満井佐吉
相澤中佐公判ノ特別辯護人トナリタル經緯ニ就イテ申上ゲマス。
相澤中佐同期生ヨリノ依頼ニ依リ起ッタノデアリマスガ、
當時私ノ心境ハ、
近來 軍中央幕僚ト靑年將校トノ間、
竝 靑年將校中所謂皇道派ト稱セラルゝモノト
「 ファッショ 」 派 ト 稱セラルゝモノトガ互イニ感情的對立ヲ持チ、
軍ノ精神的結束ヲ困難ナラシメツツアルヲ憂慮セラレ、
偶々 私ハ所謂皇道派ノ靑年將校トハ比較的意思疎通可能ナルニ依リ、
彼等靑年將校ト 「 ファッショ 」 派將校トノ感情ノ疎隔ヲ緩和シ、
對立観念ヲ除去シ、軍幕僚ト靑年將校トノ感情ヲモ融和セシメンコトヲ欲シ、
之等ノ爲、重要人物タル石原大佐 (幕僚方面)、橋本大佐 (ファッショ派) ト 屡々意思ノ疎通ヲ計リ、
全軍一致シテ、時勢ニ善處スルノ必要ヲ力説シ、蔭ナガラ軍ノ結束ニ關シ貢献シツツアリマシタ折柄、
相澤中佐ノ同期生タル赤鹿中佐(士官學校)、牛島中佐(士官學校豫科) 外二名(氏名不詳)
ノ人ヨリ、特別辯護人タルベキ交渉ガアリマシタ。
最初來訪ノ時ハ私ガ留守デアツタノデ、再ビ來訪セラレテ、
私ニ對シ、
「 同期生中ニハ種々ノ立場上及其他ニ依リ適任者ナキ爲、特別辯護人ニ是非起ッテ貰ヒタイ。
鈴木貞一大佐ハ、永田閣下ノ部下ナルガ故ニ辭退セラレ、
中央部ニハ村上大佐、西村大佐、牟田口大佐等ガ居ラレルガ、中央部デ立場ガ惡イカラトノコトデアリ、
又、聯隊附將校ニハ中央ノ事情を認識スルモノガナイノデ、是非引受ケテ貰ヒタイ 」
トノ交渉ガアリ、困ッテオラレマシタノデ、
私ハ個人トシテハ上司ニ於テ許可ガアレバ出テモヨイト申シマシタ処、
同期生カラ、陸大幹事岡部少將ハ、其時ハ許可セラレナイ様ナ口吻ヲ漏ラサレ
「 考ヘテ置く 」 トノコトデアリマシタノデ、參考迄ニト思ヒ、
私ヨリ 次ノ様ナ許可ノ可否ニ關シ意見ヲ申述ベマシタ。
「 若シ相澤中佐ノ特別辯護人ヲ受諾スルナラバ、
一、目下靑年將校同志ノ間ニ、互ニ實力行動ニ出ヅルガ如キコトハ絶對ニ避ケタイ。
二、軍裏面ノ歴史的ナ旧事實、例ヘバ十月事件、三月事件等、相澤事件ト直接關係ノ
少ナキモノハ、成ルベク必要最小限度ニ言及スルコトニ依リ、軍内ニ騒動ヲ起サザル様ニ努メタイ。
三、靑年將校ノ氣心モ、軍中央部幕僚ノ立場モ、克ク心得テ居ルカラ、
兩者ノ立場ヲ無視シテ、正面衝突ヲセシムル如キコトハ避ケル。
之ヲ要スルニ、相澤公判ハ一歩ヲ誤レバ軍ヲ破壊ニ導ク虞レ多キヲ以テ、
私ガ起テバ靑年將校モ成程ニ信頼シテクレルデアラウシ、
又、軍全體ノ爲ヲ考ヘルカラ或ハ事ナク公判ヲ終了スルカモ知レナイ。
之ニ反シテ隊附靑年將校中ヨリ起テバ、軍中央部ノ立場ヲ理解セザルヲ以テ、
感情的トナル虞アリ、其ノ結果ハ事件ヲ巻キ起スヤモ知レナイ。
寧ロ、私ガ起ッタ方ガ靑年將校モ穏便ニ濟ムカト思ヒマス。」
トノ意味ヲ具申シマシタ処、
岡部幹事ハ、其ノ心持チハ自分モ克ク判ルト申サレマシタ。
ソレカラ約一週間位經ッテカラ、岡部幹事ヨリ口頭ヲ以テ御許シヲ受ケマシタ。
其間ニ幹事ハ參謀本部、陸軍省ト交渉セラレタモノト思ヒマス。
以上ノヨウナ經緯デ引受ケタノデアリマス。
私ガ相澤中佐ノ特別辯護人ヲ引受ケマシテカラ、
赤鹿中佐、牛島中佐ヨリ、
