あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

満井佐吉中佐 ・ 特別辯護人に至る經緯

2018年05月22日 14時55分21秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


満井佐吉 
相澤中佐公判ノ特別辯護人トナリタル經緯ニ就イテ申上ゲマス。
相澤中佐同期生ヨリノ依頼ニ依リ起ッタノデアリマスガ、
當時私ノ心境ハ、
近來 軍中央幕僚ト靑年將校トノ間、
竝 靑年將校中所謂皇道派ト稱セラルゝモノト
「 ファッショ 」 派 ト 稱セラルゝモノトガ互イニ感情的對立ヲ持チ、
軍ノ精神的結束ヲ困難ナラシメツツアルヲ憂慮セラレ、
偶々 私ハ所謂皇道派ノ靑年將校トハ比較的意思疎通可能ナルニ依リ、
彼等靑年將校ト 「 ファッショ 」 派將校トノ感情ノ疎隔ヲ緩和シ、
對立観念ヲ除去シ、軍幕僚ト靑年將校トノ感情ヲモ融和セシメンコトヲ欲シ、
之等ノ爲、重要人物タル石原大佐 (幕僚方面)、橋本大佐 (ファッショ派) ト 屡々意思ノ疎通ヲ計リ、
全軍一致シテ、時勢ニ善處スルノ必要ヲ力説シ、蔭ナガラ軍ノ結束ニ關シ貢献シツツアリマシタ折柄、
相澤中佐ノ同期生タル赤鹿中佐(士官學校)、牛島中佐(士官學校豫科) 外二名(氏名不詳)
ノ人ヨリ、特別辯護人タルベキ交渉ガアリマシタ。
最初來訪ノ時ハ私ガ留守デアツタノデ、再ビ來訪セラレテ、
私ニ對シ、
「 同期生中ニハ種々ノ立場上及其他ニ依リ適任者ナキ爲、特別辯護人ニ是非起ッテ貰ヒタイ。
 鈴木貞一大佐ハ、永田閣下ノ部下ナルガ故ニ辭退セラレ、
中央部ニハ村上大佐、西村大佐、牟田口大佐等ガ居ラレルガ、中央部デ立場ガ惡イカラトノコトデアリ、
又、聯隊附將校ニハ中央ノ事情を認識スルモノガナイノデ、是非引受ケテ貰ヒタイ 」
トノ交渉ガアリ、困ッテオラレマシタノデ、
私ハ個人トシテハ上司ニ於テ許可ガアレバ出テモヨイト申シマシタ処、
同期生カラ、陸大幹事岡部少將ハ、其時ハ許可セラレナイ様ナ口吻ヲ漏ラサレ
「 考ヘテ置く 」 トノコトデアリマシタノデ、參考迄ニト思ヒ、
私ヨリ 次ノ様ナ許可ノ可否ニ關シ意見ヲ申述ベマシタ。
「 若シ相澤中佐ノ特別辯護人ヲ受諾スルナラバ、
一、目下靑年將校同志ノ間ニ、互ニ實力行動ニ出ヅルガ如キコトハ絶對ニ避ケタイ。
二、軍裏面ノ歴史的ナ旧事實、例ヘバ十月事件、三月事件等、相澤事件ト直接關係ノ
   少ナキモノハ、成ルベク必要最小限度ニ言及スルコトニ依リ、軍内ニ騒動ヲ起サザル様ニ努メタイ。
三、靑年將校ノ氣心モ、軍中央部幕僚ノ立場モ、克ク心得テ居ルカラ、
   兩者ノ立場ヲ無視シテ、正面衝突ヲセシムル如キコトハ避ケル。
之ヲ要スルニ、相澤公判ハ一歩ヲ誤レバ軍ヲ破壊ニ導ク虞レ多キヲ以テ、
私ガ起テバ靑年將校モ成程ニ信頼シテクレルデアラウシ、
又、軍全體ノ爲ヲ考ヘルカラ或ハ事ナク公判ヲ終了スルカモ知レナイ。
之ニ反シテ隊附靑年將校中ヨリ起テバ、軍中央部ノ立場ヲ理解セザルヲ以テ、
感情的トナル虞アリ、其ノ結果ハ事件ヲ巻キ起スヤモ知レナイ。
寧ロ、私ガ起ッタ方ガ靑年將校モ穏便ニ濟ムカト思ヒマス。」
トノ意味ヲ具申シマシタ処、
岡部幹事ハ、其ノ心持チハ自分モ克ク判ルト申サレマシタ。
ソレカラ約一週間位經ッテカラ、岡部幹事ヨリ口頭ヲ以テ御許シヲ受ケマシタ。
其間ニ幹事ハ參謀本部、陸軍省ト交渉セラレタモノト思ヒマス。
以上ノヨウナ經緯デ引受ケタノデアリマス。

私ガ相澤中佐ノ特別辯護人ヲ引受ケマシテカラ、
赤鹿中佐、牛島中佐ヨリ、
公判ニ關シテ龜川哲也ヨリ手續他法理的ノコトノ援助ヲ受ケル様ニトノコトデアリマシタ。
龜川哲也ハ荒木大將閣下ヲ顧問トスル農道會ノ主任デアリ、
法律、經濟方面ニ詳シキ人物デ、會計檢査院ニ長ク居た人デアリ、
荒木大將ノ陸相當時、私ガ陸軍省調査班ニ居タ頃、
農村問題ニテ意見ノ交換ヲシタルコトガアリマシテ、
同氏ト公判手續其他ニ附イテ互ニ一、二度往來シマシタガ、
私トシマシテハ龜川氏ニ公判ノ全部ノ指導ヲ受ケル意思ハアリマセンデシタノデ、
五 ・一五事件ノ辯護人デアツタ菅原祐ハ日本精神ノ主張者デアリ、
平泉博士ト親交リ、此ノ人ニ法律上其他、辯護士ニ關スル指導ヲ受クルコトゝシマシタ。
爾來相澤中佐ニ面會シ、手續及辯護ニ關スル材料ノ蒐集其他公判ノ研究ニ入リ、
其頃ヨリ村中、磯部トモ面會シ、
尚 公判開始前、陸大岡部少將ニ、陸相以下幕僚ニ私ノ意見ヲ申上ゲ、
軍ノ實情ヲ収拾セラルゝ必要アルコトヲ進言シ、
其ノ結果、公判開始前四日程前ニ開カルゝ処、行違ヒニテ不能トナリ、
公判開始前日陸軍省ニテ大臣、次官、參謀次長、軍務局長、調査部長、軍事課長ニ對シ、
軍ノ實情容易ナラザルモノアルコトヲ申述べ、實情ト相俟ッテ公判ヲ進メザレバ危險ナリ、
故ニ参議官會議ヲ本日即刻開キ、私ノ意見ヲ聽カルル必要アルヲ申上ゲタルモ、
遂ニ容レラレルコトナク公判開始トナツタノデアリマス。

次ニ
私ト靑年將校トノ關係に就て申上ゲマス。
私ガ久留米歩兵第48聯隊大隊長ヨリ陸軍省調査班ニ轉出セル頃、
調査班ニ私ヲ訪ネテ昭和維新ヲ慫慂セル將校ニ天野大尉(當時士官學校)、
常岡大尉 ( 広嶋電信隊陸地測量部修技生 ) アリ、當時磯部主計モ亦來訪シタルコトガアリマス。
當時調査部長東條少將ハ私ニ將校ノ動靜ニ注意シテ居ル様ニ申サレタコトモアリマスノデ、
私ハ時々天野大尉、常岡大尉ノ自宅及磯部主計ノ下宿ヲ訪ネテ其ノ動靜ニ注意スルト共ニ、
其ノ行動ヲ誤ラシメザル如ク着意シ、
村中大尉、栗原中尉トモ、磯部主計ノ下宿デ、一、二度會ッタコトモアリマシタ。

當時天野大尉、常岡大尉ハ十月事件組ニテ、
其ノ主張ハ理論ヨリモ實行主義ニシテ稍矯激ノ嫌アリシガ、
磯部、村中等ハ十月事件當時ノ自重派ニシテ、
其ノ主張ハ堅實ニ軍首脳部ヲ信頼シテ上下一致維新に嚮フコトヲ目標トシ、
逐次斯カル空氣ノ擴大ヲ希望シアリタルガ如ク見受ケラレ、
當時ノ陸相荒木大將ニ對シ、常岡大尉、天野大尉等ハ
「 荒木爲ス無シ 」 トノ感ヲ抱キ、
東條少將、池田純久中佐、田中淸少佐、片倉少佐ノ軍中央幕僚亦
反荒木的氣勢ヲ示シアリシガ、
磯部、村中等ハ
國體信念ヲ有シ且ツ維新氣分ヲ有スル時ノ長官タル荒木陸相ニ信頼シテ
上下結束シテ進ムコトヲ希望シアリシガ如ク、
又、私ノ信念ハ軍ノ組織ノ本質ニ鑑ミ、
時ノ大臣ヲ排撃シ、實力行動ヲ慫慂スルガ如キ 天野、常岡両大尉等ノ思想ニハ同意スル能ハズ、
又、當時陸相ヲ更迭セント企圖セル如キ軍中央幕僚ノ政治的態度ニモ同意シ難ク、
時ノ長官ニ信頼シ、
全軍上下結束シテ進マントスル磯部、村中等ノ主張ニ比較的多ク眞理ノ存スルヲ認メ、
此ノ點ニ關シテハ共鳴シマシタガ、
何レノ色彩ノ靑年將校ニ對シテモ、實力行動ヲ是認シ又慫慂シタコトハ無ク、
常ニ之ヲ否認シ自重ヲ促スノ態度ヲ持シ、
天野、常岡等ノ思想ニ對シテハ特ニ反對ノ意圖ヲ主張シ、
當時著シク半荒木的ナリシ軍幕僚竝ニ天野、常岡等十月事件組ノ靑年將校ハ、
私ノ態度ヲミテ荒木派ナリト誤認シ、露骨ニ反對ヲ表明シ、
當時無根ノ事實ヲ怪文書トシテ私ヲ攻撃セルモノスラ出デタルコトガアリマシタ。

私ガ陸軍大學ニ轉任スルニ及ビ、是等靑年將校トノ面接ノ機ナカリシガ、
所謂十一月事件ノ發生ヲ見テ靑年將校等憤激シ、肅軍パンフレットノ筆禍ニ依リ、
村中大尉等突然免官トナルニ及ビ、村中退校ニ關スル大學幹事ノ注意ニ見テモ、
軍中央部ノ處置ハ必ズシモ公正ナラザルヲ感ジ、私モ村中ニ同情シ、
一度村中大尉ヲ其ノ自宅ニ訪ネ、慰撫シテ自重ヲ促シタルコトガアリマシタ。
續イテ永田事件ノ公判迫ルニ及ビ、前述ノ如ク相澤中佐ノ特別辯護人ヲ受諾後、
村中ハ自宅ニ二回位、又、辯護人控室ニ來訪シ、辯護ニ關シ希望ヲ述ベ、
或ハ私ヨリ材料ノ蒐集ヲ託シタコトモアリマシタ。

尚、手續等ヲ中心トシ
村中、磯部、栗原、香田、其他二、三名ノ將校及相澤中佐ノ同期生等ノ希望ニ依リ、
昨年末一夕新宿本郷バーニ集リテ座談セルコトアリシモ、
實力行動等ノ話ハ全然アリマセンデシタ。

永田事件ノ公判ハ、其ノ原因動機ノ性質上及ビ軍全體ノ實情ノワダカマリ上、
之が取扱ニ注意ヲ要スルノミナラズ、
軍首脳部ニ於テモ軍ノ實情収拾ニ關シ大イニ注意ヲ要スルモノモアルヲ認メ、
公判開始前日、陸相、參謀次長、陸軍次官、軍務局長等ニ引見セラレ、
忌憚ナキ意見ヲ述ベタルモ、遂ニ容レラレルニ至ラズ。

公判中、村中ハ一、二回自宅及辯護人控室ニ來リタルコトアルモ、私ハ其都度、
合法的ニ公判ヲ成功セシムル確信アルヲ以テ自分を信頼し、斷ジテ情況ヲ悲観シ、
思ヒ詰ムル等ノコトナキ様ト自重ヲ促シタルガ、
當時、村中等ニハ特ニ不穏ノ計畫等ヲ爲シツツアルガ如キ態度ハ認メマセンデシタ。

公判ハ漸次順調ニ進ミ、好結果ヲ示シ居リ、又、中間ニ於テ公開禁止續キタル爲、
公判ノ中頃以來ハ暫ラク村中ノ來訪ナク、
又、兵力迄モ使用シテ實力行動ニ出ズルガ如キコトアルベシト全く考ヘズ、
油斷シ居ルタルガ、二月二十六日突如本事件ヲ見ルニ至リ、私ノ主義ニ反シ、
辯護人トシテ出タル甲斐ナク、誠ニ遺憾ニ堪ヘザル処デアリマス。

本事件突發前日二十五日に證人申請シマシタコトハ
私ハ次回ニ申請スル希望デアリマシタガ、裁判長ヨリ是非今日トノ事デ、急遽鵜澤辯護人
ト相談ノ上證人ヲ申請シ、其ノ理由ヲ述ベタノデアリマス。

對馬中尉トハ、同中尉ガ陸大受驗ニ來リシ際、私ヲ訪問シタルガ、
其時試驗ニ關スルコトニ就テハ、應接スルコトハ出來ザル旨告ゲタルモ、
敬意ヲ表シタシトノコトニテ面會シタル外、特殊ノ關係ハアリマセン。

澁川善助トハ、私ガ九州ニ在リシ頃、九州ノ愛國運動者タル靑年ト澁川トガ同志的交友アル
關係上、二、三年前私宅ヲ訪レタルコト二、三回アリ、
公判開始後ハ相澤中佐ノ家族傍聽券ニテ數回傍聽シ、
又、辯護ノ資料タルパンフレット等ノ蒐集ヲ依頼スル等、三、四回面會シタルコトモアルモ、
澁川ハ佛教家ノ如ク、甚シク慈悲心アル靑年ト観察シテ居リマシテ、
今事件ノ如キ實力行動ニ出ヅルガ如キコトアリトハ全然見受ケマセンデシタ。


佐々木二郎大尉の相澤中佐事件

2018年05月21日 09時25分48秒 | 佐々木二郎

 
犯人は某中佐

八月十二日、相沢中佐の永田軍務局長斬殺事件が突発した。
○○中佐と名前が紙上で伏せてあるので、私のように深い関係のない者は誰がやったのかわからなかった。
今その人を思い出せぬが佐官の人が 「 相沢中佐 」 だというのを聞いた。
数日後、将校集会所の黒板に斬殺現場の図面入りのものを張り付けた者がいた。
若い者は 「 やるなー 」 といったような口吻を洩らし、
左官級は ちょっと とまどった表情でこれを眺めていた。
 
リンク
永田伏誅ノ眞相 
いろいろの文章が流れて来た。
永田が切られて隣室へ逃げようと把手をとるとき、向う側で把手を握っていた者がいたとか、
同室の憲兵大佐が一振りに振り飛ばされて気絶したとか、
事が終わって相沢中佐が階段を下りかかると、根本中佐が飛んで来たとか、
胸のすくような相沢中佐の斬撃振りと、周章狼狽の幕僚の行動を冷笑したものである。
この事件は、今まで権力の座にふんぞり返っていた幕僚に対する、
見方の眼の色を変えたようであった。
暗殺! 単身 白昼堂々と陸軍省の軍務局長室で局長を斬る、
ちょっと類のない珍しい暗殺だ。
用心とか、緻密な計算とか、およそ そんなもののない やり方、
しかも それで人心の虚をついている。
この人は 何かを掴んでいる信念の人だなと思った。
と ともに 軍の危機を感じた。

