年末年始の僅かな期間、実家に帰省してきた。
施設にいる母に会いに行った以外はとくに出かけることもなく、ギターを練習したり読書をしたりして時間を過ごした。
読書は久しぶりであるが、2年ほど前に読みかけて途中だった福永武彦の「草の花」という小説を最初から読み直して今日完読した。
この小説は読みごたえがあった。
第二次世界大戦中の若者の友情や恋愛をテーマに描かれた小説であるが、終始暗く、人間心理の描写が難解で、完読した後も何か煮え切らない引っ掛かりを残すようなストーリーであった。
しかし読み応えのある小説はいつもこうである。
読み終わって、いい小説だったな、で終わるものは大抵二流か駄作だ。
この小説の感想はいつか記事にしたい。
今回の帰省は往路、復路ともに飛行機を利用したが、毎度のように定刻発車できず20分くらい遅れた。
今まで数えきれないほど帰省などで飛行機を利用したが、定刻に離陸したためしは無い。
まずほとんど全てと言っていいくらい遅れる。
10年以上前であったが、雪で離陸が遅れてその日のうちに帰宅できず、上野のカプセルホテルに泊まるはめになったことがあった。
その当時はギターを抱えて帰省していたので、あの狭い1畳ほどのスペースにギターとともに寝たこともあった。
(この時は夜更かししてかなり遅い時間まで映画を何本か見ていた)
2年ほど前からは大学1年生の時に初めて手に入れた手工ギター、田中俊彦作1982年製を実家に置いてあるので、帰省した時はこのギターを弾くのである。
トレーラー・トラックからの積み荷降ろしやビル建設現場での資材運搬、産業廃棄物処分、1日1千件の通信教育案内封書の歩いての配布などといった肉体労働のアルバイトをしてためた資金を頭金にして分割で買ったギターだった。
1983年1月上旬に、この楽器が佐川急便で届いたときのうれしさは忘れることは出来ない。
この楽器、購入した当初は音が硬く、いわゆる鳴らない楽器だった。
当時の手工ギターは初めからよく鳴るものではない、というのが一般的だったように思う。
ただしマンドリンクラブの先輩や同期が持っていた河野ギター、桜井ギターのように最初からよく鳴るギターもあった。
いずれにしてもこの田中俊彦作1982年製のギターは最初からなかなか鳴ってくれなかった。
しかしこのギターをどんなに大事にしただろう。
とにかく鳴るようにたくさん弾いたものだった。
そしていい音、しかも大きな音が出るようにタッチを鍛えたものだった。
若い時だったから出来たことだけど、中年以降にこのようなタッチをしていたら指を壊したかもしれない。
今から考えると、この楽器で現在の自分のタッチを得ることが出来たと言ってもいいだろう。
最初から鳴る楽器だったら今のタッチは得られなかったかもしれない。
この田中俊彦作ギターは27歳に別の楽器を購入するまで弾いた。
就職した23歳から27歳までは学生時代に比べて演奏頻度が著しく減った。忙しかったというより、古くて、音が筒抜けの会社の独身寮住まいだったので、思う存分弾けなかったからだ。なぜか自分がギターを弾けることを隠すようにもなっていた。
しかしたまたま私が部屋で弾くギターを聴いた先輩が、会社の創立祭に出演できるよう推薦してくれたこともあった(実現しなかったが)。
28歳以降、この楽器を弾くことは殆ど無くなったが、2年前に実家で弾くために帰省時に持って帰って弾いてみたら、驚いたことにこの楽器を弾いていた時代よりもはるかに鳴りが良くなっていることに気が付いた。
30年近く弾かずにケースに入れっぱなしだったのに何故?、という疑問が湧いた。
その理由は恐らくではあるが、材料が製作時から40年経過し乾燥したこと、塗料が完全に硬化したこと、接着剤である膠が完全に硬化したことであると、と推測している。
高級ギターであれば、製作時に30、40年自然乾燥させた材料を使用するが、低グレードの楽器であれば乾燥機関は短い。10~15年くらいだろうか、人工乾燥という手段もあるだろう。
また塗料、セラック以外の塗料、例えばカシューやラッカーなどは完全に硬化するまでには時間がかかるであろう。
田中俊彦製作のギターがどの塗料を使用しているか断定できないが、セラックで無いことは確かだ。
しかも塗膜が厚い。かなり塗料を塗り重ねて製作されたことが分かる。
あとは接着剤の膠。昨今の楽器は接着材に膠を使わなくなったようだが、この当時の楽器は指板とネックの接着以外の接着にも膠を使用していたであろう。
以前ある製作家から聞いたのだが、膠が完全に硬化するまでには30年くらい時間がかかるようで、膠を使って製作された楽器がその本領を発揮するのは膠が完全に乾いてからなのだそうだ。
