緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

弦高の高い楽器で、シャワー上がりの温まった状態で夥しいとまではいかないが汗をかきながら弾いたアルハンブラ

2022-06-25 02:17:25 | ギター
寝る前の1曲。
途中致命的なミス有り。残念。

弦高の高い楽器で、シャワー上がりの温まった状態で夥しいとまではいかないが汗をかきながら弾いたアルハンブラ
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弦高の高い楽器で弾いたアンダルーサ

2022-06-25 00:50:20 | ギター
この1週間は独奏曲を弾く時間が取れなかった。
しかし寝る前に1曲弾くことにした。

音のびりつき、間違いは、弦高の高い楽器のせいか、それともオンライン会議でのどを潤した一部水の飲み物のせいか。2022年6月25日00:21
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講習会受講始まる

2022-06-24 23:47:28 | 心理
今日は2年前に受講した講習会で親しくなった2人の方とオンライン飲み会。
先ほどお開きに。
zoomのカメラが入らなかったり、パソコンを再起動するのに約10分、ラインを立ち上げるの約8分、友人のパソコン不調で入れなかったりで(寿命の来たパソコンなので)、結局予定開始時刻の1時間後に開始するはめになってしまったのだが、彼らは全然怒らないのですね。
これまで職場や大学時代の先輩などから、もたもたしていると激しく責められた経験から、遅れることに対する恐怖心が体にしみ込んでいるのだが、1時間遅れても全く怒られなかったというのは久しくなかったことだ。
朝の通勤電車でも駅のエスカレーターでも、ゆっくり歩いているとせかされることが結構ある。結構神経を使う。
せかすやつは嫌いだな。そういうヤツは1秒でも早く出世したいと思っているのだろう。

昔の自分、心が苦しくなる前の自分は約束の時間に何時間遅れても平気でいられるほど、ズボラな性格だった。
でも大学時代の後半から自分をせかすようになっから、苦しむようになってしまった。

人間の心の苦しみに向き合って30年以上。
自らの問題解決のために膨大な本を読み、あらゆる心理療法を経験し、1日の多くの時間をこの心の問題解決のために費やしてきた。
医療、すなわち内科、外科などと違って、心の問題を解決するための療法、ノウハウは確立されていない。
こういう療法を適用すれば、この問題は必ず治るといったものは残念ながら今の心理療法の世界には無いに等しい。
心理療法を仕事とする方は、恐らく自己不全感を抱き、治せないのにお金をいただいていることに罪悪感を感じている方もいるに違いない。

心の問題の解決って、物凄く難しいことなのです。
安易に公言出来ることではない。

しかし長年の自分の自らの体験から、こういうことをすれば快方に向かう、ということがおよそ分かってきた。
今その考え方を講習会やその道のプロと接することでさらに深めたいという気持ちが強まってきている。

来月から新たなステージでの講習を受講することに決めた。
そこでまたいろいろな人たちとの交流があるだろう。
一生の同志となれるような関係の仲間を作れることを期待している。

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対人恐怖症の根本解決とは何か考えてみた

2022-06-21 21:01:17 | 心理
この世には、対人を始めとする様々な恐怖という感情を恒常的に感じるがゆえに、生きづらさを感じながら生きている人がたくさんいる。
このようなことを言う私も、30年以上にわたって恐怖感情に苦しんできた人物である。
しかし長い間の試行錯誤を重ねた後、ある方法(というか考え方)に気付いてから徐々にではあるが時が経過する度に恐怖感が軽減され、今ではかなり能動的な生活を送れることが出来るようになった。
その速度はたまねぎの薄皮をゆっくりと時間をかけて剥がしていくような速度ではあったが、遠回りのようで実は本質的な解決に向かうものだと今では確信している。

恐怖症と言っても千差万別で容易にパターン化出来るものではなく、人によって固有な症状であると言えるが、ここから先に述べることは下記のことを前提にしていることを初めに書いておこうと思う。

・「人」に対する恐怖であること(人から攻撃される、責められる、嫌なことを言われる、される等)。
・特定の場面、特定の人、性別、年齢等に対して恐怖感を感じるのではなく、いつも、絶えず、24時間寝ても覚めても感じていること。
・恐怖の強さのレベルが不安といったレベルではなく、まともに感じるとギャーと叫んで気絶してしまうほどの強さのレベルであること(従って日常生活ではまともに恐怖を感じないようにたいていは意識外にしまい込んでいる)。

