セゴビアは自作を何曲か残したが、知られているのが「Estudio sin luz(光なき練習曲)」、「Remembranza(回想)」、「Oracion(祈り)」の3曲で、いずれも練習曲である。
他に「Neblina(ネブリーナ)」、「Estudio(練習曲)」という曲を聴いたことがある。
「Estudio sin luz(光なき練習曲)」を初めて聴いたのはエドゥアルド・フェルナンデスの若い時の録音で、就職で東京へ出てきて間もない頃だった。
20代半ばの頃は、私のこれまでの人生で最も苦しかった時期であり、この時期にこの「光なき練習曲」や武満徹編曲の「失われた恋」を何度も聴いていた。
「失われた恋」は佐藤紀雄氏のレーコードで聴いた(因みに佐藤紀雄氏の「武満徹編曲 ギターのための12の歌」は素晴らしい出来であり、今まで聴いたギターのアルバムでは上位に上げられるものだ)。
「光なき練習曲」も「失われた恋」もキーはロ短調だ。
セゴビアは1950年代前半に網膜剝離症を患い、失明の危機に直面したとのことだが、この時に作曲されたのが「光なき練習曲」だと言う。
晩年のセゴビアからは想像できない、暗く陰鬱な曲だ。
ロ短調というキーでまず思い浮かぶギター曲は、ソルの「月光」や原博の「挽歌」などだ。
このキーで感じるのは、重く、沈んだ、鬱屈とした先の見通せない苦しみや悲しみ、もっと進めると、ちょっと考えすぎかもしれないが「死」に誘いこまれるようなものを感じる。
イ短調やホ短調から受ける感じとはやはり違う。
もちろんすべてのロ短調の曲からこのような感じを受けるわけではないが、少なくても「光なき練習曲」や「失われた恋」を聴いていた時にはそのような感情に支配されていた。
「光なき練習曲」がどんな曲であるかは実際に聴くしかないが、セゴビア自身の録音(1958年)がある。
譜面の速度指定はモデラートであるが、セゴビアの演奏のテンポはかなり速い。
また中間部の次の部分は譜面どおりに弾いていない。
現代ギター1987年8月号にこの部分のセゴビアの改編の譜面が掲載されていた(田部井辰雄氏)。
主題の後の中間部と主題の繰り返しの前に不気味な、暗く陰鬱なフレーズが現れる。
冒頭の主題と中間部の暗く陰鬱なフレーズの部分、中間部を過ぎた後に現れる少し感情の起伏が激しくなる三連符の部分を弾いてみた。
久しぶりに弾くので速度も遅いし、もたついている感じもするがご容赦いただきたい。
①冒頭の主題
②中間部の陰鬱なフレーズ
③三連符の続く部分の最初
他に「Neblina(ネブリーナ)」、「Estudio(練習曲)」という曲を聴いたことがある。
「Estudio sin luz(光なき練習曲)」を初めて聴いたのはエドゥアルド・フェルナンデスの若い時の録音で、就職で東京へ出てきて間もない頃だった。
20代半ばの頃は、私のこれまでの人生で最も苦しかった時期であり、この時期にこの「光なき練習曲」や武満徹編曲の「失われた恋」を何度も聴いていた。
「失われた恋」は佐藤紀雄氏のレーコードで聴いた(因みに佐藤紀雄氏の「武満徹編曲 ギターのための12の歌」は素晴らしい出来であり、今まで聴いたギターのアルバムでは上位に上げられるものだ)。
「光なき練習曲」も「失われた恋」もキーはロ短調だ。
セゴビアは1950年代前半に網膜剝離症を患い、失明の危機に直面したとのことだが、この時に作曲されたのが「光なき練習曲」だと言う。
晩年のセゴビアからは想像できない、暗く陰鬱な曲だ。
ロ短調というキーでまず思い浮かぶギター曲は、ソルの「月光」や原博の「挽歌」などだ。
このキーで感じるのは、重く、沈んだ、鬱屈とした先の見通せない苦しみや悲しみ、もっと進めると、ちょっと考えすぎかもしれないが「死」に誘いこまれるようなものを感じる。
イ短調やホ短調から受ける感じとはやはり違う。
もちろんすべてのロ短調の曲からこのような感じを受けるわけではないが、少なくても「光なき練習曲」や「失われた恋」を聴いていた時にはそのような感情に支配されていた。
「光なき練習曲」がどんな曲であるかは実際に聴くしかないが、セゴビア自身の録音(1958年)がある。
譜面の速度指定はモデラートであるが、セゴビアの演奏のテンポはかなり速い。
また中間部の次の部分は譜面どおりに弾いていない。
現代ギター1987年8月号にこの部分のセゴビアの改編の譜面が掲載されていた(田部井辰雄氏)。
主題の後の中間部と主題の繰り返しの前に不気味な、暗く陰鬱なフレーズが現れる。
冒頭の主題と中間部の暗く陰鬱なフレーズの部分、中間部を過ぎた後に現れる少し感情の起伏が激しくなる三連符の部分を弾いてみた。
久しぶりに弾くので速度も遅いし、もたついている感じもするがご容赦いただきたい。
①冒頭の主題
②中間部の陰鬱なフレーズ
③三連符の続く部分の最初