あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

殘った者 ・ それぞれの想い (二) 「 昭和維新に賛成して下さい 」

2020年12月20日 14時50分33秒 | 後に殘りし者


       
元陸軍大尉  大蔵栄一
民間側参加者  古賀 斌
元戒厳参謀長  安井藤治
元総理秘書官  迫水久常
元総理大臣  岡田啓介

前頁 残った者 ・ それぞれの想い (一) 「 指揮したのは村中 」   の続き

陸軍内部の派閥闘争
皇道派、統制派について
大蔵  分かれたのは十月事件でしょう・・・・。
古賀  昭和六年の三月事件かに満洲事変をはさんで、十月事件と続いているが、
三月事件までは所謂青年将校派も幕僚派も大体一緒だった。
ところが十月事件となると青年将校はハッキリ度外視された。
大蔵  もっと遡ると天保銭組 ( 陸大卒組 ) と無天保組とが挙げられる。
もう一つ遡ると長州閥、薩摩閥という藩閥になってくる。
簡単にいえば統制派というのは参謀肩章で中央の幕僚を中心にしたもので、それに一部の青年将校がくっついている。
皇道派というのは藩閥に反旗を翻した荒木、真崎等を中心として一応構成が成り立ったのです。
古賀  昭和九年に西田の書いた物に、統制派のことをファッショ派と言い、皇道派を国体原理派と言っている。
ファッショ派は現実の政治、経済、社会機構の矛盾、欠陥を直接ついて これが改革を行わんとするに対し、
皇道派は国家、社会の欠陥は国体の原理を歪曲するところに発すると認識する。
従って革新政策は悉く国体原理に出発するというべきだ。
岡田  陸軍に統制派と皇道派というのがあったことは、その頃喧しく言われていたが、
なるほど大蔵君などの言うように、系統をたてて分析していけば、色々因縁もあり難しいことになるだろうが、
要するに皇道派というのは、殊更に国体とか、天皇とか、統帥権とかいうことを言い立てて 荒木、真崎を中心人物として押し立て、
これを崇拝する一群、
統制派というのは、これに対抗する一派で、いわば、永田鉄山が軍務局長になってから、形が出来たものじゃないかな。
林は永田の献策ばかりで動いていたようだが、一応統制派の最高人物だったというわけだろう。
大勢の大将たち、その他の高級幕僚はどちらにもつかずというところで、
国体とか、天皇とかいうことを、理論的に話すときになると皇道派の言うのと同じようなことになるが、
さて実際上、真崎、荒木を中心として、動くかというと、そうでもなく、
時の陸軍大臣のすることに順応するという按配だったと思う。
だから誇張して言えば、陸軍の指導力というか、指導的立場に立つ地位の争奪のための争いといってよいように思う。
もちろん、青年将校は、この実際の内容などには頓着なく、抽象的な国体護持、君側の奸を除くというような、
精神的な気持で動いたのだが、永田が殺されても、そのあとにきたものは、自分達が同じ思想の持ち主として崇拝している先輩ではなし、
林の次には川島が出て来るといった按配で、自分達の心持を実現する手づるがつかまれないのに焦慮して、
事を起したのだと思っている。
林のあとに真崎でも出て来ていたら、二・二六事件など起らなかったかも知れんが、
そのとき陸軍内部に上層部の空気は荒木、真崎の系統を推し立てるようなものでなかったのだね。
林陸相解任の後、陸軍から もし所謂皇道派の人を推薦してきたら、岡田さんはどうされましたか
岡田  どうも今からそういわれても、はっきり答えられないが、恐らく私は、それを受諾したと思う。
しかし結果からみて 二・二六事件以後皇道派の人達は失脚してしまって、陸軍はいわば統制派一本になったのだが、
その後 太平洋戦争までの行跡を見ると、その当時、皇道派の連中が考えていた以上の政治問題だから、
実はどちらにしても同じことだったと思うよ。
陸軍大臣は、皇道派でも統制派でもかまわなかったという点がちょっと合点が行きませんが
岡田  なあに、皇道派とか統制派とか、喧しいことを言っても、本当は陸軍の膨大な機密費の取り合いさ。
その頃 陸軍の機密費は百万円。海軍は二十万円くらいだったかな。
その機密費をどちらが握るかという派閥の争いだよ。難しいことを言っても、本当はそうなんだ。
私としてはそんなことではなくて、陸軍を本来の建軍の建前に戻す、それがための粛軍ということが年頭であって、
やれ何派と何派というふうに派閥の争いとして考えて行きたくはなかったんだ。
林が真崎に詰め腹を切らせたことだって、事前に私にこうするからという諒解をもとめてのことだが、
あれも一に粛軍という大きな考え方でやったことで、派閥がどうこういう考え方は全然なかった。
それでなければあんなことが出来る筈ないじゃないか。
古賀  岡田さんは陸軍の派閥争いは結局機密費の取り合いさ、と言われるが、そんな簡単なものではなかったと思う。
私は もし皇道派が天下をとっていれば、太平洋戦争は別なものになっていたと今も信じている。
・・・座談会が催された当時、父は起居不自由でこの座談会に出席していないはずです。
多分迫水が編集者の希望をいれて父が出席したように父の発言を書いて渡したものと想像します。
従って 下線部分の発言を削って頂きたいと思います・・・岡田良寛

