あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

齋藤史の二・二六事件 2 「 二・二六事件 」

2020年12月16日 06時35分32秒 | 後に殘りし者


二・二六事件

その頃、若い将校達の間には、政治に対する不満の空気がたまっており、
革新への希求が煮え詰っていたのでございます。
先に 五・一五事件。そして、昭和十一年の二・二六事件の前でした。
昭和の六年ごろから、不作がつづき東北一帯は飢饉になりました。
九年が一番ひどくて、娘は売られ、餓死者も出そうだという・・
昭和二年一乄目十二円した白繭が昭和七年二円二、三十銭、黄繭は一円代に暴落。
(米は昭和元年一石四十円が、二十円下る) しかも税金はほとんど変わらず。
一般はくるしんだそうです。
食糧配給の制度もなく、現代ほどの社会の手も届かず、
政治に失望し、漠然と何かの変革を待ち望む心もあったと聞いています。
兵隊の大かたは地方出身者でした。
故郷の便りは彼等を悲しませていました。
その悲しみを聞くのは近い上官の彼等若い将校達でもあったのです。
こうした社会背景もつよく関係しておりました。

訪ねてくる栗原中尉は、わたくし達との雑談とは別に、時に父に向って話しこみ、
父は、うむ、うむ、と 聞いておりました。
もちろんある方々のように 「 骨は拾ってやる・・」 と 言ったり、
彼等の集りにお酒をとどけるとかするような、立場でもなければ、がらでもない一予備の軍人にすぎません。
聞くだけです。
しかし、心配なく話が出来、受け止められる・・という事はあの時の彼等にとっては、
かけがえの無い場所だったのかも知れず、
彼等の情熱は男である父に充分にひびいたでしょう。

小学校の下級生、坂井直中尉が遊びに参りました。
彼の父も三重県出身の陸軍少将。
彼の上官は部下の信頼の厚かった安藤輝三大尉で秩父宮の信頼も厚かった人でございました。
刑死の時 天皇陛下万歳につづいて、秩父宮万歳を叫んで逝った人でございます。
坂井はのちに宮との連絡役になりましたが、彼は、初めてその宮邸に行った時の事を話してくれました。
正式の御門からではなく塀を越えて、お庭を通り お居間まで
・・お怒りを給わったならば自決をするつもりでその用意も整えて、
自分達の意見を聞いていただきたいためでした。
・・このところは間違って伝えられてはいけないと思いますので、今は飛ばしておきますが。
・・彼は、しかし、死ぬ事をせずに帰って来ました。
以後は お前が連絡に来るようにと申しつかって、その時の手順も御指示いただいて参りました。
そしてその話を直情なこの人が、からだを わななかせ涙を両眼からあふれさせて語るのを聞いた時、
わたくしは感じたのでございます。
これは決して作り話ではないこと・・
そしてわたくしにとって大切なことは、
彼等がこのような絶対秘ともいえることを話したりする前にも後にも、
一度も、一言も
「 これは内緒だが・・」 とか 「 人には言うな・・」
とかの念押しを一回もしなかったことでございます。
たかがわたくし、仲間でもない一人の女を相手として・・です。
これは、ただひたすら人間から人間へ手渡された信頼だと思いました。
わたくしがこれから五十年生きたとしても二度と出逢うことのない種類の深い信頼です。
・・わたくし日記をつけることを止めておりました。
「 見なかった 」 「 聞かなかった 」 と 申せばそれだけのことでございますから。

