あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

栗原中尉の仇討計畫

2020年12月04日 17時55分56秒 | 後に殘りし者


« 叛乱軍の烙印 »
十三年四月、
歩兵五十一聯隊新設要員として
歩一から私を含め 約一五〇名が福知山歩兵二十聯隊に転属した。
部隊新設のため各地から集合し混成となったが、
翌日、
「 転属者の中に叛乱軍が混ざっている 」
と いう話がひろまり
本部で将校集合があり、
演習を中止し 人事掛特務曹長から取調をうけ、
私たちは忽ち 白眼視され 外出禁止の処分をうけた。
判決で無罪になっても 叛乱軍の烙印が残っていることに怒りがこみ上げ、
上司のとった処分に痛憤を覚えた。
上司がそのような目で見るのなら 俺たちも そのつもりで開きなおってやれと、
以後 根性はひにくれ、やがて色々の問題がおこるようになった。
その後 方針がかわり
私たちに外出の許可が出た。
この時など市中に警備隊がくり出され、
一方 叛乱軍を見ようと市民の見物の山ができるほど 大変な騒ぎだった。
しかし 市民は私たちを暖かくいたわり、大事にしてくれた。
そして 市民が受けとめていた 二・二六事件は 軍上層部の考え方とは異なり、
参加者への同情の念にあふれていることが窺われた。

間もなく新設された五十一聯隊は中支に出征し
漂水に駐屯
ここで私は十四年十月 除隊した。
その時 上等兵である。

その後は 海軍に徴用されたので召集はなかった。
ここで特記したいことがある。
それは徴用で働いていた海軍の軍需工場の工場長 ( 海軍大尉 )
と 私たちの食事内容がひどく異なるので意見を具申したところ、
思想傾向を疑われ 早速憲兵がきて家宅捜査をやり、
身元調査の結果 叛乱軍であったことが知れ一年でクビになった一件である。
今日では到底考えられないことであるが、
叛乱軍の汚名は生涯ついて離れぬものと覚悟した次第である 。
私にとって 事件参加の事実は前述のように 後々までついて回り  いやな思いを味った。
それほど 軍部は二・二六事件を忌いむみきらったのである。

« 栗原中尉の仇討計画 »
かつて在満当時、
二年兵になってから 汚名挽回の合言葉に辟辟していた私たちは、
一部の戦友間で それとなく栗原中尉の復讐を誓いあっていた。
それは刑死した栗原教官の意志を継ぎ、
無事除隊した暁に 機会を見て
岡田首相、迫水秘書官 及び 官邸の女中などを殺害しようというもので、
銃工兵だった私が武器調達掛を担当した。
その方法として討伐時に押収した匪賊の拳銃等をひそかに保管することで、
これを除隊時に分けあって持帰るつもりだった。
一方計画の方は入念に持続され、十四年十二月最後の帰還者を待ち、
同月下旬 懇親会の名目で神楽坂の料亭おたこう に集合、
この時の参加者は三、四〇名であった。
早速謀議に入り、
武器がないので絞殺を手段として協議を進めた。
大方の意向は決行の線で進んだが、たまたま 参加者の一人である梅田良和
( 故河野寿大尉の義弟、梅田大佐の息子 )
が 黙考の末 発言した。
「 諸君の熱意に水をさすようだが、
色々考えてみて 今更やっても犬死するようなものだと 思えてならない。
二・二六事件で目的は十分達していると思う。
岡田が存命していてもすでに彼の政治生命は終っている。
岡田を助けた迫水や女中らは 我々にとって許されぬ対象人物だが、
今日になって殺すことに何の意味があるだろうか、
我々が栗原教官の意志をついだことには相違ないが、
社会的には単なる殺人行為と見られるのがおちだ。
だからこの際 一切を忘れようではないか 」
彼の切々たる熱弁によって 襲撃は遂に中止されるに至った。

これは事件の後日談ともいうべき思い出であるが、
あの頃の私たちは それ程 栗原中尉を慕い、
あわせて 叛乱軍の烙印に強い反発をたぎらせていたのである。

歩兵第一聯隊機関銃隊 二等兵  高橋義正  『 栗原中尉への思慕 』
雪未だ降りやまず (続二・二六事件と郷土兵)  から