青年将校は煽動されたのだ
古賀  話は変るが、三月事件から十月事件、それから神兵隊事件は幕僚ファッショ派の仕事だ。
幕僚ファッショ派が政権を取ろうとしてやったことなのです。
迫水  幕僚というと一応、橋本欣五郎を中心とした一派を表徴とするものですか。
安井  東条や重森大佐も関係しておったようです。
古賀  宇垣、建川、小磯、東条、野田などが皆関係がある。私の言う幕僚ファッショというのは皆この人達です。
その当時の幕僚派は政治には関与しなかったのです。
軍の政治関与が始まったのは三月事件以来でした。
この軍の政治関与が行われて来たということが統帥権問題とからみあった非常に重要な問題になってくる。
統帥権が独立しているということは軍は政治に関与しないということが前提であるにも拘らず、
現実において斯くの如く行われてきた。
しかも一方、統帥権はロンドン会議で干犯された。
真崎の教育総監更迭でまた干犯された。
純粋の明治以来の建軍の本旨が三月事件以来、乱れて来ているということが言える。
そこで これではならぬということが革新青年将校の中に生れて来た。
さっき言った粛軍を断行しなければならぬということになってきた。
迫水  たとえば政治関与をしたがるような幕僚を排撃するわけですな。
古賀  そうです。
迫水  二・二六事件の青年将校の考えは幕僚派も排撃するという気持ちだったのか。
大蔵  そうです。参謀総長等をやっつけろというのです。
古賀  この粛軍がある程度、断行された時がある。荒木がやめて林銑十郎が陸軍大臣になったときにね。
その結果 後退したのは宇垣、小磯です。
反対派の将校はパンフレットまで発行して各停車場で売り出した。
「 こういう有望な人間を地方に出して、これで陸軍の建て直しはよいのか 」
ということを書いてね。
当時の根本新聞班長などは新聞社の政治部長に相当の金を出していた。
大体、東京日日、朝日、読売などに一人あたり五百円から三千円の金を撒いている。
それは何年頃ですか。
大蔵  昭和七年です。五・一五事件の後です。
事件は当時陸軍を牛耳った統制派に対する皇道派の戦いでもあったと思うが・・・・。
迫水  起った者は所謂皇道派だろう。後から彼等を起たざるを得ざるに至らしめたのは統制派だということは言えるでしょう・・・・。
古賀  そりゃあそうです。
青年将校が蹶起するだろうというので、それで十月事件を中心として青年将校を圧迫することが実に激しくなった。
中国人の金まで費って圧迫したものだ。
私は中国人が二人、統制派に金を送っておった事実を知っている。
台湾の中国人です。一万円ずつ送っておる。
台湾銀行なども統制派に青年将校弾圧資金として年五千円ずつ送っておる。
迫水  僕はなぜそういうことを言うかというと、二・二六事件によって一つの空気が出せたと言っておりますね。
軍のご機嫌を損なうと血を見るぞという。
その空気を極度に利用し誇張したのは当時の統制派なのです。
その連中が利用したのか、あるいは最初からそういうことを計画的にやったのかという疑問を私は持つのです。
安井  計画的なら、あれだけ検索したのだから証拠が出そうなものだが出なかった。
大蔵  よく幕僚連中が 「 俺達が収拾してやる 」 ということを言っていた。
おそらくこういう事態が起ったら、それをこういうふうに利用していこう。
又 一面或程度起るように仕向けて行ったのではないか。
彼等の利用癖は相当なものだったからな。
安井  随分、念入りな話だな。でも、彼を利用したといえば、たしかに利用したということはあるな。
いままでの話ですと、青年将校は結局、橋本、東条などの幕僚に煽動されたといったことのようですが、
岡田さんは その点はどうお考えですか。
岡田  どうもそのへんは、まわりくどくて私にはよくわからん。

