この正月休みに実家の自分の部屋で懐かしいものを写真に撮ってきた。
実家の自分の部屋は高校生のときの状態とほぼ変わっていない。
高校生のときに鉄道にすごく関心を持ち始め、駅や近所で鉄道の写真を撮ったり、鉄道雑誌を買って読んだりしていた。
将来は国鉄職員になりたいな、と本気に思っていた。
下の本は高校2年生の11月に修学旅行で東京に行ったときに、新宿の紀伊国屋本店で買った本だ。
表紙を写真に撮るのを忘れてしまったが、誠文堂新光社から出ていた「ディーゼル機関車ガイドブック」というタイトルだったと思う。
(表紙を撮った写真がありました)
恐らくディーゼル機関車の全てが紹介され、専門的なことが書かれていた。
今でも時々見かけるDE10も、運転席が横向きになっているのが写真で分かる。
修学旅行で、函館駅で青函連絡船にこのDE10が貨物車を積み込むために、機関士が横向きに運転していた姿が今でも記憶に残っている。
DE10は積み込み用の機関車なのだ。
それに対しDD51は長距離運搬用だろう。
この模型は修学旅行から帰ってきてからどこかで買ったものだと思われる。
このDD51は私が高校生のときにたくさん走っていた。北海道では貨物をけん引するのはもっぱらこのDD51型ディーゼル機関車だった。
このDD51も数年前に完全に廃止された。
下の本は高校の修学旅行で先の紀伊国屋本店で売っていなかったため、注文してきた本だ。
後で郵送されてきた。この本も誠文堂新光社発行で、この出版社は「子供の科学」という独特の雑誌を出していて、人気もあったようだ(ラジオ製作や写真撮影などの記事が多かったかな)。
下の本はいつ借りたのか覚えていないのだが、多分高校の図書館で借りて、とうとう返さなかった本だ。
今は無き、歌志内線、夕張線、岩内線、胆振線など、廃止された多くの路線があったことが分かる。
ローカル線の廃止とともに、夏休みの高校生、大学生の貧乏旅行の姿をしだいに見かけなくなっていった。
下は、ドイツルガーやレミントンアーミーといった名銃(?)のレプリカ。
ミニチュアだが鉄製で重量感のある本格的なモデルガンだ。
これは狸小路の茶屋碁盤店で親父に買ってもらったもの。小学校6年生のときだ。
当時プラモデル作りに熱中していた親父の行きつけの店だった。
当時はモデルガンブームだった。そもそも今、モデルガンなんて売っているのか?。
そういえば、兄が少年ジャンプの裏表紙に出ていた通信販売の広告で「海賊ピストル」という小型の、火薬でピンク色の樹脂製の球を飛ばすピストルを買って、家でバンバン、と的めがけて撃っていたっけな。
この写真はなんだ?。
懐かしいものたちを写真に撮っているときの失敗作の写真だけど、偶然にもオーロラに見える。
下は中学2年生の時のノート。英語のノートがまだしぶとく残っていた。
それにしてもひどい汚い字だ。この頃って本当に勉強していなかった。頭の悪い中学生だった。
でも今までの人生で最も楽しかった時代だ。何をしても楽しかった。朝が来るのが待ち遠しい時代だった。
その後、いい高校に入れなくてそのくやしさと、嫌な学校から逃避するためにがり勉となった。
その時のノートもしぶとく残っていた。
高校1年生のときの地理Aのノート。
別人のようにきれいなノートに生まれ変わっている。いつ貧血で倒れてもおかしくないほど青い顔をしたがり勉に変身していたときだ。
高校2年生で英語の成績が飛躍的に伸びてきたときに買った、英単語集。
しけ単、でる単という愛称で呼ばれていた当時のベストセラー。
これは夥しい汗の黒い染みがまんべんなく付着するほど使った。
そういえば英語の授業中に、この単語集を読んでいたら、先生から思いっきり教科書で頭を叩かれたことがあった。
その先生、私に実家のすぐ近くに今でも住んでいるんだよな。
高校2年生のときの国語の教科書があった。
最も多感な時だった。
マラマッドの「最初の7年間」とか、作者は忘れたが「セメント樽の中の手紙」とかいった小説は今でも忘れないで覚えている。
授業はつまらなかったし、苦痛だったし、全く覚えていないし、先生は嫌いだったが、小説の内容は本当に頭に入ってきていた。
(高校の時の先生は本当に嫌だった)
こういった品々は取っておいて良かったのではないか。
こういう物で記憶の隅っこに追いやられていた昔の思い出が蘇ってくることもあるのだと思う。