では何故、このような堪えがたい辛い恐怖感情を恒常的に持つようになってしまったのか考えてみたい。
それは、今までの人生過程で、恐ろしい体験を長きに渡って数多くしてきたことの結果なのである。
しかも誰も本当の意味で理解してくれたり、助けてくれたりされることがなかったため、恐ろしい目に会うのは自分が悪いからだ、自分に責任があるからだと受け止めざるを得ず、それを頑なに信じて来た結果なのである(自己否定の構えの内面化と潜在意識への自動回路形成)。

対人恐怖症者は自分も他人も信じることが出来なくなっている。意識のうえでは人を信じたいと思っても、無意識ではそれに反してブレーキがかかるやっかいなものだ。
そして次第に他人と接することの辛さから、人を遠ざけるようになり、自分の殻に閉じこもり、孤独な人生を歩むようになる。

そうすると対人恐怖者は殆どの場合、このような状態があまりにも辛く受け入れ難いがために、自分のこの状態を憎むようになるのである。
「これさえなければ、私は他人と同じように幸せな人生を送ることができるのに!」と。
そしてこのあまりにも辛い現実の自分を抹殺し、今すぐにでも楽になって他の皆と同じように生まれ変わって幸福な人生を歩むことを強迫的に求めるようになるのである。
(ここが引っ込み思案とか内気とか言われる人と異なるところでもある)

現実の自分を抹殺して理想の人間像を強迫的に追い求めるということはどういうことであろうか。
それは現実の辛い自分を意識の外に追いやり、自分が思い描く理想の人間像になるべくすさまじい努力をするということである。
自分が思い描く理想の人間像とは具体的にどういう人間か。
例えば、他人に迷惑にならない人間、他人から責められない人間から始まって、人から一目置かれるような優秀で立派な人間、大勢の人から尊敬される人間などである。
しかしその選択の代償はあまりにも大きい。
このすさまじい努力をすればするほど現実の実際の自分との乖離が進行していき、気付いたときには回復不能か回復するのに数十年を要するまで心が崩壊するに至るのである。
乖離が進行すると当然のごとく心理状態がますます悪化していくのであるが、たいていはその悪化による辛さをさらに意識の外に追いやり、意識上は平然とした人間であることを自分にも他人にも演じようとする。
その繰り返しの惨たらしい、精神に著しい害を及ぼす作業も限界に達すると、次第に人の声が聞こえなくなる、しゃべることが出来なくなる、視界が自分の周りしか無くなるなどの症状が現れ、重度のうつとなり精神活動は停止するに至る。
この先に待ち構えているのは自殺である。
私は自殺者で多いのはこのパターンではないかと思っている。

対人恐怖症者は原初体験として恐らく幼い頃に、実際は何も悪くないのに、自分が悪いと受け止めるざるを得ない、しかも誰も味方になってくれないという体験をし、その体験をきっかけとして自分心の中に、絶えず自分を否定し、裁くもう一人の自分を作ってしまったと考えられる。
そして心の中の自己否定するもう一人の自分は年月を重ね、不幸な体験を重ねる毎に雪だるまのように徐々に強大化していき、気が付いた時には意志ではコントロール不能なほど手を付けられない巨大な敵にまでなってしまっているのである。
例えは良くないが、体のあちこちを骨折し、大やけどを負い、深手を負った人間に、もう一人の人間が「そんな状態では駄目だ」、「そんな状態のあなたが大嫌いだ」、「もっと強く活発になれ!」と責め立て、その人を猛烈な勢いで絶えず殴ったり、蹴ったりしている、そのようなことが同じ人間の心の中で起きているということなのである。普通の人にとっては信じがたいことではあるが。
このようなことは経験の無い方には想像の域を超えていると思うが、私の経験からすると重度の恐怖症の方の心の中では間違いなくこのようなことが恒常的に起きていると思っている。

