あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

生き殘りし者 ・ 我々はなぜ蹶起したのか 2

2020年12月23日 15時03分27秒 | 後に殘りし者

我々はなぜ決起したのか
池田俊彦 対談 赤塚金次郎
  
司会・編集部+河野司


国家改造と統帥權干犯問題との関係
・・・・統帥権干犯を主に主張して主要な農民問題を伏せたとはいっても両者の関係はどうなんですか。
単に左翼革命と一線を画すというだけの方便ではなかったのではないですか。
池田
それは違いますよ。
第一、陛下の軍隊を勝手に率いて蹶起したのですから、それを上回る統帥権干犯の事実がある、
その賊を討つための止むを得ない蹶起であるということが納得させられないと、
あの蹶起の根拠がなくなるわけですからね。
当時はいわゆる統制派の連中が軍の中枢を占めていた。
皇道派の中心的存在とされていた真崎甚三郎が教育総監のポストを追われて
皇道派はまったく軍中枢から排斥されてしまった。
その統制派の首領格が永田鉄山軍務局長であったわけですが、相沢中佐が永田を斬った。
青年将校がなぜ永田を頂点とする統制派の思想や行動を問題にしたかといえば、
永田らが官僚や財閥、あるいは宮廷グループと手を組んで 国家総力戦体制にもっていこうとしていたからですよ。
その永田が手を結んでいた人たちこそ、農村の窮乏から目をそらし、
陛下にも農村の現状をお伝えせず、根本的改革には無関心だったのです。
いや、それ以上に農地改革を含む国家の改造が必要だという主張に反対する最大の勢力を作っていたのです。
農村の惨憺たる困窮を招いている国家体制の改革こそが急務であったあの時期に、
永田は朝飯会などと称して、木戸幸一など当時の権力者と気脈を通じていたんです。
最初は真崎閣下と永田は仲がよかったんです。
しかし、権力者と結託して日本を総力戦体制にもっていこうとするのと、
今の国家の体制をまず改革しなければいけないという考え方との差は大きかったわけです。
当然改革派は木戸などからけむたがられる。
「 真崎は邪魔だから追っ払え 」 とか、はっきりそう言ったかどうか知りませんが、
意見を交わしていくうちに権力者側のそういう意向というものはわかってくるから、
彼らの協力を得て総力戦体制を敷こうとしている永田らが結束して、
真崎教育総監を罷免する方向にもっていったというのが真相でしょう。
つまり、天皇陛下が統帥されている軍隊の重要な人事が、
軍以外の者の意向によって動かされていたわけです。
これは明らかに、統帥権干犯ではないかという主張につながるわけです。
あれが、純粋な法律問題として統帥権干犯であるかどうかは、難しい問題だと思います。
しかし、干犯したのではないかという疑いは十分持てる。
しかもそれは、農村改革を初めとする国家改造を頑強に阻もうとする勢力と一体ではないか。
そういう意味あいで彼らを討つことによって、
国家改造への第一歩としようという発想はごく自然に生まれたのではないか、
そう思っています。
赤塚
須山幸雄著 『 二・二六事件青年群像 』 によると、
満州事変後の国防方針を決定するため、荒木陸相が省部の首脳会議を開いた。
そのとき永田少将と小畑少将の意見が対立したそうです。
小畑少将が対ソ防衛を第一義とし、日支提携を主張したのに対し、
永田少将はまず武力で支那を叩き、足許を固めたうえでソ連に備えるべきだと主張した。
永田少将と小畑少将は陸士同期で二人とも軍刀組で双璧といわれた人物で、
省部の意見も二つに割れて対立した。
これが統制派と皇道派という二つの派閥の始まりだと、
荒木さんが晩年の回想談で述べているそうです。
これは真実に近いのではないか。
満州事変当時、関東軍に花谷という少佐の参謀がいた。
その花谷参謀が事変が一段落した昭和七年、何月だったかは月は忘れたが、
士官学校に来て講演したことがある。
その講演の中で花谷少佐は、満州に独立国家を造って、五百万人の日本人移民を送り、
日満一体の関係を作ると話されたことを記憶しています。
この構想を実現する過程で、当然支那の抵抗、米英ソの干渉が予想されるので、
これに備えるために政・財・官界を網羅した総力戦体制を整える必要がある。
この考えを代表し推進する役は永田だったという。
ここに昭和維新を第一義と考えた皇道派との対立の根源があったのだと思いますね。
永田は陸軍始まって以来の俊英とうたわれ、政治手腕も相当なものだったことは、
衆目の一致するところだが、小畑との論争にもみられるように、
一撃を加えれば支那は簡単に参ってしまうという侮蔑的支那観に立っていた。
対支那認識は甘かった。
池田
武藤章もそうですね。
赤塚
結局、そういう判断が取り返しのつかない間違いを犯すことになった。
池田
二・二六事件のとき武藤は軍事課の高級参謀ですね。
そして我々を真っ向からつぶした。
当時の軍事課長は村上啓作さんで、
村上さんは何とか蹶起将校のメンツがたつようにしてやろうと思っていた。
しかし、かれの部下の武藤が徹底的にぶっつぶそうとして、結局勝ったわけですね。
武藤は蘆溝橋事件が起こったとき参謀本部の作戦課長になっていましたが、
積極拡大派の急先鋒だった。

