・・・斯クノ如クニシテ信仰上私ハ
實ニ絶大ナル責任ヲ自然ニ深ク感ズル様ニナリマシテ
其ノ進路上ニ横ハル障害ハ何物ヲモ突破スル様々ナ、
セナケレバナラナイ様ナ白熱化ガ生ジマシタ。
而シテ 其ノ障害ガ偶々本事件ダッタノデアリマシタ。
即チ本件ガ統帥權干犯ナリト信ジマシタ時ハ、
是ニ身ヲ挺身スルノガ拙者相澤ノ神ヨリ授カリシ職分ト思ヒマシタ。
ソレデアリマスカラ此ノ事ヲ解決セズシテ赴任スルコトハ良心ノ苛責ニ堪ヘマセン、
神ノ御前ニ卑怯ノ極印ヲ与ヘラルゝノデアリマシテ、
今迄幼少ノ時ヨリ實父ノ敎訓ヲ遵守シテ參リマシタ拙者相澤ガ安佚生存慾ノタメ樂ナ職務ニ天命ヲ排シテ、
ソレヲ看過シテ此ノ有難過ギル命 即チ 物質上豊カナラント考ヘラルゝ職務ニ此儘就クハ、
恰モ進デ艱難ニアタリツツ來リシ尊キモノヲ一切放棄シ、玆ニ信仰ノ活動ヨリ生存慾ノ餓鬼道ニ陥ルモノニシテ、
自刃スル以上ノ罪惡ナリト深刻ナル思索ヲ經、且ツ又過去ニ於テ幾度カ戰場ニ屍ヲ晒スベク望ミマシタガ、
武運ツタナク未ダ一回モ満洲ノ地サヘ踏ンダコトノナイノハ、
今日ヲ神ガ御与ヘ下サル爲メデアルト信ジ此ノ事ガ拙者相澤ノ天職ナリト確信シマシタ。
然モ陸軍上層部ノ各種ノ姑息掩蔽妥協等ノ事實、殊ニ政治的野心ノタメノ幕僚ノ運動、
軍隊ノ實情ノ低下等アラユル點ヲ想起シ、
玆ニ多年御側ニ御仕ヘシアル観念ハ遂ニ結局此ノ統帥權干犯ハ恰モ絶大ナル魔力ニ擁セラレテ、
永田將軍ガ猛虎ノ勢力ニ乘ジ、狂態以テ其ノ先頭ニ禁闕ニ迫ラントサレシ此ノ重大時期ニ際シ、
辱クモ 拙者相澤ガ御守衛ノ任ニ當タリ居ル光榮ヲ担ヒアリシヲ以テ
勇躍シテ魔力ノ中心ヲ一刀ノ下ニ潰滅セシメントスルノ境涯ナノデアリマシタ。
決シテ若イ友人、其ノ他ノ文章ニ深ク共鳴シタノデ實行シタノデハアリマセン。
決行ハ勿論客観的ニハ以上ノコトガ加味シテ決行ノ動機ヲ起シタコトハ是認シマスガ、
拙者相澤ノ主観ト申シマスカ思想ト申シマスカ信念ト申シマスカ、
夫ハ他人ノ批判ニ委ネマスガ、
其ノ根底ニハ生來ヨリ蓄積シテ來マシタ 天皇信仰ヨリ來リタルモノデアリマシテ、
殊ニ最近ハ漸次 「神ヲ信ズルガ故ニ吾アリ」
トノ境涯ガ昭和九年春大病後ヨリ深刻ニ不抜ノモノガ心底ニ白熱化シ來リマシタタメト自分デ思ヒマスガ、
決シテ其ノ間ノ消息ハ十分他人ニ説明デキマセン。
永田將軍ヲ殺害シテ臺灣ニ赴任スルト思フトハ
一兵卒ト雖考ヘザルコトナリト檢察官殿ハ申サレマシタガ、
私ハ此ノ事ヲ決行シナイデ赴任不可能デアリマシテ、
此ノ事決行後ニ於テ始メテ赴任スルコトハ
神ノ御前ニ於テモ耻ヂザルニ至ッタノデアリマシテ、
コノ一點ニ於テモ一般ノ人ハ勿論、
檢察官デサヘ御了解下サルコトヲ得マセンデアリマスカラ、
御判斷ヲ御願ヒ申スノガ無理ダト思ヒマス。
然シ決シテソーデナイノデアリマスカラ、
故意ニ頑張ルノデアリマセンカラ本心ヲ屈テ諾々タルコトハ出來マセン。
前ニ申上ゲマシタ通リ私ハ、 殺伐ナ人間デナイノデアリマスガ、
全ク世人ノ夢ニモ考ヘナイコトヲ決行シマシタ心境 ハ 幾ラ説明申上ゲテモ
御了解ナサルル人ハ唯私ノ尊敬スル友人----------------等ガ
