このところ講習関連で休日は趣味に時間を当てる時間が無い(これっていつも言っていないか?)。
3月から延期となった演奏会の練習が始まるのでますます大変になりそうだ。
しばらくはこのブログも音楽関係の記事はおあずけとなりそうだ(まあ、それもいいか。⇒これもいつも言っていないか?)
。
最近読んだ記事で気になったものがある。
読者投稿欄でみつけたものであるが、自分のしたいことをいざ実行するとなると、気持ちがひるんでしまい、後で後悔するという悩みが綴られていた。
以下、その概要はこんな感じだ。
小学校からの友達の誕生日のために、一生懸命作った手作りのバースデイカードをいざ渡そうと、友達のマンションまでワクワクしながら向かっていたが、いざ着いてみると、気持ちがひるんでしまい入り口にも入ることが出来なかったというもの。
誕生日を憶えていることを変だと思われないかとか、仲良しだと思っていたのは、実は自分ひとりだけなのではないかと。
相手に思いを伝える、表現する直前でいつもやめてしまうのだという。伝えて損はしないことは分かっていても。
この方は10代の方であったが、過去に親もしくは近い人、あるいは友達など重要な存在の人から拒絶され、それがトラウマとなっている可能性が高い。
「誕生日を憶えていることを変だと思われないかとか、仲良しだと思っていたのは、実は自分ひとりだけなのではないか」という部分を読むと、何か過去に、そのように思わなければならなかった冷たく、荒涼とした人間環境を感じる。
以前記事にした「聲の形」に出てくる主人公の小学校時代のようなイメージだ。
何故このような、現実に起こっているわけではないのにネガティブな思いが出てくるのだろうか。
何故やりたいと思った行動を直前で止めてしまうのか。
それにはそのように感じるに至るその人特有の理由があると思う。
今までの人生の過程で、人から受けたさまざまな心的外傷(拒否、拒絶、無視、裏切りなど)から来る感情(多くは恐怖)がブレーキをかけているのかもしれないし、心的外傷となる体験がなかったとしても、親の性質(同じ様な傾向)を受け継いでいることが原因かもしれない。
あるいは、ここでは書けないが、それ以外の原因の可能性もある。
このような、自分の意志ではどうにもならない、無意識的に行動にブレーキがかかるものを抱えながら生きていると損をしたり、チャンスを逃してしまうことが多々出てくる。
このような人でもいい人に巡り合えば、この重荷を抱えながらでも何とかそれなりに幸せに生きていくことはできるかもしれない。
しかし、多くの場合は不幸な人生、不平不満に満ちた人生を歩むことになる。
多くの場合は、恐らくではあるが、過去に人から嫌なことを言われたりされたりして、その時にそれをそのまま受け入れていまい、自分を否定してしまったのではないか。
「自分はありのままだと、人から嫌われる、受け入れてくれないんだ」
「自分の話すことやふるまいは、人に不快な感じを与えてしまうんだ」
「だから本当は、人は自分のことを仲間だと思っていないんだ」
自分自身に対し、このようなネガティブな見方を、無意識のうちに、しかも絶えずしているのではないだろうか。
無意識の中で絶えず「自己否定」し、その繰り返しの結果が、意識下ではコントロール不能な回路のように根付いてしまっている。
この「回路」を壊すことは容易ではない。
その回路が発動していた期間が長ければ長いほど困難であるし、時間がかかる。
もうひとつは、この「自己否定」の背後に恐怖の感情が潜んでいることが回路を壊すことを困難にしている。
本来、人間は好き好んで自己否定するようには作られていない。
それをあえて行うということは、行わざるを得ないほどの精神的衝撃を受けた、ということである。
その殆どは恐怖体験であろう。
その体験は、「自分を守ることができなかった」ほどの強いものに違いない。
では、この「自己否定」の回路を壊し、「自己肯定」の回路を新たに作っていくにはどうしたらよいか。
まずは、無意識下で自分が自ら気付かないうちに自己否定してしまっていることに気が付くことである。
これは案外に難しい。冒頭の新聞投稿の方はある程度気が付いていると思われる。
大抵は意識下の自分が本当の自分だと思っている。
そして、心の中に、自己否定する「怒った自分」と「傷ついている本当の自分」の2人が同居していることに気が付くことが必要だ。
この「怒れるもう一人の自分」が「本来の自分、本質としての自分」を、絶えず、罵倒し、否定し、駆り立て、傷つけているのである。24時間、どこにいても。
