あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

生き殘りし者 3 麹町地區警備隊 「 師團長はこれで昭和維新になると思った 」

2020年12月26日 15時15分02秒 | 後に殘りし者

生き残りし者 2 宮城占拠計画 「 陛下に叱られて本庄さんが動けなくなった 」 の 続き
      
清原康平少尉       池田俊彦少尉        常盤稔少尉       鈴木金次郎少尉   今泉義道少尉
これまでのお話で分かる様に、昭和維新はスタートの時点ですでに終わっていた、といっていい
しかし、なお蹶起部隊の必死の工作が続けられるわけですが・・・・
常盤
所謂輔弼を以て統治されるのであるから、
今度は陸軍上層部の工作によって、どんどん奏上申し上げればきっと陛下の御許しもあろうと、
上部工作を続けたわけですね。
そこで一つ、大きな問題がある
秩父宮殿下の存在です
二十七日の夕刻、秩父宮が弘前から上京されるのですが、このことはすぐ耳に入りましたか
  秩父宮・上野駅
鈴木
上京されたということは聞きましたが、何日に来られたか、そこまでは・・・・。
清原
私の中隊長の森田利八大尉は秩父宮と特に親しくしておられまして、その森田さんから蹶起後もしきりに電話が入る。
その電話で 「 これから殿下の所へ行く 」 と 知らされましたから、その時点で分りました。
常盤
私も聞きました。
蹶起後は連絡将校だったから、あっちこっち飛び回っていました。
それであっちで聞き、こっちで聞き・・・・。殿下の上京でいい方向へ動くのではないか、という気はしましたね。
清原
実は、事件直前の一月に、坂井中尉がお訪ねしたときの、秩父宮の興味深い御言葉があるのですよ。
「 お前等がやるときには連絡せよ。必ず出て来るから 」
という意味のことを云われたという。
坂井さんはそのことを安藤さんに連絡している。
これは私達三人が訪ねた時、柳川中将が言った言葉と同じなんですね。
確かに 「 やれ 」 と 解釈出来ない事もないが、本当は 「 やるな 」 という意味。
又は 「 俺が ウンというまで、やるな 」 と云うこと。
安藤さんが最後迄起とうとしなかったのは、この為なんですな。
池田
秩父宮が動かれるというようなことを、安藤さんは夢にも思わなかった。
だから起とうとはしなかった ということですね。
清原
それが第一。だから、秩父宮が上京されても何の期待もなかったと思いますよ、安藤さんは。
唯 大御心を俟つ という考えを動かしませんでしたから。
しかし、天皇と秩父宮の昭和維新に対する御考えが、それぞれ違っていたことは知っていたでしょうね
清原
それは知っていたと思います。
『 本庄日記 』 にもありますね。御兄弟が激論されたという項が・・・・。
昭和七年春頃ですか、秩父宮が
「 陛下の御親政の必要を説かれ、要すれば違法の停止も亦已むを得ずと激され、
陛下との間に相当激論あらせられし趣なるが 云々 」 とありますね。
・・・リンク→ 本庄日記 ・ 大御心 「 陛下と秩父宮、天皇親政の是非を論す 」
池田
そうした意見の相違があるくらいのことは、先輩達の耳にも入っていたのでしょうね。
清原
しかし、だからといって 御上京に期待をかけたということはない、と 思います。
二十七日夕刻では遅すぎますよ。
それはそうですが、事件の根本原因は秩父宮擁立運動だという見方は、当時からあったと思うのです。
『 原田日記 』 の昭和十三年四月二十七日に、元老の西園寺公が、
古代の壬申の乱を例に日本歴史上の天皇家の血で血を洗う争闘を指摘し、こう言っています。
「 まさか陛下の御兄弟にかれこれ謂うことはあるまいけれど、然し取巻きの如何によっては、
日本の歴史に時々繰返されたように、弟が兄を殺して帝位につくというような場面が相当に数多く見えている。
・・・・この点はくれぐれも考えておいてもらわねばならん 」 と。
げんろうのこの意見の背景には二・二六事件があると思うのですが・・・・
清原
それはそのとおりと思いますよ。
しかし、安藤さんが最後迄蹶起に同意しなかったのは、秩父宮殿下の御言葉を
「 やるな、やってはならん 」 という意味にとっていたからだったのです。
是だけは間違いない事だと思いますね。