私ノ眞情ヲ了解シテ下サレタ位カトモ思ワレマス。
陛下ノ御爲メニ賊ヲ亡ボス以上ノ道徳ハアリマセン。
而シテ 大賊ハ常ニアルモノデハアリマセン。
之ヲ退治スル境涯ナ置カレタル人生ノ活動ハ無上ノ光榮デアリマス。
・・・相澤三郎 ・上告趣意書 1
相澤三郎 中佐 (少佐時代 )
「 偕行社で買物をして赴任する。」
永田軍務局長を刺殺したあと、相澤中佐はこういった。
決行の前夜、西田税のうちに来合わせた大蔵大尉が 「 明日の予定は・・・・」
と、きいたときもこういったし、
決行直後山岡重厚中将から 「 これからどうするか 」 と きかれたときもこういった。
・・・・
私もこのことばをはじめて聞いたときは奇怪に思った。
禅的な表現かとも思った。
禅的な表現には禅に通じない私などからみれば、飛躍があって、思念の追随しかねる場合がある。
が、相澤中佐の公判で述べたことのあとをたどれば、
奇怪であると思った ことばの意味が、おぼろげながら私にも理解できそうである。
先ず相澤中佐自身が 「 認識不足 」という 当時の流行語によって
「 偕行社で買物をして赴任する 」を 否定している。
偕行社で買物をして赴任しようなどと考えたことが、
認識不足だったことに、決行後すぐ気づいたと、述懐しているのである。
八月十二日、すなわち決行の日の朝、西田のうちを出るまえに、
ひそかに書きしるした手記のなかに
「 皇恩海より深し。然れども本朝のこと寸毫も罪悪なし 」
の 句がある。
十一月二十日事件のあとの 昭和九年の年末から、十年の年頭にかけてのころ、
はじめて相沢中佐は永田軍務局長を斃す決意を抱いた。
十一月二十日事件は結局、
青年将校を弾圧しようとする永田軍務局長の策謀の一つの現れで、
辻政信の如きは、そのお先棒をつとめたにすぎないというのが相沢中佐の判断であった。
が 最初の決意は大岸大尉の反対にあって、一応おさめた形になっていた。
その後 天皇機関説問題をめぐる真崎教育総監の更迭があり、
そのいきさつに統帥権干犯事実があることに憤慨、
七月の上京となり、その途中むかしの箱根越えに該当する丹那トンネルにさしかかった際、
頼三樹の詩を吟ずるうち、ふと 永田少将一刀両断の決意を再燃させたが、
これは自らの反省によって思いとどまった。
が、八月になって
磯部、村中が不穏文書配布を理由に免官となり、自分自身は台湾に転任ときまった。
ひとたび雲煙万里台湾に渡ってしまえば、内地の土を踏むことは容易でない。
このまま台湾に渡ることは、相澤中佐の 「 尊皇絶対 」 の 信念がゆるさなかった。
思えば半歳以上にわたって考えぬいたすえの決行だった。
そのときの境地が 「 本朝のこと寸毫も罪悪なし 」であり、
したがって「 偕行社で買物をして赴任する 」だった。
悩みぬき、考えぬきして越えてきた山坂道、
その末にひらけたものは、意外にも坦々とした道だったのだろう。
それらが「 本朝のこと寸毫も罪悪なし 」の 決意だったのだろう。
この決行が契機となって、
これまで横道に迷いこんでいたものを正道にかえる出路を見出し、
あいともに 一つの道を一つの方向に進むにちがいないと思ったのだろう。