軍の統帥と独断専行
・・・・ところで、蹶起は直属の上官の命令なくして兵を動かしたわけですが、
それはそれで大変な決断が必要だったのではないかと思いますね。
統帥権干犯の非を咎めるために、自ら軍の統帥を乱したわけですから。
特に部下を直接指揮しなければならなかった将校というのはよほどの覚悟が必要だったのではないでしょうか。
池田
私も正直いって、あんなに多くの兵隊を率いて蹶起するというのには疑問を持っておりました。
あとでいろいろな本を読んでみると、ああいう形で蹶起した根拠は独断専行ということだったようです。
菅波大尉が最初に言い出したんですね。
独断専行というのは軍隊の独特の言葉であって、第一線の指揮官が上からの命令はないが、
今ここで直ちに行動するのは正しいと判断して行動する、たとえば独断で突撃するということです。
突撃の命令はないが、今突撃すればやれると、自分で判断して命令を下すのを独断専行と言った。
これは許されることなのです。
赤塚
戦場では時々刻々と情況が変わっていきますから、
命令を待って行動していたのでは自滅するという場合が多いのです。
ですから、むしろそういう場合は独断専行が称揚されていた。
池田
勝手気儘はいけないのですが、独断専行は許される。
それが作戦目的に一致しないと専恣 といわれる。宣恣はいけない。難しいことですがねえ。
・・・・二・二六事件の五年前に起こった満州事変で、朝鮮軍が国境を越えましたね。
池田・赤塚
独断専行ですね。
・・・・お二人とも士官学校に入校された年に当たるわけですが、
雰囲気としては ああいう軍の行動といのはわかるという感じだったのでしょうか。
池田
そうですね。
あの時、朝鮮軍が救援に行かなければ、関東軍は危機に陥るだろうということは、いわれていましたから。
最終的にはあの独断専行を軍の中央部が認めたわけですよね。
認めないという結論であれば、切腹しておわびしようと、司令官の林銑十郎は切腹の準備をしていましたからね。
独断専行はそれなりに覚悟のいることではあるのです。
赤塚
戦場においては、上からの命令を待たずして、作戦行動に移す場合が少なくないと思いますね。
二・二六事件では、国体顕現のため君側の奸をたおす、その手段として兵力を使用した。
これは独断専行ですが、兵力使用については三かした将校が悩んだところだと思う。
特に安藤さんは最後まで悩み、決心がつかなかったといわれているが、
それはここにあったのではないだろうか。
池田
安藤さんが一番つらかったでしょうね。
赤塚
磯部さんと村中さんは部下を持っていなかったから、立場としては比較的楽だったでしょう。
安藤さんは中隊長として直接の部下を持っていたし、しかも三聯隊の全部の兵を動かすという立場にあった。
兵隊がついてくるかどうかは、安藤さんの胸の内にあるといわれたぐらいですから、
それぐらい信望のあつい将校でもあったのです。
それだけに苦悩も大きかったと思います。
池田
安藤さんも、今起つことが本当に大御心にかなう所以であろうか、
陛下は今 どんなお考えを持っておられるのか、わからなかったのですから。
今の時代と違って、あの当時の天皇に関する情報は皆無ですからね。
全然わからないのですから。
赤塚
村中さんがそのことを言っています。
陛下を雲の上に奉って、国民との間は厚い雲で覆われている。
その暗雲を払うんだと。
そういうことをしょっちゅう言っていましたよ。
池田
戦後、陛下が記者団に会われて、
「 あの当時、農民があんなに苦しい生活をしていたことをご存知でしたか 」
という質問が出たとき
「 知りませんでした 」
と お答えになっていますね。
赤塚
いや、それは陛下に申し上げる側近はいなかったさ。
池田
悪いニュースは陛下のお耳に入れなかったでしょう。周りが。
赤塚
自分のかわいい娘を女郎に売る、自分たちが生き延びるために。
そういう惨めな農民の実態というのは、恐らく陛下のところには全然・・・・。
池田
『 本庄日記 』 には、
農民が苦しいとはいえ、自ずから彼らにも楽天地がある。
自分もヨーロッパに旅行したとき、自由な空気を吸ったときは、なんともいえず楽しかった。
だから、農村には農村なりの楽しい愉快なものがあるだろう。
と おっしゃったということが書いてあります。
( 「 農民の窮状に同情するは固より、必要事なるも、而も農民亦自から楽天地あり、
貴族の地位にあるもの必ずしも常に幸福なりと云ふを得ず、
自分の如き欧州を巡りて、自由の気分に移りたるならんも心境の愉快は、
又其自由の気分に成り得る間にあり 」 昭和九年二月八日の項 )
リンク→農民亦自ら楽天地あり
赤塚
普通の生活ができれば、農村はそうですがね。
池田
ところが、自分の娘を女郎に売らなければならないということがどんなに苦しいことか、
そういう農村の実態を陛下はご存知なかったのだと思います。
恐れ多いことですが、そういうことがわからないということは、
あのとき蹶起した我々の気持ちも おわかりにならなかったのではないでしょうか。
・・・・池田さんは自分の行動が、ひょっとしたら大御心に副わないかもしれないという
不安は起きませんでしたか。
池田
それはなかった。
私は天皇陛下というものは、もっぱら生物学などの研究をなされていて、
政治の実情には触れられない雲の上の存在であると考えていましたから、
だから、実際には政治についてはあまりご存知ないだろうと思っておりました。
憲兵の取り調べにもそういうことを述べて、調書に書かれたんです。
それを見た予審判事が、
「 陛下は政治に非常にご熱心で、隅々まで精通しておられる方だぞ 」
と 非難する口振りで言いましたね。
後でわかったことですが、実際そういう一面がおありだったようです。
私自身の無知のため恥ずかしいかぎりです。
赤塚の区隊長だった今岡豊さんという人が、戦後 『 昭和軍事秘話 』 という本を書かれましたが、
その中に天皇陛下は陸軍の人事についても具体的に
「 これはいかん 」 「 それはいい 」
という具合に意見を述べられた ということが書いてありますね。
近衛内閣 ( 第二、三次 ) の初期官長だった富田健治さんが、警視庁の保安課長になったときに、
上司が陛下にお伺いをたてたそうですよ。
保安課長というのは勅任官ではなく奏任官なんですけど、
同格の陸軍省の軍事課長といった重要なポストの人事についても鋭い質問をされて、
どうか、どうかとお尋ねになったといいますね。
そして納得がいかなければ、ご裁可されなかったそうです。
それほど陛下は政治に首を突っ込んでおられた。
我々はそういう事情を知らなかったですからね。
天皇陛下というのは下のものが 「 こういたします 」 と言えば御裁可なさる。
政治については自己の御意思を発言せられない方だと思っていましたから。
赤塚
逆に言えば、これも本で読んだことですけど、
真崎さんとか荒木さんとか皇道派と目されていた人については、
悪い情報を陛下に申し上げていた人もあったわけです。
池田
陛下は
「 真崎はどうもよくないね 」
という お考えをお持ちになっておられたようですね。
これはありうることですね。
当時、参謀総長は閑院宮ですが、この方は騎兵の出身なんです。
騎兵といえば南次郎もそうだし、建川善次もそうなんです。
兵科が同じだから情報がツーカーということなんです。
私が実際に軍の先輩から聞いた話ですが、建川あたりが、反真崎だから
「 真崎はよくない 」 ということを閑院宮にする。
閑院宮は陛下と直接話ができる立場ですから、
なにかの折に 「 真崎はよくないですねえ 」 と 申し上げたこともあっただろうと、
実際にあったかどうか知りませんが、ありうることですよ。
すると陛下も 「 そうか、真崎はよくないか 」 という観念をお持ちになるのは自然じゃないでしょうか。
近衛さんも人の噂で人物を判断すると、言われていましたね。
陛下も、自分を取り巻く閑院宮とか木戸幸一とか あるいは鈴木貫太郎とか、牧野伸顕、斎藤実とか
そういう人を非常に大事にされておった。
そういう人から 「 あの人物はちょっと・・・・」 と 言われたら信じられるはずですよ。
だから、こうした重臣を殺害して国家改造の端緒にする、
それが大御心に副うことだということは、今の時点で客観的に見ると、
駄目だということが最初からはっきりしていますね。
リンク→「 武官長はどうも真崎の肩を持つようだね 」 
リンク→陸軍を暴走せしめたは誰あらん