この事件と磯部はいかなる関連にあるのだろうか?
たぶん知らぬだろう。
知っておれば磯部自身がやるだろう。
この後、磯部はかき立てられる思いをするだろうが、
西田、大蔵、村中、安藤もおるから軽挙はないと判断した。
ただ、この事件を機に、その原因を徹底的に究明して、これを最後の直接行動にすべきだと思った。
「 相澤中佐の片影 」 が 送られて来た。
リンク
行動記 ・ 第一 「 ヨオシ俺が軍閥を倒してやる 」 
相澤中佐片影
興味を覚えた人物であったから、私と池田中尉とでガリ版で刷って配布した。
これが初めての行動である。
私は元来陸軍部内の派閥というものには関心はなかった。
荒木、柳川、小畑とか、宇垣、南、小磯、永田とか、
このような上層部の人々には一面識もなければ、彼らが何を考え何をなそうとしているのか知る由もない。
田舎の隊附将校とは およそ そんなものである。
ただ、怪文書 ( 双方から来る ) によるものや、上京した折の大蔵、村中たちの話で、
幕僚の権力欲、出世欲には嫌悪の念を抱き、
磯部ら ( 士官学校事件 ) に対する不公平の弾圧には憤慨していた。
この根底には隊附十年間の幕僚に対する認識が根を下ろしていたことは事実である。
秋、間島地方で大尉以上の現地戦術が行われた。
統裁官は連隊長である。
出発の朝、羅南駅にて乗車すると、ホームに柳下参謀長が来て、頭に包帯した連隊長と何か話していた。
昨夜、赤穂家での宴会で連隊長が転んで頭にちょっと怪我をした。
それを参謀長が突き倒したと思ったらしく、帰途合同面に立ち寄り チョンガー連中に、
将校団長が怪我させられたのに黙っておるかと、酔った勢いでいったらしく、
池田、鳥巣憲俊中尉らの血の気の多いのがさっそく立ち上がった。
参謀長を促えて連隊長官舎に行き謝らせた、という一幕があったので、
参謀長がわざわざ駅まで来て、おれは一切君に手を触れてないよと、酔いが醒めた早い時期に釈明して、
しこりを残さないようにしたのだったと車中で聞いた。

 
佐々木二郎 
佐々木二郎 著
一革新将校の半生と磯部浅一 から


永田伏誅ノ眞相

2018年05月20日 12時28分03秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )




陸海靑年將校ニ檄ス
永田事件來頻々ヒンヒントシテ吾人ノ耳朶 ジダ  ヲ撃ツモノハ
「 遁ゲ出シタ人ガアツタソウデスネ 」
「 憲兵隊長ハ腰ヲ抜カシタトイフデハナイカ 」
「 軍人モ近頃ハ 餘リ町人ト違ハナイ 」
等々ノ不快なる嘲笑ナリ
「 永田潜伏誅の眞相 」
ナル一文ヲ接手シテ軍人腰抜論擡頭タイトウノ由來ヲ知リ 痛嘆慷慨禁ズル能ハズ 
偶々
千葉市内〇〇〇ニ相會セル有志十七名徹宵悲憤通論
自戒自奮ヲ誓ヒタリト雖モ 皇國皇軍の爲メ 尚意ヲ安ンズル能ハズ
僭越ヲ顧ミズ
敢テ陸海全軍靑年將校諸覧ニ檄シテ憂憤ヲ漏シ奮起ヲ翼望ス

一、永田伏誅ノ眞相 ( 全文  八月十九日入手 )
時は昭和十年八月十二日午前九時稍々過ぎ
動□を帯び 軍刀を佩いて陸軍省に現われた相澤三郎中佐は
先ず調査部長、山下少將と整備局長、山岡中將の許に行き慇懃に臺灣赴任の挨拶を述べた。
整備局長室を離する時、居合せた給仕に永田局長の在室を問ふた處
給仕は小走して直ぐ歸つて來て
『 居られます 』 を復命する、
中佐は莞爾として悠々迫らぬ歩調を以て軍務局長室に向った。
( 以下左爛に就いて劍光一閃永田天誅の顚末を説明する。)

説明
( 1 )
整備局長室から軍務局長へと向った相澤中佐はこの附近で抜刀して局長室へと侵入した。
一説には局長室へ入った後、左手の帽子掛に軍帽を掛けてから抜刀したとも云ふ。
( 2 )
相澤中佐は室内に這ると三名を壓倒する精悍せいかんな勢を以て永田に迫り、
椅子から立ち上がった永田の兩肩を見事袈裟懸に斬った。
( 3 )
永田、痛手によろめきながら遁のがれて此處に來る。
隣室に逃れようとしてハンドルに手を掛けたけれども扉は開かない。
相澤中佐は永田に追及して左手を軍刀の刀背に掛け銃槍か短槍を持った時の身構えで
永田の背後から心臓部目がけて拳も通れと突き刺す、
此の時相澤中佐は左手に輕傷を受けた。
( 4 )
永田は隣室に逃れられぬと思ってか反轉し泳ぐが如く逃れて、この位置まで來たが、
丸机の下へ、ヘバリ込んで即死した。
( 5 )
憲兵隊長新見大佐は左上膊に相澤中佐の一撃を受けてこの附近に倒れる。
新見は相澤中佐に抱きついたといっているが相澤中佐はこれを否定している。
相澤中佐は亦、在室の他の二名に危害を与えることのないように努めた由である。
兵務課長山田大佐は凶變に狼狽し、周章として此處を逃げた。
山田は最初から軍事課長室にいたといっているが、橋本大佐はこれを否認し、
凶變直後に入って來たと明言しているし、相澤中佐も又當時永田の前に二名の將校がいたと陳述している。
又 山田大佐は凶變の現場に居合わせ乍ら其場を逃れたと云ふ自責の念から
自殺の懼れりと云ふので警戒されている。
( 6 )
橋本大佐と徴募課長とが局長室でゴトゴトと 音のしたのを不審に思ひ
局長室の扉を開き見ると扉から床にかけて、一面眞紅な鮮血が悽□面を打つのみで
室内は森閑として靜まり反つている、
兩大佐が室内に入って見ると無惨永田は半身を机の下にして、
數ヶ所の傷に横になつて斃れて居り、又室の一隅に新見憲兵隊長が尻餅をついて口をフッフッして
何事かを云わんとしているのを□見した。
( 7 )
永田の受創は次の通りである。
一、
兩肩に各一カ所、深さ各々頸動脈に達するもの
二、
心臓部に刺創
三、
左腕に斬創、腕が殆んど切り離れる程度のもの
右は軍医學校から最初に馳せつけた細田軍医長が、實に見事な切口であったと感嘆し乍ら語っている。

以上の様な阿修羅の如き奮闘は一瞬の間に終ったのである。
相澤中佐は刀を型の如く納めて悠々と室を出て、更に一、二の先輩に轉任の挨拶を述べ、
同期生某中佐と一會議室で快談した。
この前後、神色自若として少しも平常と異なるところがなかったと云ふ。
相澤中佐はその後医務室を探し求め看護婦に左手の繃帯をさせ、
「 とらんく 」 を片手に悠々と表門まで來た。
恐る恐る附いてき來る憲兵が
「 中佐殿あちらへ參りませう 」
というや、
「 ヂャア行かふ 」
と 輕く云ひ 自動車で憲兵隊に行ったのである。

天神劍を相澤中佐に輿へて斬奸の事をなさしむ。
然り、神意天業と□する以外に相澤中佐の行動を判斷する事は不可能な程
超非凡的なものである。

一、志風振起ヲ要ス
櫻田門外落花ノ晨あした、
井伊ハ 戞々カツカツ劍戟 ケンゲキ ノ中輿中ニ留リテ自若タリシニ非ズヤ
大久保甲東ハ刺客島田一郎ニ左腕ヲ斬リ落トサルルヤ
大喝一聲シテ島田ヲ僻易逡巡セシメ 
犬養首相ハ拳銃ヲ擬セル闖入者ヲ制止シテ對談セルニ非ズヤ
然ルニ何事ゾ
永田ノ醜状陋態 ロウタイ
 子女徒卒ニモ劣レルハ
然モ兇徒 
奉行ニ迫ルヤ輿力ハ遁走シ
目明シハ腰ヲ抜カス態ノ銀幕、
舞臺ノ悲喜劇其儘ナル山田、新見ノ醜ハ殆ンド聞クニ堪ヘザルモノアリ
嗚呼、昌平久シクシテ士風の頽廃 タイハイ 弛緩 チダン茲ニ至レルカ
而シテ何ンノ奇怪事ゾヤ
鯉口三寸ヲ寛ゲ得ザリシ懦夫ニ叙位叙勲ハ奏薦セラレ
或ハ自決退官ノ引責ヲ厚顔免カレントシテ 「 體力及バズ 」 ト辯明是レ努メ
又 「 事件當時在室セズ 」 トノ事實歪曲隠蔽ヘト百萬奔走シツツアリ
此ノ二重ノ皇軍威信ノ失墜事ヲ坐視放任シテ縦斷的、
横斷的聯繫ヲ禁ジ怪文書ヲ嚴重取締ル等ヲ以テ抜本塞源ノ肅軍ヲ庶幾シ得ルヤ

諸賢ヨ、
吾人ハ利己主義ノ權化ナル者 瓢箪式中央部幕僚ト
其ノ二、三ニ操縦駆使セラルル張子將軍トニヨツテ 軍ノ統一、士氣ノ振作ヲ期待シ得ベカラズ
相澤沢中佐ノ神的一擧ハ正ニ是レ昭和武士道ノ開顯ナリ
吾人靑年將校ハ宜シク此ノ風ヲ學ビ
昭和ノ薩摩土肥的下級靑年武士トシテ旗本八萬騎ノ浮薄軽佻ヲ猛撃一蹴シ、
武士道精神ノ高揚ニ努力スルヲ要ス

一、巷説妄信乎非  維新ノ烽火也
陸軍當局ハ曩 サキニ盲旅行ト称シテ水郷潮來ニ新聞記者團ヲ伴ヒテ
―--當時新聞班ハ 記者一人當リ五百圓準備携行シ
ナカ 四百圓ハ金一封トシテ贈与セリト云フ--―
眞崎、荒木等ノ純正將軍ニ統制攪乱者ノ惡名ヲ以テ筆誅ヲ加ヘシムルニ成功シ
今ヤ往年草刈海軍少佐ヲ狂死トシテ葬リ去リタル故 
智ニ學ンダ相澤中佐ヲ巷説妄信ノ徒トシテ抹殺セントシツツアリ
當局―--恐クハ數名乃至十數名ノ幕僚群----ノ迷妄救フベカラザルハ モトヨリ多言ヲ要セザルベシ
相澤中佐ノ超凡的行動ニ驚駭シテ狂ト呼ビ愚ト目スル者ハ
中佐ガ劍禅一如ノ修練ヲ其ノ純一無雑ノ天性ニ加ヘテ神人一體ノ高キ精神界ニ在ルヲ
理解シ能ハザル自己ノ蒙昧愚劣ニ自ラ恥ズベシ
相澤中佐ノ一擧ハ實ニ天命ヲ體シ神意ニ即シテ昭和維新ノ烽火ヲ擧ゲシモノ
是レヲ部内派閥逃走ノ刃傷的結末ト見ルハ無明痴鈍、
宛モ現下部内ノ諸動向ヲ以テ往年軍閥時代ノ藩閥的相克視スルト同一轍ノ愚ナリ


今ヤ維新變革ノ前夜トシ 國家ノ上下ハ維新カ非維新カニヨツテ明カニ二分セラレタリ
此ノ二潮流ノ最尖端ニ立ツテ接戰火ヲ吐クモノ 實ニ陸軍部内ノ維新派ト非維新派トノ對立ナリトス
斯クテ七月十五日 突如重臣ブロック、軍閥者流、新官僚群ヲ背景トシ
其ノ先棒タル林、永田の徒は統帥權干犯、違勅敢行ノ逆謀、七、一五反動クーデターを敢行セリ
天此ノ不義を寛過セズ 
相澤中佐ニ籍スニ神劍ヲ以テシ 雷閃一撃、永田ヲ兇死セシメシモノ
部内ノ私闘ニ非ズ 維新ノ故ニナリ

維新ノ烽火挙ル!
諸賢ヨ、斯ク正視諦観シテ謬
アヤマル勿レ

天皇機關説的思想、行蔵ヲ以テ  皇威ヲ凌犯シ萬民ヲ殘賤スルコト茲ニ年アリ
國運民命將ニ窮マラントシテ神劍一閃維新ノ烽火擧ル
永田ノ頸血ケイケツヲ祭庭ニ灑ソソイデデ天神地祗ノ降靈照覧ノ下 皇民蹶起ノ秋ハ到ル
烽火一炬  嗚呼待望ノ機ハ來レリ
慎ミテ憂國慨世ノ義魂ニ訴ヘ、奮起を望ムモノナリ

昭和十年八月二十一日暁天ヲ拜シテ黙禱
在千葉陸軍靑年將校有志
在館山海軍靑年將校有志

« 栗原安秀中尉の筆  »
昭和十年 相澤事件直後、
西田税、村中孝次、磯部浅一 等による所謂怪文書のひとつ

恐らくこの内容の出所は森木憲兵少佐であろうと思われる。
何故なら、この事件の検証は同憲兵によって行われているからである。 


「 相澤さんが永田少将をやったよ 」

2018年05月19日 17時23分43秒 | 大蔵榮一

« 昭和10年8月12日 »
翌朝七時ごろ目を覚ました。
台所の方から野菜をきざむ音が、
もうろうとした耳にかすかに聞えてきた。
「 オーイ、靴はおとどけしたろうな 」
私は、寝ながら叫んだ。
「 ハイ、とどけてきました 」
「 相沢さんは、起きていたか 」
「 もうすく゜朝食のようでした 」
「 早いな 」
と 問答を交わしながら、私は寝たばこを一服つけた。
篆字のようにくねって静かに形を変えながら
流れてゆく煙を眺めるともなく眺めているとき、
私はふと不吉な予感に襲われていた。
「 待てよ、ひょっとすると・・・? 」

相沢三郎が、
永田鉄山軍務局長をやるのではないだろうか。
私は昨夜 西田の家の玄関先で、直突の姿勢をとった中佐の姿を思い浮べると、ガバッと蒲団を蹴った。
なぜ今までこの疑問がわからなかつたのか、反省するひまもなく私はあわてた。
「 オイ、めしだ 」
女房を叱咤しながら、私は服装をととのえて家を飛び出した。
相沢中佐はすでに出たあとであった。
私は、玄関に出てきた西田に、昨夜の相沢との別れぎわの一件を話して、
「 相沢さんがやるかも知れん 」
と つけ加えた。
「 とにかく上がってくれ。オレも感じていることがあるから・・・」
私は出勤の時間を気にしながら、応接間に通った。
「ゆうべ君が帰ったあと間もなく寝ることにして、相沢さんは六畳の間で寝たんだ。
オレは書きものがあったので十五分ぐらいおくれて二階に上がろうとすると、
六畳の間の襖が少し開いていたのでのぞいてみたら、
相沢さんが蚊帳の中で蒲団の上にあぐらをかき、軍刀を抜いてじっと中身を見つめていたんだ。
「 何をしているんですか 」
というと、
にっこり笑って刀身を鞘におさめ、
「 お休み 」 と いいながら、
電灯を消して寝てしまったんだ。
 ・・・・それだけではないんだ。
 けさになって家内が蒲団をたたむとき気のついたことだが、新しいシーツにインキのあとがついていたんだ。
われわれが寝たあと、何か書いたにちがいない 」
「 いよいよ怪しいですね 」
「 そうなんだ、オレも心配しているところだ。君はきょう休めないだろうな 」
「 休むわけにはいきません。もう遅れそうですから私はこれで失礼しますが、あとはよろしく頼みます 」
「 磯部君に連絡をとってなんとかするから、君はすぐ行き給え 」
私は、心のこりであったが学校に急いだ。

戸山学校正門


将校集会所
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私は 「 もしや相沢中佐が・・・・・? 」
と不安の気持ちが広がってきた。
不安は不安を呼んだ。もう一刻の猶予もならんと、私はこっそり将校集会所を抜け出した。
西田税 に電話して不安の実態をたしかめたかった。
集会所を抜け出した私は、
電話室に行く途中、学校副官高柳浅四郎大尉 ( 陸士三十四期 ) に会った。
「 オイ、やったなァ 」
高柳副官がいった。
私は、相沢中佐が永田軍務局長をやったことを直感した。
「 なにをやったんですか 」
私はとぼけた。
「 相沢さんが永田少将をやったよ 」
と、高柳は興奮気味であった。
「 殺したんですか 」
「 死んだらしいぞ 」
「 あなたは、どうしてそれを知ったんですか 」
「 いま、新聞記者が電話しているのを聞いたばかりだ 」
「 そうですか 」
事変を確認し得た私は、ことさら平気をよそおって自室に帰った。
昨夜からのことが走馬灯のように私の頭の中をかけめぐった。
私はとっさに剣をつかんで、脱兎のごとく校門に向かって走った。
そのとき、私はバッタリ、
セカセカと歩いてくる磯部浅一に会った。
「 ちょうど会えてよかった。相沢さんが永田をやりました 」
「 いま聞いた、それで飛び出したんだ 」
「 私はたった今この目で見てきたんです。陸軍省の中はごったがえしています。
だらしないったら、いえたもんじゃありませんよ。
これから同志四、五人で斬り込めば、陸軍省は簡単に占領できますよ、行こうじゃありませんか 」
「 まさか・・・・そうあせるなよ 」
私は磯部を制しながら、円タクを止めた。
乗車して行先、千駄ヶ谷を命じた。

大蔵栄一
二・二六事件の挽歌  から
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この日のことを磯部は、
行動記 第一 で 記している
磯部浅一  