実家の自分の部屋は高校生のときの状態とほぼ変わっていない。
高校生のときに鉄道にすごく関心を持ち始め、駅や近所で鉄道の写真を撮ったり、鉄道雑誌を買って読んだりしていた。
将来は国鉄職員になりたいな、と本気に思っていた。
下の本は高校2年生の11月に修学旅行で東京に行ったときに、新宿の紀伊国屋本店で買った本だ。
表紙を写真に撮るのを忘れてしまったが、誠文堂新光社から出ていた「ディーゼル機関車ガイドブック」というタイトルだったと思う。
(表紙を撮った写真がありました)
恐らくディーゼル機関車の全てが紹介され、専門的なことが書かれていた。
今でも時々見かけるDE10も、運転席が横向きになっているのが写真で分かる。
修学旅行で、函館駅で青函連絡船にこのDE10が貨物車を積み込むために、機関士が横向きに運転していた姿が今でも記憶に残っている。
DE10は積み込み用の機関車なのだ。
それに対しDD51は長距離運搬用だろう。
この模型は修学旅行から帰ってきてからどこかで買ったものだと思われる。
このDD51は私が高校生のときにたくさん走っていた。北海道では貨物をけん引するのはもっぱらこのDD51型ディーゼル機関車だった。
このDD51も数年前に完全に廃止された。
下の本は高校の修学旅行で先の紀伊国屋本店で売っていなかったため、注文してきた本だ。
後で郵送されてきた。この本も誠文堂新光社発行で、この出版社は「子供の科学」という独特の雑誌を出していて、人気もあったようだ(ラジオ製作や写真撮影などの記事が多かったかな)。
下の本はいつ借りたのか覚えていないのだが、多分高校の図書館で借りて、とうとう返さなかった本だ。
今は無き、歌志内線、夕張線、岩内線、胆振線など、廃止された多くの路線があったことが分かる。
ローカル線の廃止とともに、夏休みの高校生、大学生の貧乏旅行の姿をしだいに見かけなくなっていった。
下は、ドイツルガーやレミントンアーミーといった名銃(?)のレプリカ。
ミニチュアだが鉄製で重量感のある本格的なモデルガンだ。
これは狸小路の茶屋碁盤店で親父に買ってもらったもの。小学校6年生のときだ。
当時プラモデル作りに熱中していた親父の行きつけの店だった。
当時はモデルガンブームだった。そもそも今、モデルガンなんて売っているのか?。
そういえば、兄が少年ジャンプの裏表紙に出ていた通信販売の広告で「海賊ピストル」という小型の、火薬でピンク色の樹脂製の球を飛ばすピストルを買って、家でバンバン、と的めがけて撃っていたっけな。
この写真はなんだ?。
懐かしいものたちを写真に撮っているときの失敗作の写真だけど、偶然にもオーロラに見える。
下は中学2年生の時のノート。英語のノートがまだしぶとく残っていた。
それにしてもひどい汚い字だ。この頃って本当に勉強していなかった。頭の悪い中学生だった。
でも今までの人生で最も楽しかった時代だ。何をしても楽しかった。朝が来るのが待ち遠しい時代だった。
その後、いい高校に入れなくてそのくやしさと、嫌な学校から逃避するためにがり勉となった。
その時のノートもしぶとく残っていた。
高校1年生のときの地理Aのノート。
別人のようにきれいなノートに生まれ変わっている。いつ貧血で倒れてもおかしくないほど青い顔をしたがり勉に変身していたときだ。
高校2年生で英語の成績が飛躍的に伸びてきたときに買った、英単語集。
しけ単、でる単という愛称で呼ばれていた当時のベストセラー。
これは夥しい汗の黒い染みがまんべんなく付着するほど使った。
そういえば英語の授業中に、この単語集を読んでいたら、先生から思いっきり教科書で頭を叩かれたことがあった。
その先生、私に実家のすぐ近くに今でも住んでいるんだよな。
高校2年生のときの国語の教科書があった。
最も多感な時だった。
マラマッドの「最初の7年間」とか、作者は忘れたが「セメント樽の中の手紙」とかいった小説は今でも忘れないで覚えている。
授業はつまらなかったし、苦痛だったし、全く覚えていないし、先生は嫌いだったが、小説の内容は本当に頭に入ってきていた。
(高校の時の先生は本当に嫌だった)
こういった品々は取っておいて良かったのではないか。
こういう物で記憶の隅っこに追いやられていた昔の思い出が蘇ってくることもあるのだと思う。