8月初めに他界した父のルーツをたどるために、父の生まれ故郷、20歳まで住んでいたという北海道の小さな漁港を訪れた。
お盆休みに帰省した折、兄の車でその町に向かった。
海沿いの道ではなく、峠道を選んだ。
途中、私が学生時代に住んでいた町を見下ろすことのできる峠にさしかかった。
バブルの頃に急速に観光地化され、昔からあった素朴な風情のある風景をお金儲けのために自ら破壊した町だ。
峠を下り、しばらくするとその漁港のある町に着いた。
昭和50年代初めまでだったと思うが、この町にも鉄道が走っていた。
函館本線からの支線である。
国鉄のこの支線を通ってこの町に行った最後が小学校5年生の時だった。
墓参りだった思う。
駅前でおいしくて安い寿司をたくさん食べた。
帰りに国鉄の札幌行の急行「雷電」という汽車に乗った。
急行と言っても、古い本州で使っていたおさがりのようなボロい車両(オレンジ色の気動車)で、たったの2両だけだった。
この町に行く公共の交通手段はバスしかない。
バスターミナルのすぐそばに、この町に似つかわしくない、綺麗で立派な美術館があった。
随分前に記事にしたことのある、有島武郎の「生まれ出づる悩み」に出てくる画家のモデルとなったこの町出身の画家の作品を展示している美術館であった。
もう5年くらい前だったであろうか。この画家の画集を父からもらってその絵に感銘を受けた私は、いずれこの美術館に行って、実物をこの目で鑑賞したいと思っていたが、皮肉にもこのような形での実現となってしまった。
この画家の色使いが好きだ。特に空の色の表現は独特で他に類を見ない。
色使いは独特だが、その色はとても自然な色だ。そこに惹かれる。
バスターミナルのすぐ向かい側に小さな道の駅があった。
道の駅といっても駅の売店のように小さい。
お盆休みだったからであろうか、出店があった。
そこでお好み焼きを買って食べた。
このお好み焼きが実にうまかった。
今まで食べたお好み焼きの中で一番おいしかった。
父の戸籍に記載されていた本籍地に向かう。
バスターミナルから歩いて20分ほどであろうか。
国道沿いにある小さな町だ。
地図では細かいところが分からない。
兄が登山用のナビを出してやっとその住所を特定した。
住宅の点在する静かなところだった。
すぐ近くは海だ。
父の実家はこんなところにあったのか。
さびれているが静かなところだ。
次に戸籍に記載されていた父の出生地に向かう。
ここも古いさびれた住宅の点在する静かな場所であった。
立派な建物は無い。
この町はお金持ちの住む町ではない。
この町をなんとか持ちこたえさせているのは、あの美術館があるがためと思えるてくる。
自然豊かな町であるが、若い頃の父はこの町が退屈で仕方なかったのであろう。
しかし退屈だけど、素朴な美しさがある。
先の画家が終生この町を離れず、この町の素朴な風景を描き続けた理由が分かるような気がした。
この町から車で10分くらいのところに海水浴場がある。
父が、海女だったという父の母から泳ぎを教わったというところだ。
小さい頃にここに海水浴に行った古い記憶が蘇る。
私は泳がず、ヒトデなどを採っていた。
暗く古い民宿であさりの炊き込みご飯を食べたシーンは今でも憶えている。
この海水浴場のある地帯は有名はスイカの産地でもある。
スイカを買おうと思って、店を探したが、海岸沿いには1件の店もなかった。
途中、20年くらい前に崩落事故でバスが巻きこまれたというトンネルを通った。
スイカはバスターミナル向かいの道の駅で買った。
大玉で1,300円。
空港で2,980円で売られていた。
このスイカはおいしい。
この町に相応しいような曇天のなか、帰路についた。
途中、廃止された支線の函館本線の小さな駅に立ち寄る。
ここで販売されている「トンネル餅」という餅、それは小さな餅であったが、買うためだった。
しかし駅前の店に入ったとたん、店主から今日はもう売れ切れですと言われた。
がっかりだ。
父はそのおいたちや、この生まれ故郷のことを子供たちにほとんど話してくれなかった。
生前にもっと聞いておくべきだったと思うが、お互いに寡黙な性格のせいか、どちらも話すことも聞くこともなく終わってしまった。
父が終生、華美なものには目にくれず、物欲に無縁で地味なものに価値と生きがいを見出す生活を送ったのは、この町で生きたことと無関係ではないと思う。
北海道にはその美しい自然を求めて大勢の観光客が訪れるが、そのような場所にその土地本来の持つ美しさというものが果たしてあるのだろうか。
たいていは客寄せのために後から作られた人工物で上塗りされている。
幸いにも父の故郷はその犠牲にならずに済んでいる。
強いていえば上塗りされたのはあの美術館くらいか。
帰路の車の中で、兄がデューク・ジョーダンというジャズ・ピアニストの曲を流した。
"No Problem"という曲だった。
何故か記憶に残るいい曲だった。
訪れた父の故郷の曇天の光景が交錯した。
昨日、何かの拍子にこの曲が心に浮かんできて、聴きたくなったが、プレーヤーの名前を思い出せなかった。
名前が分からないままインターネットで探したがなかなか見つからなかった。
やっと探しだしてYoutubeで同じレコードの録音を見つけた。
1973年の録音だった。