昭和十年八月十二日、
即ち去年の今日、
余は数日苦しみたる腹痛の病床より起き出でて窓外をながめてゐたら、西田氏が来訪した。
余の住所、新宿ハウスの三階にて
氏は
「 昨日相澤さんがやって来た、今朝出て行ったが何だかあやしいフシがある、
陸軍省へ行って永田に会ふと云って出た 」
余は病後の事とて元気がなく、氏の話が、ピンとこなかった。
実は昨夜
村中貞次氏より来電あり、本日午前上野に着くとの事であったので、
村中は仙台に旅行中で不在だったから、小生が出迎へに行く事にしてゐたので、
病後の重いからだを振って上野へ自動車をとばした。
自動車の中でふと考へついたのは、
今朝の西田氏の言だ。
そして相澤中佐が決行なさるかも知れないぞとの連想をした。
さうすると急に何だか相沢さんがやりさうな気がして堪らなくなり、
上野で村中氏に会はなかったのを幸ひに、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   
永田局長を乗せた救急車      陸軍省正門                                 陸軍省軍務局長室 ( 二階 )  
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自動車を飛ばして陸軍省に行った。
来て見ると大変だ。
省前は自動車で一杯、
軍人があわただしく右往左往してゐる。
たしかに惨劇のあった事を物語るらしいすべての様子。
余の自動車は省前の道路でしばらく立往生になったので、
よくよく軍人の挙動を見る事が出来た。
往来の軍人が悉くあわててゐる。
どれもこれも平素の威張り散らす風、気、が今はどこへやら行ってしまってゐる。
余はつくづくと歎感した。
これが名にし負ふ日本の陸軍省か、
これが皇軍中央部将校連か、
今直ちに省内に二、三人の同志将校が突入したら 陸軍省は完全に占領出来るがなあ、
俺が一人で侵入しても相当のドロホウは出来るなあ、
情けない軍中央部だ、幕僚の先は見えた、軍閥の終えんだ、
今にして上下維新されずんば国家の前路を如何せん
と いふ普通の感慨を起すと共に、
ヨオッシ俺が軍閥を倒してやる、
既成軍部は軍閥だ、俺がたほしてやると云ふ決意に燃えた。
振ひ立つ様な感慨をおぼえて 直ちに瀬尾氏を訪ね、金三百円? を受領して帰途につく。
戸山学校の大蔵大尉を訪ねたのは十二時前であったが、
この日丁度、新教育総監渡辺錠太郎が学校に来てゐた。
正門で大尉に面会を求めると、そばに憲兵が居てウサンくささうにしてゐた。
これは後に聞いた話だが この時憲兵は、
余が渡辺を殺しに来たらしいと報告をしたとの事である。
陸軍の上下が此の如くあわてふためいてゐるのであるから、
面白いやら をかしいやらで物も云へぬ次第だった。


昭和10年8月12日 ・ 相澤三郎中佐 1

2018年05月18日 10時33分38秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


相澤は中央部廊下を通り 迷わずに軍務局長室の前に出た。
前に尋ねたからその勝手が分かっていたのである。
八月十二日、猛暑のことである。
局長室の入口のドアは開けられ、入口近くに簀
衝立が立てられてあった。
内容は透かして見える。
相澤は入口近くにもってきたトランクを置き、商工マントもいっしょに置いた。
マントは凶行後、返り血をあびた軍服をかくす用意のためである。
彼は衝立の向こうに永田の姿が見えたので、
軍刀を抜き、無言のまま つかつかと衝立の右側から入った。

局長室の永田は二人の将校と話しをしていた。
一人が新見英夫東京憲兵隊長で、一人が山田長三郎へ兵務課長であった。
新見は折から 村中、磯部の 「 粛軍に関する意見書 」 の 印刷物を永田に見せて報告中だった。
正面に坐って二人と話をしていた永田は、入口から軍刀を抜いて入ってきた相沢を見ると、
椅子からすっくと起ち上がった。
永田は難を避けるように二人の将校のほうへ寄った。
ところがその相澤に気付かなかったのかどうか、山田兵務課長はさっさと その部屋を出て行ってしまった。
つまり、相澤が抜刀した闖入したのと入れ違いに退室したのである。
当然にあとで大問題となった。
山田は上官の危機を見捨て卑怯にも逃げたと非難された。
のち山田は自刃する。

軍刀を振るって永田に逼った相澤は椅子を跨いだのか、あるいは飛び越えたのか自分ではおぼえていないが、
その一撃を永田の右肩に加えた。
手ごたえがない。
切尖は軍服と皮膚の表面を浅く裂いたにすぎなかった。
横の新見憲兵隊長がこの危急を見て左側から相澤に抱きつこうとした。
新見大佐は小柄で非力である。
彼は相澤に体当たりし、咄嗟に左手を上げて無意識のうちに永田を庇ったために相澤の刃を受け、
左上膊に骨膜に達する深傷を負った。
新見は倒れ、意識を失った。
その間に永田は隣室の軍事課長室に逃げるつもりでドアのところまで来た。
ぴったりと閉まったドアを開けるには少しひまがかかる。
永田がその把手を握り、身体を扉にあてたとき、相澤は背後に近づいた。
相澤はドアにピッタリ身体をつけた永田を上から斬り下すことが出来ないので、
刀に左手を添えて背中から突き刺した。
これが永田の致命傷となった。
相澤も左手の指四本の根もとに骨まで達する傷を負うた。
剣道四段の相澤も夢中だったのだ。
永田はその場に倒れたが、なおも気丈に起ち上がった。
彼はよろよろしながら応接用のテーブル付近まで匍ったが、そこで力尽きて仰向けに倒れた。
相澤は切尖を倒れた永田の右こめかみのところに加え、
それから、武士の作法通り、とどめの一刀を咽喉に突き刺した。
この間、一分とはかかっていない。
相澤も声を発せず、永田も沈黙のままだった。
一瞬の無言劇で、両人の激しい息づかいが聞こえるようである。
武士の切傷場面を想わせる。

このとき隣で 「 押さえよ、押さえよ 」 と 同様する声が聞こえた。
廊下では 「 相澤、相澤 」 と 叫ぶ声が聞こえたが、それは山田兵務課長のものらしかったので、
相澤は山田大佐はまだそこにいるのかと感じた。
しかし、永田にとどめを刺した相澤は刀を鞘に収め、左手の傷口を自分のハンカチで縛ったのち、
廊下に出てマントを着たときは誰もいなかった。
彼は右手にトランクを提げ、兇行のときにとばした自分の帽子にも気づかず、
悠々と山岡整備局長の部屋に行った。

松本清張 著
昭和史発掘 7 から


昭和10年8月12日 ・ 相澤三郎中佐 2

2018年05月17日 11時10分48秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

決行の朝、剣道の達人は簡単なメモを、
宿泊先であった千駄ヶ谷の西田税宅で認めている。
後に軍事法廷で証拠品として採用された 「 證第四號 」。
メモは永田鉄山 大逆賊 と罵り、これから三時間後に虚構されるであろう行為を正当化している。
『 元より皇軍將校の全員其責にあり。
然りと雖も、永田少將の過去數年間に現はれ遺したる足跡と、
現在軍の要職にありて行ひ來って皇軍を幕府の軍隊に堕せしめつつあるは正に大逆賊たるものなり。
天命何をか躊躇すべきものぞ  臣三郎 』
このメモを当人は朝五時か六時頃、蚊帳の中で書いたと述べる。
その際、青いインクがシーツにこぼれた。
相澤が出かけた後、インク痕を見つけた西田は相沢の行動を訝いぶかるのだ。
剣の達人は決行に先立って、他に遺書を認めたり、もったいぶった和歌を詠んではいない。
ただしひとつだけ、行動の人が特に準備したものがある。
いわば特注品だ。
このことに従来なぜかだれも言及していないのだが・・・・。

相澤は上京に先立ち大阪で第四師団長、東久邇宮と台湾赴任の挨拶を交わす。
他にもさる人物と会い、決行の意志を伝えたと見られる。
これは重要なことゆえ、後にしよう。
さらに宇治山田に一泊した後、省線で原宿に出た。
台風が日本海に抜けた影響で、強風吹きすさぶ明治神宮にひとり参拝、
ここでも成就を祈願するのだった。
・・・・もし私の考へが誤りでなければ、神明のご加護によって天誅を成功させていただき度い。
明治神宮に立ち寄ったには訳がある。
相澤は参殿後、宝物殿の傍らの松の巨木の前にしばし佇むのだ。
実はこの樹齢二〇〇年にもなる笠松こそ、
亡き父がはるばる仙台から運び献上したものだった。
対象七年神宮造営の際だ。
いまや高さ十五メートルを越える堂々たる枝ぶりで辺りを睥睨へいげいする。
暗雲が激しく流れ、枝々が唸りを上げていた。
ときおり雲間から満月が皓々と巨木を照らし出すのだった。
相澤は無言で手を合わせ、明日の挙行が成功することを祈る。
巨木は言霊が宿るかのように相澤になにかを語りかけていた筈だ。

この夜、相澤は代々木山谷町の西田宅に宿をとる。
明治神宮からすぐの地にあった。
ここで偶然にも戸山学校体操教官、大蔵栄一大尉 ( 31 ) と居合わせたのだ。
その場で相澤はかねてから大蔵宅に預けてあったあるものを翌朝、
大蔵夫人に届けさせるよう特別に依頼する。
大蔵宅から西田宅までは歩いてすぐの距離だった。
それは 靴・・・・。
その夜のやりとりを大蔵大尉はこう証言する。
『 相澤中佐は玄関まで私を送ってきた。
「 あなたのうちに、深ゴムの靴が一足あずけてありましたね。
あしたの朝早く奥さんに持ってきて頂くよう、頼んで下さい 」
「 そんな靴があったんですか 」
私は知らなかった。
たぶん去年の春、中耳炎をわずらったころのことであろうと思った。
「 奥さんが知っています 」
「 承知しました 」
と、うなづいて下を見ると、新しい茶色の編み上げの靴が一足そろえてあった。
「 いい靴があるじゃありませんか 」
「 いや、あの深ゴムの方が足にピッタリ合って、しまりがいいんですよ 」
と いいながら相澤は、銃剣術の直突 ( 着剣した銃を掲げ、相手の心臓部めがけて突き出す ) の姿勢をとった 』

深ゴム靴 の丈は踝くるぶしの少し上どまり。
左右側面にコ゜ムが縫い込んであり、しまりがいい と相澤が謂うにピッタリと足にフィットする。
長靴のように足と靴の間に隙間を生じない。
いわば地下足袋効果があった。
英国ではチェルシー・ブーツと呼ばれる。
深ゴム靴を預けてあったことが計画的か、それとも偶発なのか。
それは、だれも判らない・・・・。

就寝前に相さは、蚊帳が吊られた客間寝室で布団の上にあぐらをかき、
鞘から抜いて日本刀を持ち上げ、刃先をジーッと凝視する。
犯行に使われたものは相澤家に伝わる名刀。
江戸寛文年間の刀匠、河内守藤原國次の銘が入る。
陸士卒業記念に父から贈られたものだ。
観賞用ではなく武芸用として広く愛好され、
江戸時代の死刑執行人、山田浅右衛門、通称 首切り浅右衛門 が 切れ味が良いと誉めたと伝えられる。
二階の寝室に上がろうと客間の前を通りかかった西田が声を掛けると、
剣の達人は慌てたように作り笑いを浮かべて、電気を消す。
「 お休みなさい ・・・・」

チェルシー・ブーツを履いた相澤三郎陸軍歩兵中佐・・・・。
翌朝、軍務局長室に闖入するのは推定九時三五分頃。
軍法会議の判決文には四五分とあるが、
前後の時間の推移を見る限り、事実は一〇分ほど早い時刻であったろう。
入口は夏のことゆえ開け放たれていた。
ちいさな観音開きの簾の戸を押せば、奥に開けた長方形の局長室に難なく入れる。
だが突き当り事務机に座る局長の姿は入口からは朧げにしか見えない。
目隠しに衝立が二面置かれていたからだ。
奥に板張りの一面と手前に布張り。
ただし奥の左手、剣帽掛けには軍刀と軍帽が掛けられていた。
部屋の主が在室であることは一目で見て取れた筈だ。
背中に吊っていた軍刀を静かに鞘から抜き、深呼吸する。
左手南窓からの光線が角部屋全体を明るく照らし出している。
意を決すると応接用丸テーブルを左に見ながら奥へジワリジワリと進んだ。
厚いジュータンと深ゴム靴が音を消す。
二つの衝立をやりすごせば、もう二メートル先には局長机がある。
西側にある奥の窓から光線が差し込み、
シルエット姿の新見がこちらに背中を丸めてなにやら永田に説明していた。
速度を速めサーッと右側から襲いかかる。
永田が人の気配を感じて面を挙げたとき、
既に眼前は大上段に振りかぶった相澤の修羅と化した相貌があった筈だ。
眼が吊り上がり、大きな口が半開きになった面。
永田はすかさず回転椅子から腰を浮かし、身体を瞬時に横へとずらす。
相澤はそうはさせじと背後から第一刀を浴びせた。
だが間に椅子が挟まり、背中に軽傷を与えたにとどまる。
机を回り込み 難を逃れようとする中肉中背の将軍、追う長身瘦軀の刺客。
とっさに小柄に新見が後ろから相澤の腰にしがみつき、必死にブロックを図る。
「 ウワッ 」 と 力任せに振り払った相澤は、威嚇の一太刀を新見に浴びせた。
瞬時に左腕上部から鮮血が飛び散る。
激しい相澤の動きに軍帽がスッ飛び、ジュータンにコロコロと音もなく転がった。
その間に永田は隣の軍事課長室に逃れようと、大きなドアに辿り着く。
ドアのノブに手を掛けた。
希望を込めてノブを回す。
だが開かなかった。
なんども試みたが冷酷にも開かなかった。
これが運命を決める。
相澤が瞬時に追い付く。
深ゴム靴の威力だ。
直ちに二刀目を浴びせる。
今度は刀の柄を右手で握り、左手では刃を握り、一気に永田の背中に突き立てた。
「 ウワッ 」 と 満身の力が込められたことだろう。
『 人を斬るには刀を両手に握って突くのが一番確実だ 』 ・・こう 日頃から語っていた。
こうして無残にも刀は永田の背中から肺を突き抜け、ドアの扉まで刺さり込む。
相澤は矛先が狂わぬように左手をしっかり刀に添えていた。
だが刀を引き抜く際、左に抉えぐったため、無我夢中であったのか、
自らの左手四本の指をも深々と切ってしまう。
引き抜くや否や鮮血が永田の背中からドッと噴出する。
まるで時代劇映画の殺陣を見るようなシーンだ。
多量の出血で一瞬ドアにへばりついた永田は、ドアが開かないことを悟ると、
踵きびすを返し、今度は入口をめざして逃れようとする。
既に足はもつれ、空手空拳くうしゅくうけん。
衝立を越えて南窓方向へと進む。
この獲物の行末を相澤は、下段の構えでジッと見定めた。
左手指からは血が滴り落ちている。
哀れにも永田は数歩で遂に力尽き、ドッと頭から転倒する。
はずみで応接用テーブルの椅子が転がり飛び、音を立てた。
そこへ相澤は猟犬のようにスーッと近寄る。
なおも生への動物的な執念を燃やし、ジュータンを這おうとあがく永田。
その身体を足で仰向けに引っくり返すと 頭部に三頭目を浴びせるのだった。
相澤がどこを狙ったのかは判然としない。
恐らくは古来の武士の作法に則って喉にとどめを刺そうとしたのだろう。
両手で柄を握り、突き刺す。
だが左手に深手を負ったためか、手元が狂い刃先は永田の左こめかみにグサリと食い込んだ。
頭部がザックリと割れる。
《 因よりて 永田少将の背部 ( 第一刀と第二刀で計二ヶ所 ) に 長さ九.五センチ、深さ一センチ
及び長さ七.
六センチ、深さ一三センチ、左顳顬しょうじゅ部 ( 第三刀でこみかみ ) に 長さ一五.五センチ、
深さ四.五センチの創傷外数創を被らしめ・・・》・・「検察官控訴状 」、菅原裕 「相澤中佐事件の真相 」
ちなみに憲兵隊が撮影した検証写真のうち遺体頭部のクローズアップは見る者の目をそむけさせるに充分で、
さすがに今日まで公表されていない。
犯行が執拗で、相澤は変質的な性格ではないかと云う声も聞こえる。
だが 半年後の二・二六事件以降、相澤公判の弁護人を務めた菅原裕は云う。
『 中佐が神に誠を捧げて国軍の反省 維新を齎もたらそうとしたのは 時に光を放った正気の発動であり、
断じて 精神病者の変態症状などではなかった 』 ・・菅原裕 「相澤中佐事件の真相 」

