あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

殘った者 ・ それぞれの想い (一) 「 指揮したのは村中 」

2020年12月21日 14時57分28秒 | 後に殘りし者



元陸軍大尉  大蔵栄一
民間側参加者  古賀 斌
元戒厳参謀長  安井藤治
元総理秘書官  迫水久常
元総理大臣  岡田啓介

座談会・二・二六事件の謎を解く (一)

恩讐の彼方に双方なのりあげ

大蔵  私は事件が起きる寸前に挑戦へ転勤を命ぜられ、直接行動を起した組ではなかったので、
死刑を免れて、今日こうして座談会にも出られるわけですが、
所謂青年将校の内でも古参の方でしたので、いろいろの会議にも参加し 転勤するまで一緒に行動をしていたわけです。
古賀  私は杉田省吾の懇請により 北一輝、西田税のバックにあって働いていましたが、
まあ二人の諮問機関みたいにして、事件当時はかけずり回っていたが、
このほか高山久藏、宇野信次郎君等をして日本労働組合総連合 及び新日本海員組合をこれに合流せんとしたのだ。
だから民間側の事件参加者ということですかね。
大蔵  北、西田の諮問機関ではないだろう。諮問機関というほど深入りしていなかったはずだ。
安井  私は東京警備参謀長をしていた関係で当時は戒厳参謀長になったわけです。
迫水  私はやられた方で、官職は内閣総理大臣秘書官でした。岡田首相の救出に命をちぢめた者です。
岡田  私は当時総理大臣をしていて、直接襲撃に遭い、あぶなく命をおとすところでした。
迫水  これまで、やられた方はいろいろ ものを書いたりして、こういう風にやられたと、
やられた事実だけは発表しているわけだね。
やった方は、主たる人は死刑になって もういなくなっているのだが、やった方の立場から、話を伺いたい。
大蔵さんあたりから話を始めてもらうのだなあ。
私などは二・二六事件がすんだ後で、やられる方は辛いから今度何かあったら やる方に回ったらよいとつくづく思った。
蹶起の目的は暗殺か?
大蔵  今思い出すと 頗る不可思議なことばかりですよ・・・・。
ちょうど私が転任命令を受けたのが昭和十年十二月だ。
それまでは戸山学校の教官をしておったが、その時の東京の状勢は相沢事件に対して公判闘争一本で進むのだという方針だったですよ。
相沢公判によって社会の状勢・・・・と言いますかね・・・・これを展開していこうというのです。
その当時から栗原、磯部の両名が非常に過激なことを言っておったので、私は二人に会って、
「 起こすのは後でよいじゃないか。どうせ、やらんならんと思うが、慌てなくてもよいだろう 」
と 言い聞かせ、納得させて任地へ発ったのです。
安井  それはいつですか?
大蔵  昭和十年の十二月です。
私があの事件を全然知らなかったという事は当時私達を取り調べた法務官は頭から信じようとしないのです。
迫水  それでは一体、誰が計画したのか・・・・。
大蔵  そこなんです。私自身は、さっき述べたようなつもりで朝鮮に行った。
迫水  「 どうせ、やらんならんけども 」 という言葉があったが、どうせ、やらんならんという本体があったわけですね。
その本体を誰が、どうして目をつけたのか・・・・。
大蔵  その本体をどこにもって行くかといえば 当時のあらゆる状勢を綜合した雰囲気です。
所謂 青年将校の間にあった 已むに止まれぬ気合です。
古賀  青年将校の気持は、ただ君側の奸を除くという、客観的にいえば非常に抽象的で、主観的にいえば精神的なもので動かされている。
後をどうするという計画は何もない。
迫水  すると最初の計画は、要するに総理大臣など老人連を一遍に殺そうというのか。
古賀  そうして維新を断行しよう・・・・維新というのは戒厳司令部が出来て、偉い人が出てきて事態を収拾し、
吾々の要望を容れてくれるだろうと・・・・。
迫水  青年将校の目的は暗殺だね。
古賀  結局そうなるかもしれぬが 暗殺は手段で、維新のための戒厳が目的だ。
戒厳は自分達の力によって布かれたということなんです。
戒厳令が布かれた日に 西田の使いが得意になっていた。
私は当時 加藤、渋川などに馬鹿言え、戒厳ということで目的を達したなどと思ってはいかんといっていたが、
こんなに実は純真なんです。
安井  その点は確かに私も認めておった。
古賀  目的はあくまでも粛軍ですよ。いわば日本の建て直しです。
迫水  どういう恰好のものを作ろうとしたのかね。
大蔵  磯部は、北一輝の例の 『 日本改造法案 』 をテーブルの上に叩きつけて 「 これでやるのだ 」 と 言ったそうです。
古賀  磯部を中心とする青年将校の気持がそこにあることはわかる。
が、本を投げたというのは私は聞いていない。
しかし事態収拾をどうするかという時は台湾の柳川平助を呼んで事態収拾を頼みたい、
吾々は意見は何もないと言ったそうです。
これを聞いて私は憤慨して、「 台湾の柳川を呼んで間に合うか 」 と言ったら、
西田税は、「 青年将校がそう言っている。台湾の柳川さんに事態収拾を頼んだと言っていた 」 と 言うのです。
でも、それはあくまで青年将校の希望だったに過ぎないようです。
岡田  それで大体わかった。
当時私の総理大臣としての方針は、だんだん勢いがつきつつあった、右翼的な、独裁的な機運をおさえて、
