あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

新聞報道 ・ 第一回公判開廷 『至尊絶對』

2018年05月23日 08時58分58秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


廿八日の永田事件、相澤中佐の公判は
午前十時五十五分再開後
身許調査、賞罰、經歴、家庭の事情、健康状態、趣味等につき尋問があって、
次に相澤の思想、信念を訊く
法  『 被告の日頃の感慨は・・・・ 』
相澤中佐は一段と聲に力を入れ 直立不動の姿勢で
相  『 私は小さい時から賢父に次のことを教へられました、
私の父は明治維新の際 大義名分を誤り、賊となつた事を残念に思ひ
「 お前が大きくなつたら陛下の御爲めに盡さなくてはいけない、今一つは世の中には自分のものは一つもない、
總て天子様からお預かりしているもので、恩返ししなくてはならない 」
と 教へられました。
かうして私は大きくなりました恭しく思ひまするのに、天皇陛下は天照皇大神と共に天地創造の神であります
大君 は古今東西、過去現在將來を通して絶對であらせられます、
吾々がこの世に生れた眞の意義は顕官や富豪になるといふやうな生物的慾望であつてはならない、
東西を通じて人間の眞の使命は道徳の完成と眞理の究明に向つて進むべきにある、
日本人は大神の広大無邊の懐に包まれて生まれているのであつて、
日本の使命は天の大岩戸を開いて廣く全世界に御稜威を輝かすにあります、
私の信念は以上述べました處によつて私利私慾の根源をなくするため明治維新の版籍奉還則り、
この總ての財を陛下に奉還するにあると思ひます 』
引き續き思想的、人格的に
影響 を受けたについては
相  『 かつて東久邇宮殿下が瑞巌寺に威らせられた時
「 禅は國家のため學ぶべきものだ 」
との御言葉を拝し、知人の紹介で仙臺の輪王寺に至り、無外和尚に禅の指導を受け、
更に修養を積むため時の東北帝大總長北条先生の許に弟子入りして種々思想的にも、
人格的にも多大の指導を受けた 

この時裁判長
裁  『 無外和尚さんは まだ御無事か、そうして交際を續けているのか 』
との質問に相澤中佐は
相  『 結婚した後 二三度お目にかかりました 』
と感涙にむせびながら
師恩 の有難さを るる 述べ
更に
裁  『 被告の信念は・・・・ 』
との質問に對し
相  『 至尊絶對 ! 』
と結んで 午前十一時四十分 公判を打切る


第一回公判廷の相澤中佐

  
       
佐藤判士長         杉原法務官       島田検察官      鵜沢弁護人         満井特別弁護人

昭和十一年一月二十八日、第一師団軍法会議法廷に於て
佐藤少将判士長、小藤、木谷、木村 各大佐  岩村中佐の各判士

杉村主理法務官、島田検察官、鵜沢弁護人、満井特別弁護人 等関与の下に第一回公判が開廷せられ、
其の後二月二十五日、二・二六事件突発前日迄 十回開廷せられた。


第一回公判 ・ 満井佐吉中佐の爆弾發言

2018年05月23日 06時06分57秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

相澤公判
第一師團軍法會議
罪名  陸軍刑法による 用兵器上官暴行罪、一般刑法の殺人罪および傷害罪
長官  師團長柳川平助中將
判士  歩兵第一旅團長佐藤正三少將、歩兵第一聯隊長小藤恵大佐、
判士  野砲兵第一聯隊長木谷資俊大佐、戰車第二聯隊長木村民蔵大佐、
判士  本郷連隊區司令部付若松平治中佐
判士  杉原法務官
裁判長  佐藤少将
檢察官  第一師團法務部長  島田朋三郎法務官
特別辯護人  陸軍大学兵學教官満井佐吉中佐
辯護人  法曹界の重鎭 鵜沢總明博士

法廷の周辺には憲兵が武装いかめしく立ちならび、
その警戒の嚴重さは、一種のものものしい雰囲氣が流れていた。
新聞社は司令部の構内にテントを張り、電話をひきこんで取材に大わらわになっていた。
法廷内特別傍聽人席には、
小栗警視總監、安倍特高部長などの民間がわをはじめ、
相澤の同期生代表參謀本部庶務課長牟田口大佐などの將校たちがぎっしりつまり、
東京警備司令官香椎浩平中將、山下奉文軍事調査部長、大山法務局長などは、
一段高い法務官席のうしろの椅子にずらりと竝んでいた。