鬼頭春樹著 実録相澤事件から


軍務局長室 (1) 相澤三郎中佐 「 逆賊永田に天誅を加へて來ました 」

2018年05月16日 09時41分37秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

訊問調書
西田方ヲ出テカラノ行動

午前九時頃 西田方ヲ出テ十分位歩イテ改正道路ヲ出テ、
圓タクニ乘ツテ同九時二十分カ二十五分頃 陸軍省裏門ニ着キ、
同門カラ入ツテ山岡整備局長ニ轉任ノ挨拶ヲ致シマシタ。
山岡閣下ハ私ガ士官學校在勤當時ノ生徒隊長デ御世話ニナツタ人デ、
私ハ非常ニ尊敬シテ居タ人デアリマスカラ訪ネテ行ツタノデアリマス。
ソシテ最初轉任ノ挨拶ヲ致シマシタ処、腰ヲ下ロセト云ハレタノデ腰ヲ下ロシテカラ私ハ、
閣下ハ非常ニオ若ク見エマスネエト云フト山岡閣下ハ、惡イ事ヲシナイ者ハ此ノ様ニ若イノデアル
ト 云ハレマシタ。
其ノ様ナ雑談ヲシテカラ私ハ之カラ永田閣下ノ処ヘ御會ヒニ行クト云ヒマスト、
山岡閣下ハ何ノ用事デ行クカト云ハレタノデ私ハ、用事ノ内容ハ御話出來ヌト云ヒマシタ処、
何ノ用事デ永田ノ処ヘ行クカト何回モ聽カレマシタガ何モ申シマセンデシタ。
其ノ時 給仕ガオ茶ヲ持ツテ來タノデ、給仕ニ永田閣下ガ居ラレルカ見テ來イト云ヒマシタ。
スルト山岡閣下ハ私ニ  オ前ガ永田ノ処ヘ行クト云フ事ハ眞崎閣下ニ非常ニ迷惑ヲ掛ケル事ニナルカラ
ヨセト云ハレタ様ニ思ヒマス。
之ハ世間總テノ者ハ オ前ヲ眞崎閣下ガ操ツテ居ルカノ様ニ専ラ風評シテ居ルカラ、
オ前ガ永田ノ処ヘ行ツテ下手ナ事ヲ云フト
非常ニ眞崎閣下ニ御迷惑ヲ掛ケル事ニナルト云フ趣旨ノ事ヲ云ハレタノデアリマス。
其ノ時私ハ話ヲ反ラシテ、
閣下 重大ナ時機デアリマスカラ十分御國ノ爲ニ御盡シニナル様ニ御願ヒシマス
ト 云フト、山岡閣下ハ イーヤ俺ハヤラヌト云ハレタノデ、
私ハ一寸癪ニ障ツテ人ヲ馬鹿ニシテ居ルト感ジマシタノデ、
何故デスカト尋ネルト 山岡閣下ハ笑ツテ、オ前モ永田ノ処ニ行ク目的ハ云ハレヌト云ウデハナイカ、
ソンナ水臭イ男ニ御國ノ爲ニ盡シテ呉レト云ハレタトテ眞面目ニ返事ハ出來ナイト云ハレマシタノデ、
私ハ夫レデハ今カラ永田閣下ニ會ツテ歸ツテ來テカラ申シマスト云ウト、
夫レナラ行ツテ來イト云ハレマシタ。
山岡閣下ノ部屋ニハ十五分位居タト思ヒマス。

夫レカラ其ノ部屋ヲ出テ廊下ヲ曲ツテ中央廊下ニ出テ階段ヲ上リ 永田局長ノ部屋ニ行キマシタ。
其ノ際ノ服装ハ軍服軍帽短靴ニ手套ヲ篏メ 軍刀ヲ吊リ勲章一個ヲ佩用シ、
携行ノマント及トランクハ山岡閣下ノ部屋ノ前ニ置キ、軍刀ヲ抜イテ永田閣下ノ部屋に入りました処、
永田閣下ハ机ノ前ニ腰掛ケテ居ラレ、確カ其ノ机ノ前ニ二人ガ居テ相對シテ話ヲシテ居タト思ヒマス。
私ガ入ツテ行クト永田閣下ハ二人ノ客ノ処ヘ逃ゲテ三人ガ一緒ニナツタト思ヒマス。
其ノ時私ハ永田閣下ヲ目蒐ケテ一太刀ヲ浴セマスト、
永田閣下ハ軍事課長室ニ行ク扉ノ処ヘ行カレタノデ、私ハ逆ニ戻ツテ其ノ扉ノ処デ、
右手デ軍刀ノ柄ヲ握リ 左手デ刃ノ処ヲ握リ、永田閣下ノ背中ヲ突刺シマスト
永田閣下ハ應接卓子ノ方ヘ走ラレタノデ、

私ハ其ノ跡ヲ追ツテ行クト、永田閣下ハ應接卓子ノ傍ヘ倒レマシタノデ、
私ハ永田閣下ノ頭ヲ目蒐ケテ一太刀浴セマシタ。

私ハ其ノ部屋ニ入ツタ時、永田閣下ト相對シテ二人居ラレタ事ハ知ツテ居リマスガ、
其ノ後ハ其ノ二人ハドウシタカ知リマセヌ。

夫レカラ私ハ其ノ部屋ヲ出テ廊下ヲ眞直グニ行クト、
隣リ部屋ノ扉ヲ開ケテ大勢見テ居ツテ、取押エロトカ何トカ云ツテ騒イデ居リマシタ。
其ノ時 山田兵務課長ガ 相澤相澤 ト云ツテ居リマシタ。

私ハ廊下ヲ歩キツツ軍刀ヲ鞘ニ納メ 山岡閣下ノ部屋ニ入リマシタ。
私ガ永田閣下ノ部屋ニ入リ決行ノ上 其ノ部屋ヲ出ル迄ノ時間ハ二十秒位デアツタト思ヒマス。
山岡閣下ノ処ヘ行ツテ逆賊永田ニ天誅ヲ加ヘテ來マシタト云ツタ様ニ思ヒマス。
ソシテ今カラ永田ノ処ヘ行ツテ來タ目的ヲ申上ゲマスト云ツテ、
永田ハ此ノ様ナ逆賊デアルト云ハウトシマシタガ、山岡閣下ハ茫然トシテ御聞キニナラズ、
豫想外ダト云フ様ナ口吻ヲ洩サレマシタ。
其ノ時私ノ左手カラ血ガ流レテ居リマシタ。
山岡閣下ハ電話デ何カ云ハレタ様デアリマシタガ通ジナカッタ様ニ思ヒマス。
夫レカラ 山岡閣下ハ ハンカチヲ出シテ血止メノ爲ニ私ノ左手首ヲ縛ツテ下サツタ処ヘ、
雇員ガ書類ヲ持ツテ來タノデ山岡閣下ハ、手當ヲスル人ヲ呼ンデ來イト云ハレタ処ヘ、
某大尉ガ來タノデ山岡閣下ハ直グ手當ヲシテヤレト云ハレタノデ
同大尉ニ聯レラレテ医務課ニ行キマシタ処ガ、
同課ノ入口ノ方デ誰カ一人担架ニ乗ツテ行ツタ様ニ思ヒマシタノデ、
私ハ永田閣下ガ今カラ急イデ衛戍病院ニ入院サレルノダト思ツタノデ私ハ、
十分ヤツタト思ツタガ急所ガ外レタノダト思ヒマシタ。
私ハ決行ノ際 軍帽ヲ何処カヘ飛バシテ仕舞ツタノデ
附近ニ居ル者ニ帽子ヲ取ツテ來テ呉レト何回モ云ヒマシタガ誰モ取上ゲテ呉レナカッタノデ
癪ニ障ツテ居リマシタ。
其ノ内ニ憲兵ガ來テ サア行キマセウト云ツタノデ、
憲兵ニ随イテ階下ニ降リルト自動車ガ澤山在ツテ 中々乗セテ呉レズ、
裏門カラ自動車ニ乗リマシタ処、私服ノ憲兵ガ麹町分隊ニ行クカラト云ツタノデ、
私ハ 軍人ガ帽子ヲ冠ラズ何処ヘモ行ケナイカラ偕行社ニ寄ツテ帽子ヲ買ツテカラ行クト云フト、
憲兵ハ ソンナ事セヌデモヨイト云ツタノデ 其ノ儘 麹町憲兵分タイヘ行ツタノデアリマス。
・・・昭和十年八月十四日

現代史資料23
国家主義運動3  から

「 年寄りから、先ですよ 」 
永田伏誅ノ眞相 


軍務局長室 (2) 山田長三郎大佐 「 軍事課長が來ないので、円卓の傍を通って軍事課長室に入る 」

2018年05月15日 09時27分16秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

聴取書
陸軍省軍務局 兵務課長
陸軍砲兵大佐  山田長三郎
本月十二日 永田軍務局長遭難當時ノ狀況ヲ申シマスト、
同日午前九時二十分過頃、
新見憲兵大佐ガ私ノ処ニ來テ報告ヲスルカラ
軍事課長ト共ニ聽イテ貰ヒタイ
ト 云フコトデアリマシタカラ、
夫レデハ局長ニモ一緒ニ聴イテ貰ッタ方ガ宜イト申シマシテ、

新見大佐ヲ同道シテ軍務局長室ニ行キマシタ。
ソシテ局長室ニ入ッテ直グ右側ノ扉ヲ開イテ軍事課長ニ對シ
憲兵隊長ガ報告ヲスルカラ一緒ニ聴イテ呉レ
ト 傳ヘテ置イテ 新見大佐ト共ニ局長ノ前ニ進ミ、局長ト相對シテ、私ハ新見大佐ノ左ニ腰ヲ掛ケマシタ。
新見大佐ノ右ニハ尚一脚ノ空椅子ガアリマシタ。
之ニ軍事課長ヲ坐ラセル筈デ在ッタノデアリマス。
一、二分局長ノ前ニ居リマシタガ、軍事課長ガ來ナイノデ私ガ迎ヘニ行ク爲左ノ方ニ向ッテ立上リ
局長室ノ円卓ノ傍ヲ通ッテ廊下ニ近キ方ノ軍事課長室トノ間ノ
扉カラ同課長室ニ入リマシタ処、
徴募課長ガ將ニ歸ラントスル氣配デ私ト顔ヲ見合ワセタノデ、
豫テノ知合デアリマスカラ 立チナガラ一、二分間位話シテ居リマシタ。
當時私ノ入ッテ來タ扉ハ閉メテアリマシタ。
又 私ガ軍事課長ヲ迎ヘテ來タノニモ拘ラズ、徴募課長ト話シテ居ッタノハ
局長ノ処ニハ他ニ事務官ヤ課員等ガ澤山判ヲ貰ヒニ來ルノデ、
私ノ不在中モ誰カガ判ヲ貰ヒニ來て居ルト思ッタカラデアリマス。
夫レハ私ガ軍事課長ヲ迎ヘニ行ク爲 左ノ方ニ向ッテ立上ッタ際、
私ノ後ロヲ誰カ通ッタ氣配ヲ感ジタノデ、
多分事務官カ課員ガ判ヲ貰ヒニ來タモノト感ジ氣ニモ止メズ、

左ノ方ニ向ヒ 立上ッタノデアリマス。
ソシテ其後ロヲ通ッタ者ハ誰デ在ッタカ姿ハ見エマセンデシタ。
其後ニナッテ見マスト、當時私ノ後ロヲ通ッタ氣配ノ感ジタノハ
犯人ガ私ノ後ロヲ通ッタモノト思ヒマス。


私ガ前述ノ如ク徴募課長ト一、二分間位モ話シテ居ルト、
局長室デ何カ只ナラヌ物音ガシテ、何カ事變ガ在ッタ様ナ豫感ガシタノデ
急イデ前ノ扉ヲ開キ 局長室ニ入リマスト、
局長ハ円卓ノ東南ニ頭部ヲ北ニシ脚ヲ南ニシテ 血ニ染マッテ倒レテ居リマシタ。
夫レカラ私ハ大聲デ人ヲ呼ンダ様ニ思ヒマス。
直ニ課員ヤ属官等ガ駈附ケタノデ、医師ヲ呼ビ 又 犯人ヲ逮捕スル様ニ申シマシタ。
一、二分間 局長室ニ居リマシタガ 課員ノ平野豊次少佐ヲ呼寄セル必要ガアルト思フテ自室ニ歸リ、
憲兵司令部ニ電話ヲ掛ケテ 平野少佐ヲ呼ビ、直グ來イト申シマシタ。
夫レカラ再ビ局長室ニ行ッテ暫ク居リマシタガ、
誰カガ帽子ヲ拾フテ其裏面ニ書イテアル名前デ犯人ハ相澤ト云フ者デアルト云フコトヲ知リマシタ。
夫レカラ自室ニ歸リマスト間モナク平野少佐ガ來マシタノデ犯人逮捕ノ手配ヲ命ジタノデアリマス。

私ガ兇變ヲ知ッテ局長室ニ行ッタ時、軍事課長モ他ノ入口カラ局長室ニ入ッタト思ヒマスガ、
如何ニシテ居ッタカ能ク覺エテ居リマセヌガ、多分人ヲ呼ンダト思ヒマス。
徴募課長モ私ニ續イテ局長室ニ入ッタト思ヒマス。
ドウシテ居ッタカ能ク記憶アリマセヌ。
課員ヤ属官ガ駈附ケテ來テカラ軍事課長モ私ト同様 色々指圖ヲシテ居リマシタ。
・・・昭和十年八月十四日

証人訊問調書
八月十二日 午前ニ東京憲兵隊長 新見大佐ガ證人ヲ訪ネタ事ハ事實カ。

事實デアリマス。
當時私ハ陸軍省兵務課長ヲ勤メテ居リマシタガ、
同日午前九時二十分頃カト思ヒマスガ、

新見大佐ガ私ノ室ヘ來マシテ、
同官ノ所管事項ニ附 軍事課長ト私トニ報告ヲ聽イテ呉レト 云ッテ來マシタ。

新見大佐ノ來意ヲ聽イテ證人ハ如何ナル處置ヲシタカ。
私ハ新見大佐ノ來タ用件ヲ聽イテ、
夫レナラバ永田軍務局長ニモ一緒ニ聽イテ貰ハウジャナイカト 云ヒ
同大佐モ之ヲ承知シテ呉レ 共ニ私ノ室ヲ出マシタ。

證人ノ室ヲ出テ軍務局長室ニ至ル迄ノ經過如何。
私ハ新見大佐ト共ニ自分ノ室ヲ出テ直ニ軍務局長室ニ入リ、
局長ニ話ス前ニ局長室ヨリ隣ノ軍事課長室ニ通ズル二ツノドアーノ内、
北ノドアーヲ開ケテ軍事課長室ニ對シ
憲兵隊長ガ報告ニ來ラレタカラ局長室ニ來テ一緒ニ聽イテ呉レ
ト 云ヒ置イテ局長室ノ中央位ニ置イテ在ル衝立ノ邊デ局長室ニ對シ、
憲兵隊長ガ報告ニ參リマシタ ト 申シマシタ。
新見大佐ハ私ガ軍事課長室ニ話シタ際、同課長ニ對シテ何カ一寸挨拶シタ様ニ思ヒマスガ
其點 確カナ事ハ記憶シマセヌガ、兎ニ角 私ガ衝立ノ処デ前述ノ如ク局長ニ云ッタ時ニ
新見大佐ハ私ノ傍ニ居タト思ヒマス。

局長室ノ衝立ノ位置如何。
同室ノ中央ニ一間位ノ衝立二箇ガ一列ニ西カラ東ニ向ケテ竝ベテアリマシタガ、
ニ箇ノ衝立ノ内一ツハボンヤリ透視ノ出來ル靑イ薄布張ノモノデ、
二箇ノ衝立ノ内東寄りニ立テテアリマシタ。

局長室ニ於テ如何ナル位置デ三人ガ對談セントシタカ。
私ハ前述ノ如ク 局長ニ云ッテ後、
同室東北ノ圓卓ノ処デ報告ヲ聽キマセウカ と 云ヒマスト、
局長ハ 
イヤ 此方デ ト 自分ノ事務机ヲ指サレタノデ 同机ノ処ヘ行キ、
局長ハ自己ノ廻転椅子ニ腰掛ケ 少シ東寄リニ居ラレタ様ニ思ヒマス。
局長ニ面シテ私ガ一番左ノ机ノ東端ニ腰掛ケ、私ノ右隣リニ新見大佐ガ腰掛ケ、
其ノ隣ノ空椅子ニ軍事課長ニ腰掛ケテ貰フ考エデアリマシタ。

