昨日浜ノ上氏來駕本三日
同氏に左記要旨の返事
書置き候要旨 「 弁護
人の事は未た全々考へ
居らざる事は申述候通
りにして從つて其人選に関
しても何の所存無之候も
拙生と心を同する人例
は西田大岸菅波村中大蔵
磯部等の意志を本として
御世話被下度貴意を願
度奉悃候 敬具
先日は磯部兄の差入難
有拝受 御蔭にて壮健
讀書も初め居り候
皆様の御健勝を御祈
申上候 敬具
九月三日 相澤三郎
西田税様
・・・何の所存無之候も・・・ハ
・・・「 今のところ何の所存無之候も 」 との意に
御推察置被下度
永田中將刺殺の相澤中佐 けふ 起訴
公判は來月上旬か
前軍務局長永田鉄山中將殺害事件は去る八月十二日事件直後から加害者相澤三郎中佐を
第一師團軍法會議豫審官が二ヶ月間にわたり嚴重取調べた結果、
既報の如く豫審終結し島田朋三郎檢察官の手許で起訴狀作成中のところいよいよ完成したので
二日第一師團軍法會議長官柳川平助中將の決裁を經、
同中將はこれを川島陸相に報告をなすとともに
別項の如く相澤中佐を陸軍刑法の 「 用兵器上官暴行罪 」 をもつて正式起訴した
かくて本件は第一師團軍法會議公判に附せられ 近く判士長 ( 少將 ) 以下判士三人 ( 大佐二人、中佐一人 )
法務官一人、計五人を裁判官として任命することになつたが
法務官は今回の事件のため特に先般第十師團より着任した
新井朋重法務官が當り島田檢察官がこれを立會ふことに決定している。
公判の開廷期日は判士任命後記録の謄冩、閣議その他の公判準備に約一ケ月を要するため
大體十二月初旬と見られ 事實審理ならびに辯論に十數日を要する關係上
特別の支障なきかぎり十二月二十三、四日ごろまでに結審のうへ
判決言渡しは明春に持越すと陸軍當局では観測している
・・・大阪朝日新聞 昭和10 年 11 月 3 日
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相澤中佐は十月十一日豫備役に編入せられたが、
其の審理は第一師團軍法會議岡田豫審官によって續行せられ、
十一月二日豫審終了し、用兵器暴行、殺人及傷害事件として同日公訴を提起せられた。
而して其の後、歩兵第一旅團長佐藤正三郎少將以下が夫々 判士長、判士に任命せられ、
辯護人は鵜澤聡明博士、特別弁護人として陸軍大學教官満井佐吉中佐と決定した。
一方、本事件發生の當初より一部に於ては所謂怪文書の頒布によりて、相澤中佐の行爲を激賞し
單なる私憤私慾に發したるものにあらず。
眞に天誅とも稱すべき事件にして已むに已まれぬ大和魂の流露である。
等と稱しつつあつたが、
公判期日の切迫と共に、西田税 及直心道場の一派にあつては愈々其の立場を明かにして
「 國體明徴--肅軍--維新革命 」 は正しく三位一體にして、相澤中佐蹶起の眞因亦茲にあり。
從って 「 超法律的の團體、超法律的維新に殉ずるものの受くる所、又同様超法律的でなければならぬ 」
と強調するに至り、左記文章等によつて他の革新團體に飛檄し、
公判公開の要請及減刑運動を慫慂し、以て昭和維新達成の機運醸成に努めた。
・
左記
國體明徴と肅軍と維新とは三位一體なり。
國體明徴が單なる學説竝學説信奉者の排撃に止まるべからず、
諸制百般に歪曲埋没せられたる國體實相の開顯、
而して此の維新せられたる皇國態勢を以てする全世界への皇道宣布ならざるべからざる以上、