憲法政治を確保してゆこうというのだったから、今の話の人たちから見れば、君側の奸だったろう。
それに真崎を陸軍の中心から遠ざけた当の林は、私の閣僚だったから、
真崎の崇拝者から見れば、まさに敵の一味だったかもしれない。
だから私は総理大臣をお引き受けしたときから、暴力行為のあることは覚悟していた。
すぐ前に犬養さんのときの五・一五事件の例もあるからね。
相沢事件の裁判が始まった頃から、その情勢は一層はっきりしてきたから、
警察はもちろん、まわりの者も非常に気を配っていたようだ。
しかし、いくら探って見ても、三月事件や十月事件のように、陸軍の首脳部や、
幕僚が組織的に動いている様子はなかったので、やはり何か事件が起るにしても、
五・一五事件のような、青年将校や右翼浪人などを中心とする、暴挙だろうと判断していたわけだ。
それが実際には軍隊が動いた。
軍隊が動いてみると、人々の感じは全く違ったものになってしまった。
事件の中心人物は?
安井 軍上層部の工作として山口一太郎、亀川哲也が、真崎、山本英輔さんに働きかけた。
西田は小笠原長生さんに働きかけ、野中は軍隊指揮をやる、と 漠然と決めておったらしいが、
軍隊を指揮したのは実際は村中ではないか・・・・どうだね。一番古いしね。
大蔵  一番古いのは野中です。野中は三十六期、村中は三十七期です。
安井  そうかなあ。
大蔵  しかし、事実上の指揮は村中が・・・・。
安井  すくなくとも参謀長格だなあ。
大蔵  野中は安藤の友情において飛出したという形でしょうね。通常会合のときは、野中はほとんど姿を見せなかった。
岡田  話に出ている村中、磯部というのは
私が総理大臣になった年 ( 昭和九年 ) の十一月に起った士官学校を中心とした事件の関係者だと思うが、
ある人たちに言わせると、あの事件は、真崎を退けるために陰謀的に、誇大化された、いわば捏造されたものだというものもある。
私は事の真相は知らないが、この二人は、その事件で退官してから、あるいは正義のために戦うという気持ちからか、
あるいはまた、毒食わば皿までという気持ちなのか、粛軍に関する意見書などを頒布していろいろ動いたようだ。
内閣でもこの二人の行動は ほってはおけぬと思って、林にも度々注意していたが、
二・二六事件の誘発に、この二人が相当な影響を与えたことは、事実だろうと思っている。
安井  二・二六事件の時に一番根強かったのは栗原という感じがしたがどうかな。
大蔵  後でいろいろ話をききますと、やはり、最後まで・・・・といういき方をとったのは安藤らしいですね。
安井  栗原のところにちょいちょい会合しておる。
二・二六事件決行の前、二十二日に集まっておる。栗原、香田、安藤、村中、そんな連中です。
古賀  二十四日にも集まった。
安井  二十三日に栗原が豊橋に飛んだ。
大蔵  だが、私等としては、なぜ早急にやらねばならなくなったか、彼等の心中が想像つかない。
当時の状勢からいえば、相沢公判で充分転換出来ると思っていたのに、その方針を一擲してあの挙に出たことは目に見えない、
勿論 青年将校の知らない策謀の手が動いたのではないかと思われる。
そう思わなければ解釈出来ないという不思議さが今でも もやもやしている。
先ず 栗原、磯部が急先鋒で村中がこれに同意し、それから香田が同意し、一番最後に安藤が同意したという順序でしょう。
そこでこれは西田税の奥さんの話ですが、あの事件の一週間前に皆が西田さんの家にやってきて
「 事態はここに至ったならば貴方も決心しろ。もししなければ貴方を殺し、貴方の屍を乗り越えて行くのだ 」
という強硬なことを言っている。それは一週間前だった。
安井  第一師団がいよいよ満洲に行かなければならなくなってきた。
そのため同志がだんだん崩れそうになった。
もう一つは 相沢の公判の絶頂ともいうべき時期が今だ。
こういうことで二十六日にやるということに決めておったようだ。
こういうことが公判廷の何かにあったのだがね。それが真相ではないかねえ・・・・。
大蔵  同志がだんだん崩れそうになった、ということは絶対ない。
二・二六事件は吾々が東京を発つ時には予想しなかった。
私が任地に赴くときなんか九州に行って菅波に会い、久留米の若い連中に会って、既定方針で行くのだと伝えたくらいなのだ。
事件を起すことなど一つも連絡しておらぬ。
岡田  青年将校達の気持はよくわかるが、要するに、三月事件、十月事件の経験で幕僚達は信用出来ないというので、
今度は自分達だけで、事を起す、起してしまえば軍の上層部が自分達の信念を理解して、これを生かして、
何とか始末をつけてくれるという、確信の下にやったことだね。
そうなると事件そのものの中心人物は誰だったかということは、むしろ小さい問題で、
若い連中に今言ったような確信を持たせたのは誰だということが、重要なことになるわけだ。
さあ それは誰かな。
君達に言わせればそれは空気だということになるだろう。
私としては当時の慣習からいって軍の内部のことは、林陸相に任せておくほかはなかったのだが、
相澤事件以来の不穏な情勢も、林が処置するのを見ているほかはなかったのだ。
そうすると、陸軍のことは陸軍で解決して行く、粛軍も陸軍自らの手で行うというふうに
任せておくほかはなかったわけですか。