夫レカラ如何シタカ。
腰掛ケテカラ主トシテ局長ト新見大佐トノ間ニ 二、三雑談ガアリマシタガ
話ノ内容ハヨク記憶シマセヌガ、
怪文書ニ附テノ話ノ様デアリマシタ。
夫レカラ新見大佐ハ一寸腰掛ヲ離レテ
同室カラ軍事課長室ニ通ズル南ノドアーノ北側ニ在ル金庫ノ処ヘ行キ、

直グ戻ッテ席ニ就キ 携行シテ來タ風呂敷包ヲ開イテ報告ノ準備ヲシマシタ。

其後ノ證人ノ言動ハ如何。
新見大佐ガ風呂敷包ヲ解イテ報告準備ヲ致シマスルノニ
尚 軍事課長ハ參リマセヌノデ、

私ハ 同課長ヲ呼ンデ來マセウ と 云ッテ 腰掛カラ立上リ、
左ヲ向イテ衝立ヲ曲リ 軍事課長室ニ通ズル北口ノドアーノ方ヘ行キ

ドアーヲ開ケテ 軍事課長室ニ入リマスト、
同課長ハ自分ノ机ノ処デ新徴募課長森田大佐ト話ヲシテ居リマシタ。
私ハ森田大佐ト旧知ノ間柄デ、
同大佐ガ徴募課長ニナッテカラマダ挨拶ヲシテ居ナイ際デアリマシタノデ、

同課長ノ腰掛ケテ居ル附近デ互ニ挨拶ヲ交シマシタ。
ソシテ尚一、二 何カ話シタ様ニ思ヒマス。
左様ナ間ニ局長室ニ何カ異變ラシイ音ガシタノデ
私ハ直ニ北ノドアーヲ開ケテ局長室ニ入リマスト

圓卓ノ処ニ局長ガ倒レテ居ラレルノヲ見マシタノデ、
犯人ハ何者カト室内ヲ見廻シマシタガ最早誰モ居リマセヌデシタ。

證人ガ局長室カラ軍事課長室ヘ移ル迄ニ一軍人ガ局長室ニ闖入シタノヲ認メナカッタノカ。
私ガ腰掛カラ立ッテ左ヘ向キ 前述ノ如ク軍事課長室ヘ行ク前、
即チ 腰掛カラ立上ル頃、私ノ背後ヲ右ヘ誰カ通ッテ行ク様ナ氣配ガシマシタガ、
局長室ヘハ常ニ課員ヤ事務官ガ參リマスノデ、
當時私ハ夫レ等ノ者ノ誰カガ局長ニ判ヲ貰フ爲カ何カデ來タノダラウト直感シテ
何等氣ニトメズニ
後ロヲ見ズニ前述ノ如ク軍事課長室ノ方へ行ッタノデアリマス。

其際軍事課長ガ來タモノトハ思ハナカッタカ。
唯課員カ事務官トノミ直感シタノデアリマス。

課員ヤ事務官ガ局長室ニ入ル時ハドアーヲノックスルカ 或ハ聲ヲ掛ケテ入室スルノデハナイノカ。
珍シイ來客ナラバ ノック スルカ又ハ聲ヲ掛ケマスガ、
課員ヤ事務官ハ無斷デ入室スル場合ガ多イ様デアリマス。

局長室カラ軍事課長室ニ通ズル南ノドアーハ平常使用シナイノカ。
平常使用シナイ譯デハアリマセヌガ、私ハ多ク北ノドアーヲ使用シテ居リマシタノデ
當日モ北ノドアーカラ軍事課長室ニ行ッタノデアリマス。

證人ヤ新見大佐ガ局長室ニ入ッタノハ七時頃カ
私ノ部屋ヘ新見大佐ガ來テカラ局長室ヘ行ク迄ハ五分位經ッテ居ルカト思ヒマスガ、
元來同大佐ガ私ノ室ヘ來タ時ノ時間ガ確實デハアリマセヌカラ、
局長室ヘ行ッタ時間ガ何時頃カト云フ事ハ明カニハ申述ベラレマセヌ。

證人等ガ局長室ニ入室後證人ガ同室ヲ立ッテ隣ノ課長室ヘ行ク迄ニハドノ位時間ガアッタカ。
五分以内ト思ヒマス。

相澤ガ豫審ニ於テ次ノ如ク述ベテ居ルガ如何。
被告人ガ前述スル処ニ依レバ、軍務局長室ニ於テ永田局長以外ニ二人ノ軍人ヲ認メタトノ事デアルガ、
室内ノ何レノ地點カラ之ヲ認メタルヤ。
私ガ局長室ニハイルヤ直グニ、室ノ眞中邊ニ立テテ在ッタ薄布張ノ衝立ノ布ヲ通シテ、
局長ト之ニ面シテ机ノ左方部ニ腰掛ケテ居ル二人ノ軍人ヲ認メマシタ。

被告人ノ前述スル処ニ依レバ、永田局長ガ被告人ノ刃ヲ遁レル爲 他ノ二人ノ軍人ノ処ニ行ッテ
三人一緒ニナッタ様ニ思ッタトノ事デアルガ、此點ニ附テノ認識ハ誤リナキヤ。
確カニ永田ガ二人ノ処ニ逃ゲテ、机ノ左側デ三人一緒ニナッタ様ニ記憶シテ居リマス。

被告人ガ局長ノ机ノ右側ニ行ッタ頃ニ、他ノ二人ノ軍人ハ尚元ノ席ニ居タト記憶シテ居ルカ。
居タ様ニ思ヒマス。
更ニ前述ノ如ク机ノ左側デ局長ト三人一緒ニナッタ様ニ思ヒマスガ、
其ノ後二人ノ軍人ハ如何ニナッタカ覺ヘマセヌ。
御讀聽ケノ内、
最初ノ相澤ガ入室當時局長ニ面シ二軍人ガ腰掛ケテ居ルノヲ認メタ
ト 云フノハ事實カモ知レマセヌガ、
其他ノ机ノ右側デ尚 二軍人ヲ認メタト思フト云フ點、

局長ト三人一緒ニナッタト思フト云フ點ハ相澤ノ錯覺デアルト思ヒマス。

相澤ガ局長室ニ行ッタ當時 局長以外二軍人ノ居ルノヲ認メ、
證人ガ軍事課長ヲ呼ビニ行ク爲局長室ヲ去ッタトシテモ、其ノ途中ニ於テ相澤ト行キ合ヒサウナモノト思フガ如何。
其點ハ前述シマシタ如ク、私ガ腰掛ヲ立ツ瞬間、誰カガ背後ヲ通ッタ氣配ガスルト思ッタノガ、
後カラ考ヘマスト相澤デアッタノデアリマシテ、
當時ハ斯様ナ變事ガ起キル事ハ夢ニモ思ヒマセヌデシタカラ、
當時ハ前述ノ如ク課員カ事務官ガ來タモノ位ニ直感シテ
其ノ方向ヲ見ナカッタ様ナ次第デアリマス。

夫レ故ニ或瞬時ハ相澤ト同室ニ居タノニ拘ラズ、顔ヲ見ズシテ 即チ同人ノ入室ヲ知ラズシテ
私ガ課長室ヘ移ッタ譯デアリマス。

被告人相澤ガ豫審ニ於テ 永田局長ヲ殺害後 同室ヲ出テ廊下ヲ西ニ行ク際、
隣リノ部屋附近デ相澤相澤ト云ッテ居ルノヲ聽イタガ、夫レハ山田兵務課長ノ聲ダトノ
趣旨ヲ述ベテ居ルガ、當時證人ハ相澤相澤ト發言シタコトアリヤ。
左様ナ事ハ斷ジテ云った事ハアリマセヌ。
私ハ軍事課ノ課員デアッタト思ヒマスガ、某者ガ局長室内在ッタ在ッタ軍帽ヲ取リ上ゲテ
裏ニ相澤ト書イテアルト云ッタノデ、初メテ犯人ハ相澤デアル事ヲ知ッタノデアリマシテ、
其時ハ既ニ澤山ノ人ガ局長室ヘ來タ時デアリマシテ、
私ヤ軍事課長ガ兇變ヲ知ッテカラ大分時間ガ經ッテカラデアリマス。

橋本軍事課長ハ檢察官ノ取調ベニ對シテ供述シテ居ル処ハ次ノ如クデアルガ如何。
事件ガ起ル前ニ山田大佐ハ再ビ貴官ヲ迎ヘニ來ナカッタカ。
別書ノ通リ 直ニ局長室ニ行カナカッタノデアリマスガ、
山田大佐ガ再ビ私ヲ呼ビニ来タトハ思ヒマセヌ。

山田大佐ハ徴募課長ト挨拶ヲシナカッタカ。
當時徴募課長ハ入口ヲ背ニシテ居リマシタガ、山田大佐ニ挨拶シタカ能ク覺ヘマセヌガ、
多分挨拶シナカッタノデハナイカト思ヒマス。

私ガ軍事課長室ニ入リ徴募課長ト話ヲシタノハ事實デアリマス。

森田大佐ガ檢察官ノ取調ベニ對シテ次ノ如ク述ベテ居ルガ之ニ對シテ意見ガアルカ。
此時豫審官ハ檢察官ノ森田範正ニ對スル聽取書ヲ讀聽ケタリ。
私ガ前述シタ通リデ、軍事課長室ニ於テ徴募課長ト話シタ事ハ間違ヒアリマセヌ。
唯話ヲシタ位置ニ附テハ徴募課長モ席ヲ立ッテ居タ様ニ思ヒマスカラ
軍事課長ノ机ノ前ダト明言出來マセヌ。

兇變ヲ知ッテ如何ナル處置ヲシタカ。
兇變ヲ知ッテ私ハ同室ニ於テ大聲デ大變ナ事ガ起キタト叫ビ、
人ヲ呼ビマシタ処、
漸次人ガ來マシタノデ、早ク医者ヲ呼ベト命ジ、
次デ犯人逮捕ノ爲 自室ニ戻ッテ憲兵ニ電話ヲ掛ケタ後、

亦 局長室ニ行キマシタラ既ニ軍医等ガ來テ居リマシタ。

證人ハ局長室ニ於テ新見大佐ガ負傷シテ居ル事ヲ知ラザリシヤ。
局長室ニ於テ新見大佐ガ負傷シテ居ルノヲ見マセヌデシタ。
私ガ軍事課長室カラ局長室ニ戻ッタ時ニハ最早局長ガ倒レテ居ル以外ニ、
誰モ居ラナカッタ様ニ思ヒマス。
・・・昭和十年八月二十九日

現代史資料23
国家主義運動3


軍務局長室 (3) 新見英夫大佐 「 抜刀を大上段に構へ局長と向ひ合っていた 」

2018年05月14日 09時08分27秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

證人訊問調書
東京憲兵隊隊長  陸軍憲兵大佐  新見英夫
證人ハ昭和十年八月十二日午前ニ陸軍省内軍務局長室ニ永田鐡山少將ヲ訪ネタ事ガアルカ。
訪ねました

證人ガ軍務局長ヲ訪ネタノハ何時頃カ。
十二日午前八時三十分頃、憲兵司令官ニ對シ私ノ所管事務ニ附テ報告ヲ終リ、
総務部長、警務部長ト協議ノ上 軍務局長ニ報告ノ必要ヲ認メテ陸軍省ニ到リ、
最初ニ兵務課長ヲ訪ネ
軍務局長ニ報告スルカラ兵務課長ト軍事課長ト二人立會ッテ聽イテ貰ヒタイ

ト 述ベテ兵務課長ト共ニ軍務局長室ニ到ル途中、軍事課長室ニ立寄リ一寸挨拶ヲシテ
兵務課長ノ後カラ續イテ軍務局長室ニ行キマシタカラ時間ハ午前九時半頃カト思ヒマス。

局長室ニ於テハ如何ナル位置ニ於テ永田局長ト對談シタカ。
私ガ入室シマスト兵務課長ハ室内ノ衝立ノ処ニ立ッテ私ノ來ルノヲ待ッテ居リマシタ。
私ハ局長ニ對シ 永ラク御無沙汰ヲシテ申譯アリマセヌ、
本日ハ久シ振リニ報告ニ御伺ヒ致シマシタ
ト云ヒマシタラ、
局長ハ
君ノ仕事ハ忙シカラウ、コンナニ怪文書ガ出テハ ヤリ切レナイト云ハレマシタノデ、
私ハ困ッテ居リマスト 答ヘマスト、
兵務課長ハ アノ
怪文書ハ法律ヲ改正シナケレバ根絶出來ナイト云ヒマスト、
局長モ
其通リダト云ハレ、
其前ニ兵務課長ガ
同室内ノ入口ニ近イ丸卓子ノ処デ私ノ報告ヲ聽キマセウと 局長ニ云ハレマシタガ、
局長ハ 
其処ハイカヌ、此処デト 云ッテ 局長私用ノ事務机ノ処デ對談スル事ニナリ、
局長ハ常用ノ椅子ニ腰掛ケ机ヲ隔テテ局長ニ面シ、一番右ノ椅子ニ私ガ腰掛ケ、
中央ノ椅子ハ軍事課長ガ腰掛ケル豫定デ空ケテ、一番左ニ兵務課長ガ腰掛ケテ話ヲ致シマシタ。

對談中一軍人ガ抜刀シテ局長室ニ闖入シ來タノヲ認メタノハ如何ナル場合ナリシヤ。
報告ニ入ラントスルニ先立ッテ軍事課長ガ来室シナイノデ、
同課長ヲ呼ビニ出テ行きマシタノデ、

私ハ報告準備ノ爲 持參シテ來タ怪文書包ヲ解キ、
文書ヲ机上ニ置キ、風呂敷ヲ袴ノ物入レニ入レ、

机上ニ置イタ帽子ト先客ノ湯呑ヲ
同室ヨリ軍事課長室ニ通ズルドアノ傍ノ鐡製ノ書類箱ノ上ニ移シテ

机ニ戻ラントシテ振リ向イタ際、
色ノ黒イ、顔ノ長イ、背ノ高イ歩兵ノ襟章ヲ附ケタ軍服ノ一軍人ガ
抜刀ヲ大上段ニ構ヘテ局長ト腰掛ケノ処デ向ヒ合ッテ、
局長ハ確カ手ヲ上ゲテ防グ形ヲシテ居リマシタノヲ見マシタノガ、犯人ヲ見タ初メデアリマス。

其際 兵務課長ハ在室セザリシ事ハ確カ。
私ガ犯人ヲ見ル前ニ兵務課長ハ室ヲ出テ行ッタ事ハ間違ヒアリマセヌ。

證人ハ犯人ノ闖入ヲ知ッテ如何ナル處置ヲシタカ。
私ハ前述ノ如ク犯人ノ闖ハイヲ知ッテ直ニ之ヲ取押フベク、机ノ左側迄行キマスト、
局長ハ私ノ方ヘ危難ヲ避ケテ來リ、犯人モ局長ノ後カラ迫ッテ來マシタノデ、
私ハ犯人ノ腰部ニ抱附キ犯人ガ局長ヲ背後ヨリ斬ラントスルノヲ抑止シマシタ。
其際振払ハレテ倒レマシタノデ、更ニ起上ッテ犯人ヲ追ハントシマシタ処、
起キル際 左手ヲ切ラレテ居ル事ヲ知リ、直ニ起キテ追跡ガ出来マセヌデシタ。
尚 私ハ犯人カラ振払ハレルヤ犯人ハ局長ヲ前述ノドアノ処ニ追詰メタノヲ見マシタガ、
其後ノ狀況ニ附テハ記憶シテ居リマセヌ。
私ハ倒レテカラ間モナク起上ッテ犯人ヲ見マシタガ、最早室内ニ認メマセヌノデ、
直グニ隣ノ軍事課長ニ事故ヲ知ラセル考デ廊下ニ出マシタガ、
入口ヲ間違ヘテ事務室ニ行キ、雇員ニ對シ軍務局長ノ部屋ガ大變ダカラ早ク行ケト云ヒ、
更ニ課員室ニ行ッテ變事ヲ傳ヘ、廊下ニ出テ通リ掛カリノ人ニ早ク憲兵ヲ呼ンデ呉レト云ヒ置ヒテ、
自分ハ出血ヲ止メル爲ニ医務課事務室附近ニ行ッタ時ニ軍医ニ會ヒ、
同課ニ聯レラレテ手當ヲ受ケマシタガ、其後ノ事ハヨク覺エマセヌ。
・・・昭和十年八月二十一日

第二回聴取書
證人ハ前回犯人ガ局長室ニ闖入シタノヲ認メタノハ、
同室ヨリ軍事課長室ニ通ズル南ノ入口ノ傍ノ鐡製書類箱ノ処ヨリ自己ノ椅子ニ戻ラントシテ振リ向イタ際、
初メテ氣附イタト述ベテオルが此ノ點間違ヒナイカ。
前回作用ニ供述シマシタガ、
其後ヨク當時ノ狀況ヲ思ヒマシタ処、