« 相澤公判 »
第一回公判
昭和11年1月28日、午前10時 開廷
この前日
特別辯護人満井中佐は、公判をまえにして、
「 私は 獄中の相澤中佐とたびたび面會し、意見をかわした結果、
中佐の心情はよくわかりました。
豫審調書でみると、犯行の動機が怪文書に刺激されたようになっていて、
中佐の意志があいまいになっているようです。
もし、公判がわれわれの辯護を制壓するようなことがあれば、
私は中佐にかわって國家革新の大目的のため、全力をつくして戰う覺悟です。
場合によっては職を賭すようなことになるかもしれません 」
と 語り、その決意のほどを誇示していた。

満井佐吉 

満井の爆弾發言
定刻十時、判士長は開廷を宣し、かたのごとく相澤に対し人定訊問を行った。
相澤は陸軍中佐の軍服を着用していた。
この訊問が終ると、判士長は島田檢察官に起訴狀の朗讀を促した。
そのとき突如、満井中佐が立ち上って、
「 判士長! 」
と 大聲で發言を求め、本公判の進行に關し特別辯護人として重大提言があるという。
判士長がこれを許可すると、満井中佐は三つの爆彈動議を出した。
豫審のやり直しをせよ、というのである。
「 第一、
本被告事件の豫審調書、公訴狀は甚だ不明瞭なものである。
皇軍の本質にもとづいて公人的行爲と私的行爲とは、
これを區別しなければならぬにもかかわらず、事件は公人の資格で行ったのか、
私人の資格でやったものであるのか、
犯行の主體たる被告を審理していないので、この點甚だ不明瞭である。
第二、
本件の行動に關する被告の審理はできているが、その原因動機たる社會的事實、
すなわち軍の統帥が元老、重臣、財閥、官僚等によって攪亂せられたる事實については、
なんらの審理もしていない。
第三、
被害者たる永田中將の卒去の時刻が不明瞭である。
すなわち、當日陸軍省の公表によれば 午後四時半卒去せりとある。
軍医の檢案にもとづく島田檢察官の報告によれば、數刻を出でずして卒去せりとある。
はたして陸軍省の發表通りとせば被告は重傷を負わし その後に死に到らしめたことになり、
檢察官の報告によれば殺傷したことになっている。
この點に重大な疑義を有するもので、誤りは陸軍大臣にあるか、島田檢察官にあるか、
軍医は確實に診察したであろうから、おそらくは檢察官のいうところがほんとうであろう。
時の陸軍大臣、首相、宮相が永田中將卒去後にもかかわらず、
僞って陛下を欺き奉って位階の奏請をなしたものと考える。
---以上 この重大事件をめぐって、
陸相、宮相の處置と島田檢察官との間に重大なる くい違いがあることは、
影響するところ大であるから、判士長は十分に考慮されたい。
したがって この間の眞實を究明するまで、この公判は中止されるのが至當である 」

佐藤判士長は 直ちにこの動議を脚下したが、
しかし そこには、この裁判の前途の多難とその重大さを思わせるものがあり、
人々の心を暗くしていた。
いうまでもなく、この裁判は維新か、非維新かの法廷闘爭であった。
相澤事件を通じて、軍を中心とする現狀維持勢力を徹底的にあばくこと、
すなわち、それは相澤犯行の原因動機が、果して巷説を盲信したものであったのか、
あるいは、眞に眞崎敎育總監の罷免に、統帥大權の干犯があえてなされたものか、
この事實を明らかにすることによって、
元老、重臣、財閥、新官僚と これにつながる軍の統制派
---南大將、林大將、永田少將らを中心とする幕僚群のみにくさを天下に暴露し、
その不逞を根底において叩くことになるからである。
もはや、そこでは、相澤の量刑を輕減することではなくて、
相澤を押し立てて、彼らのいう維新の戰いを展開するものであったのだ。