それが挙軍一体一致して御奉公にはげむことであり、
そこにおのずから維新の端緒がひらけるというのが、
相澤中佐の祈念であり祈願だったのだろう。
が、それは決行前後のしばしのあいだの安心だった。
決行後まもなく、それがたちまち峻険の難路と変じた。
それに気づいたことが
「 認識不足 」 の 自覚であり、嘆きだった。
決行後、麹町憲兵隊に収容された相沢中佐は、
そこで直ちに底意地の悪い憲兵曹長の取調べをうけなければならなかった。
それが 「 認識不足 」 を 自覚させられた最初だった。
が、それは同時に自分の無力に対する嘆きだった。
自分の力が足りないから人々を正道へ導くことができなかった、
自分がもっと偉大であったら、それができたであろうにという・・・。
「 偕行社で買物をして赴任する 」 は、狂愚のことばでなく、
決行前後のひととき、ようやくたどりついた安心の境地から発したことばだった。
それが意外に執拗強靭な抵抗の前に、
はかなく崩れて 「 認識不足 」 の 自覚を強いられることとなったのである。
たとえ かすかであっても、光明さしいれる一つの破壊孔を打通すれば、
闇を闇と さとらぬものも、さし込む光明に闇をさとり、
ひとたび打通された破壊孔を力あわして、
さらに拡大し、もっと光をさし入れる努力をすべきはずだった。
が 闇に慣れたものはそうはしなかった。
闇に慣れた習性から突然の光明に、かえって目がくらむのか、
それとも闇に適合さした自分の姿を光明にさらすのを恐れるのか、
わずかながら打通された折角の破壊孔を、再びふさぐことに懸命になるのだった。
そこに 「 認識不足 」 が あった。
偕行社で買物をすることもできず、台湾に赴任することもできず、
相澤中佐は代々木の衛戌刑務所の狭い官房に大きな体を収容された。
そこは相澤中佐が、天誅成就を祈願した明治神宮とは、
あいだに代々木練兵場をはさむだけのすぐちかくだった。
・・・・
相澤中佐の決行は、
平素から中佐が抱懐する 「 尊皇絶対 」 の 信念が、時に遭って閃発したものだった。
相澤中佐における 「 尊皇絶対 」 は、中佐自身が公判廷でも述べているように、
同時に 「 国民も絶対 」 と いうことだった。
君主主義は同時に民主主義でなければならないということである。
日夜 民安かれとのみ祈る天皇の主観、
すなわち
大御心における民主主義国日本は
同時に
大君の御為には、わが身ありとは思わぬ、
国民主観における 君主主義国日本でなければならないということである
ひたすらに民安かれと祈る大御心は
「 天下億兆一人も其処を得ざる時は皆朕が罪なれば」
の御宸念となる。
・・・・挿入・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天皇ノ御主観ニ於ケル民本國
臣子ノ主観ニ於ケル君主國
即チ上ハ下ヲ、下ハ上ニ相互信倚、
相互求引シテ萬代不易ノ皇國日本ヲ構成護持ス。
外來ノ所謂民主國ニアラズ、所謂君主國ニアラズ、
實ニ君民即親子ノ世界無比ナル哲理國家、家族體皇國日本ナリ。