間違ッテ居リマシタカラ茲ニ訂正ヲ致シマス。
先ヅ最初、局長室ニ行ッテカラ局長ノ机ノ前ノ椅子ニ腰掛ケマシタ際ハ、
前回述ベタ如ク私ガ局長ニ向ッテ一番右ニ、一番左ニ兵務課長ガ腰掛ケ、中ノ椅子ハ空ケテアリマシタ。
夫レカラ私ハ報告準備ノ爲風呂敷ヲ解イテ怪文書ヲ机上ニ置キ、
風呂敷ヲ袴ノ物入レニ入レテ自分ノ帽子ト机上ニ在ッタ湯呑ヲ鐡製ノ書類箱ノ上ニ移シテ、
今度腰掛ケル時ハ軍事課長ガ來室スル際ハ右書類箱ノ傍ノドアーカラ來ルモノト思ヒマシタノデ、
一番近イ右ノ椅子ニ腰掛ケテ貰フノガ都合ヨイト思ッテ、私ハ椅子ヲ代ヘテ中ノ椅子ニ移リ、
兵務課長ト隣合セニ腰掛ケマシタ処、軍事課長ガ一向來ナイノデ、
兵務課長ガ呼ンデ來ルト云ッテ椅子ヲ立ッテ後方、即チ初メニ入ッテ來タ方向ニ出テ行キマシタ。
其処デ私ハ怪文書以外ニ上衣ノ内物入ニ入レテ居ッタ二、三ノ書類ヲ出シテ
報告ノ順序要領等ヲ考ヘ乍ラ 見ントシマシタ刹那、
何カ音ガシタ様ニ感ジテ顔ヲ上ゲマシタラ、
局長ガ自己ノ廻転椅子カラ東南約二、散歩ノ処デ西ニ向ッテ手ヲ上ゲテ防グ形ヲシテ立ッテ居ラレ、
夫レニ向ッテ前回述ベタ如キ容貌服装ノ一軍人ガ、
局長ト一、二歩ヲ隔テテ軍刀ヲ振上ゲテ居ルノヲ見マシタノガ、初メテ犯人ヲ見タ時デアリマス。

其ノ際ノ處置ニ附テハ證人ノ前回ノ供述ト相違ノ點ハナイカ。
大體相違アリマセヌガ、一、二補充シマスト、
私ハ犯人ノ闖入シテ居ルノヲ知ルヤ 直ニ無意識ニ
コラッ ト叫ビナガラ、
手ニシタ書類ヲ元ノ物入ニ納メツツ、机ノ左側ヘ進ミマスト、
局長ハ私ノ方向ニ向ッテ遁レ來リ、犯人ハ之ヲ追ヒ迫ッテ來マシタ。
東ノ窓邊リニ局長ヲ追詰メントスルヲ、私ハ犯人ノ左背後カラ犯人ノ腰部ニ抱附キ抑止シマシタガ、
犯人ハ非常ナ勢デ私ヲ振払ヒマシタ爲、私ハ机ノ左側ニ頭ヲ北ノ方ニ向ケテ伏セ倒レマシタ。
其処デ私ハ起上ラントシマシタガ、左手ニ痛ミヲ感ジ
アア 斬ラレタナ ト 思ッテ左方ヲ見マスルト、
軍事課長室ニ通ズルドアーノ方ニ向ッテ局長ガ倒レタ様ニ見受ケマシタカラ、
局長ハ同所デ殺サレタ様ニ思ッテ居リマシタ。
夫レカラ後ノ事ハ前回申述ベタ通リデアリマス。

兵務課長ガ軍事課長ヲ呼ビニ行ク爲椅子ヲ立上ッテカラ、證人ガ犯人ノ闖入ヲ認メタ迄ノ間ノ時間ハドノ位ト推定シ得ルヤ。
其間ノ時間ニ附テハドレ丈ト云フ事ハ確實ニ云ヘマセヌガ、
兵務課長ガ軍事課長ヲ呼ンデ參リマスト云ッテ椅子ヲ離レテカラ間モナイ事デアリマシテ、
私ガ犯人ノ闖入ヲ知ッテ机ノ左側ニ行ク際ニ、兵務課長ガ机ノ附近ニ居ナカッタノ事ハ確デアリマス。

證人ハ犯人カラ振払ハレタ際 斬ラレタ事ヲ認識シタカ。
起キ上ラントスル際、左腕ニ痛ミヲ感ジタノデ之ハ犯人カラ斬ラレタナト知リマシタ。

犯人ガ相澤三郎デアル事ヲ何時承知シタカ。
負傷ノ翌日デアッタト思ヒマス。

何カ他ニ申述ベル事ハナイカ。
私ハ彼ノ場合、憲兵トシテ其ノ威信ヲ遺憾ナク發揮スベキ絶好ノ機會デアッタト思ヒマスルニ拘ラズ、
何ノ周章狼狽注意ノ周密ヲ欠イタ爲ニ、局長閣下ヲ死ニ至ラシメ、
又 前途有爲ノ相澤中佐ヲシテ犯人ノ汚名ヲ蒙ラシメタト云フ事ハ
軍人、殊ニ憲兵隊長タルノ職責ニ鑑ミ 誠ニ恐縮且慚愧ニ堪ヘザル処デアリマシテ、
深ク其ノ責任ヲ感ジ、局長閣下ノ遺族ニ對シテハ早速妻ヲシテ御斷リニ參ラシメ、
相澤中佐ニ對シテハ澁谷ノ刑務所長ヲ通ジテ其意ヲ傳ヘテ貰ヒマシタ。
又 私ノ傷害ニ附テハ相澤ガ當初ヨリ私ニ對シテハ私情ハ元ヨリ公務上ニ附テモ
含ム処ガアッテヤッタ行爲トハ思ヒマセヌ。
・・・昭和十年八月二十三日

現代史資料23
国家主義運動3


軍務局長室 (4) 橋本群大佐 「 扉を一寸開けて局長室を覗くと、軍刀の閃きが見えた 」

2018年05月13日 08時59分45秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

聽取書
陸軍省軍務局 軍事課長
陸軍砲兵大佐  橋本群
本月十二日永田軍務局長ガ遭難シタ際ノ狀況ヲ申シマスト、
當日 午前九時三十分位頃 新任ノ徴募課長森田大佐ガ着任ノ挨拶ニ來マシタノデ暫ク話シマシタガ、
森田大佐ハ局長ニ申告スルノデアリマスガ、當時局長ニハ來客ガアッタノデ、
其爲 二、三分間位私ト話シテ居リマシタ。
客ガ歸ッタノデ森田大佐ハ局長ニ申告ヲ爲シ、又私ノ室ニ來マシテ話シテ居リマシタ。
二、三分スルト新見憲兵大佐ト兵務課長山田大佐ガ來テ、新見大佐ハ私ノ室ノ前ヲ素通リシ、
山田大佐ハ私ノ室ニ入リ、私ニ今カラ憲兵隊長ノ報告ガアルカラ一緒ニ聽イテ呉レト
歩キナガラ私ニ傳ヘテ局長室トノ間ノ北ノ方ノ入口カラ局長室ニ入リマシタ。
大體新見大佐ト山田大佐ハ局長室ノ入口ノ邊デ一緒ニナッテ局長ノ前ニ行ッタ様デアリマス。
私ハ山田大佐カラ右ノ様ニ云ハレマシタガ、尚引續キ徴募課長ト話シテ居リマシタ。
夫レハ憲兵ノ報告ハ私ノ主任事項デハアリマセヌカラ、
少シ位遅レテモ差支ナイカラ徴募課長ト話ヲ續ケテ居タノデアリマス。
山田大佐ガ局長室ニ入ッテカラ二、三分スルト何ダカ荒イ様ナ音ガ聽ヘマシタ。
夫レデ私ハ憲兵隊長ガ局長カラ叱ラレテ居ルノデハナイカトモ感ジマシタ。
引續キ物音ヤ足音ガシテ何ダカ取組合ヒデモシテ居ルノデハナイカト思ハレマシタカラ、
局長室トノ間ノ南ノ方ノ扉ヲ一寸開ケテ局長室ヲ覗キマシタ処、軍刀ノ閃キガ見エマシタ。
私ハ何心ナク扉ヲ閉ヂ 再ビ直チニ扉ヲ開ケテ一、二歩局長室ニ入ルト、人ガ室カラ出テ行ク氣配ガシマシタ。
見ヘナカッタノデ引キ返ヘシテ前ノ扉ノ所カラ私ノ室ヲ通シテ廊下ノ方ヲ見ルト、
背ノ高イ軍人ガ軍刀ヲ鞘ニ納メル様ナ姿勢デ西ノ方ニ嚮ッテ行キマシタ。
夫レニ續イテ能ク覺ヘマセヌガ、五、六間後カラ新見大佐ガ同方嚮ニ行キマシタカラ
其軍人ガ暴行シテ新見大佐ガ追跡しタモノト思ひマシタ。
當時ハ未ダ局長ガ斬ラレテ居ルコトニハ氣ガ附キマセヌデシタ。
夫レデ直ニ引返ヘシテ局長室ニ進ミマスト、円卓ノ南東ニ局長ガ血ニ染マッテ倒レテ居リマシタカラ、
其狀況ヲ見タ上 直ニ自分ノ室ニ引返ヘシテ医師ヲ呼ブ爲医事課デ在ッタカ、
衛生課デ在ッタカ何レカノ課長ニ電話ヲ掛ケマシタガ、課長不在デ電話ガ通ジマセズ、
其内ニ軍事課員其他ノ者ガ來テ、医師ヲ呼ベト云ッテ居リマシタカラ
私ハ電話ヲ掛ケルノヲ止メテ再ビ局長室ニ行ッテ見マシタガ、
其時ニハ既ニ課員属官等ガ來テ居リマシタ。
課員属官等ガ駈ケ附ケテ來タノハ山田大佐ガ人ヲ呼ンダカラダト思ヒマス。
又 新見大佐モ歩キナガラ聲ヲ出シテ居ル様ニ思ヒマス。
山田大佐ガ人ヲ呼ンダノハ能ク記憶シマセヌガ局長室ノ入口邊デアッテ、
新見大佐ガ出テ行ク前後デアリマシタ。
尚 之ハ後ニ武藤中佐カラ聽イタ事デアリマスガ、新見大佐ガ課長室ノ前ヲ通ル時、
局長室ガ大變ダト云フ様ナ意味ノ事ヲ云ッテ行ッタソウデアリマスカラ、
其様ナ關係デ課員ヤ属官等ガ驅ケツケタモノト思ヒマス。

私ハ犯人ノ逮捕ニ就テハ別ニ處置シマセヌデシタ。
夫レハ新見大佐ガ追跡シタモノト思ッテ居リマシタカラデアリマス。
尚 課員等ガ局長室ニ來タ時 別室デ帽子ヲ發見シ、裏面ニ相澤ト書イテアッタノデ
犯人ハ、相澤ト云フコトガ判ッタノデアリマス。

事件ガ起コル前ニ山田大佐ハ再ビ貴官ヲ迎ヘニ來ナカッタカ。
別書ノ通リ 直ニ局長室ニ行カナカッタノデアリマスガ、山田大佐ガ再ビ私ヲ呼ビニ來タトハ思ヒマセヌ。

山田大佐ハ徴募課長ト挨拶ヲシナカッタカ。
當時徴募課長ハ入口ヲ背ニシテ居リマシタガ、山田大佐ニ挨拶シタカ能ク覺ヘマセヌガ、
多分挨拶シナカッタノデハナイカト思ヒマス。

本件犯行の推定時刻は。
徴募課長ガ來タ時刻、同課長ト話シテ居タ時間ト
事件後最初私ガ時計ヲ見タ時の時刻ガ午前九時五十分デ在ッタ點カラ考ヘマスト、
犯行ハ同九時四十分頃カト思ヒマス。
・・・昭和十年八月十四日

第二回聽取書
前回ノ陳述ノ際、自分ガ森田大佐ト話シテ居ッタ時 山田大佐ガ自分ノ室ニ入リ來り、
今カラ憲兵隊長ノ報告ガアルカラ一緒ニ聽イテ呉レ
ト 自分ニ傳ヘテ局長室トノ間ノ北ノ方ノ入口カラ山田大佐ガ局長室ニ這入リ、
新見大佐ハ自分ノ室ノ前ヲ素通リシテ局長室ニ行キタル様ニ述ベマシタガ、
其際 山田大佐ハ廊下カラ自分ノ室ニ這入ッテ來タノカ、或ハ一時局長室ニ入リ、
同室ト自分ノ室トノ間ノ北ノ入口カラ自分ノ室ニ這入ッタノカ、只今デハ十分記憶ガアリマセン。
若シ山田大佐ガ一時局長室ニ入リ、北ノ入口カラ自分ノ室ニ來テ前述ノ
一緒ニ報告ヲ聽イテ呉レ
ト 云ウタモノトスレバ、
其際新見大佐モ其入口カラ山田大佐ト一緒ニ一寸自分ノ室ニ這入リ 顔ヲ見合ハセタカモ知レマセヌガ、
山田大佐モ新見大佐モ自分ニ接近シタ様ニハ思ヒマセヌカラ、新見大佐ト挨拶シタトハ思ヒマセヌ。
顔ヲ合ハセタトスレバ一寸會釋シタ程ダト思ヒマス。

私ガ局長室ノ物音ヲ聽キ、南ノ入口ニ行キ、
扉ヲ開ケテ一寸内部ヲ見テ刀ノ閃キヲ見テ一瞬間何心ナク扉ヲ閉ジ、
更ニ直ニ扉ヲ開けタルコトハ前回ノ陳述ノ通リデスガ、
此間其入口ノ扉ニ物ガ、ブツカル様ナ音ヤ其入口ヲ開カントスル様ナ物音ハ聽きマセンデシタ。
刀ノ閃キガシタノハ何レノ邊デアッタカ、咄嗟ノ場合デアリマシテ能ク記憶しマセヌガ、
二ツ竝ンデ居ル衝立ノ東ノ端附近デハナカッタカト思ヒマス。
刀ノ閃キヲ見タ瞬間、局長ノ姿モ犯人ノ姿モ其他ノ人ノ姿モ、自分ノ目ニハ這入ッテ居リマセン。
只、刀ノ閃キヲ見タ丈デアリマス。

自分ガ入口ノ扉ヲ開キ刀ノ閃キヲ見テ一瞬間扉ヲ閉ヂ、
更ニ扉ヲ開キテ 一 二歩局長室ニ入リタル時ハ 室内ニハ何人ノ姿モ認メズ、
只、誰カ人ガ出テ行ク氣配ガシタノデ直ニ 一 二歩引返シ、
自分ノ室ヲ通シテ廊下ノ方ヲ見タノデアリマスカラ、
當時ノ局長室ノ狀況ハ何等印象ニ殘ッテ居リマセヌ。
局長室ヨリ出テ行ッタ人ハ誰デアルカト云フ様ナコトモ考エマセンデシタ。

自分ガ自分ノ室ヲ通シテ廊下ヲ課員室ノ方ヘ行ク相澤中佐 ( 只今ヨリ考エテ相澤中佐ト思フ )
及 新見大佐ノ姿ヲ認メタ際、
自分ノ室ニ山田大佐ヤ森田大佐ガ居ッタカ、ドウカハ能ク記憶ガアリマセンガ、
或ハ自分ノ室ニ居ッタノデハナイカト思ヒマス。
若シ兩大佐等ガ私ノ室ニ居ラズ、局長室ニ入ッテ居ッタトスレバ、
兩大佐ハ尠ナクトモ新見大佐ノ姿ヲ局長室ノ入口附近デ認メタハズデリマス。

自分ガ局長室ニ行クノガ遅レタノデ山田大佐ガ私ヲ呼ブ爲、
再ビ自分ノ自室ニ來タト云フコトニツイテハ 自分ニハ只今十分記憶ガアリマセンガ、
山田大佐ガ確カニ私ヲ迎ヘニ行ッテ私ノ部屋ニ入ッタニ違ヒナイト申サレマスナラバ、
私ハ今日ニ於テ既ニ記憶モ薄弱ニナッテ居リマスカラ、或ハソウカモ知レマセヌ。
尤モ前回ノ陳述ハ事件直後デ記憶モ十分デアッタ際デアリマシタカラ、
大體自分ガ前回陳述シタコトハ間違イナイト思ウテ居リマス。