國内に於て反國體の現狀を維持せんとする勢力 ( 機關説擁護=資本主義維持=法律至上主義=個人主義自由主義 )
が現に政治的權力を掌握しあり、
又内外勢力の切迫より檯頭だいとうせる所謂金權ファッショ勢力 ( 權力主義者と金權との結託せる資本主義修正、
統制万能主義勢力=官僚ファッショ は此の一部 ? ) が政權を窺窬きゆしつつある今日に於て、
まつろはぬ者を討平げ、皇基を恢弘すべき實力の中堅たる皇軍の維新的肅正は、
國體明徴、維新聖戰に不可欠の要件焦眉の急務なり。
一、
國體明徴運動進展途上に於ける陸軍首脳部の態度は、新陸相に於て全權ファッショ的野望を抱きながら、
郷軍の彈壓と永田の伏誅に餘儀なくせられて表面を糊塗したる欺瞞的妄たり。
現陸相に於て國體護持、建軍本義に恥ずべき右顧左眄たり。
對政府妥協たるは何ぞ、
是れ皇軍内部に巣食ふ反國體勢力への内通者、
ファッショ勢力乃至自由主義明哲保身者流の國體に對する無信念、
皇軍の本義に対する無自覺に禍せられたるによらずんばあらず。
國民は皇軍の現狀に深甚なる疑惑と憂慮とを抱かざるを得ず。
一、
永田事件直後に於ける陸軍當局の發表は、相澤中佐を以て
「 誤れる巷説を妄信したる者 」 とせる、
眞相隠蔽、事實歪曲たり。
次で師團長軍司令官會議に於て發したる陸相訓示は全く皇軍の本義を解せず、
時世の推移に鑑みざる形式的 「 軍紀粛正 」 「 團結強化 」 の鞏調にて
其の結果は忠誠眞摯なる將士の處罰たり。
此の方針を踏襲せる現陸相は其の就任當初の國體明徴主張を空文として政府と妥協したるのみか、
至純なる郷軍運動を抑壓するの妄擧に出で來る、國民の憤激は誘發せられざるを得ず。
一、
現役のみが軍人に非ず、國民皆兵軍民一體なり。
全國民は皇軍の維新的肅正に對し十全の要望督促をなさざるべからず。
一、
今や皇軍身中の毒虫を誅討する相澤中佐の豫審終結し、近く公判開始せられんとす。
國民は眞個軍民一體の皇運の扶翼を可能ならしむべく、皇軍の維新的肅正を希求し、
此の公判を機會として軍内反國體分子の掃蕩を要求すべし。
註
⑴ 公判は公開せざるへからず。
一部首脳者の姑息なる秘密主義は國民をして益々皇軍の實情に疑惑を深めしめ軍民一體を毀損し、
大元帥陛下の御親率の國民皆兵の本義に背反するものなり。
⑵ 三月事件、十月事件の眞相、總監更迭に絡る統帥權干犯嫌疑事實を闡明せんめいならしめ責任者を公正に處斷して
上下の疑惑を一掃し軍の威信を恢復すべし。
註
肅軍は單に軍部内に於ける國體明徴なるのみの意義に非ず、
肅軍の徹底は破邪顯正の中堅的實力の整備を意味す。
反國體現狀維持勢力が政權を壟断し、國民至誠の運動を蔑視しつつある今日、
言論決議勧告のみにして實力の充實、威力の完備なき糾弾は政府の痛痒を感ずる所に非ず。
實に肅軍は國體明徴の現實的第一歩にして維新聖戰當面の急務なりとす。
以上
更に直心道場は皇道派民間團體の牙城として
西田税の指導下に雑誌 「 核心 」 「 皇魂 」 及新聞紙 「 大眼目 」 等を總動員して相澤公判の好轉、
維新運動の推進のため宣傳煽動に努めつつあったが、
就中 「 大眼目 」 は西田税、村中孝次、磯部淺一、澁川善助、杉田省吾、福井幸 等を同人として、
宛然怪文書と異る所なき筆致を以て 「 重臣ブロック政党財閥官僚軍閥等の不當存在の芟除 」 を力説し、