 陸軍大臣告示
話を戻しますと、二十六日午後三時に、陸軍大臣告示が出て 「 蹶起の趣旨については天聴に達せられあり 」
となり、戦時警備令も下令されて、蹶起部隊は 「 麹町地区警備隊 」となり、官軍 と認められたのですが
常盤
我事成れり、と思ったのですな。
更に戒厳令がでたら ( 二十七日午前三時 ) 戒厳部隊になったでしょう。
これはあの線が巧く繋がって、巧くいったなと・・・・。
あの線とは、本庄侍従武官長、真崎、荒木など陸士九期の線 ?
清原
いや、その他に山口一太郎、小藤惠第一聯隊長、堀丈夫第一師団長、香椎浩平警備司令官、
本庄侍従武官長としう線もあります。
この線が歩一の方で動いていた。どうもそんな気がするのですよ。
吾々歩三は圏外にいるのでよく解らなかったが・・・・。
池田
そうね、堀師団長、小藤聯隊長、それから香椎さん、本庄さんはある程度繋がっていた。
ということは分りますね。
師団長なんか、何かあるぞ、何か起るぞという気持ちを持っていたようですね。
清原
麹町地区警備隊司令官は小藤さんですから、あのままスーッと新政府にいってしまえばいい。
小藤部隊が東京の中心を抑えていたわけですからね。
池田
だから 「 陸軍大臣告示 」 を、師団長の指示によって第一師団は全部隊に回しているんです。
師団長は、これで昭和維新は成った、と思ったにちがいない。
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・・・挿入・・・
2.26事件の蹶起当初は、
陸軍上層部の一部にも蹶起の趣旨に賛同し
青年将校らの 「 昭和維新 」 を 助けようとする動きもあった。
「 今にして思へば大臣告示の如きものは師団長の処に置きし方 良かりし様に思ふ。
然し 当時の偽らざる師団長の感じとしては、頻々として入来する情報に依り、
軍事参議官の軍上層部の人々が非常に努力し居らるる事を聞きたれば
或は、彼等の希望し居るが如き事が出来するにあらざるかと云ふ雰囲気を感じ居たり 」
・・・堀丈夫 第一師団長中将 憲兵聴取書

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常盤
唯連絡将校としてあちこち行くわけでしょう、色々な雑音が入る。
必ずしも双手0わあげて喜ぶような状況ではないという気はしていました。
しかし、統帥権の外に飛出した人間を、統帥権の中に復入れてくれたのだし、
それに警備司令まで出たのですからね、これはやっぱり喜んでいいと・・・・。
鈴木
今想うと、統帥命令下に入れたというのも、上の方の謀略だったのかね。
池田
そりゃわからんよ、原隊へ帰すための謀略なのか、それとも実際に一度は 官軍 にしたのか。
鈴木
しかし一度は統帥命令下に入ったのは確かなのだろう。
清原
当面の事態処理として二つの流れがあったということだね。
池田
だから両方とも本当だったのだね。官軍でもあり、暴徒でもあり・・・・。
今泉さんはそのころは
今泉
私は命令どおり坂下門で配備についたのですが、
間もなく近歩三の聯隊本部からサイドカーに乗った田中軍吉大尉が迎えに来て、
「 お前、これに乗れ 」 と 命令され、連れていかれたところが、近衛師団司令部。
そこで参謀長以下にとり囲まれて、今暁以来の行動を逐一尋ねられました。
そして報告が終ると、隊へ帰らされ、連隊長が 「 俺の傍を離れちゃいかん 」 というわけで、
蹶起部隊と引き離され、連隊長室で三日間を暮らした。
なんのことはない、軟禁ですな。
だから蹶起部隊に関する情報は、ほとんど知らされませんでしたね。

