あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

相澤中佐片影

2018年05月28日 09時43分04秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

相澤三郎
 一
私が中佐にお目にかかったのは二度です
昭和八年一月五日
山海関西関に於きまして戦死した兄幸道の遺骨を懐いて白石に帰着致しましたのが、
同年二月十日午前八時半で、九時から親族を交えて極く内輪の慰霊祭を行ひました
他人としては当町分会長長谷川大尉、小学校長五十嵐氏が入って居ました
神主の祭文中、ふと目を動かした時、
一人の軍人----巨大な身体、襟章は十七、じっと下を凝視してゐるのが私の目に入りました
式が終わるまで誰だらう、十七と云えば秋田だが誰だらう、とのみ考へてゐました
私には今でもはっきり其の姿が見えます
膝をしっかり合わせて、拳をしっかり握って、下を凝視して居られた姿が
その方が相澤少佐殿でした
後に聞いたのですが遺骨の着く前八時頃には停車場に居られ、
遺骨を迎へに出た人々は何か用があるのだらうかと思ったさうです
愈々汽車の到着間近になるとプラットホームに入り他の人々と離れて独りブリッジに
倚りかかって居られたさうです
遺骨がつくと、皆のあとから又構外に出て自動車が動き出すと
一番最後の自動車に「乗せて下さい」と云はれて来られたのださうです
式が終わっても、しばらくは霊前に座して依然として同じ態度を持して居られました
久しうして始めて私達に挨拶されましたが、多くのことはおっしゃいませんでした
唯一言
「遠藤さんはまだまだ死なし度はなかった。今死んでは遠藤さんは死んでも死に切れはしない」
とポツリポツリおっしゃいました
それから白石町分会長長谷川大尉と話し出されました
大体こんな内容でした
遠藤さんはすばらしく偉い人だ
こんな偉い人を出したのは白石町の名誉だ
と 力をこめておっしゃいました
分会長は仕方なく相槌を打って居たやうでした
話はたまたま多聞師団長の事に移りました
(其の頃は第二師団が凱旋したばかりで、
白石町では近日中に多聞師団長を招待し、胸像を贈呈する予定になって居ました)
すると中佐殿は之を聞いて非常に立腹されたかのやうで、
「多聞師団長に胸像をやるよりりも、遠藤さんの記念碑でも建てるべきだ」
と口を極めて申されました
それから私に 「遠藤さんの骨を持たせて写真をとらせてくれ」 と申されました
私は喜んで承知しました
中佐殿はゴムの長靴をはかれ、縁側の外へ立たれました
私が骨をお手に渡そうとした刹那、中佐殿は大きな声を上げて泣き出されました
私は、愕然としました
いまでもあのお声は耳の底にこびりついてゐます
しばらく続きました
私も泣いて了ひました
居られること二時間ばかりで多額の香料を供えられ、「お葬式の時には参ります」
と 申されてお帰りになりました
之が最初にお目にかかった時の印象でございます
葬式の時は、現地戦術で参れないと言ふ御懇篤な御書面がありました
同年六月、
青森の歩兵第五聯隊の陸軍墓地に満洲事変戦歿者の記念塔が建立されましたので
其の除幕式に参列し、奥羽戦で帰ります途中、
ふと中佐殿にお目にかかり度くなって秋田に下車し直ちに聯隊に中佐殿を訪問しました
中佐は非常にお喜びになり、
(其の喜び方は想像以上でした。私は下車するまでは、やめやうかとも再三思ったのでした)
丁度会議の最中だからとおっしゃって三十分許り待たせ、
すぐにお宅に案内下され、奥様や御子様方に紹介して下さいました
汽車時間まで一時間余りビールの御馳走になり乍らお話しました
そのときこんなことをおっしゃいました
「あの白石に向ったとき、私は八日に東京まで遠藤さんを御出迎えへしたのです。
そして遠藤さんとゆっくりお話しましたのでした。
それから用を達して十日に白石でお出迎へしたのでした」
「遠藤さんはほんとうに偉い人だった。死なれて残念でたまらない。
しかし遠藤さんの精神は私達同志が受け継いでゐる
遠藤さんのお考へは実に立派なものだった。今其の内容を話すことは出来ない。
十年待ってください。話します。今に遠藤さんの為めに同志が記念碑を建てます」 と
お別れの間近に中佐殿は
「どれ、遠藤さんに報告しやうかな」 と言はれて奥に入られたので私も後から参りますと
立派な厨子を床の間に安置し、兄の写真がかざってありました
私も拝みましたが私は泣いて了ひました
私は今かうして書いて居ましても目頭が熱くなって来てたまりません
それから御子様三人を連れられて無理に送って下さいました
発車致しました
挨拶致しました
しばらく経って窓から顔を出すと中佐殿は未だ立って居られます
又敬礼されました
私はびっくりして頭を下げました
胸は一杯でした
しばらくは泣いてゐました
これが二度目でした
八月に進級御礼の挨拶を戴きました
私は中佐殿にお目にかかったのは僅か二度ですが、どうしても忘れることが出来ません
兄の写真を見る度に中佐殿が思ひ浮べられます
新聞を見る度に中佐殿のお姿が髣髴と致します
中佐殿が私の如き一面識もない人間に接せられるあの御態度、私はなんと申してよいかわかりません
私は中佐殿を維新の志士の如く方と思って居りました
熱烈なる御精神
あの温容
私のこの手紙がもしお役に立ちますならば私は兄と等しく喜びに堪へません
この手紙は一日兄の霊前に供へました
何卒国家の為に中佐殿御決行の精神を社会に明かにして下さるやうに
兄と共に神かけて御祈り申し上げます
二度お目にかかった時の感想、私の心持はとても申し上げることは出来ません
表現するに適当な言葉がありません
只如何としても忘れることの出来ないありがたいお方としか申すことが出来ません
・・・遠藤美樹(満州事変で戦死の遠藤中尉の弟)