これは考えただけでも恐ろしいことであるが、現実には無意識下で行われていることである。
この現実が自分の心にあることに気付き、心の底から、本当の自分に毒をまき散らしていた、と知ったならば、人はどのように感じるであろうか。
恐らくとんでもない恐ろしいことを自分にしまっていたと驚くのではないか。
そして、2度と、本来の自分を否定することは止めようと思うのではないか。
すなわち、本来の自分との「和解」である。
本来の自分と和解し、否定することを止めると恐怖も次第に和らいでいく。
何故ならば、絶えず自分を罵倒し、否定してくるもう一人の自分がいなくなるからである。
ところで、この「否定してくるもう一人の自分」は何故生まれたのか。
それは、実際に、過去に、自分を拒否したり、傷つけた人物と同一の人間を自分の心に取り込んだからである。
本来、「あなたの言うことは間違っている」と言って、戦わなければいけなかった人物が「正しい」と肯定し、受け入れてしまったからである。
これが最大の分かれ道である。
この分かれ道の選択を誤ると、人はそれに気が付くまで一生、不幸で苦しい人生を歩むことになる。
そしてこの自分を破壊する回路を抱えたまま、絶えず生み出されるマイナス感情に苦しみ、このマイナス感情をいじめや、新聞投稿などに見られる正義中毒者のような形で吐きださざるを得なくなる。
マイナス感情を吐きだすことの出来ない、良心のある人はうつ病となり、最悪自殺する。
自己否定の回路に気付き、自己否定をやめると共に、今度は「自己肯定」の回路を新たに自分の心の中に根付かせる必要がある。
これをやるにはどうしたらよいか。
それは、自分を癒したり、自分を肯定したり、自分をいたわってあげるような言葉を自ら、シャワーのように1日何百回も浴びせかけることである。
これは実際に口に出して言った方が効果がある。しかし単なるアファメーションとは本質的に異なる。
「今まであなたのことに気付いてあげなくてごめんね」
「〇〇(自分の名前)は、今のままで十分、すばらしい」
「〇〇はすごいね、よくやったね。よく頑張ってきたね。」
「〇〇は優しいね」
等々。
これを今まで自分を罵倒し、自分を否定していたのと同じ回数やるくらいの気持ちでやらないと、自己肯定の回路は根付いていかないであろう。
3月から延期となった演奏会の練習が始まるのでますます大変になりそうだ。
しばらくはこのブログも音楽関係の記事はおあずけとなりそうだ(まあ、それもいいか。⇒これもいつも言っていないか?)
。
最近読んだ記事で気になったものがある。
読者投稿欄でみつけたものであるが、自分のしたいことをいざ実行するとなると、気持ちがひるんでしまい、後で後悔するという悩みが綴られていた。
以下、その概要はこんな感じだ。
小学校からの友達の誕生日のために、一生懸命作った手作りのバースデイカードをいざ渡そうと、友達のマンションまでワクワクしながら向かっていたが、いざ着いてみると、気持ちがひるんでしまい入り口にも入ることが出来なかったというもの。
誕生日を憶えていることを変だと思われないかとか、仲良しだと思っていたのは、実は自分ひとりだけなのではないかと。
相手に思いを伝える、表現する直前でいつもやめてしまうのだという。伝えて損はしないことは分かっていても。
この方は10代の方であったが、過去に親もしくは近い人、あるいは友達など重要な存在の人から拒絶され、それがトラウマとなっている可能性が高い。
「誕生日を憶えていることを変だと思われないかとか、仲良しだと思っていたのは、実は自分ひとりだけなのではないか」という部分を読むと、何か過去に、そのように思わなければならなかった冷たく、荒涼とした人間環境を感じる。
以前記事にした「聲の形」に出てくる主人公の小学校時代のようなイメージだ。
何故このような、現実に起こっているわけではないのにネガティブな思いが出てくるのだろうか。
何故やりたいと思った行動を直前で止めてしまうのか。
それにはそのように感じるに至るその人特有の理由があると思う。
今までの人生の過程で、人から受けたさまざまな心的外傷(拒否、拒絶、無視、裏切りなど)から来る感情(多くは恐怖)がブレーキをかけているのかもしれないし、心的外傷となる体験がなかったとしても、親の性質(同じ様な傾向)を受け継いでいることが原因かもしれない。
あるいは、ここでは書けないが、それ以外の原因の可能性もある。
このような、自分の意志ではどうにもならない、無意識的に行動にブレーキがかかるものを抱えながら生きていると損をしたり、チャンスを逃してしまうことが多々出てくる。