待望の戒厳令布かる
安井  迫水さん・・・・岡田さんが存命だとわかったのは・・・・。
迫水  当日の午前八時か九時頃です。内閣閣僚が知ったのは翌二十七日午後六時頃です。
私が松尾の死体を角筈の岡田の私邸に持って行ったのがその日の五時頃です。
初めて事件が起ったと知った時は如何でしたか。
岡田  二月二十六日未明に襲撃を受けたときは、銃声で目がさめたのか、松尾が来て起されたのか、
よく覚えていないが、ともかく、やはりやってきたかと思ったよ。
兵隊が何百人もやってきたと聞いた時は、そんなにやってきたのではどうにもならん、と 思ったよ。
ところが思いもかけず、取り残されてしまって、女中どもに出会い、押入の中に納まってからは、
事の運びのままに任せることにした。
その押入のある部屋は、官邸の裏門に一番近く、外部の情況を察知するのに一番都合がよかったし、
女中どもがしっかりしていたし、外部からは、岡田、迫水のところから連絡はつくしするので、
まず悠々としていたよ。
いびきをかいて寝込んで女中を困らせたりしてね。
女中も狸寝入りをして私にあわせていびきをかいて誤魔化したというのだが・・・・。
押入の中でどういうことをお考えになりましたか。
岡田  どういうことを考えたかといって、別に、系統立てていうほどのことは、考えません。
やっぱり一番考えたのは陛下のことだな。
宮中はどうなったかと御案じし、申し訳ないことだと心から安泰を祈った。
陸軍の非道に対しては心の底から憤りを覚えたことも確かだ。
総理大臣の職をやめなければならないことはむしろ考えずに、官邸からの脱出したときは、
この事件の機会を活用して陸軍の政治関与を一挙に阻止する方法があるんじゃないかと考えたものだ。
しかし君達若い人達が今になって理詰めに、そのときのことを分析しようとしても、
老人の私にそれを求めるのは無理だよ。
安井さんは鎮圧の中心にたたねばならなかっただけに苦労なさったでしょうね。
安井  私が当時一番苦労したのは何かというと、先ず流血の惨を見ないで鎮めるということだ。
一方、なぜ討伐しないかという意見も出て来る。
けれども流血の惨を見たら徴兵令が崩れ服従の道が守れなくなる。
すると日本の軍隊はあっても無きが如し。
ただ身内から毒が出ておるから、どれだけ身内に回っておるかわからない。
もう一つ苦労したことは戒厳というものは厳正公平にやっていかなければならぬ。
苟も政治的な色を加味するとか、あるいは裁判の内容に立ち入るということは絶対やってはいけない。
平時なら軍の関係などに掣肘せいちゅうされているが戒厳令下にあっては正しい事は遠慮なくやっていける。
それから大蔵君を前にして何だが・・・・各地に連絡しておる同志があった。
末松が青森に、菅波が鹿児島におるというように・・・・。
殊に関東軍は満洲で勢いがあるから関東軍はどうだろうと思った。
これは杞憂ではない。
陸軍大臣の官邸に行って蹶起の趣旨を突きつけて、昭和維新を断行して下さい・・・・と言った時、
満洲においても軍司令官を倒し、朝鮮においては朝鮮軍司令官と総督を倒すという計画になっておった。
そういうわけだから流血の惨を見ない為には、とにかく興奮状態を避けるために説得するには時間を要する。
それから、海軍とぶつかりはしないかと心配したね。
ことに岡田総理をはじめ斎藤実、鈴木侍従長と海軍の長老を三人も倒しておる。
 