相澤中佐殿の件に就きて生等も甚だ吃驚罷在候
如何なればああした直接行動に出でられ候や判断に苦しむものに御座候
嘗て弟戦死壮候節、
最初に秋田より片道二時間余の行程を大吹雪を冒してお訪ね被下しは相澤中佐殿に候ひき
物静かなる中にドッシリとした真の武士とも申上ぐべき方と拝し候が、
果して後に新聞にて拝見仕るに武道の練達者との御事成程とうなづかれ申候
相澤中佐殿と拙家何等の縁故も御座なく候に、他の何人も未だ来らざる前、
大吹雪をついて二時間半の遠路をわざわざと軍務御多望の折柄御来訪被下
し御芳志に感謝申上げ候に、「自分の時間が六時間近くありましたから」
「エライ方の御霊を拝し度くて」 と御言葉僅かに申されて、何んの御接待を致す暇もなく御出発被遊候
後小生聯隊に御礼言上に参上せし時も極く物静かにして礼を厚くして御迎へ被下、
 いたく恐縮仕候事御座候ひき
其の後も一度、弟の墓地新築せるを聞かせられ、又わざわざ墓参に御光来被下、
武人の温情に小生等一同感激仕り、
郷党人も亦 「日本の軍人は、否日本軍は是れだから強いのだぞ」
と、郷軍分会員と共に称し申候ひし程に御座候
かかる物静かな真の武人とも申上ぐべき中佐殿が、何故ああした行動に出でられしか・・・・中略・・・・
真に事此処に至り見るに中佐殿としても決して無謀なること
(事実無謀なるもその信念に於て)とは考へられず、生等の関知し得ぬ処の何事かに義憤を感ぜられて、
為すべからざる行動を敢えて為されねばならざりしか、
その真情到底普通人の考へ及ぶ処に非ずと存ぜられ候
出来申せしことは如何とも致方御座なく候も、
あの風格をお慕ひ申上ぐる生等として出来うべくんば否是非是非寛大の御処置を望むものら御座候
・・・小田島 皓橘(戦死者の兄)

相澤様のやうなお方にお側近くお仕へ出来ましたことはほんたうに嬉しく、一生の光栄であり、
又今後の力でもあると存じて居ります
御病床にあらせられながら、辱けなき事には存じますが、大君のため、
御国のための御事より他にあらせられなかった相澤様が只今の御心の内、御察し申上げられます
よく御重態でいらせられし頃、
「今泉、私はベッドの上で死にたくない。戦地で死ぬのだから、お前もその気でしっかりやってくれ」
と仰せになりました
私も不束乍ら神に祈誓をなし、どうしても御恢復あらせられる様にと御仕へ致しました
御食事を遊ばすにも決して神に御挨拶なくしては召あがられしことなく、君の為めに御働きになる
 武勇の士であり乍ら、数にも入らぬ私共への御やさしき御言葉、誠に誠に今にも
頂きし御言葉は生活の力でございます
かかる義勇の御方なればこそ、神様が相澤様を御選びになられましたのかも存じませんが、
世上の風評を御あび遊ばさるる御心中如何ばかりで居らせらるるかを御推察申上げます
唯々この上は神に祈り居る私で御座ゐます
・・・今泉 富与(慶応大学看護婦)