「 革命の先駆的同志は異端者不逞の輩等のデマ中傷に顧慮する所なく不退轉の意氣を以て維新革命に邁進すべき 」
ことを煽動し、之を軍内外に廣汎に頒布する等 暗流の策源地たるの観を呈して居つた。
同年 ( 昭和十年 ) 十二月末の岩佐憲兵司令官の報告通牒に依れば
一、相澤中佐を支持するものとして
北一輝 西田税一派 勤皇維新同盟 直心道場 大日本生産党 愛國者
建國會 黒竜會 國粋大衆党 鶴鳴荘 國體擁護聯合會 三六社 愛國靑年聯盟
二、靜観的態度を持するものとしては
明倫會 皇道會 國民協會 愛國政治同盟の大部
三、反相澤の態度を持するものとしては
大亜細亜協會及民間浪人高野清八郎 山科敏 社會大衆党 大日本國家社會党 新日本國民同盟の大部
として居る。
現代史資料4 国家主義運動1
「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」
(五) 相澤中佐公判を繞る策動 から
相澤三郎
相澤事件關係訊問調書
被告人尋問調書
被告人 陸軍歩兵中佐相澤三郎
右ノ者ニ對スル殺人持兇器上官暴行傷害事件ニ附
昭和十年八月十二日麹町憲兵分隊ニ於テ
本職ハ右被告人ニ對シ訊問ヲ爲スコト左ノ如シ
・
氏名年齢所属部隊官等級族称本籍地出生地住所は如何
氏名ハ 相澤三郎
年齢ハ 四十七年
所属部隊ハ 台湾歩兵第一聯隊附台湾総督府 台北高等商業学校服務
官等級ハ 陸軍歩兵中佐
族称ハ 士族
本籍地ハ 宮城県仙台市東六番町一番地
出生地 福島県白河町以下不詳
住所ハ 広島県福山市御門町千五百三十七番地
「 位記勲章記章年金恩給を有セザルヤ 」
從五位勲五等瑞宝章ヲ持ツテ居リマスガ、今回ノ行賞ノ方ハ未ダ不明デアリマス
記章ハ大正御大礼記念章、昭和御大礼記念章、日韓併合記念章ヲ持ツテ居リマス
「 刑罰ニ處セラレタルコトアリヤ 」
判キリ記憶ハ有リマセンガ、懲罰ハ二三回アリマス
昭和六年十月事件ノ際大隊長トシテ無斷上京シ重謹愼ニ處セラレタコトガアリマス
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今回上京セラレ永田軍務局長ヲ殺害セラレタル經過ヲ問フ
私ガ異動ノ内命ヲ受ケマシタノハ八月一日ノ暮方、
臺灣ノ歩兵一聯隊カラ赴任家族携行ノ電報ガアリマシテ、
初メテ今度臺灣ニ赴任スルトイフコトヲ知リマシタ。
私ガ實際ニ知リマシタノハ八月三日ノ官報デ異動ヲ知ッタノデアリマス。
別ニ之ト云フ感ジモ有リマセンデシタ
上京ト云フコトハ種々ノ意味デ上京シマシタ。
特ニ臺灣ニ赴任スルカラト言フ様ナ意味デハ有リマセン。
一、最近下痢ヲ致シマシテ養生ヲ致シテ居リマシタノデ、
早ク荷物ヲ纏メ終ツテカラ上京シ様ト思ツテ居リマシタ。
一、永田軍務局長殺害ノ目的デ上京シマシタガ、
此ノ考ヘヲ判ツキリ持ツタ事ハ大分前カラデアリマシテ、
此ノ事ハ家族ニモ部隊ノモノニモ言フタコトハ有リマセン。
一、福山ヲ出發シタノハ八月十日午前八時十八分發ノ二等列車デ、軍服ノ儘上京シマシタ。
殺害ノ兇器ハ自分ノ佩用シテ居ル軍刀デヤル決心デシタ。
午后一時大阪驛ニテ途中下車シ、第四師團長官舎ニ自動車デ參リマシタ。
[ 東久邇宮稔彦王 ] 師團長殿下ニ轉任ノ御挨拶ヲ致シマシタ。
夫レカラ直ニ引返シ自動車デ梅田驛ニ着イタノハ二時一寸過ギデアリマシタ。
師團長宮殿下ハ二十九聯隊ノ中隊長當時部下ニアリマシタノデ時々御拝謁ニハ伺ツテ居リマス。