このあと
島田檢察官は立って公訴狀を讀上げ、
杉原法務官は判士長にかわって被告に對し尋問を開始した。
「 さきほどの檢察官の申し述べた公訴事實は認めるか 」
「 だいたい認めますが---永田閣下に刃を向けたのはそのとおりでありますが、
 根本にわたることについては、腑に落ちない點があります。
原因については詳細お取り調べを願います 」
それから、位階學歴、家庭健康、趣味信仰などについて訊問がつづけられたが、
その訊問が國家革新の思想に及ぶと、
中佐は聲を一段と張り上げ、
「 相澤の申し上げることに、革新などという言葉をあてはめられるのは、全く誤りであります。
 天子様のまします國に國家革新などということがありえよう筈はありません。
まず この點をはっきりきめてかかります 」
とて、政黨、財閥の積弊を痛嘆し、
ついで 靑年將校運動の本質は、上下一致の精神的合一をなんとかつくり上げたい、
それのみを念願するものだといい、
「 靑年將校が國家革新のためには、直接行動もあえて辭せぬ、
 などと 簡單に申されるのには、全く心外のいたりであります。
靑年將校の日夜切磋琢磨する實情を見れば、日本の國民として涙にむせばぬものがありましょうか 」
と 叫ぶように述べたてた。
なお、この第一日において注目をひいたことは、
彼が趣味を問われて 參禅修養と答えたことから、禅について問いただされ、
「 自分は東久邇宮のお伴をして仙台の松島瑞巌寺に行ったとき、
 殿下は中隊附將校に、
『 禅は國家のためにやるべきものだ 』 と 仰せられましたので、
これに感じて禅をやるようになりました。
自分は仙台市で有名な輪王寺の無外和尚の門を叩いたところ、
とうてい辛抱できるものではないから、と 斷られました、が、志を曲げず、
和尚にたのみこんで 輪王寺に止宿し、
約三年間、軍務の余暇をさいて參禅して自己を解脱し、一心御奉公の修養をつづけたのであります 」
と、修業の固さのほどを明かにした。
最後に、裁判長が、
「 仙台の和尚とは、いまなお交渉があるのか 」
と たずねると、
相澤は急に顔を伏せて泣きだした。
そして 涙聲で、
「 決行後、二回、面會に來られました 」
「 一番、心に殘った敎えはなにか 」
相澤は、キッとなって、
「 尊皇絶對であります。
 あらゆるものは尊皇絶對でなければなりません。
軍人は今こそ幾分なりとも懺悔して、天皇の赤子にかえれ 」
と、大聲をあげた。
公判第一日、
この事件に異常の關心をもってつめかけた傍聴のひとびとは、
相澤の人となりを目の当たりにみ、且つ、この裁判の前途の重大さをひしひしと感じ、
あらためて、陸軍部内の見えざる暗流、葛藤の實在を信じ、
ひとしく眉をひそめ、軍のために痛嘆した。

二・二六事件  大谷敬二郎  から


新聞報道・犯人は相澤中佐

2018年05月23日 04時20分37秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


東京朝日新聞 昭和十年八月十五日付夕刊

陸軍省では十三日午後一時四十分永田局長危害事件につき左の如く發表した
陸軍省發表
軍務局長永田中將に危害を加えたる犯人は陸軍歩兵中佐相澤三郎にして、
第一師團軍法會議の豫審に附せらるゝ事となり、
十二日午後十一時五十四分東京衛戍刑務所に収容せられたり。
兇行の動機は未だ審らかならざるも
永田中將に關する誤れる巷説を妄信したる結果なるが如し
同中佐は本月一日の異動において歩兵第四十一聯隊附より台灣歩兵第一聯隊附に轉じ
台灣総督府台北高等商業學校服務を命ぜられたるものなるが
その赴任準備を終り 十一日夜上京したものなり
【 寫眞は相澤中佐 】


犯人は某中佐

2018年05月23日 02時15分23秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


東京朝日新聞夕刊

【 
昭和十年八月十二日午後零時陸軍省發表 】
軍務局長永田鐵山少將は軍務局長室に於て執務中、
本日午前九時四十分某隊附某中佐のため軍刀を以て障害を受け危篤に陥る。
同中佐は憲兵隊に収容し目下取調中なり。


永田中將遭難に關し、
部内統制の善後措置を協議する陸軍三長官會議は十四日午後一時半から開會、
閑院參謀總長殿下の御臨席を仰ぎ、林陸相、渡邊敎育總監出席し、
林陸相から永田中將遭難に至る迄の情勢を説明した上
今回の事件は 事件そのものが極めて重大なるのみならず斯の如き事件を發生せしめたる原因が、
全く部内に於ける錯雑せる誤解や感情の疎隔等に基いた一種の雰囲氣により醸成せられたものであるから、
その根本原因を糺し 國軍をして眞にその本然の使命に立ちかへらしめる様、
今後凡ゆる適切な方法を講じ 肅軍の實を擧げる様にしたい。
其の爲には如何なる犠牲を払ふも敢へて介意すべきでないと思ふ。
・・旨の鞏硬なる信念を披瀝した。