あのやうな温厚な人がどうしてあんな重大なことを決行されたか
これは私達青年にとりて重大な問題であります
熱烈な皇魂の保持者、天子様への忠誠をもつて終生の念願とせられて居た中佐殿が今回の義挙は、
余程重大な意義があるやうに思ひます
否、断言します
重大なものが確にある
重大なものがなくてあの温厚な人がどうして起たれやうか
私達は三思三省すべき秋です
「天子様の御地位は安全ですか」
「お国は発展してゐますか」
「皇民は安心して生活してゐますか」
私は相澤中佐殿が私に語られた言葉の二、三を発表します
「私が日夜憂へてゐるのはお国の事です」
「尊皇心程重大なものはない。尊皇心なきものは日本人ではない」
「永田さんは立派な現在の政府の官吏であるかも知れないが、大御心の解らない人だ」
「若い人は決して無謀な事をやってはいけない。前途ある青年は、皇国を守る為、
 天子様の御為めに生命を大切にして下さい」
「全世界の人々は皆天子様の赤子です。赤子お互ひに争ふことはまちがいです」
「軍人の中に尊皇心の欠けてゐる人が居る。
 又軍人精神の真義の解らない人々が居るのが残念でたまらない」
「私達の行動は、皇道精神の命ずる処に従って動くのです。大御心を奉じて行けばよいのです。
唯天子様への御奉公あるのみです。全身全霊を以て天子様に忠誠を尽くすのです」
・・・一青年(福山市)

「オーイ」
えらい大きな声で手を上げてタクシーを呼んだ
然しタクシーは通り過ぎた
東北第一の都会仙台市の目抜きの場所でのことである
一九三五年を気取ったつもりの男女や、世間体を考へること磁針のやうな人々が振り向くことさへ
沽券にかかはると言はぬばかりに変な横目を軍服の中佐につかっている
何処を風が吹くか
成程中佐にとっては世の中は濶い

「まだいけない。一ッチ二、一ッチ二」
闇夜でも懐中電灯で照らされながら「候補生は膕が伸びなくてはいけない」と速歩行進をやらされた
又ある日曜日に訪問すると被せてあった半紙を取って饅頭を山盛にした大きな皿をだして
「食べよ」と言はれる
遠慮してしばらく手を出さない
此教官は黙って又紙を被せて皿をもとの位置にしまった
・・・士官候補生の時、軍事教官としての中佐に薫陶された某大尉から聞いた話

タクシーの話
饅頭の話
人の思惑も詰らぬ見栄も微塵だに意になく、タクシーを止めることのみ一念になりうる
純一無雑の心
これこそ禅の極致とも言ふべきではあるまいか
黙って饅頭をしまふ
何んと言ふ無言の教訓であらうか
・・・○○大尉

所謂永田事件
今此処に此の事件の真相を明かにせんとするものでもなく、
相澤中佐の行動の是非を論ずるものでもない
行動の是非は、神国に於ては只神のみ之を裁断する
浅薄低劣なる俗評と一知半解の編者の如きものの能くする所ではない
平素の相澤中佐
三千年の古、涯しなき葦の原と地平線に連る蒼空を指して八紘一宇と言ひ放った
大八州の民族の国魂を其の儘に見る人格
玲瓏、明快、清浄、神鏡の国魂を其の儘に具現されたかの如き人格
仏のやうな慈悲溢るる人間味
或る先輩は歎息した
「日本人にああ言う人が居るかと思ふと、否ああ言ふ人が日本民族のほんとうの姿かと思ふと、
日本人に生れたのが嬉しくなる」と
ああ此の相澤中佐
今や空前の不祥事の惹起者として、皇軍軍紀の紊乱者として喧々囂々の非難の中に立って居る
相澤中佐は典型的大和民族である
傑人偉人と言ふよりは大和国魂のそのままを昭和の御代に見る魂の人であった
総ての判断、総ての批評はここより発すべきである
然らずんば天神地祗に怒るであらう
・・・R生