しかし、我々はそういう実情についてはまったく知らなかった。
陛下の大御心は一視同仁、つまり名もなき民の赤心に通じるものであり、
それが天下の正義であり、我々の赤心も必ずやお聞きとどけになると信じて疑わなかったのです。
・・・・磯部さんは 「 陛下、お叱り申し上げます 」 と 遺稿にしたためましたが、
そういう気持ちの変化というのは刑を受けたほかの方々でも多少は生まれたものでしょうか。
池田
天皇陛下がその年の五月に開かれた議会の開院式で
「 今次東京に起これる事変は朕が憾うらみとする所なり 」
と おっしゃった。
このくだりは起訴状にも論告にも引用されたんです。
それを聞いたとき、
天皇陛下は我々のとった行動を恨まれたんだなあ、
と 感じました。
赤塚
陛下は一視同仁であらせられるという観念を信じていたからこその蹶起であったはずですがね。
池田
じつは 『 生きている二・二六 』 を 出したとき、稲葉修 ( 元法相 ) にも差し上げたんです。
稲葉先生は
「 天皇陛下もあのときはお若かった、三十歳くらいだもんな、
『 憾とする所 』 じゃなくて 『 不徳とする所 』
とか おっしゃればよかったのに。
ちょっとあれわねえ、陛下も若かったんだな 」
と、そうおっしゃっていましたよ。
リンク→『 朕の憾みとする 』 との お言葉 