警備命令も出て官軍になった筈なのに二十六日午後九時からの、軍事参議官のお歴々と蹶起部隊の会合は、
訳の分からない話になりましたね、「 お上がどれだけ御軫念になっているか、考えてみよ 」 と 荒木大将が言ったりして
清原
もうあの時は陛下が激怒されているという事を、参議官達は知っていたのでしょうね。
だから、みんな元気がない。
池田
村中さんもその後の二十七日午前二時に、帝国ホテルで石原莞爾等に会うでしょう。
この時、陛下の思し召しの悪いことを知らされたようですね。
だから村中さんは、早く引き揚げた方がいいという気持ちを、早くから持っていた。
磯部さんが絶対反対でしたね。
清原
宮中で、二十六日の午前七時には暫定内閣など作らぬ、速やかに鎮圧する、という大方針を、
天皇の御意思のもとに決めているんですから、知らぬは吾々ばかり、
そうして天皇は、二、三十分ごとに本庄侍従武官長を呼び、事件のその後の経過を訊ね、且 早く鎮圧するようにと督促する。
池田
戒厳司令官の日記の中に、真崎大将と荒木大将が、彼等を叛乱軍にしないようにと盛んに云っていた、
と あるでしょう。
海軍の加藤寛治大将の証言にも、真崎さんは必死になって応援したとある。
だから真崎さんらが懸命に努力したことは、事実だとは思うんですよ。
常盤
全てが後の祭りだね。
陛下の御怒りの一言の後はね。
秩父宮殿下が来られたって、真崎さんが努力しようがね・・・・。
秩父宮上京の時、坂井中尉が会ったという説がありますが
池田
あれは嘘ですね。
私は坂井さんと一緒に事件後に、大塚憲兵分隊で調べられたのですが、
坂井さんは取調官に 「 殿下に一目 御目通りを願いたい 」 と 盛んに言うのです。
「 秩父宮殿下は私に、昭和維新の際は一箇中隊を率いて迎えに来い、と おっしゃった 」
とも 言うんです。
あの情景を考えても、坂井さんが事件後に秩父宮に会われたということは、まずあり得ないと思いますよ。
その秩父宮より 「 将校は自決せよ 」 と云われたりして、二十八日の昼頃に、
首相官邸にいた将校の間に 「 自決しよう 」 と 話が決まりかけたと云いますが
池田
あれは吾々歩一の将校の間の話なんです。
栗原さんが もう 憔忰したような顔をして官邸に戻ってきて、
「 ここまでやったんだからもういい、将校は自決をして兵隊を帰そうじゃないか 」
と言うんですね。
その場にいたのが 私と、林少尉、中橋さんと中島さんでした。
そして準備しようとしているところへ村中さんも来て、賛成したと思う。
が、その時なんですよ。
官邸周辺が騒然とした。包囲軍が進んで来る、と兵隊が怒鳴る。
見ると確かにその状況なんですね、村中さんも栗原さんも 「 已むをえん、配備につこう 」
と いうことになって・・・・。
結局は直に向うは退いて何のこともなかったが、こちらも自決するなんて気持ちは吹っ飛んでしまった。
常盤
そういうちょっとした行き違いが、偶然というか、それが作用するんですね。
そのままだったら首相官邸の歩一の将校団が自決していた。
首相官邸がやれば 吾々も亦、という事になる。
ところが 「 何だ、この野郎・・・・」 という事になった。
鈴木
吾々は戒厳司令部の指揮下にある。それを攻めるなんて理屈に合わない。
常盤
全て理屈に合わんのですよ。
清原
それが遺言に表れて、みな恨んで死んで逝くわけですね。

今泉
奉勅命令、つまり 「 原隊へ帰れ 」 という陛下の御命令も通達されてなかったんでしょう。
常盤
裁判で青年将校全員が訊かれたけれども、命令を下達された者は一人もいない。
下達されない命令は命令じゃないんです。
池田
そこが実におかしいので、命令は下達されもしないのに
「 勅命に抗した逆賊である、今免官申請中である 」 と陸軍省も宮内省も発表するんですからね。
常盤
二十八日の夜、明朝は愈々決戦ということで、
兵隊さんに酒を飲ませてやろうと思い、包囲陣に交渉に出かけた。
どうも私の話は最初から最後迄酒の話ばかりで恐縮だが、
「 酒を買いに行きたいのだが 」
「 あ、そうですか 」 と 道を空けてくれた。
酒屋を起して4四斗樽を二樽、百二十円で買いました。
酒屋の主人が言うんですな、
「 兵隊さんは どっちですか 」
「 俺は中の方だ 」
「 あ、それなら私が運びます 」
とて、包囲陣の中を大八車でガラガラ運んでもらった。
民衆の気持とはそういうものでしたよ。
・・・リンク 二十八日の夜
・ 幸楽での演説 「 できるぞ! やらなきゃダメだ、モットやる 」
・ 下士官の演説 ・ 群集の声 「 諸君の今回の働きは国民は感謝しているよ 」
・ 中橋中尉 ・ 幸楽での演説 「 明朝決戦 やむなし ! 」 
磯部浅一 「 宇多! きさまどうする?」 