岡田  それはそうなんだ。
大体、陸軍内部のことは陸軍で処置するのが当然の建前なんだ。
外部からやかましく言ったところで、どうにもならぬ。
ところが、例の国体明徴問題なんかで、だんだんわかったことだが、陸軍内部が非常に下克上的な気風で、
陸軍大臣は軍務局長や軍務局の課長あたりに左右されていて、大臣は何等の力も持っていないのだ。
閣議に陸軍大臣が出席して、はっきり決めたことを、大臣が陸軍省に帰ってから、省内の若い連中から苦情を出され、
次の閣議では手のひらをひっくりかえしたな態度に出る。
それを私などが説き伏せると、やはりそうだなと、その場では承諾するのだが、
後からまた、あれは止めにしたという有様。
これは何も私の時代に始まったことではなく、満洲事変からの現象なんだが、
それを吾々としては、陸軍のことは陸軍大臣が全責任を負うて処置すべきだという大方針を貫きたいと考えていたわけだ。
陸軍大臣にさえ出来ないことが、外部の力で出来るはずはないのだからね。
それが陸軍大臣という地位自体が部内では実際の力を持たぬようなことになっていたのだから、
どうにもこうにも、手がつけられぬようなことになっていた。

北一輝、西田税と青年将校
北一輝や西田税に指導されていた事情について
安井  事件中に たとえば二月二十七日の日には
真崎大将以下、阿部大将、西大将が行って反乱軍の幹部に会って説得した際に 彼等は 「 帰順します 」 と 言っている。
二十七日の晩に村中と山本が戒厳司令部にやってきたとき、戒厳司令官の部屋で諄々と諭したら
「 それでは吾々が帰ったら、吾々が諒解さしてまとめます 」
と言って帰った。
それで二十七日の夜八時二十分に戒厳司令官は、
「 二十八日の午前中には鎮まりまするが、まあ二十八日一杯と御思召しを願います。
流血の惨を見ずに納め得る見込みが立ちました 」 と 上奏した。
すると二十八日の朝一時過ぎに近衛師団から反乱軍があちらこちらに兵力を分派していると知らせてきた。
北一輝から首相官邸の栗原に対して
「 今 お前ら腹を切るのは早いぞ、陛下のなされ方を見てからでも遅くはないぞ 」
と いろいろな激励が電話ではいってくることがわかった。
戒厳司令部では電話を傍受していたからこれは確かな事実だ。
大蔵  往々にして世間では北、西田によってやられたのだと言っておるがとんでもない。
吾々が北、西田によって煽動されるとは、侮辱だ。
岡田さんは、北、西田両氏のことをどんなにお考えですか。
岡田  北一輝という人の書いたものは、読んだことがあるし、弟の北玲吉とはつきあっていたが、
そういうことから考えて頭のよい人だったようだ。
西田税という人は全く知らない。
しかし何か右翼的の事件があると、必ずこの人達の名前が話題に出ていたから、
あの事件についても無関係だとは言えまい。
事件の中心的な立場に立ったかどうか、見方によっては違うだろうが、右翼的なものの考え方をする人々にとったは、
利用されるか、利用するのかわからないが、一つのよりどころだったろうと思う。
古賀  大蔵君の言われたように北、西田とはほとんど関係がない。
北、西田は当局が認めるかどうか別問題として、公判廷でハッキリ関係がないことを言っている。
しかし私は違う。革命派だった。
徹底的にやる組で、大蔵さんとは意見が違う。
私は徹底的にやることを北に言ってやったが、北の回答は絶対駄目だというのでした。
安井  私は、北、西田が指揮した・・・・ということは絶対言わない。
外郭から激励した・・・・という本人の言葉をハッキリ聴いておる。
もし革命、クーデターをやるのに彼等が直接参加しているとすれば、あんに拙いことはしないと思う。
北、西田の二人は、まだ事件を起してはいけないという考えであったが、青年将校が蹶起してしまったので、
もうやったからには仕方がないから頑張れというような連絡を取ったのではないですか。
古賀  うまく事態を収拾してやろうという気持ちだったようだ。