自分ガ初メテ局長ノ倒レテ居ル姿ヲ見タ時、局長ノ頭部ガ床ニクッ附イテ居ッタカ、
或ハ 頭部又ハ上半身ガ椅子等ニ凭リ掛ッテ居ッタカハ能ク覺エアリマセヌ。

本然七月十九日 相澤中佐ガ永田局長ニ面會シタコトハ、
其数日後局長カラ聽キマシタガ、

如何ナル機會ニ何処デ聽イタカ記憶ガアリマセン。
何ンデモ 其際ハ私一人デハナク他ノ人モ居ッテ、
主トシテ其人ニ對シ局長ガ話シタノヲ私モ傍カラ聽イタノデハナイカト思ヒマス。
相澤中佐トノ會談ノ内容ハ、
相澤中佐ガエライ元氣デ遣ッテ來タガ
諄々ト説キ聽カセテ遣ッタラ感服シテ歸ッタ
ト 言ハレタ様ニ思ヒマス。
又 相澤中佐ガ局長ニ辭職シタラ如何カト云フ様ナ事ヲ云ウタト、
局長モ話シテ居ッタ様ニモ思ヒマス。

・・・昭和十年九月二十五日

現代史資料23
国家主義運動3


軍務局長室 (5) 森田範正大佐 「 局長室で椅子を動かす様な音がした 」

2018年05月12日 08時45分50秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

聽取書
陸軍省 軍務局 徴募課長
陸軍歩兵大佐  森田範正
本月十二日 永田軍務局長ガ遭難セラレタ時ノ前後ノ狀況ヲ申シマスト、
當日午前九時三十分頃、新任挨拶ノ爲軍事課長室ニ行キ 同課長ト挨拶シテ、
次デ局長ニ申告スル積リデアリマシタ。
恰度來客ガアリマシタノデ少シノ間、軍事課長ト話シテ居リマシタ。
間モ無ク來客ガ去ラレタノデ局長ニ申告シ、四、五分間執務上訓示ヲ受ケタ後、
軍事課長ノ処ニ歸ッテ同課長ト二、三分間モ話シテ居ルト、
同課長ノ室ニ誰カガ一寸入ッテ軍事課長ニ對シ、
局長ノ室ニ一緒ニ來テ呉レ
ト 云フ様ナ意味ノ事ヲ申シ置イテ局長室ニ行カレタ様デアリマシタ。
當時私ハ軍事課長ト相對シテ入口ヲ背ニシテ腰ヲ掛ケテ居リマシタノデ、
其入ッテ來タ人ノ顔ハ見マセヌデシタガ、
山田大佐ハ豫テ知合デアリマシテ特長ノアル聲デアリマスカラ、
山田大佐デハナイカト云フ位ノ感ジハシテ居リマシタガ、
確カニ山田大佐ダト思フタ譯デハアリマセヌ。
其人ガ局長室ニ入ッテカラ、
私ハ軍事課長ハ局長室ニ行かネバナラヌコトガ判ッテ居リマシタカラ

直ニ返ル考エデハアリマシタガ、
話ノ續キモアリマシタノデ 尚 一、二分話ヲシテイル内、

局長室デ椅子ヲ動カス様ナ音、
次デ机ヲ動カス様ナ音ヤ机カ何カガ倒レル様ナ音ヲ聽キマシタノデ、

之ハ變ダト思ヒマシタ処、
軍事課長モ同様ニ感ジタラシク殆ド同時位ニ立上ッタト思ヒマス。

ソレデ私ハ廊下ニ近イ方ノ入口ノ扉ヲ開イテ局長室ヲ覗ヒタ処、
山田大佐ガ居ルノガ一寸眼ニ附キマシタ。

夫レニ續イタ瞬間、
廊下ヲ憲兵將校ラシイ者ガ、左ノ腕ノ服ガ破レ血ニ染マッテ課員室ノ方ニ行クノヲ認メマシタ。
私ハ何心ナク一寸其位置ニ立止ッテ居ッタ処、
軍事課員武藤中佐、池田中佐ガ來テ同人等ト相前後シテ局長室ニ入リマシタ処、
局長ハ円卓ノ嚮側ニ血ニ染マッテ倒レテ居リマシタ。
私ガ局長室ニ入ッタ時ニハ軍事課長、兵務課長、池田、武藤中佐ガ居ッタ位デ、
私ハ同室ニハ早ク入ッタ方デアリマス。
橋本軍事課長ガ何処カラ局長室ニ入ッタカ、私ヨリ先デ在ッタカ後デ在ッタカ、能ク覺ヘマセヌ。
尚私ガ負傷シタ憲兵ラシイ者ヲ認メタ際ニハ、其憲兵ガ犯人デナイカト云フ様ナ感ジヲ致シマシタ。

兇行ノ直前 山田大佐ハ橋本大佐ガ直グ來ナイノデ迎ヘニ來ナカッタカ。
來タ様ニハ思ひマセヌ。

兇行直前貴官ハ山田大佐ト挨拶ヲスルトカ話ヲスルトカシタカ。
兇行前ハ山田大佐ニ面接シテ居リマセヌカラ、勿論挨拶モ話モシテ居リマセヌ。
・・・昭和十年八月十五日


第二回聴取書
私ハ去ル十五日ノ取調ニ於テ、私ト橋本大佐ガ話シ中、
局長室ニ於ケル方ノ入口ノ扉ヲ開イテ軍務局長室ヲ覗ヒタ処、
山田大佐ガ居ルノガ一寸眼ニ附イタト申シマシタ。
又兇行直前ニ山田大佐ニハ面接シナイ様ニ申シマシタガ、
十五日ノ午後 山田大佐ガ私ノ処ニ來テ同人ガ云フノニハ、
兇行ノ際 山田大佐ハ橋本大佐ヲ呼ビニ來テ軍事課長室ニ入ッテ來タ際、
私ガ前ニ申シタ入口ノ方ニ行クノト出會ッテ私ト挨拶シタト申サレマスノデ、
私モ能ク考ヘテ見ルト或ハ軍事課長室ト局長室トノ間ノ廊下ニ近イ方ノ入口(前述ノ入口) ノ方嚮ニ行ク際、
入口ノ近クデ或ハ山田大佐ニ會ッタノデハナイカト思ヒマス。
併シ當時ノ私ト局長室ニ何カ異變ガ在ッタ様ニ感ジテ立ッテ行ッタノデアリマスカラ、
山田大佐ト挨拶スル餘裕ハ無イ筈デアリマスカラ、挨拶ハセズニ黙礼シタ程度デアッタト思ヒマス。
夫レカラ直グ私ハ局長室ニ入ッタノデアリマスガ、
山田大佐ト私ト何レガ先ニ局長室ニ入ッタカ能ク覺ヘマセヌ。

・・・昭和十年八月十七日

現代史資料23
国家主義運動3


軍務局長室 (6) 池田純久中佐 「 局長室が だいじ(大事) だ 」

2018年05月11日 08時31分10秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

聽取書
陸軍省軍務局 軍事課 課員
陸軍歩兵中佐  池田純久
本月十二日 永田軍務局長ガ遭難シタ時ノ狀況ヲ申上ゲマスト、
同日午前九時四十分頃 私共ノ居リマス課員室ノ隣室カラ憲兵將校ガ來マシテ、
局長室ガ大變ダト云フ様ナ意味ノ事ヲ大聲デ云ヒマシタカラ、私ハ火事ダト直感シマシタガ、
ソノ將校ヲ能ク見ルト左腕ノ服ガ破レテ下ノ白いシャツガ赤ク染マッテ居リマシタ。
二、三歩 接近スルト夫レガ出血デアルコトガ判明シマシタカラ、
局長室ニ傷害事件ガ起ッタモノト思ヒ、局ノ各室ヲ通過シテ局長室ニ行キマシタ処
既ニ四、五名ガ血ニ染マッテ倒レテ居ル局長ノ周囲ニ立ッテ居リマシタ。
其内引續キ多勢參リマシタ。
私ハ局長室ニハ一分間モ居ラヌ位デ、
大臣ヤ次官ノ安否、新聞記事、犯人ノコトナドガ頭ニ浮カンダノデ、

直チニ自室ニ引返シ右ノ事柄ニ附 色々指圖シマシタ。
私ガ最初局長室ニ行ッタ際、兵務課長ヤ軍事課長ハ何処ニ居ラレタノカ記憶シマセヌ。
本日 金子伊八 属ヲ取調ベタ際、
同人ハ局長室、局長室ト云フ呼聲ヲ聽キ 直チニ外廊下ニ出タ処、
左方ニ身體ノ大キイ將校ガ出テ行クノヲ見受ケタ瞬間、
局長室ノ方カラ山田兵務課長ガ此方ダ、

此方ダト云ウテ居ルノヲ聽キ 直チニ局長室ニ行ッタサウデアリマス。
同人ハ局長室ニ駈附ケタ第一番ノ者ダサウデアリマス。

軍務局長ノ事務用机上ノ取片ハ誰ガシタノカ。
軍事課ノ庶務將校デハナイカト思ヒマス。
庶務將校ハ牧達夫大尉デアリマス。
牧大尉ガ取片附ケナイナイナラバ
花本敏彦大尉ガ取片附ケタモノデアラウト思ヒマス。

・・・昭和十年八月十四日

現代史資料23
国家主義運動3


軍務局長室 (7) 軍属 金子伊八 「 片倉衷少佐が帽子を持って居りました 」

2018年05月10日 06時48分11秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

聽取書
陸軍省軍務局
陸軍属  金子伊八
本月十二日 軍務局長遭難當時ノ狀況ヲ申シマスト、
同日午前九時四十分頃ト思ヒマスガ、
局長室ノ方ニ當ッテドツドツト云フ様ナ異様ナ物音ガスルト共ニ、

引續イテ局長室と云フ聲ガ聽エタノデ私ハ急イデ廊下ニ飛出シタ処、
左ノ方廊下ノ扉ノ附近ニ背ノ高イ佐官(帯革ノ赤キ) ガ出テ行クノヲ見マシタ。
其ノ時 山田大佐ガ局長室ノ前ノ廊下ニ居ッテ、
コッチダコッチダト申シマスカラ急イデ局長室ニ入リマシタラ、
円卓ノ嚮側ニ局長ガ上半身ヲ椅子ニ凭セテ倒レテ 其ノ椅子ハ円卓ニ支ヘラレテ居リマシタ。
私ガ局長室ニ入ッタ時ニハ山田大佐ノ外ニハ未ダ誰モ居ラナカッタ様ニ思ヒマス。
私ハ直グ仰嚮ケニ倒レテ居ル局長ノ左側カラ局長ノ上半身ヲ抱キ起シマシタ処、
別ニ處置ノ採リ様ガアリマセヌカラ暫ク其ノ儘 支ヘテ居リマシタ処、
軍医ガ來テ胸ノ釦ヲ脱シテ胸ノ附近ヲ見マシタカラ 私ハ下ニ寝サセマシタ。
夫レカラ間モナク私ハ自分ノ室ニ歸リマシタ。

其ノ後 私ガ課員室ノ階段ノ方ノ入口前ノ廊下ニ居ッタ時、
整備局ノ属官ガ来テ局長室ニ帽子ガアルカラ取ッテ來テ呉レト云ヒマシタガ、
私ハ直グ局長室ニ入レヌト思ッテ其ノ旨ヲ云ウテ斷リマシタ。
併シ私ハ果シテ帽子ガアルカ否カト思ウテ 局長室ニ行ッテ見マシタ処、
片倉衷少佐ガ帽子ヲ持ッテ居リマシタカラ、
同少佐ニ整備局ノ属官ガ帽子ヲ取リニ來マシタ
ト 云ヒマシタラ
同少佐ハ  「 之ハ遣レヌ 」  ト 申サレマシタ。



私ガ最初物音ヤ聲ヲ聽イタ時ノ位置ハ、課員室ノ隣ノ會議室デアリマス。
元來私ハ属官室ニ於テ執務スルノデアリマスガ 
豫算、積算ノ仕事ヲスル爲ニ雇員一名ト共ニ花本大尉ノ指揮ヲ受ケテ同室デ仕事ヲシテ居ッタノデアリマス。
花本大尉モ同室ニ居リマシタカラ兇變ノ際ハ同大尉モ私ニ續イテ飛出シタト思ヒマス。

血痕ノ狀況ハ局長室カラ出テ軍事課ノ前ノ廊下、監房ニ通ズル廊下及軍事課北側廊下 (階段上ノ所)
ニ落チテ居リマシタガ、之レ等ノ血痕ハ製本職工岡部ガ掃除シタカラ同人ガ能ク知ッテ居ル筈デアリマス。
・・・昭和十年八月十六日

現代史資料23
国家主義運動3 


大御心 「 陸軍に如此珍事ありしは 誠に遺憾なり 」

2018年05月09日 18時39分37秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

《昭和10年》
八月十二日
此日午前九時過、永田軍務局長、中佐相澤三郎の爲、局長室にて斬殺さる、
午後一時二十分 人事局課員 御用邸に三代、
右永田局長を中将に進級内奏を請ひしに因り 直に伝奏せし処、
陛下には、
「 陸軍に如此珍事ありしは 誠に遺憾なり。 更に詳しく聴取し上奏すべく 」
仰せられ、
尚ほ
「 此儘水泳に出て差閊なきや 」
と 御下問あらせらる。
之に對し繁は、誠に申訳なき出來事にして、今後特別の波瀾あるべしとは想はざるも、
充分注意すべき旨、奉答し、
且つ 御運動は御予定通り遊ばされ度旨御願ひせり。
眞に恐懼の次第なり。
 ・
本庄繁著 本庄日記 から


永田軍務局長刺殺事件

2018年05月08日 06時03分03秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


永田軍務局長刺殺事件
( 昭和十年八月十二日 )

事件發生前の諸情勢
所謂清軍、統制兩派 對 皇道派の對立は益々激化しつゝある如く見られて居たが
昭和九年二十日の所謂十一月廿日事件。
昭和十年四月二日、村中、磯部、片岡の三名に對する停職處分。
同年七月十六日、眞崎敎育總監更迭。
同年八月二日、村中、磯部の免官。
等の諸事件は、皇道派と目せらるゝ靑年將校を益々憤激せしむる結果となり、
村中、磯部の署名ある 『 肅軍に關する意見書 』 を始め、
「 十一月事件は皇道派抑壓の爲の捏造事件なり 」
「 眞崎敎育總監の更迭は統帥權を干犯したものなり 」
「 永田軍務局長等は朝飯會を通じて元老重臣と通謀し、之等妥協派の意嚮を迎へて八月人事異動を行ひたり 」
「 現首脳部は言論機關を黄白を以て買収せり 」
等の揣摩しま憶測を加へた怪文書が頻りに頒布せられ、
統制に全力を濺ぐ現首脳部に不満反感を抱く一部靑年將校方面に於て、
早晩何等かの形を以て首脳部排撃の意志表示がなされるに非ずやとの不穏なる空氣が漂ふに至つて居つた。

事件の發生
斯る情勢の裡に八月一日附の定期異動は、
問題の一根源と見られて居た秦第二師團長の待命を織込んで發表せられた。
八月十二日、突如 陸軍省軍務局長室に於て執務中の軍務局長永田鐵山少將に對し、
相澤三郎中佐が軍刀を以て襲ひ 之を刺殺するの一大不詳事件が突發した。

當時の新聞は次の如く報道した。
昭和十年八月十二日午後零時 陸軍省發表
軍務局長永田鐵山少將は軍務局長室に於て執務中、
本日午前九時四十分 某隊附某中佐のため軍刀を以て障害を受け危篤に陥る。
同中佐は憲兵隊に収容し目下取調中なり。

同日東朝夕刊
十二日午前十一時、小栗警視總監は安倍徳高、本間警務、矢野官房主事等各部長を總監室に招集、
重要協議を遂げた。
即ち警視廳としてはこの際思想團体の動向を厳重警戒する一方、
管下各署に對して待機命令を發するなど帝都治安の維持の萬全を期することゝなつた。

東朝、昭和十年八月十四日附夕刊
軍務局長永田中將に危害を加へたる犯人は陸軍歩兵中佐相澤三郎にして、
第一師團軍法會議の豫審に附せらるゝ事となる、
十二日午後十一時五十四分東京衛戍刑務所に収容せられたり。
兇行の動機は未だ審らかならざるも永田中將に關する誤れる巷説を盲信したる結果なるが如し。

東朝、昭和十年八月十五日附夕刊
永田中將遭難に關し、部内統制の善後措置を協議する陸軍三長官會議は十四日午後一時半から開會、
閑院參謀總長宮殿下の御臨席を仰ぎ、林陸相、渡邊敎育總監出席し、
林陸相から永田中將遭難に至る迄の部内の情勢を説明した上
今回の事件は事件そのものが極めて重大なるのみならず
斯の如き事件を發生せしめたる原因が、
全く部内に於ける錯雑せる誤解や感情の疎隔等に基いた
一種の雰囲氣により醸成せられたものであるから、
その根本原因を糺し國軍をして眞にその本然の使命に立ちかへらしめる様、
今後凡ゆる適切な方法を講じ粛軍の實を擧げる様にしたい。
其の爲には如何なる犠牲を拂ふも敢へて介意すべきでないと思ふ。
・・・旨の強硬なる信念を披瀝した。