しかも海軍は逸早く陸戦隊五千人を海軍省警備のために上陸させた。
第一、第二艦隊を東京湾に集めるという空気だった。
これはしかし無理からぬことだ。
海軍としては陸軍を敵に回しても反乱軍を鎮めるという空気になるかも知れないということが気になり出した。
ただ私は帰順せしめるという見込みがあると思ったことは直感的に二つある。
その一つは あの朝、厳戒東京警備司令部に行ったのは六時半でしたが、その時始めて安藤に会った。
司令部の衛門の前におった兵が十名ばかり銃剣をもって私を取り巻いて
蹶起の趣意書を出して、どうか維新革命に賛成して下さいというので、
「 何だお前等は 」 と怒鳴ると初年兵がびっくりして ハッ と言っておるところに安藤が来て、
蹶起の趣意書を出して昭和維新断行に賛成して頂きたいと言ったのです。
とにかく司令部に入れと言った。
すると 「 他に用があります 」 と言って私に敬礼をして半蔵門に飛んで行った。
その姿はいかにも純真で、悪戯とた生徒が先生に叱られて逃げて行く様な恰好だった。
こりゃ吾々が言うたら聞くなという感じがした。
その次にもう一つ感じたことは、どうも指揮統一がないように思える。
殺すだけのことについては計画したが後をどうしようという計画などもっておらぬのだ。
ただ戒厳を布いてくれ、戒厳を布くことが自分等の目的を達する第一段階だと思っておったらしい。
吾々からいえば 戒厳を布くことは彼等をとっちめることなんだ。
その証拠には青年将校が陸軍大臣に二十六日のうちに戒厳を布いてくれと申込んでいる。
二十六日にはすでに三宅坂の東京警備司令部は取り巻かれている。

戒厳令を出すか出さぬかということが大問題となったが、ついに二十七日の朝、戒厳令が布かれた。
新井戒厳参謀が安藤に向かって鉄門を隔てて
「 戒厳令が布かれた。お前等の希望する戒厳令が布かれたのだが、ここでは仕事が出来ないから、
九段の軍人会館に行くが通せ 」 と言うと 「 よろしうございます 」 というので、
二十七日の朝、私達は出ていったが、その時も戒厳司令官に対して、何等反感を持っておらなかった。
味方というとおかしいが自分等の同情者であるくらいに考えておったようだ。
古賀  そうです。
安井  それで私等が言えば興奮がとけて帰順する見込みがあると思っておった。
古賀  今のお話を聞けば安井さんが敵の参謀長であったことは残念なんですなあ。
私が考えているちょうど裏をいっていたのです、貴方は・・・・。
私は当時、都内を視察して歩いて包囲部隊を訪ねて聞いてみた。
そうすると皇軍は相撃つことは出来ないから、いよいよ爆発すれば鉄砲は空に向かって放つほかはないと言うのです。
それで包囲軍の方は戦意がないと見た。
二個連隊を、私は各所に回って歩いたのです。
こっちは事件を起したのですから、やる気をもって撃ち合えばどうなるだろう・・・・。
戒厳司令部は治安維持に任ずるのだが、こっちが強く出て行けば政府軍は屈服するということが私の考えに浮かんだ。
ところが事実に反したというのは、期待した激励もなく統一も全然なかったことです。
安井  初めは戒厳令を布くということは後藤内相が非常に反対した。
それは戒厳令を布いて軍が勝手な事をしたら・・・・と 疑っておった。

問題の大臣告示と奉勅命令
大蔵  私が牢屋に居った時、ちょうど目の前に中橋基明中尉がおったが、監視の目を盗んで指で通信をやった。
私はこういう問題をだしたのです。
大命に抗してまでも、なぜお前達は頑張ったのか・・・・という指の通信です。
その答えを総合すると 「 最後まで知らないのだ 」 というのです。
先ず 炊き出しがあった。
戒厳令のもとに麹町地区を警備せよという命令であるというのです。
安井  それは無理からぬことだ。
最初は蹶起部隊、次が出動部隊、次が占拠部隊、いよいよ二十九日に初めて反乱軍と言った。
それまでに帰順するようにと、彼等の精神状態をつないでおいて説得するために、
彼等をして討伐を受けることはないという考えを抱かせるためである。
ある文書に反逆者という文字があったが、私はこれには絶対反対した。
古賀  そうするとお聞きしたいのは陸軍大臣の告示というものが三カ条にわたってある。
あれはなんです。月日もないし署名もない。
安井  電話で私が受けたのです。
戒厳司令官自ら宮中へ行ったのが二十六日の正午頃。勿論参議官も戒厳司令官も通れない。
山下奉文なら通すというので山下少将を電話で呼んで司令部に来てもらって戒厳司令官と一緒に自動車で宮中に行った。
宮中に軍事参議官が皆集っていた。
阿部信行大将が 「 軍事参議官の決議が出来た。こういうことを伝えてくれ 」 というので、
川島陸相が 「 それは陸軍大臣から言うことである 」 というので 司令官が自分で手帳に書いて電話をかけた。
それで私は福島参謀を呼んで 「 お前、私の言うことを書け 」 と言って、福島に書かせて全文が出来てから復誦した。
その第二項が問題となったのです。