一、午後四時四分大阪發拓殖行列車ニ乗車シ亀山ニテ乗換ヘ午后九時山田驛着、
同夜山田驛前ノ旅館ニ一泊シ 翌朝十一日午前五時三十分神宮ニ參拝シ、
午前八時三分山田驛發列車ニテ途中名古屋ニテ乗換ヘ午後九時十九分品川驛ニ着、
省線電車ニ乗換ヘ原宿驛ニ下車シ明治神宮ノ第一鳥居ノ前ニ參拝シ 圓タクニ乗リ
渋谷區千駄ヶ谷 西田税ノ所ヘ參リマシテ
約ク一時間ニ亙リ西田ト共ニ雑談シ、午後十一時頃同家ニ一泊致シマシタ。
一、八月十二日午前七時頃起床シ
同八時西田サント奥サント三人デ朝食ヲ喫シ、
同九時頃同家ヲ辭シ、
圓タクニ乗リ陸軍省裏門カラ乗リ入レテ受附ニ參リマシタ。
受附ニ山岡閣下ハ何処ニ居ラレルカト聞イタ処、偶然通リカカリノ給仕ガ直グ案内シテ呉レマシタノデ、
整備局長ノ外ノ廊下ニ持ツテ居ルト、ソノ給仕ガ直ニ案内シテ閣下ノ室ニ入リマシタ。
ソノ時マント、トランクヲ入口ノ処ニ置キマシタ。
一、山岡閣下ニ御進級ノ挨拶ヲ致シマスト、ソレニカケ給ヘト言ヒマシタカラ腰ヲ卸シ、
永田閣下ニ會ヒタイト言ヒマスト、何ノ用件カト言ヒマシタカラ
「 別ニ申上ゲル程度ノ事デハナイ 」 ト言ヒマシタ。
閣下ハ給仕ニオ茶を持ツテ來ル様ニ命ジ給仕ガ茶ヲ持ツテ來タ時ニソノ給仕ニ對シ、
私ハ 「 永田閣下ガ部屋ニオ出ニナルカ見テ來テ呉レ 」
ト言ヒマスト給仕ハ直ニ參リマシタ。
ソノ間ニ私ハ閣下ニ對シ國家ノ爲オ盡シニナルコトヲ申上ゲマスト、
閣下ハ平常ノ癖デ盡さナイト言ヒ、機嫌ヲ損ゼラレタノデ
「 私ハ只今ヨリ永田閣下ニ御會ヒシテ參リマス 」
ト申上ゲタ処、
閣下ハ
「 下手ナコトヲ言フト眞崎閣下ニ御迷惑ヲカケルカラ注意セヨ 」
ト言ハレマシタ。
給仕ガ永田閣下ガ室ニ居ラレルコトヲ知ラセテ來タノデ、
閣下ニ對シ挨拶ヲシテ整備局長室ヲ出マシテ軍務局長室ニ向ヒマシタ。
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局長室ニ入ルト同時ニ佩用ニ軍刀ヲ抜イテ無言デ局長ノ机ノ処ヘ走ツテ行キマシタ。
當時局長ノ机ノ前ニ二名ノ將校ガ居リマシタガ、直チニ永田閣下ニ斬付ケマシタ処、
永田閣下ハ机ヲ離レテ之ヲ避ケラレタ爲、
第一刀ハ傷ヲ負ヒマシタカドウカ不明デスガ、
永田閣下永田閣下ハ軍事課長ノ室ノ方ヘ走ラレマシタノデ之ヲ追ヒ、
扉ノ処デ第二刀ハ永田閣下ノ背後ヨリ刺シマシタ。
コノ時私ハ軍刀ノ柄ヲ右手ニ握リ左手デ刀身ヲ握リ力一杯刺シタル処、
永田閣下ハ倒レラレ直チニ起キ上ガリ
軍務局長室ノ應接テーブルノ処ニ走ラレ仰向ケニ倒レラレマシタノデ
更ニ左耳上部ニ斬付ケマシタ。
當時在室ノ將校二名ニ負傷セシメタカ否カ、其ノ將校ガ如何ナル動作ヲシタカハ不明デスガ、
此ノ時隣室ガ喧シクナッタノデ入口カラ廊下ニ出テ刀ヲ鞘ニ納メ、整備局長室ニ行キ
山岡閣下ニ對シ
「 皇軍ガ現時幕府ノ軍ノ如クナリツツアルニ對シテ天誅ヲ加ヘタリ 」
トテ永田閣下ヲ殺害シタコトヲ述ベマシタ処ヘ、雇員及歩兵大尉 ( 氏名不詳 ) ガ來テ、
之ニ附添ハレテ負傷シタ左指ノ手當ノ爲陸軍省内ノ衛生局衛生課デ繃帯中、
憲兵ガ來マシテ直チニ自動車ニ乗セラレ麹町憲兵分隊ニ運バレマシタ。
永田軍務局長ト貴官トノ關係如何
部下ニナツタ事ハアリマセンガ、
私ガ昭和二年春熊本歩兵第十三聯隊中隊長ノ時
永田閣下ガ陸軍省カラ動員檢査ニ來ラレタ時、將校集會所デ御話サレマシタ。
其ノ時始メテ面識致シマシタ。