池田
ところが嘘の抗命、逆賊の発表が流され、
陛下の命に従わぬのだから悪い連中だと、輿論が急激に変ったのですよ。
常盤
そして最後に二十九日の陸相官邸での自決の場面になるんですが、
野中中隊長曰く、筋は通らないが、兵隊さんだけは帰そうと。
そして兵を原隊へ帰して、俺達は死のうというわけで将校全員が官邸に集まった。
本当にみんな自決するつもりだったんです。
ところが、みると白い晒が山ほど積まれている。床にも白い木綿が敷いてあるんです。
ああいうところは陸軍は手早いですなぁ。
「 それ、何です 」 と聞いたら、
「 君達が自決するだろうから、その準備だ 」 と、こうくる。
鈴木
そこへ磯部さんが来たのでしたね。
常盤
そう、磯部さんがこれを見て、
「 陸軍の野郎どもは、何でもかんでも、みんな俺達の責任にしてしまいやがる。
そうして自分達の非違を隠蔽しようとしている。
このまま死んでは、死んでも死にきれんじゃないか。
兵隊に対して申し訳が無い。
死ぬのはやめて、あくまで闘おうじゃないか 」
と、あっちへ行って怒鳴り、こっちへ来て怒鳴り、説いて回りましたね。
池田
磯部さんだけではなく、栗原さんもその意見でした。
「 今死んじゃいかんぞ 」 と 何度も言っていた。
常盤
そう、栗原さんもそう説いておられた。
もう疲労困憊でしょう、三日間ほとんど寝とらんし、そういう時は、大きな声で説得力のある話をされると、
決心はすぐ変わりますわな。
「 皆さんがそう決めるなら、吾々もそうします 」
ということで、自決の決心をやめてしまった。
清原
そうそう、その通り。
野中さんだけが自決するわけでね。
常盤
それがわからない話でね、前の歩三の聯隊長 井出宣時が
「 とにかく首謀者であるお前が自決せよ。責任はお前だけにとどめるから 」
というような甘言を弄したんじゃないかと思うんだがね。
清原
一人だけ別室に引っ張っていかれたものな。
常盤
井出という人はそういう謀略を使う人だと思っていましたがね。
もう野中さんは十分過ぎるほど自分の責任というものを感じておられましたからね。
そこへ 「 首謀者である君だけは自決しろ、後の者は助けるから 」
というようなことを云われては、野中さんは従うほかはない、と 思うんですよ。

