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判決 『 被告人を死刑に處す 』

2018年05月31日 09時02分10秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


相澤三郎中佐判決全文

陸軍省發表
( 昭和十一年五月九日 午後十一時三十分 )
相澤中佐の永田中将殺害事件は豫て第一師團軍法會議に於て審理中のところ、
今次の叛亂事件に關聯し一部判士の更迭を要するに至りたる結果、
審理を更新し 四月二十二日以來五回に亙り 公判を開廷せり。
しかして裁判長は本弁論は現下の情勢上安寧秩序を害し、
且事実上の利益を害する虞ありと認め、
公開を停めて審理し 五月七日判決を宣告せり。
なお 本判決に對し相澤中佐は五月八日陸軍高等軍法會議に上告を爲したり。
判決
宮城県仙台市東六番丁一番地  士族戸主
臺灣歩兵第一聯隊 ( 原所属 )
豫備役陸軍歩兵中佐  從五位勲四等
相澤三郎
明治二十二年九月九日生
右の者にたいする用兵器上官暴行殺人傷害被告事件に附、
當軍法會議は檢察官陸軍法務官島田朋三郎与審理を遂げ判決すること左の如し。
主文
被告人を死刑に處す
押収に係る軍刀一振は之を没収す
理由の要旨
被告人は明治三十六年九月仙台陸軍幼年學校に入校し、
逐次 陸軍中央幼年學校、陸軍士官學校の過程を終え、
同四十三年十二月 陸軍歩兵少尉に任ぜられ、
爾來各地に勤務し累進して
昭和八年八月 陸軍歩兵中佐に進級と同時に歩兵第四十一聯隊附に、
越えて同十年八月一日 臺灣歩兵第一聯隊附に補せられ、
未だ赴任するに至らずして同月二十三日待命仰附られ、
次で同年十月十一日豫備役仰付られたるが、
豫てより尊皇の念厚きものなるところ、
昭和四、五年頃よりわが國内外の情勢に關心を有し、當時の常態をもって思想混亂し、
政治經濟外交等万般の制度機構孰れも惡弊甚しく 皇國の前途憂慮すべきものありとし、
之が革正刷新、いわゆる昭和維新の要ありとし、
爾來同志として大岸頼好、大蔵榮一、西田税、村中孝次、磯部淺一等と相識るに及び、益々その信念を強め