事件をもっと正確に評価すべきではないか
・・・・ところで、正直なところ
二・二六事件に対する歴史的な評価というのはマイナスイメージが主流なんですが、
それについてはどういうふうに見ておられますか。
赤塚
澤地久枝が匂坂春平法務官 ( 二・二六事件の首席検察官 ) の資料を使って、
あの事件は将軍たちの陰謀であったと、断定に近い書き方をしていますが、
一般の人はあの本 ( 『 雪はよごれていた 』 ) を 読んで、ああ なるほどそうか と思ってしまう危険性が強いでしょう。
しかし、あの蹶起には将軍たちはまったく関係ない。これはどこから見ても断言できることなのです。
池田
それについて、私は反論を書きましたから ( NHK特集 『 消された真実 』 に藩論する・・文芸春秋 昭和六十三年五月号 )
ここでは繰り返しませんけど、
青年将校は真崎ら一部の将軍に踊らされたんだ、哀れなやっちゃ、というふうな書き方になっている。
とんでもない話ですよ。
赤塚
青年将校は踊ったにすぎない、と。 かわいそうな連中だという考え方が根底にあるね。
池田
以前にも、『 妻たちの二・二六事件 』 で
青年将校の女房連中も ひどい目にあった、かわいそうにな、っていう書き方でしょう。
ひどい目にあったのは確かだけど、
真剣に純粋に国の現状を憂えて身を捨てた夫の生き方に、今も昔も共感し、信頼を寄せているんです。
そういう誇りを捨てた 「 妻たち 」 は いないんじゃないですか。
・・・・教科書的な評価を言えば、一連の昭和維新運動の流れは、
狂信的な一部青年将校が右翼と結託してテロによる軍部独裁、
そして総動員体制による戦争への道を切り開こうとしたというものですが・・・。
池田
要するに二・二六事件があったから支那事変が起こり、大東亜戦争に発展したんだというのでしょう。
二・二六事件はあの戦争の火付け役を果たしたという歴史家がいるわけですよ。
それは、そういうふうに時代を追っていくと、五・一五事件があったり、血盟団事件があったり、
それから最後に二・二六事件があって、
もうその後はなんとなくそういう事件続きとして戦争の時代に入っていくという流れになっていますから。
二・二六事件は昭和維新の運動としては最大規模であっただけに、
こりゃもう本当にね、国家に対する反逆的な犯罪であるとまで言われてますがね。
しかし、それほど歴史にたいする皮相的な見方はない。
・・・・その中で非常に興味をひくのが、戦後の占領軍が下した評価です。
二・二六事件はジャパニーズ・デモクラシーを目指したものだということで、
関係者はすべて戦犯容疑者からはずされたそうですね。
赤塚
その話は河野さんの本 ( 『 私の二・二六事件 』 ) に出ていますよ。