或日 坂井は、いつもよりもいっそうにこにこしながらやって参りました。
笑うと少年のような笑顔になるのです。
そして、
「 近く、お宅と親類になります 」
と 申します。
わたくし達一家は知らなかったことでしたが、三重県に住む彼の父 坂井兵吉(瀏の同期) が、
息子の嫁にと選び気に入っている娘が、同市に住む軍人の娘の平田孝子
・・わたくしの夫 堯夫の姪だというのです。
おどろいているわたくしに、彼はくり返しました。
「 わたくしたち親類です。史姉さん 」
何の疑いも迷いも浮べない無邪気なまでの顔を見ていますと、
わたくしの内部に日頃きざしている不安は、杞憂にすぎないのだ・・と 思えて来るのでした。
何事も起りはしないのだ。
何かが始まるのなら、結婚をいそぐはずは無いのだから・・。
実際に、行動の予定などその時点での彼自身、予想しては居なかったのだと思います。
のちに事件に名を連ねた人々も遊びに来ました。
みな すがしく礼儀正しく やさしい若い将校でした。
これという話はなく、先輩としての父となごやかにはなしているだけでした。
お茶やお菓子を運びながら、現役時代に帰ったような気がしました。
父はいつも若い人達が好きだったのでございます。
西田税
民間人として処刑されました西田税が、一度か二度いらっしゃった事がございます。
いわゆる民間の右翼といわれる人々の中には、じつに様々な分子があるので、
父はそうした人達との交わりを避けるようにし、栗原達にも注意をして居りましたから、
わたくし共と、そうした方々とのおつきあいはございませんでした。
西田税は、あの場合制止する側に立っていた人と聞いて居ります。
その西田と父が何を話し合ったかは存じませんが、
玄関に送りに出まして、その人の眼を見ました時、・・澄んだ しかも優しい眼・・と 思いました。
もの静かな声と態度・・腹の据った立派さ・・と 思いました。
・・なるべくは、そのような事を起したくはない
・・というその点で、西田と父との意見は食い違いはなかったと思います。
この方の奥様も、それから大きな御苦労をなさいましたでしょう。
・・わたくしなどよりも、より直接に、苦しい事件以後の一生を御持ちになった女の方も多いのでございます。

日を追って何かが煮えつまってゆくような思い予感がわたくしにも濃くなってゆきました。
しかし、どんな形で、いつあらわれるのかは、全くわかりません。
あたりはかえって以前よりもしずかな感じさえあるのです。
今も、思うことですが、男達が、おのれの利害、生命を超えて一つの事を思いつめ、
もちろん幾度も迷い、ためらい考えているうちに、
急に、発火点のような時が近づいてきて彼等自身らも予測できない速さとなって奔りだし、
個々の意見をとび越し、それはもう止めようがなく燃え上る
・・もっとも慎重な人さえも擢さらいこまずに置かないのだ・・ということ。
何処の国の歴史の中にも、人間のこうした火のようなものは、
大小、方向、思想のさまざまの場合の違いこそあれ、出来事としてくり返されて来たのではなかったか、
と 思われるのでございます。
坂井と孝子とは新婚十七日で蹶起の日に出逢ったのでございました。