事件の全貌
左に相澤中佐に對する判決方 竝に陸軍當局談を摘記して、
永田中將が兇刃に殪れた眞相の全貌を窺ふ事とする。
相澤中佐に對する判決文摘錄
相澤中佐は・・・・( 中略 ) 昭和四、五年頃より
我國内外の情勢に關心を有し、
當時の情態を以て思想混亂し、
政治・經濟・敎育・外交等萬般の制度機構何れも惡
弊甚しく、
皇國の前途憂慮すべきものがあるとし、
之が革正刷新 所謂 昭和維新の要あるものとなし、
爾後同志として 大岸頼好、大蔵榮一、西田税、村中孝次、磯部淺一 等と相識るに及び、
益々其の信念を鞏め、同八年頃より昭和維新の達成には、先づ皇軍が國體原理に透徹し、
擧軍一體いよいよ皇運を扶翼し奉ることに邁進せざるべからざるに拘らず、
陸軍の情勢は之に背反するものがありとし、
其の革正を斷行をせざるべからずし思惟するに至りたるが、
同九年三月 當時陸軍少將永田鐵山が軍務局長に就任後、前記同志の言説等により、
同局長を以て其の職務上の地位を利用し、名を軍の統制に籍り、
昭和維新の運動を阻止するものと看做かんさくし居たる折柄、
同年
十一月當時陸軍歩兵大尉村中孝次及び陸軍一等主計磯部淺一等が、
叛亂陰謀の嫌疑により軍法會議に於て取調べを受け、
次で同十年四月停職處分に附せらるゝに及び、
同志の言説及び其の頃入手せる所謂怪文書により、
右は永田局長等が同志將校等を陥害せんとする奸策に外ならずとなし、深く之を憤慨し、
更に同年七月十六日任地福山市に於て敎育總監眞崎大將更迭の新聞記事を見るや、
平素崇拝敬慕せる同大將の敎育總監の地位を去るに至りたるは、
これ又永田局長の策動に基くものと推斷し、
總監更迭の事情其ま他陸軍の情勢を確めんと慾し、八月十八日上京し、
翌十九日に至り一應永田局長に面会して辭職勧告を試むることゝし、
同日午後三時過頃同局長に面接し、近時陸軍大臣の處置誤れるもの多く、
軍務局長は大臣の補佐官なれば責任を感じ辭職せられたき旨を求めたるが、
其辭職の意なきを察知し、かくて同夜東京市澁谷區千駄ヶ谷に於ける前記西田税方に宿泊し、
同人及び大蔵榮一等より敎育總監更迭の經緯を聞き、且つ同月二十一日福山市に立歸りたる後、
入手したる前記村中孝次送附の 『 
敎育總監更迭事情要點  』 と題する文書
及び作成者、發送者不明の 『 軍閥重臣閥の大逆不逞  』 と題する所謂怪文書の記事を閲讀するに及び、
敎育總監眞崎大將の更迭を以て永田局長等の策動により同大將の意思に反して敢行せられたるものにして、
本質に於ても亦手續上に於ても、統帥権干犯なりとし、痛く之を憤慨するに至りたる處、
たまたま同年八月一日、臺灣歩兵第一聯隊附に轉補せられ、
慾二日前記村中孝次、磯部淺一兩人の作業に係る 『 肅軍に關する意見書 』 と題する文書を入手閲讀し、
一途に永田局長を以て元老重臣、財閥、新官僚と款を通じ、
昭和維新の氣運を彈壓阻止し、皇軍を蠧毒とつどくするものなりと思惟し、
この儘 臺灣に赴任するに忍び難く、此際自己の執るべき途は、永田局長を倒すの一あるのみと信じ、
遂に同局長を殺害せんこと決意するに至り、
同年十日福山市を出発し、翌十一日東京に到着したるも、
猶 永田局長の更迭等の情勢の變化に一縷の望を嘱し、同夜前記西田税方に投宿し、
同人及び來合せたる大蔵榮一と會談したる末、
自己の期待するが如き情勢の變化なきことを知り、
翌十二日西田税方を立出で、同日午前九時三十分頃陸軍省に至り、
同省整備局長室に立寄り、嘗て自己が士官學校に在勤當時、同校生徒隊長たりし同局長山岡中將に面會し、
對談中給仕を遣はして永田局長の在室を確めたる上、
同九時四十五分同省軍務局長室に至り、直ちに佩びたる自己所有の軍刀を抜き、
同室中央の事務用机を隔て、來訪中の東京憲兵隊長陸軍憲兵大佐新見英夫と相對し居たる永田局長の左側身邊に、
急遽無言のまゝ肉迫したる處、同局長が之に氣附き、新見大佐の傍に避けたるより、
同局長の背部に一刀を加へ、同部に斬附け、次で同局長が隣室に通ずる扉まで遁れたるを追躡し、
その背部を軍刀にて突刺し、更に同局長が應接用円机の側に至り倒るゝや其の頭部に斬附け・・・・( 中略 )
同局長を同日午前十一時三十分死亡するに至らしめ、以て殺害の目的を達したるなり。

( 陸軍當局談 )
相澤中佐が、・・・( 中略 ) ・・・永田中將を目して政治的野心を包蔵し、
現狀維持を希求する重臣、官僚、財閥等と結託して軍部内に於ける革新勢力を阻止すると共に、
軍をして此等支配階級の私兵化せしむるものなりとなし、
其の具體的事例として
一、維新運動の彈壓。
二、昭和九年十一月、村中、磯部等に關する叛亂陰謀被疑事件に對する策動。
三、敎育總監更迭問題に於ける策謀。
四、國體明徴の不徹底
等を擧げて居るのである。
而して此等の諸件は公正なる審理の結果に徴するに、何等の事實の認むべきものなく、
妄りに同志の言説及び所謂怪文書等の巷説を信じ、
全く我執の偏見の基く獨斷的推斷に基けるものに外ならないのである。

軍當局の善後措置と之に對する策動
軍首脳部に於ては永田事件を以て 「 前代未聞の不祥事 」 として八月二十三日非公式軍事參議官會議、
同月二十六日臨時軍司令官、師團長會議を開催して 「 軍紀の肅正、團結の鞏化 」 を鞏調したる外、
同月二十七日には陸軍大臣、教育總監より、夫々管下各軍衙長官、學校長に對して、
師團長會議に於ける陸相訓示と同趣旨の訓示をなし、軍紀振作の徹底に努めた。
右の軍當局の措置に對し革新團體の一部に於ては
「 林陸相は此際八月異同に於ける英斷を貫徹し 以て永田局長の英魂を瞑せしめよ 」
として首脳部支持の態度を示すものもあつたが、
直心道場系の各團體にあつては、之に反し
1  軍内部に派閥抗爭ありとの認識を部外者に与へるは原幹部派の責にして事件發生の因も亦茲に存す。
2  眞の統制鞏化は皇道の光被てふ廣義國防の確立に邁進するにありて、
  無原理の統制は徒に時局を紛淆に導き皇國の發展を阻害するものなり。
等々暗に現首脳部を避難したる建白書、意見書を各師團長を始め、愛國團體等に頒布した。

相澤中佐公判を繞めぐる策動
相澤中佐は十月十一日豫備役に編入せられたが、
其の審理は第一師團軍法會議岡田豫審官によつて續行せられ、
十一月二日豫審終了し、用兵器暴行、殺人及傷害事件として同日公訴を提起せられた。
而して其の後、歩兵第一旅團長佐藤正三郎少將以下が夫々判士長、判士に任命せられ、
辯護人は鵜沢聡明博士、特別辯護人として陸軍大學教官満井佐吉中佐と決定した。
一方、本事件發生の當初より一部に於ては所謂怪文書の頒布によりて、相澤中佐の行爲を激賞し
單なる私憤私慾に發したるものにあらず。
眞に天誅とも稱すべき事件にして已むに已まれぬ大和魂の流露である。
等と稱しつゝあつたが、公判期日の切迫と共に、西田税及直心道場の一派にあつては愈々其の立場を明かにして
「 國體明徴---粛軍---維新革命 」 は正しく三位一體にして、 相澤中佐蹶起の眞因亦茲にあり。
 從つて 「 超法規的の團體、超法規的維新に殉ずるものゝ受くる處、又同様超法規的でなければならぬ 」
と鞏調するに至り、左記の文書等によつて他の革新團体に飛檄し、
後半公開の要請及減刑運動を從慂じゅうようし、以て昭和維新達成の氣運醸成に努めた。
左記
國體明徴と粛軍と維新とは三位一體なり。
國體明徴が單なる學説竝學説信奉者の排撃に止まるべからず。
諸制百般に歪曲埋没せられたる國體實相の開顯、
而して此の維新せられたる皇國態勢を以てする全世界への皇道宣布ならざるべからざる以上、
國内に於て反國體の現狀を維持せんとする勢力
( 機關説擁護 = 資本主義維持 = 法律至上主義 = 個人主義自由主義 )
が現に政治的權力を掌握しあり、
又 内外勢力の切迫より擡頭せる所謂金權フアツシヨ勢力
( 權力主義者と金權との結託せる資本主義修正、統制萬能主義勢力 = 官僚フアツシヨ は此の一部 ? )
が政權を窺窬きゆしつゝある今日に於て、
まつろはぬ者を討平げ、皇基を恢弘すべき實力の中堅たる皇軍の維新的粛正は、
國體明徴、維新聖戰に不可欠の要件焦眉の急務なり。
一、國體明徴運動進展途上に於ける陸軍首脳部の態度は、
 新陸相に於て全權フアツシヨ的野望を抱きながら、
郷軍の彈壓と永田の伏誅に餘儀なくせられて表面を糊塗したる欺瞞的妄たり。
現陸相に於て國體護持、建軍に恥ずべき右顧左眄たり。
對政府妥協たるは何ぞ。
是れ皇軍内部に巣喰ふ反國體勢力への内通者、
フアツシヨ勢力及乃至自由主義明哲保身者流の國體に對する無信念、
皇軍の本義に對する無自覺に禍せられたるによらずんばあらず。
國民は皇軍の現狀に深甚なる疑惑と憂慮とを抱かざるを得ず。
一、永田事件直後に於ける陸軍當局の發表は、相澤中佐を以て
 「 誤れる巷説を盲信したる者 」 とせる、眞相隠蔽、事實歪曲たり。
次で師團長軍司令官會議に於て發したる陸相訓示は全く皇軍の本義を解せず、
時世の推移に鑑みざる形式的 「 軍紀粛正 」 「 團結鞏化 」 の鞏調にて、
其の結果は忠誠眞摯なる將士の処罰たり。
此の方針を踏襲せる現陸相は其の就任當初の國體明徴主張を空文として政府と妥協したるのみか、
至純なる郷軍運動を抑壓するの妄擧に出で來る、國民の憤激は誘發せられざるを得ず。
一、現役のみが軍人に非ず、國民皆兵軍民一體なり。
  全國民は皇軍の維新的粛正に對し十全の要望督促をなさざるべからず。
一、今や皇軍身中の毒虫を誅討する相澤中佐の豫審終結し、近く公判開始せられんとす。
  國民は眞個軍民一體の皇運の扶翼を可能ならしむべく、皇軍の維新的粛正を希求し、
此の公判を機會として軍内反國體分子の掃蕩を要求すべし。
註  1  公判は公開せざるべからず。
  一部首脳者の姑息なる秘密主義は國民をして益々皇軍の實情に疑惑を深めしめ軍民一體を毀損し、
大元帥陛下御親率の國民皆兵の本義に背反するものなり。
註  2  三月事件、十月事件の眞相、總監更迭に絡からまる統帥權干犯嫌疑事實を闡明ならしめ
  責任者を公正に処斷して上下の疑惑を一掃し軍の威信を恢復すべし。
註  肅軍は單に軍部内に於ける國體明徴なるのみの意義に非ず、
  肅軍の徹底は破邪顯正の中堅的實力の整備を意味す。
反國體現狀維持勢力が政權を壟斷し、國民至誠の運動を蔑視しつつある今日、
言論決議勧告のみにして實力の充實、威力の完備なき糾弾は政府の痛痒を感ずる處に非ず。
實に肅軍は國體明徴の現實的第一歩にして維新聖戰當面の急務なりとす。
以上

更に直心道場は皇道派民間團体の牙城として
西田税の指導下に雑誌 『 核心 』 『 皇魂 』 及 新聞紙 『 大眼目 』 等を總動員して
相澤公判の好轉、維新運動の推進のため宣傳煽動に勤めつつあつたが、
就中 『 大眼目 』 は西田税、村中孝次、磯部淺一、澁川善助、杉田省吾、福井幸 等を同人として、
宛然怪文書と異る處なき筆致を以て
「 重臣ブロック政黨財閥官僚軍閥等の不當存在の芟所除 」 を力説し、
「 革命の先駆的同志は異端者不逞の徒 等のデマ中傷に顧慮する處なく
不退轉の意氣を以て維新革命に邁進すべき 」 ことを煽動し、
之を軍内外に廣汎に頒布する等暗流の策源地たるの観を呈して居つた。

同年 ( 昭和十年 ) 十二月末の岩佐憲兵司令官の報告通牒に依れば
一、相澤中佐を支持するものとしては
  北一輝、西田税一派、勤皇維新同盟
  直心道場、大日本生産黨、愛國社
  建國會、黒竜會、國粋大衆黨
  鶴鳴莊、國體擁護聯合會、三六社、愛国靑年聯盟
二、静観的態度を持するものとしては
  明倫會、皇道會、國民協會、愛國政治同盟の大部
三、反相澤の態度を持するものとしては
  大亜細亜協會及民間浪人高野清八郎、山科敏
  社會大衆黨、大日本國家社会黨、新日本國民同盟の大部
として居る。

相澤中佐公判狀況
昭和十一年一月二十八日、第一師團司令部軍法會議法廷に於て
佐藤少將判士長、小藤、木谷、木村各大佐 岩村中佐の各判士、杉原首理法務官、島田檢察官、
鵜沢辯護人、満井特別辯護人等關与の下に第一回公判が開廷せられ、
其の後 二月二十五日、二 ・二六事件突發前日迄十回開廷せられた。
相澤中佐は皇道派靑年將校及西田税、古賀、中村兩海軍中尉 ( 五 ・一五事件被告 ) との交友關係
或は 「 永田局長は重臣、財閥等の現狀維持勢力に迎合して靑年將校の維新運動を彈壓された 」
として、十一月事件、眞崎敎育總監更迭の事情等を例證として擧げ、
「 永田局長閣下は悪魔の總司令部であると思ひ、
 大逆の樞軸を殲滅せんめつして昭和維新の大業を翼賛し奉らうと思つたのであります 」
と 決行動機に關する激烈なる陳述をなした。
又第二回公判に於て満井特別辯護人は
「 相澤中佐の背後には全軍將校の気魄横溢いつして犇々ほんほんと迫りつつある。
 一度事件の措置を誤らば、第二、第三の相澤三郎繼起すべし 」
とて各地よりの激励的信書電文を讀上げ 更に
「 皇軍の事態は重大危機に臨んでいる、自分は首脳部に意見を具申したが容れられず、
 不安を一掃することが出來ず 爆彈を抱いてこの公判に臨んで居る。
この公判の結果は皇軍をして破局に至らしめる虞がある。」
旨の陳述をした。
又二月七日には鵜沢弁護人は政黨脱退の聲明を發し、
同月十二日には、事件當時の陸軍次官橋本虎之助中將、古荘陸軍次官、堀第一師團長、
十七日には林前陸相が證人として公開禁止裡に訊問せられ、
更に二十五日 眞崎大將が召喚せられ公判は最高潮に達し、異常の關を聚あつめるに至つた。
果然翌二十六日満井中佐の警告的陳述の如く空前の叛亂事件が突發した。
公判はこのため無期延期となり、四月二十一日新判士長 内藤正一少將の下に再開せられ、
非公開の儘審理續行せられ、弁護人の申請に係る證人喚問、
十一月二十日事件に關する關係記録取寄せ等何れも脚下となり、
四月二十五日検察官の論告、五月一日角岡、菅原祐兩辯護人の辯論の後、
被告は裁判長に促され、
感慨無量、悌嗚咽しつ
「 裁判官、辯護人其の他の御厚配を謝する 」
旨の最終陳述をなし、
同月七日 「 被告を死刑に處す 」 旨の判決言渡があつた。
相澤被告は翌八日上告をなしたが六月三十日、第一師團軍法會議に於て、
判士長 牧野正迪少將より上告棄却の判決言渡あり、死刑判決は確定した。
斯くて七月三日、渋谷區宇田川町陸軍衛戍刑務所に於て刑執行せられた。

「右翼思想犯罪事件の綜合的研究」 昭和十四年二月、司法省刑事局
現代史資料4 国家主義運動1 から