斎藤劉さん ( 元少将・叛軍を利する行為で禁固五年 ) が 占領軍に呼ばれて追及されたんです。
斎藤さんは戦時中、河野司さん ( 河野壽の実兄・事件直後から二・二六事件の資料収集にあたる一方、
仏心会をつくり刑死した遺族の相談役として献身的に尽くしている )
から預かっていた資料をもとに検事とやりあったらしい。
資料を示しながら、恐らく今私や池田がしゃべったようなことを縷々るると説明したんじゃないかな。
最後は 「 そうか、二・二六は天皇を中心とする民主革命だ、よくわかった 」
ということになったらしいのです。
池田
私、終戦はサイゴンで迎えたのですが、私のことを知っている朝日新聞の記者が
「 池田さん、名前を変えて帰った方がいいですよ 」 と 忠告してくれましてね。
東京へ帰って清原に会って 「 どうだ 」 と 聞いたら 「 全然心配ない 」 と。
恐らく斎藤さんから聞いたのでしょう、
「 占領軍はあの事件をジャパニーズ・デモクラシーだと言っている 」 ということだった。
でも、ジャパニーズ・デモクラシーだなんて、進駐軍が言うかなあ。
赤塚
いや、言うなあ。
ただ、確かに最初の見方というのは、二・二六事件もファッショの系列であり、
大東亜戦争と直接関係があるという見方をしていたことは間違いない。
というのは、私はスマトラで終戦だったのですが、
二・二六事件の関係者も取り調べの対象に入っているという情報が入ったんです。
それで 「 お前も関係者 」 (笑い) って おどかされたことがあるんですよ。
池田
維新というのをジャパニーズ・デモクラシーなどと翻訳されると、妙な気分だな。
裁判ではたしかに
「 国体と相容れざる民主主義的革 」 「 社会主義的民主革命 」 を 実現しようとして武力を用いた、
という具合に検察側から糾弾されたのですが、私は
「 社会主義的民主革命などということは考えたこともありません、そういうことは絶対ない 」
と、真剣に否定したのです。それは私だけではない、全員そうです。
なぜかと言えば、あの当時、民主主義革命と言えば共産主義革命と同じ意味でね、アカとすぐとられてしまうんです。
だから、我々が本当は民主主義革命をしようとおもったんだということになれば
「 この野郎、天皇陛下に弓を引くのか 」 ということになるわけですよ。
もとよりそういう気持ちがあるわけないから、我々の求めている改革の内容が客観的に見て、
たとえ民主主義的なものであっても そういう言葉を使うなどということはありえなかったのです。
とにかく民主主義という言葉を使ったらアカであって、アカと言われたらもうおしまいだった時代です。
田中清玄さん ( 元日本共産党中央執行委員長 ) とは小菅刑務所以来の長いお付き合いですが、
「 うちの母親は自分を転向させようとして腹切って死んだんだよ 」 と。
私はその遺書を見せてもらったことがある。
アカの母と言われるのがどんなに悲しくて、つらいことか。
もう周りの人間からふくろ叩きにあって とても生きていけない時代だったのですよ。
母親の自殺を獄中で知らされてから田中さんは転向していますね。
磯部さんの一家は事件の後、天皇陛下にたてついたというので、村八分になるんです。
父親が怒って
「 うちの息子は天皇陛下のために死んだんだ 」 と 近所じゅうを怒鳴って歩いたそうですよ。
それでやっとみんなもわかってくれて、従来通りのつきあいにもどったというのですね。
我々は裁判でも民主主義革命を企んだのではないということを主張したけれども、裁判は非公開だし、
とにかくあいつらはアカだ、天皇に弓を引いた逆賊だという宣伝が大いになされたんですね。
赤塚
農地改革なんてね、共産党が一番主張していたんだから、
二・二六もアカにちがいないというので、吊るし上げられたんだな。
とくに磯部さんは山口県だから、そういう風潮の強いところでしょう。