現在外国のこの事件の研究者は、
「 一種の抒情的理想主義が日本的な形をとって現れたもの・・」
とか見ているそうでございますが、
たしかに自己犠牲的な点、
他国に革命のように自分達がその後の権力や位置を望まなかった点などの差異がはっきり出ております。
ある人はそこを無計画と申しますが、彼等の権力の野心的なものは無く、
ことに、軍事力と、政治力を合体させるべきではないとしていたのでした。
なおもうひとつ、彼等には大きな錯覚があった・・とわたくしは思われるのです。
彼等は朝夕に暗誦する 「 軍人勅諭 」 によって
自分達を 『 天皇の股肱 』 と 思いこむように育った軍人なのでした。
ひとつひとつの例はひきませんが、明治十五年以後、大正昭和の多くの勅諭・勅語を調べますと
この語は特に陸海軍人に対するものに限って繰り返し使われており、
特別の覚悟を呼びかけるかのようでございます。
( 清国--明27、露国--明37、独国--大3、米英--昭16 に対する国内一般へ向けての宣戦の詔書は
--汝有衆--というよびかけによっている )
危機に当って つねに股肱である軍人が真先に起つべきものとの暗示は充分に作用していた、
と 申してよろしいでしょう。
事件後、間もなく彼等自身もその錯覚に気付いたことでしょう。
軍人が真の股肱であったのは明治時代だけではなかったか・・
いえ、それさえも政治的に必要な表現であったかもしれないのに、
彼等はそれを抱き続けて来たのでございました。
更に潔癖な軍人達の眼から見た 「 政界 」 というものがありました。
軍人は失態をした時は、退いて終生をかけて責任を負うもの、
場合によっては死をもって侘びるものという考えがございました。
すくなくとも社会の表面から姿を消します。
しかし政治の世界はこれとちがい 身をひいたようでも少しの時をおけば、何度でも再生して現れます。
また表面から消えたと見せていっそう陰の勢力となり得ます。
その人々が本当に消え去るのは死の時に他ならない。
そのことが国民に届くべき光をどんなにさえぎっていることか・・というのが彼等の思いであり、
一途な人々のいらだちを激しいものにしてゆきました。
このような彼等でしたけれども、しかし昭和の天皇は身辺の老臣に対してだけこの語を使われました。
二・二六事件当時の御言葉として軍人彼等には
「 自殺するならば勝手に為すべく--」
と 言われたのでした。
もはや彼等は天皇にもっとも近く、もっとも信頼されている股肱などではなかったのです。
それどころか、遠く見捨てられた者達にすぎませんでした。
彼等が抱いたのは幻。
一方的な独断の理想像、自分達が抱いたその 「 虚像の天皇 」 のために身命を捨てる事になったです。
すくなくとも明治と昭和は遠く離れておりました。
理由はわたくしなどにはわかりませんが
「 米英両国トノ開戦ニ際シ 陸海軍人ニ賜ハリタル勅語 」 ( 昭16 ) には・・汝等軍人の忠誠勇気ニ信倚シ
・・と なり、それまで繰り返し使われていた 「 股肱 」 の二字は除かれております。
その日
事はとうとう起りました。
昭和十一年二月二十六日。
国家改造を要求する蹶起部隊、約一、四〇〇名。
東京において重臣閣僚襲撃。・・三重臣死亡。
早朝、
「 おじさん。すみやかに出馬、軍上層部に折衝し、事後収拾に努力して下さい 」
との 電話を受けて、
父は首相官邸へ出て行きました。
・・古い軍服をつけ、自動車を呼んで出てゆく父を、母もわたくしも通常のように玄関に見送りました。
・・台風の眼の中に入ってしまったような静けさでした。
雪の多い、異状に寒い冬でございました。
父はそのあと陸相官邸へも行ったようです。
陸軍大臣川島大将は、かつて教育總監部に居り 父もそこに勤務、知り合っていたのです。
そこで卓上に置かれた蹶起趣意書を、許可を得て、見ました。
多くの将校の中に、ただ一人の予備役軍人でした。
石原大佐に、
「 なんだ予備の齋藤少将が・・・」
と 軽蔑の語調でいわれた時は
「 予備の斎藤だが、動員令あれば、現役の大佐の長官ともなる・・・罵倒はやめられよ 」
といったそうです。
同日午後三時半には、陸軍大臣告示(参考) が通達され、
彼等は第一師団麹町地区警備隊長小藤大佐の指揮下に入りました。
つまり東京警備司令部の下に入り、公的に認められた部隊です。
食糧も原隊からとどきました。
これで一応終結の方向に移るかに見えましたが・・・・
(参考)
陸軍大臣告示 ( 二月二十六日午後三時三十分。東京警備司令部 )
一、蹶起の趣旨に就ては天聴に達せられあり
二、諸子の行動は国体顕現の至情に基くものと認む
三、国体の真姿顕現(弊風を含む) に就ては恐懼に堪へず
四、各軍事参議官も一致して右の趣旨により邁進することを申合せたり
五、之れ以上は大御心に俟つ
これを山下奉文少将が持参、朗読---
という事になっていますが、父が、午後四時頃、
次官古莊幹郎中将(陸大同期) が 青年将校に示すために、一枚の紙に鉛筆で書いたものを、
見せられたものとは、どう考えても違っている様に思われる・・と 書いて居ります。
紙は陸軍で演習などに使う報告紙のようなもの、
文言はとっさに正確に覚えることは出来なかったのでしょうが、これは電話で来たものだそうで、
そのどちらかに作為が混じりはしなかったか・・と 疑って居りました。
この事についてはのちに、河野司の著、「 私の二・二六事件 」 に 年月をかけて調べた一項があり、
それによりますと、告示には、原文があり、山下の朗読したのはそれであったと思われますし、
また印刷配布されたものにも二通りあったことが出て居ります。
父が見た電話で伝えられた告示は、その中のどれであったのでしょうか。
更に不可解なことは、議会での答弁に、その時の陸軍大臣杉山元が、
「 そんな告示は知らない 」
と 全面的に抹殺したと漏れ聞こえたことです。
告示一つについてさえ、混乱と混沌と、そののちのごまかしが渦巻いていたのでございました。