このような人でもいい人に巡り合えば、この重荷を抱えながらでも何とかそれなりに幸せに生きていくことはできるかもしれない。
しかし、多くの場合は不幸な人生、不平不満に満ちた人生を歩むことになる。
多くの場合は、恐らくではあるが、過去に人から嫌なことを言われたりされたりして、その時にそれをそのまま受け入れていまい、自分を否定してしまったのではないか。
「自分はありのままだと、人から嫌われる、受け入れてくれないんだ」
「自分の話すことやふるまいは、人に不快な感じを与えてしまうんだ」
「だから本当は、人は自分のことを仲間だと思っていないんだ」
自分自身に対し、このようなネガティブな見方を、無意識のうちに、しかも絶えずしているのではないだろうか。
無意識の中で絶えず「自己否定」し、その繰り返しの結果が、意識下ではコントロール不能な回路のように根付いてしまっている。
この「回路」を壊すことは容易ではない。
その回路が発動していた期間が長ければ長いほど困難であるし、時間がかかる。
もうひとつは、この「自己否定」の背後に恐怖の感情が潜んでいることが回路を壊すことを困難にしている。
本来、人間は好き好んで自己否定するようには作られていない。
それをあえて行うということは、行わざるを得ないほどの精神的衝撃を受けた、ということである。
その殆どは恐怖体験であろう。
その体験は、「自分を守ることができなかった」ほどの強いものに違いない。
では、この「自己否定」の回路を壊し、「自己肯定」の回路を新たに作っていくにはどうしたらよいか。
まずは、無意識下で自分が自ら気付かないうちに自己否定してしまっていることに気が付くことである。
これは案外に難しい。冒頭の新聞投稿の方はある程度気が付いていると思われる。
大抵は意識下の自分が本当の自分だと思っている。
そして、心の中に、自己否定する「怒った自分」と「傷ついている本当の自分」の2人が同居していることに気が付くことが必要だ。
この「怒れるもう一人の自分」が「本来の自分、本質としての自分」を、絶えず、罵倒し、否定し、駆り立て、傷つけているのである。24時間、どこにいても。
これは考えただけでも恐ろしいことであるが、現実には無意識下で行われていることである。
この現実が自分の心にあることに気付き、心の底から、本当の自分に毒をまき散らしていた、と知ったならば、人はどのように感じるであろうか。
恐らくとんでもない恐ろしいことを自分にしまっていたと驚くのではないか。
そして、2度と、本来の自分を否定することは止めようと思うのではないか。
すなわち、本来の自分との「和解」である。
本来の自分と和解し、否定することを止めると恐怖も次第に和らいでいく。
何故ならば、絶えず自分を罵倒し、否定してくるもう一人の自分がいなくなるからである。
ところで、この「否定してくるもう一人の自分」は何故生まれたのか。
それは、実際に、過去に、自分を拒否したり、傷つけた人物と同一の人間を自分の心に取り込んだからである。
本来、「あなたの言うことは間違っている」と言って、戦わなければいけなかった人物が「正しい」と肯定し、受け入れてしまったからである。
これが最大の分かれ道である。
この分かれ道の選択を誤ると、人はそれに気が付くまで一生、不幸で苦しい人生を歩むことになる。
そしてこの自分を破壊する回路を抱えたまま、絶えず生み出されるマイナス感情に苦しみ、このマイナス感情をいじめや、新聞投稿などに見られる正義中毒者のような形で吐きださざるを得なくなる。
マイナス感情を吐きだすことの出来ない、良心のある人はうつ病となり、最悪自殺する。
自己否定の回路に気付き、自己否定をやめると共に、今度は「自己肯定」の回路を新たに自分の心の中に根付かせる必要がある。
これをやるにはどうしたらよいか。
それは、自分を癒したり、自分を肯定したり、自分をいたわってあげるような言葉を自ら、シャワーのように1日何百回も浴びせかけることである。
これは実際に口に出して言った方が効果がある。しかし単なるアファメーションとは本質的に異なる。
「今まであなたのことに気付いてあげなくてごめんね」
「〇〇(自分の名前)は、今のままで十分、すばらしい」
「〇〇はすごいね、よくやったね。よく頑張ってきたね。」
「〇〇は優しいね」
等々。
これを今まで自分を罵倒し、自分を否定していたのと同じ回数やるくらいの気持ちでやらないと、自己肯定の回路は根付いていかないであろう。
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