公判ニ關シテ龜川哲也ヨリ手續他法理的ノコトノ援助ヲ受ケル様ニトノコトデアリマシタ。
龜川哲也ハ荒木大將閣下ヲ顧問トスル農道會ノ主任デアリ、
法律、經濟方面ニ詳シキ人物デ、會計檢査院ニ長ク居た人デアリ、
荒木大將ノ陸相當時、私ガ陸軍省調査班ニ居タ頃、
農村問題ニテ意見ノ交換ヲシタルコトガアリマシテ、
同氏ト公判手續其他ニ附イテ互ニ一、二度往來シマシタガ、
私トシマシテハ龜川氏ニ公判ノ全部ノ指導ヲ受ケル意思ハアリマセンデシタノデ、
五 ・一五事件ノ辯護人デアツタ菅原祐ハ日本精神ノ主張者デアリ、
平泉博士ト親交リ、此ノ人ニ法律上其他、辯護士ニ關スル指導ヲ受クルコトゝシマシタ。
爾來相澤中佐ニ面會シ、手續及辯護ニ關スル材料ノ蒐集其他公判ノ研究ニ入リ、
其頃ヨリ村中、磯部トモ面會シ、
尚 公判開始前、陸大岡部少將ニ、陸相以下幕僚ニ私ノ意見ヲ申上ゲ、
軍ノ實情ヲ収拾セラルゝ必要アルコトヲ進言シ、
其ノ結果、公判開始前四日程前ニ開カルゝ処、行違ヒニテ不能トナリ、
公判開始前日陸軍省ニテ大臣、次官、參謀次長、軍務局長、調査部長、軍事課長ニ對シ、
軍ノ實情容易ナラザルモノアルコトヲ申述べ、實情ト相俟ッテ公判ヲ進メザレバ危險ナリ、
故ニ参議官會議ヲ本日即刻開キ、私ノ意見ヲ聽カルル必要アルヲ申上ゲタルモ、
遂ニ容レラレルコトナク公判開始トナツタノデアリマス。
次ニ
私ト靑年將校トノ關係に就て申上ゲマス。
私ガ久留米歩兵第48聯隊大隊長ヨリ陸軍省調査班ニ轉出セル頃、
調査班ニ私ヲ訪ネテ昭和維新ヲ慫慂セル將校ニ天野大尉(當時士官學校)、
常岡大尉 ( 広嶋電信隊陸地測量部修技生 ) アリ、當時磯部主計モ亦來訪シタルコトガアリマス。
當時調査部長東條少將ハ私ニ將校ノ動靜ニ注意シテ居ル様ニ申サレタコトモアリマスノデ、
私ハ時々天野大尉、常岡大尉ノ自宅及磯部主計ノ下宿ヲ訪ネテ其ノ動靜ニ注意スルト共ニ、
其ノ行動ヲ誤ラシメザル如ク着意シ、
村中大尉、栗原中尉トモ、磯部主計ノ下宿デ、一、二度會ッタコトモアリマシタ。
當時天野大尉、常岡大尉ハ十月事件組ニテ、
其ノ主張ハ理論ヨリモ實行主義ニシテ稍矯激ノ嫌アリシガ、
磯部、村中等ハ十月事件當時ノ自重派ニシテ、
其ノ主張ハ堅實ニ軍首脳部ヲ信頼シテ上下一致維新に嚮フコトヲ目標トシ、
逐次斯カル空氣ノ擴大ヲ希望シアリタルガ如ク見受ケラレ、
當時ノ陸相荒木大將ニ對シ、常岡大尉、天野大尉等ハ
「 荒木爲ス無シ 」 トノ感ヲ抱キ、
東條少將、池田純久中佐、田中淸少佐、片倉少佐ノ軍中央幕僚亦
反荒木的氣勢ヲ示シアリシガ、
磯部、村中等ハ
國體信念ヲ有シ且ツ維新氣分ヲ有スル時ノ長官タル荒木陸相ニ信頼シテ
上下結束シテ進ムコトヲ希望シアリシガ如ク、
又、私ノ信念ハ軍ノ組織ノ本質ニ鑑ミ、
時ノ大臣ヲ排撃シ、實力行動ヲ慫慂スルガ如キ 天野、常岡両大尉等ノ思想ニハ同意スル能ハズ、
又、當時陸相ヲ更迭セント企圖セル如キ軍中央幕僚ノ政治的態度ニモ同意シ難ク、
時ノ長官ニ信頼シ、
全軍上下結束シテ進マントスル磯部、村中等ノ主張ニ比較的多ク眞理ノ存スルヲ認メ、
此ノ點ニ關シテハ共鳴シマシタガ、
何レノ色彩ノ靑年將校ニ對シテモ、實力行動ヲ是認シ又慫慂シタコトハ無ク、