二十七日、午前二時二十分、
東京市に戒厳令が布かれ、香椎浩平中将は戒厳司令官となり、
現九段会館に司令部を置きました。
父はここを訪ね、同期である香椎中将に、皇軍が相討つことの無いように願いました。
また 「 明倫会 」 の 田中国重大将に求められ、案内して、寺内寿一、荒木貞夫の各大将 (眞崎大将不在)
との会見のため、各所を廻りました。
そして翌日、伝家の宝刀のように振りかざされた・・奉勅命令・・の段階になったのです。

二十八日。
午前五時、奉勅命令 司令官に下達。
午後十一時 「 反乱部隊討伐 」 の 命令が発せられ、それまでの 「 蹶起部隊 」 の名は一転して
「 反乱 」 と 明記されました。
この間に、当然奉勅命令は彼等部隊に伝達されたと一般からは思われて居ります。
しかし、そうではございませんでした。
磯部浅一の獄中手記にも、村中孝次の獄中手記にも・・いわゆる奉勅命令は下達されなかったと書いて居り、
また電話で二十八日夜半すぎ、父が栗原に念を押しました返事にも、
「 自分達はだれも、そうしたものを受取って居りません 」
と 答えて居ります。
彼等は周囲の情勢から、しだいに何かを察してはいたとしてもついに正式な通達は来ることなく、
叛徒と呼ばれ、討伐を受ける身になりました。
・・小藤大佐は、二十八日いっぱい部下となった彼等に奉勅命令を伝達しようとした・・といわれますが、
何故か果たせず夕刻警備隊長の職を解かれました。
彼等は完全に見捨てられた軍隊になりました。
事情の判然としないままに、彼等は、大臣告示のあとにくるであろう次の命令を待ちました。
ラジオや、街のうわさだけで軍隊は動けません。
維新大詔が出る・・という声さえあって、君側の奸を討つために起ち 天皇に叛いたつもりのない彼等は、
天皇の軍隊として 「 御命令 」 を 正確に受けるべく待ちつづけていたのです。
・・たとえそれが、どのようなものであったとしても・・
始末に困った軍当局は、彼等に自決してほしかったのでしょう。
手廻しよく二十余個の白木の棺が用意されていたといいます。
死ねば、いさぎよく見えます。
しかし死人に口無し・・死後はどのように都合よく片付けられてしまうかもしれず、
青年将校等は、詐術にのせられた思いもあって、
死ぬにも死ねない立場に追い込まれていったと思います。
もとより覚悟はできていました。
二十八日夜、決別の電話が来ました。
  徳川義親侯
彼等の心情のあわれさに動こうとした人もございました。
同日、夜半過ぎ、徳川義親侯からの電話でした。
内容の重なところは
「---身分一際を捨てて強行参内をしようと思う。
決起将校の代表一名を同行したい。
代表者もまた自決の覚悟をねがう。
至急私の所へよこされたい---」
しばらくの後、栗原に話が通じ、さらに協議ののちに来た答を、
父が電話の前でくり返すのを聞きました。
あるいは父の書いたものよりは、彼の口調に近いかも知れません。
「 状勢は刻々に非です。お心は一同涙の出るほど有難く思いますが、
もはや事茲に至っては、如何とも出来ないと思います。
これ以上は多くの方に御迷惑をかけたくないので、
おじさんから、よろしく御ことわりをして下さい。御厚意を感謝します 」
電話については、これよりだいぶん前に、彼の方から、
「 盗聴されているかも知れません---」
と 連絡されて居り、
わたくしたちは、何処がそれをしているのか、警視庁ででもあるのか
・・と 思っていましたが、交信を傍受し、
しかも録音を取っていたのは戒厳司令部であったと知ったのは、
昭和五十四年二月二十六日放送のNHKの番組によってでございました。

二十九日。
ラジオ、戦車、飛行機、アドバルーンをつかって戒厳司令部は、呼びかけ、ビラをまき、
原隊復帰をすすめました。
それによって正午、下士官以下の大体は無事に帰営を終えたのち、将校の中で、野中大尉自殺、
また、安藤大尉はいちど部下に制止され二度試みて果たせずに終り、
彼等一同は収容されました。
あとは公の場で、自分達の趣意を訴え、下達されなかった奉勅命令には、抗しようもないのに、
叛徒とされる無念を述べようとしたのでございましょう。
とにかく、その夜は交通停止も解かれ、東京の街には明るい灯がともり、日常の生活をとり戻しました。

齋藤史著  遠景 近景から
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