未見の知己、真に相澤中佐を物語るものと言ひ得やうか
皇国の政治は「祭事」と心得申候
「親が子に臨むが如し」 と解して居り候
然るに大正以来の政治は、「駈引」、「政略」を以て終始し居り候事は、
小生体験を以て之を承知罷在候
殊に昭和と成りては政府は娼婦にも劣る白々しき詐欺虚言を吐いて平然たるに
至りては何と申様も無之
皇国として刺客の起るは当然の儀と存候
相澤中佐殿が国賊永田を誅されし理由を、陸軍省公然の発表として新聞に発表せられし処を
読むに曰く、「謬まれる巷間の浮説を盲信し云々」と
嗚呼、吾相沢中佐は単に世間の噂を盲信して軽挙妄動するが如きオッチョコチョイ、
三文奴に無之候
歩兵第四十一聯隊の将兵が心より悟る処に聞け
曰く
「隊中の将兵は中佐を高山彦九郎と呼べり」
「隊中の将兵一人として中佐を悪く言ふものなく、皆其の謹厳にして温厚なるに心服せり」
「中佐は不言実行の人なり」

而して小生が玆に軽挙妄動に非ざる証拠として特筆仕り度きは、中佐が国賊を誅すべく上京さるる時、
小生指導下にあり常に中佐に私淑しありし一青年
(中学を卒業し、目下青年団長を勤めをる)が岡山まで同車せしが、中佐は同青年に訓へて曰く、
「此際青年として勤むべきは皇魂の宣布である。腕力に訴ふるが如き暴挙は慎んでなすな」と
自己は今君側の奸を除かんとして行途にありつつ、農村青年団長に向っては、
団員に皇魂の扶植を訓論し、青年の熱して為す易き軽挙妄動を訓戒せらるる如きは、
之果して「巷間の浮説」に心を狂はすが如き者の為す可き行為に御座候や
永田鉄山なる匹夫が自己の奸才を弄して皇国を蠧毒しつつありし事は、
十目の視る処、十指の指す処に御座候
殊に今回の人事に就き、鉄山が中心になって大いに力をつくしたる事は新聞にすら戴り居り候処
然るに陸軍当局は自ら欺き、而して人を欺き以て其の威信を保ち統制を図らんと策せるも是れ却って
陛下の皇軍を冒瀆し奉り、世人より侮蔑さるるの基と成り、益々統制を乱す者に外ならず候
長上の命令に服従するは啻に陸軍の規定たるのみならず実に人道に御座候
然れども荀も皇国の御為めに成らざる事を看過し自己一身保安の為め荏苒日を送るは、
本当の----口頭だけでなく----日本精神を有する者の肯んぜざる処に候
故に陸軍の幹部にして真に統制を欲するものならば権力を以て部下を威圧するの妄念を去り、
真に部下軍人をして心服さすに足るの行を執らんことを敢えて忠告致度候

・・・在福山市の一老人からの書信

昭和七年頃、私が中佐殿に初めてお会ひした時いたく感動したことはその大自然的な、
そして雄偉なことであった
初対面の時笑ひ乍ら申された言心録の一章「身に老少ありて心老少なし。
気に老少ありて裡に老少なし。
能く老少なきの心を執って以て老少なきの裡を体すべし」は其の後私の生活の帰順になった

昭和九年二月頃、中佐殿が中耳炎を病んで慶応病院に入院しておられた頃、
私は友人と二人私共が病室に這入って直感したことは病状の只ならぬことであった
患部を繃帯して寝台の上に呻吟して居られる姿は痛々しい限りであった
「中佐殿如何で御座いますか」と申上げると、
中佐殿は苦痛を噛みしめて奥様を呼ばれ無理に寝台の上に起き、
「ハイ、相澤の病気はいいです。君はいけない。部屋に入った時の敬礼がいけない。
君は少しいい。
然し君は礼儀を知らぬ。上官の部屋に入って外套もぬがぬ様な将校はいけないのだ」
といきなり注意を受けた
私共が冷寒をおぼえて恥入って威儀を正すと、
 「それでいいそれでいい」と申されて満悦至極の態であった
その時中佐殿はこんなことも言はれた
「私は今は病気を治すことだけにする。
若い偉い人が居られるから御維新の事はその方々にたのむ」と
私共がやがて病室を辞し去り、靖国神社に参拝の途次二人はつくづく中佐殿の偉さを語った

中佐殿は退院して間もなく私の宅をお訪ね下さった
木綿絣にセルの袴をつけ、日本手拭を腰にはさんだ例の通りの質素な服装で
「やあ---さん、入院中お見舞の節は大変𠮟ったそうですネ。ハッハハッハ---」
と割れるやうな大声で笑はれた。
雑談してゐる中ヒョイと私の落書した高杉晋作の「真個浮世価三銭」の句を床の間に見つけて
いきなり剥ぎ取って、「これはいいこれはいいこれ下さい」と言ふなり懐にねぢ込んでトントンと階段を降り、
さよならと言葉を残して帰って行かれた
私は友人と中佐殿の人生観の深奥所を交々語り合ったが遂に語り尽せなかった