常ニ之ヲ否認シ自重ヲ促スノ態度ヲ持シ、
天野、常岡等ノ思想ニ對シテハ特ニ反對ノ意圖ヲ主張シ、
當時著シク半荒木的ナリシ軍幕僚竝ニ天野、常岡等十月事件組ノ靑年將校ハ、
私ノ態度ヲミテ荒木派ナリト誤認シ、露骨ニ反對ヲ表明シ、
當時無根ノ事實ヲ怪文書トシテ私ヲ攻撃セルモノスラ出デタルコトガアリマシタ。
私ガ陸軍大學ニ轉任スルニ及ビ、是等靑年將校トノ面接ノ機ナカリシガ、
所謂十一月事件ノ發生ヲ見テ靑年將校等憤激シ、肅軍パンフレットノ筆禍ニ依リ、
村中大尉等突然免官トナルニ及ビ、村中退校ニ關スル大學幹事ノ注意ニ見テモ、
軍中央部ノ處置ハ必ズシモ公正ナラザルヲ感ジ、私モ村中ニ同情シ、
一度村中大尉ヲ其ノ自宅ニ訪ネ、慰撫シテ自重ヲ促シタルコトガアリマシタ。
續イテ永田事件ノ公判迫ルニ及ビ、前述ノ如ク相澤中佐ノ特別辯護人ヲ受諾後、
村中ハ自宅ニ二回位、又、辯護人控室ニ來訪シ、辯護ニ關シ希望ヲ述ベ、
或ハ私ヨリ材料ノ蒐集ヲ託シタコトモアリマシタ。
尚、手續等ヲ中心トシ
村中、磯部、栗原、香田、其他二、三名ノ將校及相澤中佐ノ同期生等ノ希望ニ依リ、
昨年末一夕新宿本郷バーニ集リテ座談セルコトアリシモ、
實力行動等ノ話ハ全然アリマセンデシタ。
永田事件ノ公判ハ、其ノ原因動機ノ性質上及ビ軍全體ノ實情ノワダカマリ上、
之が取扱ニ注意ヲ要スルノミナラズ、
軍首脳部ニ於テモ軍ノ實情収拾ニ關シ大イニ注意ヲ要スルモノモアルヲ認メ、
公判開始前日、陸相、參謀次長、陸軍次官、軍務局長等ニ引見セラレ、
忌憚ナキ意見ヲ述ベタルモ、遂ニ容レラレルニ至ラズ。
公判中、村中ハ一、二回自宅及辯護人控室ニ來リタルコトアルモ、私ハ其都度、
合法的ニ公判ヲ成功セシムル確信アルヲ以テ自分を信頼し、斷ジテ情況ヲ悲観シ、
思ヒ詰ムル等ノコトナキ様ト自重ヲ促シタルガ、
當時、村中等ニハ特ニ不穏ノ計畫等ヲ爲シツツアルガ如キ態度ハ認メマセンデシタ。
公判ハ漸次順調ニ進ミ、好結果ヲ示シ居リ、又、中間ニ於テ公開禁止續キタル爲、
公判ノ中頃以來ハ暫ラク村中ノ來訪ナク、
又、兵力迄モ使用シテ實力行動ニ出ズルガ如キコトアルベシト全く考ヘズ、
油斷シ居ルタルガ、二月二十六日突如本事件ヲ見ルニ至リ、私ノ主義ニ反シ、
辯護人トシテ出タル甲斐ナク、誠ニ遺憾ニ堪ヘザル処デアリマス。
本事件突發前日二十五日に證人申請シマシタコトハ、
私ハ次回ニ申請スル希望デアリマシタガ、裁判長ヨリ是非今日トノ事デ、急遽鵜澤辯護人
ト相談ノ上證人ヲ申請シ、其ノ理由ヲ述ベタノデアリマス。
對馬中尉トハ、同中尉ガ陸大受驗ニ來リシ際、私ヲ訪問シタルガ、
其時試驗ニ關スルコトニ就テハ、應接スルコトハ出來ザル旨告ゲタルモ、
敬意ヲ表シタシトノコトニテ面會シタル外、特殊ノ關係ハアリマセン。
澁川善助トハ、私ガ九州ニ在リシ頃、九州ノ愛國運動者タル靑年ト澁川トガ同志的交友アル
關係上、二、三年前私宅ヲ訪レタルコト二、三回アリ、
公判開始後ハ相澤中佐ノ家族傍聽券ニテ數回傍聽シ、
又、辯護ノ資料タルパンフレット等ノ蒐集ヲ依頼スル等、三、四回面會シタルコトモアルモ、
澁川ハ佛教家ノ如ク、甚シク慈悲心アル靑年ト観察シテ居リマシテ、
今事件ノ如キ實力行動ニ出ヅルガ如キコトアリトハ全然見受ケマセンデシタ。