不幸な事件だったが、世界的意味がある
・・・・最後に、二・二六事件の意味はどういうところにあるか、
まとめのかたちでお話ししていただければと思います。
赤塚
先輩たちは純粋に国を憂えて 「 これが大御心に副う行動である 」
と、固い信念を持って起ち上がったと思うのですが、その結果は叛徒という汚名をきせられて、
結局は、そのなんと言うかね、完全に挫折したというわけですね。
また、非常に不幸な事件でもあった。
というのは、あの事件を一つの契機として、粛軍という名のもとに皇道派といわれた人が、すべて左遷された。
大局から見ると、支那事変が起こったとき、
しっかりした見通しをもってその拡大を阻止する人物が軍の中央部に一人もすなくなって、
怒涛のごとく突っ走り、とうとう米英との戦争にまで引きずりこむ結果になってしまった。
このことは、日本にとってなんとしても不幸なことであったと思いますね。
池田
今、赤塚が言ったように、先輩たちは本当に純粋な気持ちで、真面目な気持ちで、
自分の一身を犠牲にしても今の世の中をなんとかしなきゃいけないという考え方で起ったんですよ。
しかし、今だから言うのではなくて、起った直後でも、今蹶起したのは間違っていたんだな、という気持ちを持ちましたね。
このような時期に蹶起してもどうにもならなかったんだと。
ましてや軍規に違反して、建軍の本義に反して、天皇陛下の統率のもとに動かすべき軍隊を動かしたという点で、
非常にまずい事件であったと考えますね。
しかし、刑死した人たちの遺書を見るとよくわかるんですが、考え方が非常に純粋です。
ことに若い人、高橋少尉でも、坂井中尉でも その遺書を読むと涙がこぼれるほど純粋ですよ。
その気持ちをまったく斟酌しんしゃくすることなく、
たとえば評論家などが馬鹿にしたような言い方で非難するその態度には、まことに憤りを感じております。
だから、あの時の国家改造にかけた我々の精神というものは、はっきりと伝えていかなければいけないと思っているんです。
一方、私は別の意味で あの事件は意義の深い事件だったと思っています。
あの時期に、天皇陛下を戴く日本の軍隊が、将校だけでなく兵隊もいっしょになって蹶起できたということは、
結果は失敗だったけれども、見方によれば蹶起したそのことによって成功だったのではないかと思っているくらいです。
兵隊を騙して連れて行ったと非難する人もいますが、私が一緒に行った機関銃隊は
「 一緒にいきましょう。私も昭和維新をやる一員です 」 と 私のところに来た兵隊もいたくらいなんです。
多くの兵隊が 「 我々が昭和維新をやるんだ 」 という希望に燃えて出勤したんです。
そういうことが日本の歴史の中にあったということの意義は小さいものではないと思うのです。
たしかに小さい目でみれば、建軍の本義に違反したということになるんでしょうが、
大きな世界史的立場で見れば大いに価値のあった蹶起ではなかったかと考えております。
だから、昭和維新の精神は滅ぼしてはならない。
たとえば日本は今、あの当時と違って金持ちの国になっていますね。
しかし、東南アジアには貧しい国がたくさんあります。 アフリカもそうです。
これからはそういう国の発展にどういうお手伝いができるか、一人ひとりが真剣に考えて、行動していきたいですね。
たとえば青年海外協力隊というのがありますが、
ああいう形で生活向上のお手伝いをするというのはまことに立派なことだと思いますね。
ああいう具合にこれからの日本は世界に尽くしていかなければいけないのではないか、そう思っているのです。

2・26事件の謎
新人物往来社
1995年7月10日初版発行
から

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