緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

鈴木輝昭作曲「コンドゥクトゥス~オルガンとティンパニのための~」を聴く

2015-09-12 23:27:57 | その他の音楽
9月初旬に各地で開催されたNコンブロック大会のライブ録音をホームページで聴かせてもらっていたが、参加校の自由曲に鈴木輝昭氏の合唱曲が多く取り上げられているのに気付いた。
何曲か聴いてみたが、その中で、有名な組曲「女に」など鈴木氏の代表作とは作風の異なる、いわゆる無調の現代音楽とも言える曲があった。
鈴木輝昭の合唱曲以外の器楽曲を2年ほど前に初めて聴いたが、その曲はマンドリン・オーケストラの曲であり、「僧園幻想」という曲であった。
この曲がどんな曲なのだろうと聴いてみたら、難解な無調の現代音楽であった。
理解するのに時間がかかるが、構成力が高く、密度の高い、聴き応えのある曲であり、以後、何度か繰り返し聴いている。
鈴木氏は音楽大学時代、調性音楽に関心はなかったという。恐らく無調音楽を中心に作曲していたのであろう。
しかしその後、師である三善晃の合唱曲に接して調性音楽に目覚めたのだと言う。
彼の調性音楽では、私は合唱曲しか聴いたことがないが、とても美しい曲がある。今、日本の合唱界で最も演奏される作曲家と言っていい。
だが彼の無調音楽もなかなかのものだと言いたい。
今日紹介する、「コンドゥクトゥス~オルガンとティンパニのための~」もパイプオルガンと打楽器というめずらしい取り合わせであるが、難解な現代音楽である。
CDの解説で「オルガンという楽器と、それを取り巻く教会の空間、というイメージが創作の根底ににあり、ヨーロッパ中世からルネサンス、バロックへ寄せる憧憬に今日在る作曲者自身の時間を重ね、その振幅の中で呼吸する持続を見出そうとしたもの。」と書かれていたが、実際に聴いてみると作曲の背景を感じ取ることは難しい。

調性音楽は、普通の人間が日常感じる感情、例えば、嬉しい、楽しい、悲しい、寂しい、快楽、苦悩、希望、絶望といったものに連動している。だから、調性音楽を聴いているとこれらの感情が呼び覚まされ、作曲者の曲作りの背景となった感情と共振することで、一種、非日常的な感動を味わうことのできるものだと言える。
しかし無調の現代音楽と言える類の音楽はそれとは趣を異にしている。
現代音楽と言っても調性音楽と同様様々な作風のものがある。私のよく聴く無調音楽に、野呂武男と毛利蔵人の曲がある。野呂武男は録音が無いので、楽器(ギター)を弾くことでその音楽を聴くのであるが、彼らの音楽はぞっとするほど荒涼とした闇の音楽である。
派手な装飾、構成などはなく、静かな音楽であるが、恐ろしく不気味で、心の深層にある闇から紡ぎ出されたような感情を表現したような音楽なのだ。彼らの曲において、機能調性は一切現れない。
その一方で、数学理論、電子的な発音を主題として作曲された無調音楽がある。その代表的作曲家はクセナキスであろう。
その音楽は感情的なものは感じ取れない。複雑で緻密な理論構成のもとに構築された音楽である。
このような曲を音楽ではないと批判する人もいるが、明確な意図をもって、音を自らの感性と志向する手法を用いて芸術的と言える構成力で生みだされた音の集合体は、やはり音楽と認めることができるのではないか。
人間の日常的な感情に訴えるものだけが「音楽」だと限定することは狭い見方だと思う。
文学というカテゴリーを考えた場合、芥川龍之介のような純文学が文学であることに異論はない。
しかし難解な哲学、それは人間心理とは無縁のものであったならば、それは広い意味での文学から外れるものなのか。それは文学、さらに進めて芸術というカテゴリーに属するものではなく、科学に属するものと言えるのであろうか。