「 諸子の行動は諒とする 」 という文句ですね。
それを反乱軍に伝えてくれと言うので、印刷して叛乱軍にやった。
すると後で 「 とんでもないことを出した 『 行動を諒とすると 』 と、行動を是認するようなことはいかん 」 と 言った。
そうかなるほどそう言えば 「 行動 」 というのは穏当ではない。
けれども今更 「 行動 」 とあるのは 「 真意 」 だと訂正すると判らな軍は、軍政当局の考えが前と変わったといって騒ぐから、
まあいいじゃないか、責任はこっちが取ると言うと、また電話がきて是非取り消してくれと言うのです。
つづいて次官通牒で文書がきた。
しかし、その文書はいろいろと探究したところ、誰が書いたのかわからない。
誰があの文を作り、戒厳司令官に伝え、戒厳司令官が電話で伝えた時 どこで間違ったか、その間にやはり作為がある。
古賀  あなたの電話には完全に入ってきたわけですか。
安井  そうです。香椎さんが行った時ちゃんと出来ていたというのです。
それで軍事参議官の名で出すのはおかしいから、私の名で出すと陸相がいうのです。
それを山下か、香椎さんが受継ぎを誤ったかな・・・・。
古賀  それから蹶起部隊の行動が悪いのだったら、何故に司令部では叛乱軍を第一聯隊に編入したのか。
安井  確かに奉勅命令が出る前から小藤部隊長に、あの部隊を指揮しろと命令が出ている。
奉勅命令が出たのは二十八日午前五時。
古賀  警備地区は、麹町地区ですか。
安井  戦時警備というのは軍だけでやるので戒厳とは違う。
三宅坂附近には兵を一箇小隊しか置けないのです。そこで一箇小隊だけ置いて、後はまとめて返せというように命令した。
古賀  本当に奉勅命令は出たのですか。
安井  出たのです。参謀本部で用意したのが二十六日です。
二十七日に陛下に明日帰順しますと上奏した。ところが二十八日午前一時から行動が怪しくなった。
それで参謀総長が二十八日午前五時頃に伝宣せられたのです。
古賀  これはどんな経路で蹶起部隊に伝えたか。
安井  それは第一師団長を経て出したのと、