直接話ヲ交シマシタノハ本年七月十八日上京シ、同日ハ偕行社ニ泊シ翌十九日陸軍省ニ至リ、
午後三時頃陸軍省軍務局長室デ午後五時頃迄意見ノ交換致シマシタ。
私ハ現在ノ時局ニ鑑ミテ軍務局長ノ位置ニ至ルハ不可ナリトテ辭職ヲ勧告シマシタガ、
永田閣下ハ此ノ事ニ就テハ一言モ述ベラレマセンデシタ。
最後ニ十一月事件ノ責任ヲ問ヒマシタ処、永田閣下ハ全ク關係ナキヲ以テ責任ナシト答ヘラレ、
今日ハ時間モ無イカラ機會ヲ捉ヘテ話スト述ベラレマシタ。
私ハ之デ永田閣下ノ人物ニ對シ認識シ陸軍省ヲ辭シ
十九日夜ハ 千駄ヶ谷 西田税方 ニ宿泊シ、
翌二十日午前八時五十五分頃臨時特急デ趣キ
二十日夕刻大阪デ下車シ前以テ電報シテ置キマシタ、
和歌山歩兵第六十一聯隊附 歩兵大尉 大岸頼好 ニ出迎ヘラレ共ニ旅館ニ參リマシタ。
大岸大尉ハ私が青森歩兵五聯隊大隊長當時の中隊附將校デアリマス。
種々快談ノ上翌二十一日ハ師團長宮邸ニ伺候、昼頃一路福山ニ歸リマシタ。
永田閣下ニ對スル考ヘを述ベヨ
現時皇軍ガ私兵化セルハ國家ノ危機ニシテ、
此ノ事ハ全軍將校ノ責任ト考フルモ、
尚三月事件、十月事件等軍ノ不統制ガ社會ニ暴露セラレタルコトノ
最大ノ責任者ハ永田軍務局長ニアルト信ジ、
此ノ國家重大ノ秋何トカシテ皇軍ヲ正道ニ復歸セシムルコトニ日夜煩悶心身ヲ勞シテ居リマシタ。
最近村中、磯部ノ意見書ガ一般ニ配布セラレアル今日、
靑年將校ノ妄動トナリ又軍ノ威信ヲ失墜シ、之ガ爲責任者タル陸相、軍務局長等ガ軍人以外ノ者ニ葬ラレルコトアレバ、
皇軍ノ威信ハ益々失墜スベシ、此ニ於テ皇軍ヲ正道ニ復歸セシムル爲ニハ一刻モ速カニ機會ヲ作リ、
天聽ニ達セシメント日夜苦心ノ結果、
永田閣下ヲ殺害スルノ決意ヲシタモノデアリマシテ、永田閣下個人ニ對シテハ何ノ恨ミモアリマセン。
唯皇軍正道化ノ機ヲ作ル爲ニ犠牲トシタモノデアリマス。
今日ノ社會ハ腐敗堕落ノ極ニ達シ此ノ儘ニ進マンカ、我ガ皇國日本ハ蒙古ノ二ノ舞ヲ演ジ、
遂ニハ瓦解ノ運命ヲ辿ルヲ恐レタカラデアリマス。
山岡整備局長トノ關係如何
私ガ大正十四年ヨリ大正十五年ノ間陸軍士官學校附トシテ同校劍道助敎ノ監督ヲ致シマシタ當時、
山岡閣下ハ生徒隊長トシテ居ラレマシタ。
閣下ハ正直ナ閣下デ、尊キ方トシテ心服シテ居リマス。
爾來儀礼的ナ文通ハ今迄書イタコトハアリマセン。
永田閣下殺害後如何ニスル考ヘナリシヤ
私ハ生命ノアラン限リ皇國ニ盡サザルベカラズトノ信念ヲ有スルヲ以テ、
天ニ代リ永田閣下ヲ殺害シタノデアリマシテ、
相澤個人トシテハ臺灣ニ赴任シ、
与ヘラレタ職務ヲ完フシナケレバナラナイト信ジテオリマシタ。
永田閣下殺害之件ニ關シ誰カニ相談し、或ハ洩ラシタルコトナキヤ
誰ニモ相談又ハ洩シタコトハアリマセン。
他ニ洩シタリ、或ハ相談セバ党ヲ結ブコトニナリ、
皇軍將校トシテ党ヲ結ブコト夫レ自體ガ私兵化スルコトデ、私ノ信念ト反スルコトニナリマス。
随ツテ本擧ニ關シテハ妻子ハ勿論、西田ニモ斷ジテ洩シテアリマセン。
永田閣下ヲ殺害シタルトキ使用シタルハ此ノ軍刀ナリヤ
此ノ時証第一號トシテ押収セル被告人本件使用ノ軍刀ヲ示ス
此ノ軍刀ニ相違アリマセン。
本刀ハ私ガ陸軍士官學校卒業ノ際亡父ヨリ貰ヒマシタモノデ、河内守藤原國定・・ノ銘ガアリマス。
本件ニ付陳述スベキコトアリヤ
ナシ
相澤三郎
右讀聞ケタル処相違無キ旨申立ツルニ附署名拇印セシム
昭和十年八月十二日
麹町憲兵分隊
陸軍司法警察官
陸軍少佐 森健太郎