同八年頃より昭和維新達成には先ず皇軍が國體原理に透徹し、
擧軍一体愈々皇運を扶翼し奉ることに邁進せざるべからざるに拘らず、
陸軍の情勢はこれに背戻するものありとしてその革正を斷行せざるべからずと思惟するに至りたるが、
同九年三月、當時陸軍少將永田鐵山の陸軍省軍務局長に就任後、前記同志の言説等により、
同局長をもってその職務上の地位を利用し、名を軍の統制に藉り、
昭和維新の運動を阻止するものと看做しいたる折柄、
同年十一月
當時陸軍歩兵大尉村中孝次 及び陸軍一等主計磯部淺一等が
叛亂陰謀の嫌疑に因り軍法會議において取調を受け、
次で 同十年四月停職處分に附せられるに及び、
同志の言説その頃入手せる、いわゆる怪文書の記事等により、
右は永田局長が同志將校等を陥害せんしする奸策に外ならずとなし、深くこれを憤慨し、
更に 同年七月十六日
任地福山氏において敎育總監真崎大將更迭の新聞記事を見るや、
平素崇拝敬慕せる同大將が敎育總監の地位を去るに至りては、
これまた永田局長の策動に基くものと推斷し、總監更迭の事情その他 陸軍の情勢を確めんと欲し
同月十八日上京し、
翌十九日に至り一応永田局長に面會して辭職勧告を試みることとし、
同日午後三時過ぎ頃 陸軍省軍務局長室において同局長に面接し、
近時 陸軍大臣の處置誤れるもの多く、
軍務局長は大臣の補佐官なれば責任を感じ辭職せられたき旨を求めたるが、
その辭職の意なきを察知し、
斯くて 同夜東京市渋谷区千駄ヶ谷における前記西田税方に宿泊し、
同人 及び 大蔵榮一等により 敎育總監更迭の經緯を聞き、
且 同月二十一日福山市に立ち歸りたる後、入手したる
前記村中孝次送附の敎育總監更迭事情要點と題する文章     リンク→教育総監更迭事情要点 ・村中孝次 
及び作成者發想者不明の軍閥重臣閥の大逆不逞と題する     リンク→軍閥重臣閥の大逆不逞 
いわゆる怪文書の記事を閲讀するに及び、                           リンク→ 昭和の安政大獄 
敎育總監真崎大將の更迭をもって永田局長等の策動により、
同大將の意思に反し敢行せられたるものにして、
本質においても亦手續き上においても、統帥權干犯なりとし
痛くこれを憤激するに至りたるところ、
偶々 同年八月一日 臺灣歩兵第一聯隊附に轉補せられ、
翌二日 前記村中孝次、磯部淺一 兩人の作成に係る
肅軍に關する意見書と題する文章を入手閲讀し、     リンク→粛軍に関する意見書 < 配布版 > 
一途に永田局長をもって元老、財閥、新官僚等と欵かんを通じ、
昭和維新の氣運を彈壓阻止し、皇軍を蠧とつ害するものなりと思惟し、
このまま臺灣に赴任するに忍び難く、
この際自己の執るべき途は永田局長を殪たおすの一あるのみと信じ、
遂に同局長を殺害せんことを決意するに至り、
同月十日 福山市を出發し翌十一日東京に到着したるも、
なお永田局長の更迭等情勢の變化に一縷の望みを嘱
しくし、
同夜前記西田税方に投宿し、同人及び來合せたる大蔵榮一大尉と會談したる末、    リンク→今日本で一番悪い奴はだれですか 
自己の期待するが如き情勢の變化なきことを知り、
茲に愈々 永田局長殺害の最後の決意をかため、
翌十二日朝 西田方を立ち出で
同日午前九時三十分頃陸軍省に至り、同省整備局長室に立寄り、
かつて自己が士官學校に在勤當時 同校生徒隊長たりし同局長山岡中將に面會し
對談中、給仕を遣わして永田局長の在室を確めたる上、
同九時四十五分頃同省軍務局長室に到り、
直ちに佩おびいたる自己所有の軍刀を抜き、同室中央の事務用机を隔て
來訪中の東京憲兵隊長陸軍憲兵大佐新見英夫と相對し居たる
永田局長の左側身邊に急遽無言のまま肉薄したるところ、
同局長がこれに氣附き、新見大佐の傍に避けたるより、
同局長の背後に第一刀を加え、同部に斬付け、
次で同局長が隣室に通ずる扉まで遁れたるを追躡じょうし、
その背後を軍刀にて突き刺し、
さらに同局長が應接用円机の側に到り 倒るゝや、
その頭部に斬付、
因って
局長の背後に 長さ九・五センチ深さ一センチ 及び長さ六センチ、深さ十三センチ、
左側頸部に長さ十四、五センチ、深さ四、五センチ
の 切創外 數個の創傷を負わしめ、
右刀創による脱血により
同局長を 同日午前十一時三十分死亡するに至らしめ、
もって殺害の目的を達し、
なお 前記の如く永田局長の背部に第一刀を加えんとしたる際、
前示新見大佐がこれを阻止せんとし、被告人の腰部に抱き付かんとしたるにより、
右第一刀を以て永田局長の背部を斬ると同時に
新見大佐の上官たることを認識せずして 同大佐の左上膊部に斬付け、
因って
同部に長さ約十五センチ、幅約四センチ、深さ骨に達する切創を負わしめたるものなり。

法律に照すに、
被告人の判示所爲中、
永田少將に對し兵器を用いて暴行を爲したる點は
陸軍刑法第六十二條第二號に、
同人を殺したる點は刑法第百九十九條に、
新見大佐の上官たることを認識せずして同人の身體を傷害したる點は
同法第二百四條に各該當するところ、
右、用兵器上官暴行殺人 及び傷害は一箇の行爲にして數箇の罪名に触るゝものなるを以て、
同法第五十四條第一項前段第十條により その最も重き殺人罪の刑に從い、
その所定刑中死刑を選擇して處斷すべく、
押収に掛る軍刀一振は本件犯行に供したる物にして、被告人以外の者に屬せざるを以て
同法第十九條第一項第二號第二項により これを没収すべきものとす。
よって 主文の如く判決す。