ではこの深刻な状態から抜け出し、穏やかな心で生きられるようになるにはどうしたら良いのか。
この対人恐怖を始めとする恐怖症に対する療法として現在まで様々な方法が試されてきた。
薬物療法、カウンセリング、来談者中心療法、催眠療法、認知行動療法、交流分析、ヒプノセラピー、インナーチャイルドの癒し、TFT、脳覚醒による暗示療法、自律訓練法、イメージ療法、暴露療法、ヒーリング、エネルギー療法、レイキ、気孔、家族療法、グループセラピーなで、私は長い間に渡ってここに挙げた、暴露療法以外の全て療法を受けてきた経験がある。
しかし残念ながらこれらの療法で自分の苦しみが軽減することは無かった。
なぜならばこれらの療法には次に述べるもっとも大切な視点が欠けていたか、重要視されていなかったからだ。

もっとも重要なことは、幼い頃の本来のありのままの自分を責めるという原初体験からスタートして、これまで長い年月に渡って深く傷つき、人を信じられなくなり、孤独になった自分をこれでもかと執拗に責め立て、理想の人間になるべく駆り立てる強大な敵を自ら心の中に内在化させてしまっていることに気付くことなのだ。
心の中でこのようなことが起こっていることに自らが気が付かなければ、どんな心理療法を受けようが、優しい人と出会おうが、ベクトルを改善の方向に向かわせることは不可能なのである。
しかしこの「気付く」ということがどれほど難しいことか。

もしこのことに気が付いたならば、深手を負った自分に対し、長きに渡ってとでんもないことをしてしまったと心底反省するのではないか。金輪際もうやめようと思うのではないか。ここが大きなポイントであり転換点だ。
仮に、深手を負った他人に対しこのようなことをやったとしたら、その人に良心がある限り、酷いことをしてしまったと感じるのではないか。
人は目に見えるものはすぐに感知できるが、目に見えない心の中のことには盲目なものである。
しかしまずこれに気が付かなければ永遠に、死ぬまで苦しみ続けることになるであろう。
あらゆる心理療法を受けてもよくならないという人は、心理療法を受ける動機が、この苦しい状態をすぐにでも「無くそうとする」ことにあるからである。
「これさえなければ自分は幸せになれる」、「この憎き症状をとって欲しい、取るノウハウを教えて欲しい」と求めるからなのである。
この「これ」を憎み否定しているからどんなに頑張って心理療法を受けても治らないのである。
各種の心理療法そのものがこの苦しみを直接治すことは出来ない。

しかし深手を負った自分を責め否定することに気が付いたからといっても、残念ながらその瞬間から解決するわけではない。
自己否定してきた年月が長ければ長いほど、自己否定した結果生じた恐怖の度合いが大きければ大きいほど、恐怖に動機付けられた理想の人間になるべく自ら形成した潜在意識の自動回路が強固であればあるほど、長い時間を要する。10年、20年、30年、それ以上かかるかもしれない。
わすかな時間で解決したとしたら、その問題はその程度でしかなかったと思っていい。
潜在意識に強固に刷り込まれたこのパターンを破壊し、逆に、深手を負った自分をまるごと受け入れ、癒し、肯定し、自分の気持ち通りに生きていけるようサポートしていけるようになるにはとてつもない時間がかかる。

時間がかかるから苦しみは軽減しても残る。だからまた自分を責めたくなる。だけどよくなるためにはこれしかないと踏みとどまる。この繰り返しである。

あと対人恐怖のために、上手く自己表現できなかったり、人付き合いが出来なかったり、能力が発揮できなかったりすることがあるが、決してそのことで自分を責めないことである。
むしろこんなハンディをかかえながら誰からも理解してもらえずともよくここまで生きてきた、それは並大抵のことではないと、言ってあげてもいいくらいなのである。
この自分で何が悪い、という強い意志への選択が必要だ。それはもう失うものがなくなった「捨て身」の心境でもある。
このような生き方を自ら選択してしまったとは言っても、それはそうならざるを得ない、自分自身ではコントロール不可能な理由があったのある。そのことで自分を責めるのは酷というものだ。
もし他人からそのことで、いわれのない事を言われたり、理不尽な扱いを受けたりすることがあるかもしれないが、そのようなことをしてくる人はその程度の人間なのである。
回復してくればこのような感じ方も徐々に出来るようになるし、相手の言うことは自分とは無関係のことだと完全に切り捨てることもできるようになる。
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ボディ右側面へこませた