相澤中佐殿は何故切腹しなかつたか
俗人は自刃して自分のしたことを正義化しやうとしたり、世間に悪く思われまいとしたり、
或は懺悔と絶望の中から逃避したりしやうとする
然しこれ等の心境は決して最上のものとは言ひ得ぬ
即ち自己の行動を死に依って正義化しやうとする所に未だ未だ真に正義を体得し
切って居らぬ一面を見出し得る
世間に悪く思われまいとする心情の中に俗世間に阿ねる所がある
又懺悔と絶望を死に依って逃れやうとする心の中に透徹し切れぬ人間の弱さを曝露してゐる
中佐殿はその行動を死に依って正義化せずとも、既に正義の十分を体得してゐた
また俗世間に阿諛して自分のしたことを美化しやうとか世間の人気を呼ばうとか言った
風の俗臭粉々たる人物ではなかった
尚又懺悔と絶望とを透過せられた正しい強い人であった
そして非合法が悪いとか、合法がいいとか言ふやうな世間並の人物ではなくて、
常に合法と非合法の上に居て神様と共に居ての立場から正邪を裁いてゐた人である
斯くの如き中佐殿に向って、「相澤は何故切腹しなかったか」
と言ふ世間の詰問に対して私は笑ひを禁じ得ぬものである

相澤中佐は無思想であったか
禅の不立文字とは、文字にも口舌にも現はし得ぬ所の高い悟道の境地を言ふたものである
一切の思想、一切の智慧を超越した所に悟道の真諦がある
中佐殿は俗思想、俗智を超越して不立文字の理念を把握して居られた

相澤中佐は脳を病んでゐたので大それたことをしたのか
「相澤中佐は中耳炎を患って以来脳を冒されてゐた」 と言ふ風評を耳にしたが、
私はその然らざることを断言する
中佐殿は止むに止まれぬ義憤から発したものである
松陰の辞世の
かくすれば かくなるものと知りながら
止むに止まれぬ大和魂
と言ふ歌の真意を探ると、中佐殿の高い心境の一端を窺い知ることが出来る
「かくすればかくなる」と云ふ判断を下すのは頭脳のよさを示すものであって、
中佐殿が大事を決行するまでに智慧をしぼり、一切の手段を尽し乍ら、
如何に心志を用ひたかは知る人ぞ知るである
一切の智慧をしぼり、手段をつくして最後には、
「かくすればかくなる」と言ふ理窟めいた所から飛躍して一段高い心持に進んで、
「かくすればかくなる」と言ふ事すら考へない心境、無我の境に入った
そして唯「止むに止まれぬ」心持で「天に代って不義を討つ」心境にまで到達せられたのであらう
かかる高い心境には脳を病んでゐる病人や俗智、小智、邪知の人は到底達し得ない
唯大智の人、透澄清明なる頭脳の人のみが達し得る
要するに中佐殿は俗人に理解する事の出来ない高い精神世界に居て、
革命的道念を体現した人である
そして吾々にとっては軍隊の上官であったと共に維新運動の上官であった
・・・
中佐の一辱知であり、後輩である編者の一友人の寄せた文

軍務局長天誅の号外が飛ぶ
やったな 誰だろう
某中佐
見るもの唖然
青年の奮起かと思ひの外 分別盛りの中佐だ
「相澤中佐殿」 だ
此の号外を見た時相澤中佐に面識のある人凡てが其の御人格を想起して叫泣したにちがひない
相澤中佐と既知の間なるを知る某少佐問ふて曰く
問 「昨日の号外は相沢中佐殿だろう」
答 「知りません」
「知らんふりするなよ中佐級には相澤中佐殿より外にあんな事が出来る人はないよ
然し あの人のやった事には絶対に私心はない 立派な御方だ」
絶対指針なきは中佐に面識ある人総ての観察だ
我々は全く神様だと尊崇するのだ
相澤中佐との初対面は中佐と青年将校三、四名との会談中だった
其の御言葉は東北弁で一向にききとれなかったが、
ただ何となく立派な御人格に頭が自然に垂れた
中佐の部下思ひには誠に敬服する
福山聯隊で経理委員の頭をやって居られた時、
其の監督下の工場で働く兵が夜間作業をせねばならぬ様になった其の時は、
夜能々工場にいって兵の苦労をねぎらはれた
兵は夜に至るまで働くのに自分は家に居られない
兵と労苦を共にして御奉公せねばならないとの尊い御心持だったのだ
・・・×××尉