この話のとおりだとすれば、1982年製田中俊彦ギターが40年経過して新作時とは比べ物にならないくらい鳴るように変化していても不思議ではないだろう。
田中俊彦ギターは膠だけでなく、材料や塗料の乾燥も影響していると思う。
30年弾かずに寝かしてあった楽器が鳴るようになる、という事実はこれ以外でないだろう。
よく、弾きこんで音が良くなる、という話を聞くが、もちろんその効果は否定できないが、それよりも材料、塗料、接着剤の乾燥、硬化がもたらす影響度の方が大きいように思えるのである。
ただこれは一般論とみるわけにはいかない。
製作時の塗料の種類、塗膜(塗り重ねの回数)、材料の乾燥年数、材料の良し悪しなどの違いによっても大きく変わってくることもあるからだ。
この正月にこの楽器を実家の居間で弾いていたとき、ちょっと離れて聴いていた兄が、「そのギター、随分よく鳴るね」と言うのを聴いて驚いたし、私のこの楽器の音の変化が正しかったことが裏付けられたようであらためて自信を持った。
特に高音の抜けが良くなっている。
昨日、この1982年製田中俊彦ギターで暗譜で弾ける曲をいくつか弾いてみた。
1年前に夥しい汗を吸い取って1年間放置されていたことで死に弦(とくに4弦)となっていたことや、録音がスマホであることなどから、音質は著しく悪いが録音を取り上げてみることにした。
①アルハンブラ宮殿の思い出_2023_01_01_13_01_37
②スペイン舞曲第5番アンダルーサ_2023_01_01_15_09_47
③最後のトレモロ_2023_01_01_15_33_41 途中音間違いと終わり近くに「鼻すすり?」有り。しかし演奏中に鼻すすりするか? 風邪か?
④前奏曲ハ短調_2023_01_01_16_10_17
⑤マリエータ_2023_01_01_16_16_24
良質なローズウッドを使用している。
ネックはセドロ。これもいい材料だ。
指板に1987年3月頃に突然、パーン!(カーン?)という音とともにクラックが入った。
20号なのにナット、サドルは象牙製。
フレットが大きく摩耗している。それくらい弾きまくった?。
オンリーワンの均整の取れた美しいヘッドとサウンドホールのモザイクのデザイン。
ブリッジはアルカンヘルやバルベロ・イーホを思わせる。
この楽器はずっとこれからも使用されるだろう。
苦労して手に入れたもの、若き日に相棒として共に行動した存在はそう簡単に別離とはならないものだと思う。
施設にいる母に会いに行った以外はとくに出かけることもなく、ギターを練習したり読書をしたりして時間を過ごした。
読書は久しぶりであるが、2年ほど前に読みかけて途中だった福永武彦の「草の花」という小説を最初から読み直して今日完読した。
この小説は読みごたえがあった。
第二次世界大戦中の若者の友情や恋愛をテーマに描かれた小説であるが、終始暗く、人間心理の描写が難解で、完読した後も何か煮え切らない引っ掛かりを残すようなストーリーであった。
しかし読み応えのある小説はいつもこうである。
読み終わって、いい小説だったな、で終わるものは大抵二流か駄作だ。
この小説の感想はいつか記事にしたい。
今回の帰省は往路、復路ともに飛行機を利用したが、毎度のように定刻発車できず20分くらい遅れた。
今まで数えきれないほど帰省などで飛行機を利用したが、定刻に離陸したためしは無い。
まずほとんど全てと言っていいくらい遅れる。
10年以上前であったが、雪で離陸が遅れてその日のうちに帰宅できず、上野のカプセルホテルに泊まるはめになったことがあった。
その当時はギターを抱えて帰省していたので、あの狭い1畳ほどのスペースにギターとともに寝たこともあった。
(この時は夜更かししてかなり遅い時間まで映画を何本か見ていた)
2年ほど前からは大学1年生の時に初めて手に入れた手工ギター、田中俊彦作1982年製を実家に置いてあるので、帰省した時はこのギターを弾くのである。
トレーラー・トラックからの積み荷降ろしやビル建設現場での資材運搬、産業廃棄物処分、1日1千件の通信教育案内封書の歩いての配布などといった肉体労働のアルバイトをしてためた資金を頭金にして分割で買ったギターだった。
1983年1月上旬に、この楽器が佐川急便で届いたときのうれしさは忘れることは出来ない。
この楽器、購入した当初は音が硬く、いわゆる鳴らない楽器だった。
当時の手工ギターは初めからよく鳴るものではない、というのが一般的だったように思う。
ただしマンドリンクラブの先輩や同期が持っていた河野ギター、桜井ギターのように最初からよく鳴るギターもあった。
いずれにしてもこの田中俊彦作1982年製のギターは最初からなかなか鳴ってくれなかった。
しかしこのギターをどんなに大事にしただろう。
とにかく鳴るようにたくさん弾いたものだった。
