緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

フラメンコ風アルハンブラとアンダルーサの演奏を聴く

2022-05-21 23:50:24 | ギター
5,6年前にYoutubeで偶然見つけたフラメンコ?ギタリストのアルハンブラの動画を聴いて、意外にいい演奏だったのでいずれ記事にしようと思っていた。

CHARO - Recuerdos De La Alhambra - LIVE in Morongo Casino 12/13/13


音と指の動きが若干一致していないちょっと怪しい(?)演奏であるが、聴こえてくる音楽からして堅実でかなりレベルの高い演奏だと思った。
感心したのは、随所に現れるスラーを伴う3連符の部分。



ここを正確に綺麗に弾いている。
この部分はなかなか難しい
セゴビアはさすがに上手く弾いている。

かなりオリジナルから離れた編曲になってはいるが、アンダルーサもあったので貼り付けさせていただく。

CHARO - Luna de Fuego - LIVE in Morongo Casino 12/13/2013
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フェルディナンド・カルリ作曲48のプレリュードよりト長調を弾いてみた

2022-05-21 21:51:37 | ギター
フェルディナンド・カルリの曲は殆ど演奏したことがないし、録音も一部の2重奏曲や初級練習曲を除いて殆ど聴いたことがない。
今日、カルリの短い前奏曲でいい曲を見つけたので弾いてみた。

「ギターのための48のプレリュードと24の作品集 Op.114」よりプレリュードト長調





殆ど初見演奏なので、ビリ付き等聴きづらい箇所がある。

初級レベルの曲とはいえ、初めて弾く曲を録音しようと無理をしたため額に夥しい量の汗をかきなながらなんとか弾き切った「ギターのための48のプレリュードと24の作品集 Op.114」よりプレリュードト長調 2022年5月21日21:28

カルカッシやこのカルリなど教育目的から大量に作曲された練習曲などの小品のなかには、なかなか音楽的にも優れた曲が埋もれているように思う。
今のギター教育界の現状は全く分からないが、教室ではこのような古典の曲を多数、レッスンに取り入れているのであろうか。

参考としてこの曲集の解説として掲載されていた作者の紹介文を転載させていただく。

「1770年2月10日イタリアのナポリに生まれる。幼い頃、はじめソルフェージュの手ほどきをうけ、チェロを学んだ後、ギターに転じている。教師も教本も不備であった当時の事情からギターは独学である。
1808年パリでの演奏会にい成功し、その後パリに定住した。この後の十数年間に、作品番号で400曲以上の作曲をしているから、大変な多作家である。
1825年にギターのための和声学を出版しているが、晩年は健康に恵まれず、1841年パリに没している。
作品は、ギターの独奏曲のほかにギター二重奏曲に優れたものが多く、他の楽器との二重奏・三重奏・四重奏、小管弦楽とのギター協奏曲などがある。不朽の名作として親しまれる教本も著名である。
一般にギター曲には大きな構成の作品に良いものが少ないのであるが、カルッリがその方面で成功作を多く残していることは着目に値する。
作品の構成は周到綿密であり、作風は清新・明快・温和で、若々しく華やいでいる。」

なおウィキペディアに非常に詳しいカルリの解説があるので合わせて参照いただきたい。

ウィキペディアのカルリについての記載

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人間の不完全さを受け入れることの難しさと受け入れたことによる安堵感

2022-05-21 00:10:15 | 心理
今日、講習会で親しくなった友人とライン電話で話していて、次のようなことを再確認した。
人間の不完全さを受け入れられないと、人に対し厳しくなるし自分のメンタルも辛くなるということ。

スーパーなどで、小さな子供に対し「何度、同じことを言ったら分かるの。何度も同じことを言わせないで!」と物凄い形相で叱りつける母親。
レジで並んでいて店員の仕事の遅さに我慢できずに怒りだす老人。

このような人たちは、親や先生、先輩、上司などから自分の不完全さを激しく責められてきた人たちなのだ。
しかも、責められた自分が悪い、こんな自分ではいけないと、自分自身をこれでもかと責め続け、自分を駆り立てててきた人たちなのだ。

このような心理状態で人生を送るのはとても辛い。
でもこのような状態で生きている人はたくさんいる。私もそうだった。

どうしたらこのような苦しみを抱えた人たちを救うことが出来るのだろうか。
人間はともかくも不完全な存在だ。失敗もするしミスもする。失態もたくさんある。
これって悪いことなのか。
不完全であることって、かえって魅力に感じられないだろうか。
そういう見方が出来ないだろうか。心から。

不完全な自分で全然問題無い。不完全な自分を激しく責め立てるなんで、ひど過ぎないか。
自分を自ら責めて泣いている。恐怖で委縮している。
そこに気付けないないだろうか。

自分を責める人は、責める自分と同じ人を見ると責めたくなる。何故ならば、その自分を嫌っているから。

こうあるべきだという価値観、規律、道徳にがんじがらめに縛られると辛い。
無意識レベルで、過去の生育歴からこのような縛りに支配されていることに気が付いて欲しい。

「不完全が悪い」と誰が決めたのか。
不完全を受け入れられれば、人に対する見方がニュートラルになれる。
不完全であっても腹が立たなくなる。

そのような心境になれることは難しいことであるが、永遠の課題でもある。
でも心を幸せに出来るのは、これしかないと思っている。
自分のこれまでの人生を振り返ってみてそう思うのである。



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