・・・第四章 皇國日本ノ國家哲理 / 第一編 維新皇國ノ原理 / 『 極秘 皇國維新法案 前編 』
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とすれば一人どころか、
おびただしい貧窮に泣く農村青年を部下に持つ青年将校が、
抽象的に軍人勅諭の忠節を信奉し、それを部下に向かって説くだけで、
わがことおわれりと、澄ましておられるかどうか。
尽忠報告の義務のみあって、その国に拠って生活する権利を保障されていない兵。
その兵に代表される庶民にかわって、腐敗堕落の財界、政界、軍閥権力層に、
革新の鉾先を向け反省を促することは、軍人勅諭の忠節の具体的実践であるはず。
ただそこに権力層が、とってもって己の安泰のためのとりでにしている法があった。
如実に自己権力の擁護のためには、
その源泉である私有財産と国体との抱き合わせを法に規定することも憚らなかった。
しかし法は法である。
それは必ずしも権力層の利益のためのみとは限らない。
その法を超越するところに青年将校の苦悩があった。
相澤中佐 半歳の苦悩もそれだった。
が 苦悩の果てに開かれたものが
「 本朝のこと寸毫も罪悪なし 」 の 「 尊皇絶対 」 の 安心の境地だった。
法を犯した相沢中佐は 法によって裁かれればよかった。
しかし 「 尊皇絶対 」 は 如何に裁かれようとするのか。
まずくすれば尊皇絶対、国民絶対の維新があきらめられて、
あとに、国民絶対、尊皇排斥の革命のみが残る憂いがある。
末松太平 著
私の昭和史 蹶起の前後 から
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今回ノ行動ニ出デタル原因如何。
宇宙ノ進化、日本國体ノ進化ハ、
悠久ノ昔ヨリ永遠ノ將來ニ嚮ツテ不斷ニ進化發展スルモノデアリマス。
所謂、急激ノ變化ト同ジ漸進的改革トカ稱スルコトハ、人間ノ別妄想デアリマス。
絶對必然ノ進化ナノデアリマシテ、恰モ水ノ流れノ如キモノデアリマス。
今度ノ事デモ、其遠因近因トカ言って分ケテ考ヘルベキモノデハアリマセン。
斯クノ如ク分ケテ考ヘルノハ、第三者タル歴史家ノ態度デアリマシテ、
當時者タル私ニハ説明ノ出來ナイモノデアリマス。
相澤中佐ガ永田中將ヲ刺殺シテ後、
台湾ニ行クト云ッタノハ全クコレト同ジデ
絶對ノ境地デアリマス。
之ヲ不思議ニ思ッタリ、
刑事上ノ責任ヲ知ラナイ等ト言フノハ、
凡夫ノ自己流ノ考ヘ方デアリマス。
又 之ヲ以テ相澤中佐ノ境地ニ當嵌アテハメルノハ間違ヒデアリマス。
今回ノ事件ハ、多少大キイ事件デアリマスカラ問題ニサレル様デアリマスガ、
私ノ氣持チデハ當然ノ事ト思ッテ居リマス。
・・・ 渋川善助の四日間
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絶対ノ境地
伊勢ノ大神ガ相澤ノ身體ヲ一時カリテ、天誅ヲ下シ給ウタノデ俺ノ責任デハナイ。
俺ハ一日モ早ク台湾ニ赴任シナケレバナラナイ。
皇軍全體ヲ救ウタメニハ、永田一人グライハ物ノ數デハナイ。
法律ハ國民全體ノ利益ヲ計ルタメニデキテイル。