2022-06-19 22:04:21 | 
そのアクシデントは一昨日の夕方、逆流性食道炎の薬をもらいに病院に行った帰りに起きた。
その病院の前の道路は車1台がやっと通れるくらいの細い道であり、その道に入った所に駐車場があった。
駐車場はわりと広いのだが、その駐車場から出るときはかなり神経を使った。
道路わきの壁やフェンスに接触する危険があったからだ。
いつもは駐車場の出口を左折して10mほど進んだ所で県道に出会い、その県道に入るのだが、その日はバスの定期券を更新しなければならなかったので、病院からバスの営業所に向かうことにしていた。
バスの営業所に行くには県道からでも行けるのであるが、病院の駐車場の出口をいつもの反対の右折していけば多少短い距離で行くことができた。
左折して県道経由でいくか、右折して近道で行くか迷ったが、近道でいくことにした。
駐車場を右折することに一抹の不安が無いわけでなかったが、大回りすれば何とか曲がれるとたかをくくっていた。

しかしいざ右折してみたら、大変な事態になっていることに気付いた。
何と車の右側面が、道路わきの金網フェンスと今にも接触しようとしているか、接触している状態だったのだ。
ボディの左前方もバックミラーが道路わきの波板と接触している。
安易に右折出来るだろうと早合点したことを後悔した。
このまま前進しようとしたら、ボディの右側面がフェンスに接触してしまう。
かといってバックで戻そうとしても右側面は接触してしまいそうだった。
結局、左前方のバックミラーが道路わきの壁(トタンの波板)と接触して内側に折りたたまれていきながら、やや強引に前進し、駐車場からの右折を強行した。
ボディの右側面を接触しながら右折している感触があった。



その用意周到と冷静さを欠いた強引で楽観的な決断の代償はというと、ボディの右側面とタイヤハウスの樹脂カバーの一部が削れて、痛々しい傷が付いたことと、ボディの鉄板がへこんだことだった。
1990年代半ばの中古車とは言っても状態が良く、昨年9月に買ったばかりの車。
痛々しい損傷を自ら作ってしまったことに少なからず落ち込んだ。
今までスズキの軽の四輪駆動車(スズキジムニーJA71前期型⇒SJ30前期型⇒JA11最終型)しか乗ってこなかったので、今度の大型車は車幅や長さの感覚がまだつかみ切れていなかった。
軽の感覚では狭い道はかなりの接触のリスクがある。

その後調べたところ、ボディの鉄板のへこみはそれほど深刻な状態ではなかった。
傷は幸い付かなかったが、ヘコミは浅いもののかなり大きな範囲に渡るものだった。
そこでこヘコミを何とか出来ないかと考えたところ、昔、オートメカニック(今でも売っているのか?)という雑誌で吸盤でボディのヘコミを引っ張って直している記事があったのが頭に浮かんできたので、アマゾンで吸盤が売っていないか検索してみたら、自動車修理専用の吸盤が売っていたのでこれを試してみることにした。

吸盤は翌日の夕方届いた。
開墾して早速試してみることにした。
吸盤サイスは大(125φ)を選んだ。価格は3,600円(税込み、送料込み)。小サイズ(75φ)もあるが吸着力は大に及ばないようだった。





食いつきは結構強力だ。
大きなへこみはこれでかなり元に復元することが出来た。
しかし、範囲の小さなへこみはこの大サイズでの吸盤では無理のような感じがした。
(あきらめずにこれからも何度も試してみるが)

修理前



吸盤で引っ張った後



今日の夕方再挑戦した後の状態



範囲の小さなへこみは別の引っ張り工具の方が効果がありそうだ。
この引っ張り工具セットもアマゾンでかなりの安価で販売されていた。

別方法による引っ張り工具(アマゾンより)

コインほどのサイズの樹脂製円盤に接着剤を塗ってボディのへこみ部分に接着させ、特殊工具で引っ張り上げてボディのヘコミを修正する方法だ。
吸盤で何度チャレンジしてもダメだったら、この工具を買って試してみようと思う。
この手の板金修理は外注に出すと数万円は取られる。
軽微なへこみであれば自分で試してみるのも楽しいものかもしれない。

樹脂カバーの痛々しい傷はこちら。





これはペーパー掛けしてタッチアップするつもりだ。
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