Duke Jordan_Flight To Denmark (1973, SteepleChase)
お盆休みに帰省した折、兄の車でその町に向かった。
海沿いの道ではなく、峠道を選んだ。
途中、私が学生時代に住んでいた町を見下ろすことのできる峠にさしかかった。
バブルの頃に急速に観光地化され、昔からあった素朴な風情のある風景をお金儲けのために自ら破壊した町だ。
峠を下り、しばらくするとその漁港のある町に着いた。
昭和50年代初めまでだったと思うが、この町にも鉄道が走っていた。
函館本線からの支線である。
国鉄のこの支線を通ってこの町に行った最後が小学校5年生の時だった。
墓参りだった思う。
駅前でおいしくて安い寿司をたくさん食べた。
帰りに国鉄の札幌行の急行「雷電」という汽車に乗った。
急行と言っても、古い本州で使っていたおさがりのようなボロい車両(オレンジ色の気動車)で、たったの2両だけだった。
この町に行く公共の交通手段はバスしかない。
バスターミナルのすぐそばに、この町に似つかわしくない、綺麗で立派な美術館があった。
随分前に記事にしたことのある、有島武郎の「生まれ出づる悩み」に出てくる画家のモデルとなったこの町出身の画家の作品を展示している美術館であった。
もう5年くらい前だったであろうか。この画家の画集を父からもらってその絵に感銘を受けた私は、いずれこの美術館に行って、実物をこの目で鑑賞したいと思っていたが、皮肉にもこのような形での実現となってしまった。
この画家の色使いが好きだ。特に空の色の表現は独特で他に類を見ない。
色使いは独特だが、その色はとても自然な色だ。そこに惹かれる。
バスターミナルのすぐ向かい側に小さな道の駅があった。
道の駅といっても駅の売店のように小さい。
お盆休みだったからであろうか、出店があった。
そこでお好み焼きを買って食べた。
このお好み焼きが実にうまかった。
今まで食べたお好み焼きの中で一番おいしかった。
父の戸籍に記載されていた本籍地に向かう。
バスターミナルから歩いて20分ほどであろうか。
国道沿いにある小さな町だ。
地図では細かいところが分からない。
兄が登山用のナビを出してやっとその住所を特定した。
住宅の点在する静かなところだった。
すぐ近くは海だ。
父の実家はこんなところにあったのか。
さびれているが静かなところだ。
次に戸籍に記載されていた父の出生地に向かう。
ここも古いさびれた住宅の点在する静かな場所であった。
立派な建物は無い。
この町はお金持ちの住む町ではない。
この町をなんとか持ちこたえさせているのは、あの美術館があるがためと思えるてくる。
自然豊かな町であるが、若い頃の父はこの町が退屈で仕方なかったのであろう。
しかし退屈だけど、素朴な美しさがある。
先の画家が終生この町を離れず、この町の素朴な風景を描き続けた理由が分かるような気がした。
この町から車で10分くらいのところに海水浴場がある。
父が、海女だったという父の母から泳ぎを教わったというところだ。
小さい頃にここに海水浴に行った古い記憶が蘇る。
私は泳がず、ヒトデなどを採っていた。
暗く古い民宿であさりの炊き込みご飯を食べたシーンは今でも憶えている。
この海水浴場のある地帯は有名はスイカの産地でもある。
スイカを買おうと思って、店を探したが、海岸沿いには1件の店もなかった。
途中、20年くらい前に崩落事故でバスが巻きこまれたというトンネルを通った。
スイカはバスターミナル向かいの道の駅で買った。
大玉で1,300円。
空港で2,980円で売られていた。
このスイカはおいしい。
この町に相応しいような曇天のなか、帰路についた。
途中、廃止された支線の函館本線の小さな駅に立ち寄る。
ここで販売されている「トンネル餅」という餅、それは小さな餅であったが、買うためだった。
しかし駅前の店に入ったとたん、店主から今日はもう売れ切れですと言われた。
がっかりだ。
父はそのおいたちや、この生まれ故郷のことを子供たちにほとんど話してくれなかった。
生前にもっと聞いておくべきだったと思うが、お互いに寡黙な性格のせいか、どちらも話すことも聞くこともなく終わってしまった。
父が終生、華美なものには目にくれず、物欲に無縁で地味なものに価値と生きがいを見出す生活を送ったのは、この町で生きたことと無関係ではないと思う。
北海道にはその美しい自然を求めて大勢の観光客が訪れるが、そのような場所にその土地本来の持つ美しさというものが果たしてあるのだろうか。
たいていは客寄せのために後から作られた人工物で上塗りされている。
幸いにも父の故郷はその犠牲にならずに済んでいる。
強いていえば上塗りされたのはあの美術館くらいか。
帰路の車の中で、兄がデューク・ジョーダンというジャズ・ピアニストの曲を流した。
"No Problem"という曲だった。
何故か記憶に残るいい曲だった。
訪れた父の故郷の曇天の光景が交錯した。
昨日、何かの拍子にこの曲が心に浮かんできて、聴きたくなったが、プレーヤーの名前を思い出せなかった。
名前が分からないままインターネットで探したがなかなか見つからなかった。
やっと探しだしてYoutubeで同じレコードの録音を見つけた。
1973年の録音だった。
Duke Jordan_Flight To Denmark (1973, SteepleChase)