そしていい音、しかも大きな音が出るようにタッチを鍛えたものだった。
若い時だったから出来たことだけど、中年以降にこのようなタッチをしていたら指を壊したかもしれない。
今から考えると、この楽器で現在の自分のタッチを得ることが出来たと言ってもいいだろう。
最初から鳴る楽器だったら今のタッチは得られなかったかもしれない。
この田中俊彦作ギターは27歳に別の楽器を購入するまで弾いた。
就職した23歳から27歳までは学生時代に比べて演奏頻度が著しく減った。忙しかったというより、古くて、音が筒抜けの会社の独身寮住まいだったので、思う存分弾けなかったからだ。なぜか自分がギターを弾けることを隠すようにもなっていた。
しかしたまたま私が部屋で弾くギターを聴いた先輩が、会社の創立祭に出演できるよう推薦してくれたこともあった(実現しなかったが)。
28歳以降、この楽器を弾くことは殆ど無くなったが、2年前に実家で弾くために帰省時に持って帰って弾いてみたら、驚いたことにこの楽器を弾いていた時代よりもはるかに鳴りが良くなっていることに気が付いた。
30年近く弾かずにケースに入れっぱなしだったのに何故?、という疑問が湧いた。
その理由は恐らくではあるが、材料が製作時から40年経過し乾燥したこと、塗料が完全に硬化したこと、接着剤である膠が完全に硬化したことであると、と推測している。
高級ギターであれば、製作時に30、40年自然乾燥させた材料を使用するが、低グレードの楽器であれば乾燥機関は短い。10~15年くらいだろうか、人工乾燥という手段もあるだろう。
また塗料、セラック以外の塗料、例えばカシューやラッカーなどは完全に硬化するまでには時間がかかるであろう。
田中俊彦製作のギターがどの塗料を使用しているか断定できないが、セラックで無いことは確かだ。
しかも塗膜が厚い。かなり塗料を塗り重ねて製作されたことが分かる。
あとは接着剤の膠。昨今の楽器は接着材に膠を使わなくなったようだが、この当時の楽器は指板とネックの接着以外の接着にも膠を使用していたであろう。
以前ある製作家から聞いたのだが、膠が完全に硬化するまでには30年くらい時間がかかるようで、膠を使って製作された楽器がその本領を発揮するのは膠が完全に乾いてからなのだそうだ。
この話のとおりだとすれば、1982年製田中俊彦ギターが40年経過して新作時とは比べ物にならないくらい鳴るように変化していても不思議ではないだろう。
田中俊彦ギターは膠だけでなく、材料や塗料の乾燥も影響していると思う。
30年弾かずに寝かしてあった楽器が鳴るようになる、という事実はこれ以外でないだろう。
よく、弾きこんで音が良くなる、という話を聞くが、もちろんその効果は否定できないが、それよりも材料、塗料、接着剤の乾燥、硬化がもたらす影響度の方が大きいように思えるのである。
ただこれは一般論とみるわけにはいかない。
製作時の塗料の種類、塗膜(塗り重ねの回数)、材料の乾燥年数、材料の良し悪しなどの違いによっても大きく変わってくることもあるからだ。
この正月にこの楽器を実家の居間で弾いていたとき、ちょっと離れて聴いていた兄が、「そのギター、随分よく鳴るね」と言うのを聴いて驚いたし、私のこの楽器の音の変化が正しかったことが裏付けられたようであらためて自信を持った。
特に高音の抜けが良くなっている。
昨日、この1982年製田中俊彦ギターで暗譜で弾ける曲をいくつか弾いてみた。
1年前に夥しい汗を吸い取って1年間放置されていたことで死に弦(とくに4弦)となっていたことや、録音がスマホであることなどから、音質は著しく悪いが録音を取り上げてみることにした。
①アルハンブラ宮殿の思い出_2023_01_01_13_01_37
②スペイン舞曲第5番アンダルーサ_2023_01_01_15_09_47
③最後のトレモロ_2023_01_01_15_33_41 途中音間違いと終わり近くに「鼻すすり?」有り。しかし演奏中に鼻すすりするか? 風邪か?
④前奏曲ハ短調_2023_01_01_16_10_17
⑤マリエータ_2023_01_01_16_16_24
良質なローズウッドを使用している。
ネックはセドロ。これもいい材料だ。
指板に1987年3月頃に突然、パーン!(カーン?)という音とともにクラックが入った。
20号なのにナット、サドルは象牙製。
フレットが大きく摩耗している。それくらい弾きまくった?。
オンリーワンの均整の取れた美しいヘッドとサウンドホールのモザイクのデザイン。
ブリッジはアルカンヘルやバルベロ・イーホを思わせる。
この楽器はずっとこれからも使用されるだろう。
苦労して手に入れたもの、若き日に相棒として共に行動した存在はそう簡単に別離とはならないものだと思う。