 
竹橋の歩哨線・二十六日
最後に、青年将校だった皆さんが考えた昭和維新とはいったい何であったかについて、いかがですか
常盤
野中さんと議論したことがある。
私が図上演習で考えられるような大きなことを言った時、
「 お前が言うのは革命なんだ。俺達が考えているのは維新なんだ。
もともとあるべき姿に復かえすこと。今の天皇制下の状況はそのあるべき姿ではない。
御上を覆い隠している暗いものがある。
これを除けばおのずからなる真の姿が現れる、それが維新なのだ 」
と 野中さんは云うのです。
天皇は無謬むびょう、誤りのないもの、その聖明を覆い奉っている翳かざしがある、これを取除くんだと・・・・。
そう信じていましたね。
鈴木
確かに、現実の日本の姿は真の日本ではないと、私も考えていました。
何故そう考えるに至ったか、その根底に当時の日本の農村の疲弊があった訳です。
私は農家の生れだから、その現実を骨身にしみて知っていました。
私の家など年に平均二十四俵の米ができるが、地主に半分納めて
あと十二俵で、親子十人近い大家族が生活するという厳しいものです。
茨木県ですらそうです。
これが、東北地方になれば三年に一回の大飢饉です。
そういう構造的な貧困があり、そして対外的にはソ連といつ戦争が起こるかわからぬ危機感があった。
最も精鋭であるべき農村子弟がそのような状況で、どうして国が守れるか。
これが昭和維新の根本にあった。
三島由紀夫氏が、二・二六が成功すれば、農地改革が成っただろう、と・・・
鈴木
確かに、私はそう思います。
池田
私もそう思いますね。
北一輝の改造法案ですか、あの思想はかなり浸透していましたしね。
鈴木
小菅に拘留されて何年か経って、被告仲間が集って橘孝三郎先生の話を聴きながら、
農地改革について議論したことがある。
その時、これは天皇大権を発動すればできるという意見と、
やはり安い金で買収する方がいいという意見がでたりして、結局 買収方式に落着いたという記憶がありますよ。
清原
農地改革が果してできたかどうかはともかく、昭和維新の目的は、
常盤のいうように、天皇の聖明を覆っている重臣政治の排除、財閥の解体、そして腐敗した政党政治の払拭、
それに尽きると思いますね。
鈴木
そう、陛下と臣民とが直接に結び付き、血の通った体制を作らねばならぬという、そこにあった。
だが、農村の貧困を別にして あの運動がなかったことも確かです。
だが軍の上層部にはすさまじい権力闘争があって、その昭和維新運動が結果的には利用されて行く
そうは考えませんでしたか
鈴木
今になって考えれば、純粋な青年将校を軍上層部が利用したと思いますね。
どうですか、この二・二六事件のプレッシャーを利用して、軍部がその後暴走し、
一九四五年の日本帝国ま破滅へ引っ張って行った、という風にも謂えるのじゃないですか
清原
歴史的には謂えますな。
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  ↑ 2000年頃  最早、昭和維新の面影は微かに首相官邸の建物だけになっている
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世論の動向とか一時的に上に立つ人の心がどうあろうとも
陛下の真の大御心は一視同仁であらせられ
名も無き民の赤心に通ずるものであり
それが天下の正義であり
我々の赤心もきっと通じるに違いないと思った
ここに生きてゆく心の支えがあった ・・・大御心は一視同仁 
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あれから五十年経って、どうですか、日本の今の繁栄を見て
常盤
そう、五十年ねえ。返答に窮しますな。
たとえば我が娘に話すでしょう、警視庁には新撰組という組織があり、なんて説明すると、
娘は困った事に歴史を教えない戦後の教育で育ったから、
「 ぱぱは、近藤勇と仲良しだったの 」 って。
今泉
私はね、今の心境から云えば、日本の国体は一君万民で君臣一体である、
その聖明を覆うものには破邪顕正あるのみ、と大きく書いて残したいと思うんです。
鈴木
学校などで聞いているらしく、子供もよく知っているようですよ。
池田
もう十年も前かな、テレビに出ることになったので、息子に説明したら、
「 あ、俺はムショ帰りの子供か 」 と。この時はギクッとしましたがね。
常盤
私も娘に 「 それじゃあ、私は犯罪者の子供ですか 」 と言われたことがある。
清原
私は今、よく外で講演など頼まれたときに云うんですよ。
二・二六事件の精神というのは大東亜戦争の集結でそのまま生き返った、とね。
あの事件で死んだ人の魂が、終戦と共に財閥を解体し、重臣政治を潰し、民主主義の時代を実現させ、
そして今日の繁栄をもたらした。
だから終戦によって二・二六事件は成就されたと・・・・。
鈴木
そんなに簡単に謂えるかね。
二・二六事件の真の意味は何か、もっと深く考えて、公正に歴史に残すとすれば、
やはり史家に任すべきじゃないかと思うがね。
清原
毎年、恒例で夏に成ると陛下は那須へ行かれますね。
そこで新聞記者会見をなさる。
ある年、新聞記者が 「 あの事件の時は 『 本庄日記 』 にあるような 御叱りだったのですか 」
と御聞きしたことがある。 ・・・リンク→二・二六事件の収拾処置は自分が命令した 
陛下は 「 ま、ああいうことだ 」 と。
「 『 おしん 』 を 御覧になっていますね 」
「 見ています 」
「 御覧になって如何ですか 」
ああいう具合に国民が苦しんで居たとは、知らなかった 」 と。
・・・リンク→まさに陛下は雲の上におわしめたのである
今泉
そう、そこなんだなあ。
清原
「 二・二六についてどう御考えですか 」
「 遺憾と思っている 」 と。
ですから、この 御言葉で陛下は陳謝されたと・・・・。
池田
それは違うよ。陳謝じゃないよ。
清原
韓国に向って 「 過去に不幸なことがあったことは遺憾に思っています 」
と 言われた。あれと同じことで 二・二六は不孝な出来事でした、遺憾に思っていますと・・・・。
池田
いや、やっぱり違うと思うね。

半藤一利 編著  昭和史探索・3
われらが遺言・50年目の2・26事件 から

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