あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 永田鐡山のことですか 」

2018年05月03日 05時28分44秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

相澤三郎中佐
« 昭和九年の大晦日のこと »
境の唐紙は一枚分開けたままになっていた。
そのあいだから、二人が何かぼそぼそ話し合っているのが見えた。
二人はきちんとむきって正座していた。
どちらが上官かわからないほど、相澤中佐のほうがかしこまっていた。
相澤中佐は大岸大尉を、かねて人生開眼の師として尊敬していた。
軍務以外では後輩に対しても万事丁寧だったが、
特に大岸大尉に対してはそうだった。
ひとに話す場合も大岸大尉のことを、大岸先生というのが常だった。
何を話し合っているかはききとれなかった。
ただ相澤中佐が、ハイ、ハイ、と ときどき返事するのがきこえるだけだった。
大岸頼好大尉
« 昭和十年元旦のこと »
「 相澤さんのことだがなァ。」
と、昨夜の相澤中佐との話のやりとりを大岸大尉は話しだした。
相澤中佐はこんどの上京を機会に、永田鉄山を斬ろうと思うがどうかと、大岸大尉に相談したという。
昨夜、正座して、対談していたのは、この相談だった。
相澤中佐は、こんどの村中大尉ら拘留一件の背後には、永田鉄山がいると判断した。
辻もその謀略の手先にすぎない。
軍務以外の野心家の手ものびている。
そういった軍部内外の勢力の結び目が永田鉄山であり、
問題は村中大尉ら三人だけでなく、いずれは全国同志にかかわる。
いま永田鉄山を斬って、この結び目を断たなければ、将来の禍害は測り知れないものがある。
永田鉄山は斬らなければならない。
しかも相澤中佐の口癖の年寄りから順序ですよ、で
自分が斬るのが順序だと相澤中佐は思ったのだった。
相談を受けた大岸大尉は反対した。
「 千古賊名甘受 」 と 紙に書いて 相澤中佐が差し出したものも、向きをかえて返した。
相澤中佐は握りこぶしを両膝の上において、
ハイ、ハイ と 
涙を双眼にうかべて大岸大尉の反対意見をきいていたという。

二人が帰ってしまうと、あとに相澤中佐と私が取り残された。
が 私もぼつぼつ床をはいでて、夜行で帰る仕度をしなければならなかった。
相澤中佐はまだ用事が片づいていなかった。
一人とり残されることになった。
私が起きて、ごそごそ旅支度をはじめると、
相澤中佐が
「 ひどいな、おれ一人を残すのか 」
と 淋しそうにいった。
私は旅支度を一瞬ためらった。
「 どうだ、もう一晩とまらないか 」
と 相澤中佐は泣き笑いのような顔でいった。
千古賊名甘受の一件もあるし、私はなんだか一人だけにするのが、気の毒になった。
二日一杯にかえれば、三日の勅諭奉読式に間に合う。
もう一晩とまって明朝発ってもよかった。
ただそれだと青森に夜中に着き、駅から一理以上もある道を、
それも雪のなかでタクシーも怪しいところを、
独身官舎のしばらく空家にしておいた凍りついたような部屋にたどりつかねばならないことになる。
それが味気なかった。
それさえ我慢すれば、もう一晩とまってもいい勘定だった。
「 じゃ、おつきあいしましょうか。」
といって旅支度をやめると、
相澤中佐は急に相好をくずして、子供のようによろこんだ。

翌朝目をさますと、もう明るかった。
ぼつぼつ起きないと汽車の時間に間に合わなくなると思い、
寝がえって腹這いになり時計をみていると、私の気配を察したのか、
先きに目をさましていたらしい相澤中佐が、これもくるりと寝がえって同じように腹這いになり、
私のほうをむいて、
「 大岸さんからきいたか。」
と 話しかけてきた。
「 永田鉄山のことですか。」
「 そうだ。どうだろうなア。」
「  大岸さんは反対していましたが・・・・・」
「 そうなんだ。が、どうにもあきらめきれない。」
「 大岸さんが反対しているんだから、おやめになったほうが、いいと思いますが・・・・」
内地の情勢については、足掛け四年のブランクがまだ埋まっていない私には、
永田鉄山と村中大尉ら拘留一件との関連性が、はっきりつかめなかった。
大岸さんが反対しているんだから---というほか、独自の意見の出しようがなかった。
相澤中佐は沈痛な顔で、考えこんでいた。
昨夜は一睡もしなかったのかも知れないと思った。
しばらく考えこんでいた相澤中佐は、急に床の上に起きあがって坐ると、笑顔になって、
「 どうだ、もう一度一緒に東京へ行かないか。」
と 私をさそった。
私はこれはことわった。
一緒に行くとは、時によっては一緒に永田鉄山を斬ることでもある。
軍刀も拳銃も持ってはいた。
が 東京に行って、すぐその足で、というわけにはいくまい。
すると三日の勅諭奉読式に間に合わず、軍規をみだることになり、
それはいいとしても 同時に怪しまれて事前に手をうたれる心配がある。
未遂はみっともない。
それで私はことわった。
相澤中佐の顔から笑いが消えた。
私は東京への同行はことわったものの、このまま相澤中佐を突き放すに忍びなかった。
「 東京へ行かれたら、まだ大岸さんはいると思いますから、
もう一度相談してみてはどうですか。
その上で最後の決心をされては・・・・。
それとも、もう大岸さんに相談せず、やりますか。
いずれにしても、やる決心がついたら電報を打って下さい。
きいた以上は放っておけないし、やる以上は討ち損じないよう加勢します。
電文はチチキトクでもハハキトクでもいいですから・・・・。
一応私は青森にかえります。」
「 そうか。」
と、いうのと同時に、
相澤中佐は深いため息をついた。
青森にかえった私は、多分思いとどまるだろうとは思いながら二 三日、
電報がいつくるかいつくるか、の 緊張と、
瀬戸勝旅館の元旦の雑煮の餅と一緒に呑み下した奥歯の金冠が、
胃か腸にひっかかるのではあるまいかの不安とを、おりまぜた日を送った。
が、四、五日かに電報がきた。
いよいよ事だと、息をつめて電報をひらいた。
郷里の姉の子、姪の死を知らせた本当の電報だった。
ニセの電報はついにこなかったし、
福山にかえり着いたはずの相澤中佐からは、其後もなにもいってこなかった。


末松太平
私の昭和史 から