ソレヲ害スル者ヲ制裁スル、
私ガ決行ニ到達スルマデニハ、熟慮ニ熟慮ヲ重ネ、
絶對ノ境地ニ立ッテ決行シタモノデアル。
絶對ノ境地、即チ神示デアル。
俺ノ行動ハ明治大帝ノ御遺訓ニ添イ奉リ 皇軍軍旗ノ振作ニアルノダ。
永田ヲ倒サネバ天皇ノ軍隊ハ一體ドウナル
正義ニ基ク行動ハ法律ニ超越スルノダ。
・・・東京憲兵隊麹町分隊での取調
確信ニヨル行動
私ノ心ノ中ノ覺悟トシマシテハ、スベテ確信ニヨル行動デアルカラ、
事ノ成ルト成ラザルトヲ問ワズ、
行動ヲオワレバ、ソノママ任地台湾ニ赴ク考エデアリマシタ。
永田閣下ヲ刺シタソノ場デ割腹スルナドノ責任云々ニヨル行動デモナケレバ、
昭和維新ノ捨石トシテ名ヲ殘ストイウヨウナ考エモ全然ナカッタノデアリマス。
シカラバ、ナゼ、永田閣下ヲ殺シタカト申セバ、
軍ニトッテ重要ナル軍務局長トシテノ仕事ヲ永田局長ガ十分ニツクシテイナイ
ソノ故、軍ハ危機ニ臨ンデイルト信ジタノデアリマス。
・・・軍法会議予審
大悟徹底ノ境地
被告ハ國法ノ大切ナコトハ知ッテイルガ、今回ノ決行ハソレヨリモ大切ナコトダと信ジタノカ
ソウデアリマス 大悟徹底ノ境地ニ達シタノデアリマス
決行後台湾ニ赴任シヨウト思ッタノハ、マダ、國法ヲ考エナカッタノカ
何度モ聽カレルガ、ハッキリ説明シマス。
ワタシハ憲兵隊デ二三時間話ヲスレバ憲兵司令官ニハ、
私ノ精神ガワカッテモラエテ、
オ前ハ謹ンデ台湾ニ赴任シテオレ、追ッテ處分ヲ沙汰スル
トイワレルモノト思イマシタ。
コレハ幕僚アタリガ自分ノ精神ヲ理解シ、
ザンゲシテイタナラバ、ソウナルモノト思ッテイタノニ、
コノ期待ガ外レタノデ認識不足デアッタトイウノデス
被告ハソウナルト思ッテイタノカ
イイ条件ノ場合ハソウデアルと思ッテイマシタ
惡イ場合ハ
憲兵隊デ殺サレルト思ッテイマシタ
ソノ認識不足ハ憲兵隊デシッタカ
憲兵曹長ノ取調デ知リマシタ
・・・公判に於いての杉原法務官の問に ・・大谷敬二郎著 「昭和憲兵史」から
神様ニ依ル天誅
森健太郎分隊長立會イノモトニ小坂慶助曹長ガ訊問ニアタル
只今カラ、今朝陸軍省ノ軍務局長室ニ於イテ、
永田少將ヲ殺害シタ、殺人事件ニ關シ、現行犯トシテ訊問ヲ行イマス、尋問中敬稱ハ用イマセン
永田ノ如キ者ヲ、俺ハ殺シハセン
殺サント云ウガ、ソノ手ノ傷ト、コノ軍刀ノ血潮、局長室ニ殘シタ貴官ノ軍帽ガ、何ヨリノ證據デハナイカ
伊勢神宮ノ神示ニ依ッテ、天誅ガ降ッタノダ。俺ノ知ッタ事デハナイ
例エ伊勢神宮ノ神示デアッテモ、直接手ヲ下シタノハ貴官デス。ソレヲ聽イテイルノデス
伊勢ノ大神ガ、相澤ノ身體ヲ一時借リテ、天誅ヲ下シ給ウタノデ、俺ノ責任デハナイ。
俺ハ一日モ早ク台湾ニ赴任シナケレバナラナイ
事情ノ判ッキリシナイ内ハ、此処カラ歸ス事ハ出來マセン。
人ヲ殺セバ法律ト云ウモノガアリマス、ソノ責任ハ取ッテ貰ワナケレバナリマセン
曹長ハ、法律ト云ウガ、
ソノ法律ヲ勝手ニ造ル人達ガ、御上ノ袖ニ隠レ、
法律ヲ超越シタ行爲ガアッタ場合、一體誰ガ之ヲ罰ッスルノダ。
神様ニ依ル天誅以外ニ道ガナイデハナイカ
・・・小坂曹長、戦後の回顧 ・・実録 相澤事件 鬼頭春樹 著から