北さんの見解は滅多にさらけ出すことがないから私は言うのだが、
青年将校の一人が銃殺されたとき 天皇陛下万歳!と言って死んで行く・・・・
北が銃殺される時、西田が天皇陛下万歳を叫ぼうと言うと、そういう形式的なことは言いたくないと言ったそうです。
こういうところに北の考えが出ている。
青年将校は天皇陛下を絶対信頼していた。反乱軍の同志はことごとくそうだ。
お寺の一室にて密議を重ねる
事件の計画について語って下さい。
大蔵  昭和六年から我々は青山何丁目かのあるお寺で会合して、話をしていた。
それが発端です。
会議をやれば、やれ暗殺計画とか、どうだとかいうようですが、ここからここまで暗殺計画であって、
ここからここまでは何だというような会合ではない。
一応寄って茶話をしながら・・・・。
迫水  皆が寄ったときの状況はこういう話だというような話があると、非常に状況が髣髴とするけれども・・・・。
大蔵  たとえば内閣等で今日の閣議はこういう目的を持って会合するのだというような集合ではない。
おのずから集まったその席上で、あれはいかんぞ、情勢はこうだというような話が出て来て、
その中におのずから出来上がっていくのです。どこでどういうふうにするということはない。
ことのおこりは昭和六年の所謂十月事件の時に一応クーデターをやろうという頗る派手な行き方をとった将校がいたが、
その連中が待合なんかに集まってやっていた。
その当時、吾々青年将校の間には 「 何だ、ああいう金はどこから出るのか 」 ということで憤慨をもっておった。
これに刺戟されて吾々若い連中は何もわからないが非常に反省をしたわけです。
安井  十月事件の中心は橋本欣五郎ではないかと思うね。
迫水  一体あの時、橋本は、総理大臣に誰をかつごうとしたのだろう。
安井  荒木大将だろう。
古賀  荒木が首相、外務大臣は橋本欣五郎、内務大臣は建川、大蔵大臣は大川周明、警視総監は長勇、
海軍大臣は小林省三郎・・・・。
大蔵  それでこんな馬鹿なことはないという反省が吾々若い連中に非常に湧き上がった。
桜会とか何とかがワイワイ言っておった。
ケマルパシャがどうしたとか、ムッソリーニがどうしたとか・・・・。
そこでもっと吾々自身反省しなければならぬというので
菅波、村中、私、それから香田、安藤、栗原という手輩が主になって青年将校の集会をもった。
たしか青山の何丁目かのお寺の一室を借りて、国体はどうであるかというようなことをいろいろ研究したのです。
この十月事件というのが若い者の一つの思想的な分水嶺ですね。
迫水  お寺で会合してどうなっなったの・・・・。
大蔵  吾々独自のものでしっかりしたものをやって行こうじゃないかというのが全国の若い者の大きな賛同を得たわけです。
自ら幕僚的な行き方と、そうじゃない、俺等は 「 歩 」 でよい、「 成り歩 」 で行こうじゃないかという
この気持ちの相異がズーッと開いてしまったのです。
その間に血盟団事件がある。五・一五事件がある。
いろいろ波を打っているのですがね。
迫水  それで具体的には重臣共をやっつけて君側の奸を除く・・・・と。
大蔵  そう。日本を斯くの如き混乱せしめた原因はどこにあるか。
財界、政界、宮中の側近にあるのだ。
統帥権干犯がそこにあるし、ドル買いがある。
色々な社会的情勢がそういうものを裏付けてきたわけですね。
それがこんがらがって一つの憤激の的になったわけです。
だから君側の奸、財界の巨頭、こういうものは個人的には怨は勿論ないということは自明の理ですが、
これが日本国家を害するものであるというように結論づけられてくる。
だからいつどういう計画を立てたというまとまったものはない。

次頁、残った者 ・ それぞれの想い (二) 「 昭和維新に賛成して下さい 」  へ続く

改造/S ・26 ・2
座談会  『 二・二六事件の謎を解く 』 から
目撃者が語る昭和史 第4巻 2 ・26事件  新人物往来社