現代音楽を本格的に聴くように5年以上は経過した。
現代音楽は調性音楽を聴くときとは次元の異なる準備、すなわち聴く脳のスイッチを切り替えておく必要がある。
このスイッチの切り替えをしないで、調性音楽を聴くときのスイッチの入った状態で聴くと、現代音楽がとても不快、不愉快なものに聴こえてしまう。
多くの人が現代音楽を聴いて2度と聴きたくないと敬遠する理由がここにある。
無調音楽に調性音楽を聴くときのような心地よさ、至高とも言える感情的感動と同じものを味わおうとしても、それは土台無理な話である。
無調音楽には調性音楽では決して味わうことのできない世界がある。異次元の世界と言って良い。
その異次元の世界の中で、作曲者が曲を作る際に意図したものを多くの時間をかけて考えたり、探ったり、感じ取ったりするのが現代音楽の聴き方なのだと思う。
現代音楽は、調性音楽のような縛り、規制といったものに制約されないから、リズム、音程等も全く自由で、創造されるものは無限といっていいが、作曲者のレベルが高いと、生み出された曲を理解するにはとても長い時間とエネルギーを要する。
哲学が純文学と違って理解するのに大変な時間とエネルギーを要するのと、現代音楽を理解するのとは似ている。
調性音楽は純文学を楽しむような姿勢でいい。しかし現代音楽を楽しもうとするならば、哲学を楽しむような取り組み方を要する。もっとも現代音楽がどうしてもなじめないのであれば、これは意味がない。

今回聴いた鈴木輝昭の「コンドゥクトゥス~オルガンとティンパニのための~」も10回くらい聴いたが、なかなか作品の実体や意図するものは見えてこない。曲に構成力があるからそうなのであろう。
現代音楽でも構成力に乏しいものは、奇抜な表現を用いていても軽く浅はかに聴こえてしまうものである。
「コンドゥクトゥス~オルガンとティンパニのための~」の終結部間近に、突然何とも言えない不思議な感覚のする調性音楽が現れる。そのフレーズは聴こえるか聴こえないかくらい小さな弱音で始まるが、短く終わる。
冒頭に作曲者自身の解説として、「オルガンという楽器と、それを取り巻く教会の空間、というイメージが創作の根底ににあり、ヨーロッパ中世からルネサンス、バロックへ寄せる憧憬に今日在る作曲者自身の時間を重ね」と書いたが、このフレーズにこの作曲背景を感じ取ることができた。

鈴木輝昭のこの器楽曲は1992年の作曲、マンドリン・オーケストラのための「僧園幻想」は1993年であるが、この時代は無調の現代音楽が廃れていた時代である。恐らく多くの聴き手を獲得できなかったかもしれないが、もっと聴かれていい曲である。
鈴木輝昭の器楽曲はCDで入手するこは難しいが、Youtubeでは弦楽四重奏曲など3曲のライブ映像を探し出すことができた。
弦楽四重奏曲やチェロ合奏曲などは若い演奏家による2014年のライブ映像であったが、恐ろしく難しい曲であるにもかかわらず完成度の高い演奏で感心した。
若い演奏家や、ベテランのクラシック音楽愛好家の中にも現代音楽を毛嫌いして決して聴かない方もいるが、先入観を取り外し、何度か聴いてみると調性音楽にはない魅力あふれる世界が展開されていることに気付くのではないか。


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2 コメント

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Unknown (Tommy)
2015-09-13 12:06:28
唯一ユーチューブで見つけた下記コンドゥクトゥス~オルガンとティンパニのための~を聴きましたが私には難しすぎたようです。最後まで聴きましたが印象としてあまり良いものではありませんで申し訳ありません。

https://www.youtube.com/watch?v=Cr9Sb6lZug4
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Unknown (緑陽)
2015-09-13 20:42:57
Tommyさん、こんにちは。いつもコメントありがとうございます。
コメントで紹介下さったYoutubeの録音を聴かせていただきました。
フランス6人組の一人、フランシス・プーランク(1899~1963)の作曲によるものでした。
プーランクはギター曲として唯一「サラバンド」(1960)という曲を作曲しており、イダ・プレスティに捧げられました。古くはイエペスやベーレントが録音しています。
プーランクは昔、ピアノ曲集も聴きましたが、今回のようなオルガン、ティンパニ、管弦楽の組み合わせの珍しい編成の曲は初めてで、聴いていて新鮮な気持ちになりました。
調性音楽で意外にユーモアのある曲です。
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