奉勅命令で 「 戒厳司令官は三宅坂附近を占拠する将兵をして速やかに各々所属部隊に復帰せしむべし 」 というのと、
戒厳司令官として第一師団長に 「 戒厳司令官は速やかに三宅坂附近を占拠している部隊を帰還せしめ、
将兵を第一師団司令部附近に集合せしむべし 」 という命令です。
それで実際、奉勅命令を第一師団長に渡した。
「 この命令を貸す 」 といって貸した。その貸したものが第一師団長が又 小藤にも奉勅命令の本物を貸し与えている。
古賀  もう一つ聞きたい。何のために包囲部隊を出したのか・・・・。
安井  包囲部隊は最初出ておりませぬ。
あれは二十七、八日から非常に厳密に警戒しました。
それは大官連中を殺して朝日新聞社を襲撃した。革命計画では放送局、水道水源、電源を破壊するという事はあり得る。
しかも、こちらの命令を全幅的に承服しているのではない。
しかも統一的な反乱行動をしておるのではないから、どういうものが飛出すかわからない。
それで戦時警備に必要な準備は全部やる。
それから愈々二十七日に鎮まりそうだという見通しがついた時、ずっと警備を緩めた。
すると二十七日の夜中過ぎから、又動き出したというので厳密に網を張った。
あなたは ( 古賀氏に) 厳密に通路を阻むために兵を出したと思っておるかも知れないが・・・・。
古賀  いや、私は各地から東京へ出動させた兵力、たとえば何時に新宿には何個部隊が着いたというような、
状況から戒厳軍の配備まですっかり報告でわかっていました。
東部占拠部隊以外に情報蒐集の網を張っていたわけですか。
古賀  そりゃそうですよ。革命をやろうというのに・・・・。
反乱部隊はもう少し積極的な行動に出る考えはなかったのですか。
安井  それが戒厳令を布かれたために・・・・。
古賀  すっかり信じ切ってしまった。それに奉勅命令が出てみんなが頭を下げたわけです。
しかも最初は戒厳部隊に編入されたのですから官軍です。
その後奉勅命令を信じて平静になったものを殺すというのはどういうものですか。
安井  判決文は反乱の首魁謀議参与というのが主文です。
統帥権を乱用して、何も知らない部下を率いて、重臣を殺したのだからね。
古賀  青年将校は奉勅命令に降伏した。 実際純忠無私の人達です。
安井さんは兵隊は同志でないと言うけれども、同志です。
今日でさえ私の近所では魚屋さんも八百屋も私が二・二六事件の関係者であるというので一割安い。
どうしても説得できない場合、どうするつもりでしたか。
安井  彼等が最後にたてこもるのは当然新築されたばかりの議事堂だと思ったのです。
議事堂にたてこもった時はどうするかということです。
毒瓦斯が非常によいということになってたが、それには防毒面をもっておる。
その時は赤筒は防げるが緑筒は防げない。しかし生命は異常がないから、それを焚こうというのです。
ところが風向きがむずかしい。それで戦車を出して反乱軍の幹部を狙い撃ちしてしまうという手段でやったのですが、
重砲まで準備しました。
議事堂を射つ、射たぬということは重大問題です。
要するに反乱軍が未然だったからこそ そこまでゆかずにすんだ。
首謀者野中大尉は他殺か?
大蔵  こういうことがある。
私が牢の中にいたとき、野中大尉は自殺をしたが、なぜお前等は自殺しないのだという質問を出したのです。
すると中橋答えて 「 野中大尉は自殺していない 」 と言うのです。
まさに自殺しようとする時、一堂に集まって盛んに甲論乙駁しておった。
それを最も強硬に止めておったのは野中であったと言うのです。
絶対、自殺はいかん、吾々は斯くの如く騙されておるのではないか。
そこでこれを法廷において明らかにする使命をもっておる。
自殺は誰も相成らぬと言って強硬に突っ張ったのが野中であるというのです。
ちょうどそういう話の途中で 「 野中ちょっとこい 」 と 呼出したというのです。
呼出したのは山下、長屋、井出の三聯隊長の名前で呼び出したというのです。
あれだけ止めておった野中が自殺する筈がない。これは他殺である。殺されているのだと言うのです。
その事実はわからないけれども、死んでいった彼等はすくなくもそう思いながら死んでいっておる。
安井  そこまではわからないけれども二十九日の正午、全部反乱軍将校が集まっておるからというので陸相官邸に行った。
その時は岡村寧次と山下奉文とがおりました。
岡村も山下も反乱部隊の元の聯隊長をやっておったし叛乱将校とは関係が深い。
長屋少佐のことは知らぬ。
それで山下が私に 「 武士の情を考えてやれよ 」 と 言うから、それはそうだ、その通りだと言ったのです。
山下は 「 今、皆が自決すると言っておるのだ 」 と言う。
憲兵にきくと 「 武器は取上げてある 」 と言う。
そこで私は 「 将校なんだからちゃんと武器を与えて置いてよいぞ 」 と言って帰って来た。
大蔵  武器を渡したわけですね。
安井  私の命令が実行されれば渡してある筈です。
そうすると三時頃、山下が戒厳司令部にやって来た。ちょっと陸相官邸に来てくれと言うのです。
私は二十八日に青年将校に騙されている。
・・・・二十九日もまた暗くなると外部とどういう連絡をするかわからない。
古賀さんのようなのがおるからね。
それで何とか処置しなければならぬ。憲兵の方ではとにかく明るい内に名にとかしなければならぬというのです。
山下と憲兵の矢野少将と私が行こうとすると、石原莞爾参謀が参謀長ちょっと待ってくれ、
あんたはこのままにしておってくれと言うのです。
それで逮捕状は君に渡すから、山下、矢野両少将と共に行け、私が昼頃行った時自決すると言っておったが、
ヒゲを剃らなければならぬとか、お湯には入らなければならぬとか言っておったが、とにかく君が現場に行って様子を見て来い、
と言って逮捕命令を出した。
その時、逮捕する前に、野中だけは自殺したというのです。
だから心理状態が冷静であるべきはずであるが、中々そうもいかなかったのではないかな。
大蔵  すくなくとも死んでいった中橋だけは絶対に私にそうであると言っておった。
安井  野中だけは自分が全責任を負うて始末したいという気持ちがあったらしいね。

改造/S ・26 ・2
座談会  『 二・二六事件の謎を解く 』 から
目撃者が語る昭和史 第4巻 2 ・26事件  新人物往来社


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