年将校の一部に提唱されていた所謂革新政策について色々と述べられて
私の意見を尋ねられた。
その意見のうち私は三点を上げて非常に間違っていることを述べて反駁した。
まず第一は、軍人が政治に進出し、政権を壟断ろうだんするのは明治天皇の御勅諭に反する。
軍人が政治に精力を費つかうようになれば、武力は弱まり、外国との戦争に於て 甚だ危険な状態になる。
そういうことから、軍人は政治に関わらずと御勅諭で御示しになった。
第二に、貴君は総理大臣を政治的に純真無垢な荒木貞夫大将でなければいかんと言われるが、
一人の人間をどこまでも、それでなければいかんと主張することは、
天皇の大権を拘束することになりはしないか。
第三に、農村が疲弊し、兵に後顧の憂いがあるから、
軍人の手でこれを改革し、戦争に強い軍隊にしなければならぬというが、
日本国民は君のいうように、外国と戦さをするのに後顧の憂いがあって戦えない民族だろうか、
と 日清、日露戦争やフランス革命時の軍隊 ( ナポレオン ) を 例に話した・・・・。

この問題を強調したら、安藤君は、今日は誠に有難いお話を伺って胸がサッパリしました、
よく解りましたから 友人にも説き聞かせますといって 喜んで、又他日教えを受けることにしたいと言った。
そうして辞し去られた。
そして帰る途中、同伴の友人に、どうも鈴木閣下は見ると聞くとは大違いだ、
あの方はちょうど西郷隆盛そっくりだ、これから青山の友人の下宿に立ち寄って、皆にこの話をしてやろう
と 語られたと聞いたが、素直に、少し強過ぎる思う言葉さえ使って、三十分と申し込まれた面会の時間を三時間も、
たしか昼食まで一緒にして語った甲斐があったと思いました。
その後数日たって安藤君から、重ねて座右の銘にしたいからといって私に書を希望して来ましたので、
書いて差上げた筈です。
安藤君は確かにその時は私の意見に同意された。
然し 同志に話した上で、同志を説破するに至らず、かえって安藤は意志が動揺したといって評判された。
首領になっていたから抜き差しならん場面に追い詰められて、あの儘遂に実行するに至ったが、
その上で自決の決心もしたのであろうと思う。
まことに立派な、惜しいと言うよりも寧ろ可愛い青年将校であった。

松本清張 著  二・二六事件 第二巻  から